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semスキン用のアイコン01 阿部和重 『無情の世界』 semスキン用のアイコン02

  

2006年 11月 18日

a0035172_3152987.jpgそもそも文学とは「心の闇」を描くものである。「心の闇」などと言うと、近年、ワイドショーでお馴染みのタームであり、普通の少年や主婦らによる不可解な殺人事件の動機などに安直に当てはめられ、「心の闇」を持ち出せばそこで事件の奇怪さが了解されてしまうという都合のよいフレーズと化している。「心の闇」が人間にとっての尋常ならぬ行動の源泉であり、それを抱えていること自体があたかも問題であるような印象を与えるのである。

しかし、それは間違いである。人間に「心の闇」があるのは当然であり、僕らは当然のようにトラウマを抱えているし、コンプレックスを持っている。そんなのは人間として当たり前のことではないだろうか。物語はそこから生まれるのであって、「心の闇」は物語の断絶ではなく、源泉なのである。それが文学の領域であるからこそ、彼らはそこに足を踏み入れることができないだけなのである。

さて、阿部和重の小説には「心の闇」というものが存在しない、平板的でポップでアメリカ万歳的な小説と言われる。「心の闇」が文学の源泉であるとすれば、彼の小説はその前提において文学という立場から最も遠い位置にあるということになる。加藤典洋は『無情の世界』の文庫本解説の中で、阿部の小説を3DのCG映像のように影のない、明るすぎる描写/小説であると例えた。加藤が80年代後半以来追求してきた「内面の喪失」という現代的な事象を今、最も体現しているのが阿部の小説なのであり、その小説は登場人物たちの独白で綴られる従来の私小説的な自意識劇でありながら、人間的な陰影や奥行きが全くといっていいほど乏しく、その文学的な味わいは極めて希薄であると言える。

その文学から最も離れた地平にある阿部の小説がその平板すぎる独白と明るすぎる心理描写によって読み手に強烈な違和を投げかけると同時に、狂おしいほどの共感をも生み出す。しかもそれが不思議に文学的な、「心の闇」にも届く真摯な共感なのである。それは何故だろうか?

冒頭で、昨今頻発する殺人事件の動機は「心の闇」などという問題ではないと述べた。阿部の小説を読んでいると、その認識は実は全く逆で、「心の闇」のなさこそが我々現代を生きる人間の荒んだ心情の由来ではないかと感じてしまう。真空にも物質的な密度があるように、平板さと明るさの中にこそ現代的な「心の闇」が裏返しに潜んでいて、それが瞬間的に漏れ出てくるのではないか。それこそが現代の心情の根源であるのだと。その境界の「薄っぺらさ」がある種の得体の知れなさ=息苦しさとして、僕らの胸に文学的に響いてくるのである。

大江健三郎が希求してなかなか手の届かなかった「最後の小説」、文学の終焉は時代の必須ながら、その文学の終焉を文学的に表現しえたのはノーベル賞作家の大江ではなく、阿部和重の小説『無情の世界』であり、『シンセミア』であった。そういう意味で、阿部和重の小説は文学の終焉という位置を確信的に固持する最後の小説であり、今、最も現代の心情の問題を文学的、方法論的に内包することに成功している良質な「文学」なのである。
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by onomichi1969 | 2006-11-18 03:17 | | Trackback | Comments(0)

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