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semスキン用のアイコン01 内田樹 『ためらいの倫理学』 semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 03日

a0035172_052276.jpg内田樹の『ためらいの倫理学』を面白く読んだ。この手の評論集としては久々に納得しながら読むことができ、特に表題のカミュ論は秀逸で感動的ですらあった。これまで「不条理」という過度に文学的な言葉にひきずられてきたムルソーの行動もテロルの論理としての一対一という平等性(お互いに死を賭すことにより正当化される暴力)とそのお互いが「顔」を見合わせることにより生じる「ためらい」により解釈される。(ムルソーは「灼けた大気」と「影」によって盲目となり、相手の「顔」を拒絶することにより殺人が可能となったという。それは決して不条理でも不可解でもない、れっきとした理由を有した、彼の厳格な行動規範からの必然的な帰結なのだ) 太陽が出ていなければ彼は殺さなかった。その一対一の闘いにおいて、相手の「顔」さえ見えていれば、彼は「ためらい」、引き金を引けなかったはずなのである。個人は本質的に差異化されない主体を引き裂かれ得る存在であり、事実、カミュ自身がそのことにより第二次世界大戦後にレジスタンス時代の敵の「顔」を知ってしまったことにより、自らの分裂を生きざるを得なかった。そのあたりの詳細についてはぜひ本書を読んでいただきたいところであるが、僕自身、内田樹のカミュ読解には大変納得させられた。

本書のもうひとつの白眉、加藤典洋の『敗戦後論』をめぐる論説についても、加藤独特の廻りくどい表現を簡潔に要約しており、その骨子が大変分かりやすく解説されている。改めて日本という国が抱える「無自覚なねじれ」について考えさせられた。

その「ねじれ」が日本では、「ねじれ」としてすら受け止められていないままに便々として半世紀が流れた。「ねじれ」を感じていないということは、主観的にはすっきりしているということである。「ねじれ」は一人の人間が矛盾を抱え込むから「ねじれる」のであって、矛盾や対立が二人の人間に分割されていれば、そこにはすっきりと対峙する二人の人間がいることになり、内的な「ねじれ」は消滅する。簡単な算術だ。
これが戦後日本が採用した「ねじれ」の処理方法である。対立するふたつのイデオロギー、ふたつの党派の矛盾のうちにすべてを流し込んでしまえばよいのである。アメリカに対する感情がアンビヴァレントであるなら、「親米派」と「反米派」と二つの立場を用意して、その間で争わせる。憲法に対するスタンスが決まらないのなら、「護憲派」と「改憲派」に議論をさせておく。侵略行為への責任をどうすればよいか分からなければ、「アジアの人民への謝罪」を呼号する「知識人」と「失言」を繰り返す「大臣」に終わりのない二人芝居をやってもらう。。。これらの対立劇における二人の登場人物は、それぞれ主観的にはすこしも「ねじれて」いない。無垢で、倫理的で、論理的なのである。
この二党派の絶妙な「分業」によって、日本は自己矛盾からの罪責感からも自己免罪を果たし、かつ主体的に判断することも行動することもできないまま、何もしないで半世紀をやり過ごしてきた。その結果、加藤に言わせれば、日本人は一種の「低能」になってしまったのである。 内田樹 『ためらいの倫理学』

「善」と「悪」、「むこう側」と「こちら側」。。。これは村上春樹の『アンダーグラウンド』で用いられたタームであるが、それも全く同じことであろう。二者に現れる顔、ひとりひとりの具体的な交換不可能なあり方を描き出すことで村上春樹が救い出そうとしたものは何だろうか?ここにカミュ、加藤典洋、村上春樹(そして森達也)と連なる系譜がある。個の中の2項対立によって引き裂かれ、発見される「ねじれ」。それこそが彼らを切実に捉えた文学の系譜そのものなのだろう。

今見えない「ねじれ」がある。無自覚な「ねじれ」は既に解消不可能なのだろうか。現代の新しい小説家達も(阿部和重にしても、青山真治にしても、保坂和志にしても)、結局のところ、その現代的なあり方をどう言語化するのかを主題にしている。その切実さが真に切実なものとして捉えられる限り、文学は世の中に対して有効なのだろうと思いたい。
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by onomichi1969 | 2007-03-03 01:16 | | Trackback | Comments(0)

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