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semスキン用のアイコン01 内田樹 『下流志向』 semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 21日

a0035172_11265388.jpg内田樹の『下流志向』を読む。最近、「希望格差社会」だとか「下流社会」などというタームをよく聞く。要は、富める者は益々富み、貧しい者は益々貧しくなる、そういう社会構造的な循環の中で2極化した下流側の人々は必然的に社会に対する希望を喪失せざるを得なくなり、悪いことにその報われなさ自体が無自覚的であるが故にそういった風潮は不可逆的、加速度的に蔓延してしまっている、、、というなんとも恐ろしい話である。
とは言っても、実は僕自身、そういった社会構造的なストーリーをどこか遠い国のおとぎ話のような感覚で読み飛ばしてきた(「嘘でしょ?って感じ、、、」)方なのだが、今回、内田“先生“の『下流志向』という本を読み、「いやいや、そんな他人事のようにこの問題を思ってられないナ、我々の子供の将来は暗澹やもしれぬぅ、、」、と反省を促され、少しばかり考えさせられたのであった。

今の若者達は、「学力低下」と「ニート」という将来の社会に不安感を与える大きな問題を抱えている(学力については2極化が顕著で、さらに年々平均点数は低下している、同レベルの試験に対し、1年で1点づつ平均点が低下しているという実態、、、驚き!)が、そこにはそれぞれ「学び」と「労働」からの逃走、それも自発的な逃走という彼らの行動規範ともなっている社会意識(彼ら特有の信憑)上の問題がある。それは、経済や自治におけるリスク社会という流れや「ゆとり教育」などという教育政策上の弊害以上に現実的な格差社会の不可逆性を決定付けていると考えられる。それは何か?今の若者とは一体どんな行動規範に縛られているのか?

彼らは無知のままでいることに生きる不安を感じない。(それはある種の不安に全く無自覚、つまり「鈍感であること」と同義である・・・今、また「鈍感力」などという造語が流行りだしているようであるが、これはとんでもない風潮、、、余談) それは何故かというと、彼らは子供の頃から自らを「消費主体」として自己確立してしまっており、常に「等価交換」であることを価値判断の基準としてきた。本来、「学び」や「労働」は「労働主体」であることが求められ、等価交換が成立しない種類のもの、つまり見返りを求めるものではない。彼らは「学び」の効果に対する経験もなく、予めその価値判断ができないにも関わらず、その価値を知っているものとして行動し(或いはその価値の等価性を要求し)、それから実際に受け取る「不快」を自らの行動に対する等価のものとして、「学び」や「労働」を自発的に拒否するのである。(勉強や仕事自体にどんな価値<賃金以外>があるの?そんなものは無いに違いない!ということか)

実は「学び」や「労働」その過程にこそ価値があり、それらに時間を費やすことはある種の「投企」であり「自己の跳躍」であると考えられるのだが、即物的な(無時間的な)価値を信憑する若者はそこに「不快」という「耐え難さ」しか見出せず、「努力」という時間経過を認めて、自ら「跳躍」することができない。さらに悪いことに、自発的に「学び」や「労働」から逃走する若者達はその自発性故に、その逃走自体に充足してしまっており、そのことがこの問題を根深いものとしているのだという。自発性、自立、自分探しという幻想。それらが本来的に持つリスクを知らず知らずに引き受けてしまうのがそれを無自覚的に選択せざるを得ない下流社会の若者の実態なのである。

そもそも等価交換的な考え方(本書では無時間モデルとも言っている)というのは、ギブ・アンド・テイクや自立することが人間の当然の責務であり、喜びであると考えるアメリカン・モデルから導入されているものであるが、そういった考え方自体が日本には馴染まないのであり、アメリカ型の即物的な合理主義はそろそろ見直す時期にあるに違いない、というのが内田”先生”の考え方のようである。

「自分の理解の枠組みをいったんカッコに入れて、自分にはまだ理解できないけれど、注意深く聴いているうちに理解できるようになるかもしれないメッセージに対して、敬意と忍耐をもって応接する」
「さまざまな目に見えない人間的努力があるわけで、そちらの方が実は経済活動の本来的目的だということを忘れてはならない」
「無時間モデルでは音楽は聴こえない。聴こえるはずもない。どんな素晴らしい音楽も(・・・)単独の音では何の意味もないし、美的価値もないから」

音楽の話、、、なるほど、その通りである。(僕らは名作と呼ばれるアルバムを繰り返し聴くことによって、それを理解しようとする。確かに)

現代の自己決定・自己実現という考え方は、自分にとって価値があると理解できないものについては、これを拒否できる。学ばないことから生じるリスクを自分で引き受ける考え方は、人間を孤立化させることを是とするのである。

数年前、大ヒットした歌がある。それはこんな歌詞だ。

世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
NO.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one

SMAP 『世界で一つだけの花』

今にして思えば、これは人々の孤立化を高らかに賞賛し称揚する歌なのだと言える。世の中から相互扶助や集団主義といった日本的な共同性が徐々に失われ、内面の喪失や無根拠といった風潮の中で迎えた個闘の90年代を経て、人々は無自覚に自らの孤立を生き方の美点として叫ぶようになったのだ。

Only oneを目指すことが如何にリスキーで不条理なことか。しかし、多くの人々がこの歌詞に共感したのは紛れも無い事実だろう。この歌が好きだ、「NO.1にならなくてもいい、自分は特別なOnly oneなんだ」という感覚は今の下流志向を確実に担保していると考えられる。
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by onomichi1969 | 2007-03-21 12:08 | | Trackback(3) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 内田樹 『ためらいの倫理学』 semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 03日

a0035172_052276.jpg内田樹の『ためらいの倫理学』を面白く読んだ。この手の評論集としては久々に納得しながら読むことができ、特に表題のカミュ論は秀逸で感動的ですらあった。これまで「不条理」という過度に文学的な言葉にひきずられてきたムルソーの行動もテロルの論理としての一対一という平等性(お互いに死を賭すことにより正当化される暴力)とそのお互いが「顔」を見合わせることにより生じる「ためらい」により解釈される。(ムルソーは「灼けた大気」と「影」によって盲目となり、相手の「顔」を拒絶することにより殺人が可能となったという。それは決して不条理でも不可解でもない、れっきとした理由を有した、彼の厳格な行動規範からの必然的な帰結なのだ) 太陽が出ていなければ彼は殺さなかった。その一対一の闘いにおいて、相手の「顔」さえ見えていれば、彼は「ためらい」、引き金を引けなかったはずなのである。個人は本質的に差異化されない主体を引き裂かれ得る存在であり、事実、カミュ自身がそのことにより第二次世界大戦後にレジスタンス時代の敵の「顔」を知ってしまったことにより、自らの分裂を生きざるを得なかった。そのあたりの詳細についてはぜひ本書を読んでいただきたいところであるが、僕自身、内田樹のカミュ読解には大変納得させられた。

本書のもうひとつの白眉、加藤典洋の『敗戦後論』をめぐる論説についても、加藤独特の廻りくどい表現を簡潔に要約しており、その骨子が大変分かりやすく解説されている。改めて日本という国が抱える「無自覚なねじれ」について考えさせられた。

その「ねじれ」が日本では、「ねじれ」としてすら受け止められていないままに便々として半世紀が流れた。「ねじれ」を感じていないということは、主観的にはすっきりしているということである。「ねじれ」は一人の人間が矛盾を抱え込むから「ねじれる」のであって、矛盾や対立が二人の人間に分割されていれば、そこにはすっきりと対峙する二人の人間がいることになり、内的な「ねじれ」は消滅する。簡単な算術だ。
これが戦後日本が採用した「ねじれ」の処理方法である。対立するふたつのイデオロギー、ふたつの党派の矛盾のうちにすべてを流し込んでしまえばよいのである。アメリカに対する感情がアンビヴァレントであるなら、「親米派」と「反米派」と二つの立場を用意して、その間で争わせる。憲法に対するスタンスが決まらないのなら、「護憲派」と「改憲派」に議論をさせておく。侵略行為への責任をどうすればよいか分からなければ、「アジアの人民への謝罪」を呼号する「知識人」と「失言」を繰り返す「大臣」に終わりのない二人芝居をやってもらう。。。これらの対立劇における二人の登場人物は、それぞれ主観的にはすこしも「ねじれて」いない。無垢で、倫理的で、論理的なのである。
この二党派の絶妙な「分業」によって、日本は自己矛盾からの罪責感からも自己免罪を果たし、かつ主体的に判断することも行動することもできないまま、何もしないで半世紀をやり過ごしてきた。その結果、加藤に言わせれば、日本人は一種の「低能」になってしまったのである。 内田樹 『ためらいの倫理学』

「善」と「悪」、「むこう側」と「こちら側」。。。これは村上春樹の『アンダーグラウンド』で用いられたタームであるが、それも全く同じことであろう。二者に現れる顔、ひとりひとりの具体的な交換不可能なあり方を描き出すことで村上春樹が救い出そうとしたものは何だろうか?ここにカミュ、加藤典洋、村上春樹(そして森達也)と連なる系譜がある。個の中の2項対立によって引き裂かれ、発見される「ねじれ」。それこそが彼らを切実に捉えた文学の系譜そのものなのだろう。

今見えない「ねじれ」がある。無自覚な「ねじれ」は既に解消不可能なのだろうか。現代の新しい小説家達も(阿部和重にしても、青山真治にしても、保坂和志にしても)、結局のところ、その現代的なあり方をどう言語化するのかを主題にしている。その切実さが真に切実なものとして捉えられる限り、文学は世の中に対して有効なのだろうと思いたい。
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by onomichi1969 | 2007-03-03 01:16 | | Trackback | Comments(0)

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