Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 タグ:ショーン・ペン ( 5 ) タグの人気記事 semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 イントゥ・ザ・ワイルド "Into The Wild" semスキン用のアイコン02

  

2009年 03月 04日

a0035172_08856.jpgジョン・クラカワーのノンフィクション・ノベルの映画化。我らがショーン・ペンの4作目の監督作品である。

映画作品は、ノンフィクション・ノベル(以下、原作)に忠実に作られている。そこで描かれる人物描写、クリスをめぐる人々の言動、彼の日記から推察された行動等、原作に描かれる断片は余すことなく映像化されている。特にクリスを含めた登場人物達の外見や言動、行動は原作に忠実で、ショーン・ペンの実話を基にした原作に対する深い敬意と尊重が伺える。

1992年9月、一人のアメリカ人青年がアラスカの荒野に打ち捨てられたバスの中で餓死しているのが発見される。青年の名は、クリストファー・マッカンドレス。その事件が全米中にセンセーショナルなニュースとして報じられたのは、彼が裕福な家庭に育ち、大学を優秀な成績で卒業した前途有望な青年だったからである。多くの人々は彼の行動を無謀で傲慢な愚行と評し、準備不足で原野にふらふらと入り込み命を落としたナルシストであるとみなした。

ジョン・クラカワーはクリスのアラスカ入りまでの2年間の放浪生活を追い、彼が出会った人々を広く取材して、その行動と言動を丹念に拾い集める。また、家族への取材から、彼の生い立ちと共に、彼の思想や行動の背景ともなった家族の歴史についても赤裸々に描写する。このノンフィクション・ノベルは一人の青年のセンセーショナルな死を出発点としているが、クリスという一風変わった、それでいて実に魅力あふれる青年の生き様を様々な角度で描き抜いていることが最大の面白さであると感じる。
クリスの人物像。彼は単なる自分探しを求める夢見がちな若者の一人ではなかった。トルストイとソローをこよなく愛する厳格な理想主義者で、孤独と自然を崇拝し、それでいて真に文学的な青年でもあった。理知の上に立つ無謀さ。心に屈折を抱えながらも、自らの強さを過信するが故に様々なものが赦せなかった青年が2年間の放浪の中で、そして荒野での生活によって徐々に変化し、生きる可能性を掴む。人々とのふれあいの中で心を残す。最終的に彼は死んでしまったけれど、彼の生は、彼と出会った人々の心に確実に生きている。そのことが伝える生の重みを原作であるノンフィクション・ノベルは拾い上げ、そして映画が主題化し、物語として紡がれた。

映画は正にショーン・ペンの作品となっている。原作に忠実ながら、それでいてショーン・ペンらしさを存分に感じる作品なのである。クラカワーの原作はクリスという人格を外側から炙り出すパズルのような構成となっているが、映画はクリスという実体の行動を中心にして話が進められる「物語」としてある。原作によって炙り出されたクリスという人間像をショーン・ペンは自らの思想性によって肉付けし、物語の主人公として見事に再生させた。映画は、70年代ニューシネマ風のロード・ムーヴィーとして観ることができるだろう。ニューシネマの掟通りに主人公は最後に死んでしまうが、そこには明らかに「光」があった。この光こそ、ショーン・ペンの映画的主題である現代的な「赦し」の物語なのだと僕は思う。クリスが真実を求めた先に見えたものは、ふれあいの中で知った人の弱さであり、そして大自然に対した自らの弱さであった。彼は自らの中で家族と対話する。自分が自分であることを認める。そして、全てを赦したのだと僕は思う。そういう物語としてこの物語はある。(それはショーン・ペンのデビュー作から連なっている)

現代に荒野はもう存在しない。彼は地図を放棄することで荒野を創出し、その中で自らの経験によって思想を鍛錬しようとした、とも考えられる。荒野へ。。。理知の上に立つ無謀さ。これこそが失われかけたフロンティア精神の源泉で、現代の想像力を超えた強烈な憧憬なのかもしれない。2007年アメリカ映画
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by onomichi1969 | 2009-03-04 23:56 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 21グラム "21 Grams" semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 24日

a0035172_11364499.jpg交通事故の被害者と加害者という状況設定は、ショーン・ペン監督作品『クロッシング・ガード』を思わせる。この映画のテーマこそ、「絶望的な立場を超えて、人と人はどうコミットし得るのか」というものだったが、そこにはっきりとした答えへの道筋が示されたとは言いがたかった。

『21グラム』では、クリスティーナ(ナオミ・ワッツ)とジャック(ベニチオ・デル・トロ)がそれぞれ被害者と加害者という立場となる。ここで主人公達は交通事故という外圧的な出来事によって、自らの運命を大きく狂わせて行くことになるわけだ。彼らはそれまで意識せずに(或いは意識を忘却させて)過ごしていたことであるが、ある日突然に自らのゼロ地点、道筋の全く見えてこない場所へ暴力的に貶められることになる。(クリスティーナ、ジャックともに事故前の幸福が彼らの負の過去の清算によって成り立っていたことも示唆的である) その地点において、クリスティーナとジャックは自身の関係性が完全に断絶したかの如き思いを抱くのと同時に、お互いが負の関係性によって維持されるという事態に追い込まれている。

では、この物語のポール(ショーン・ペン)の役割とはいったい何だろうか? ポールはジャックによって死に至らされるクリスティーナの夫の心臓を受け継ぐ者である。ポールはクリスティーナを救い、そして、クリスティーナとジャックの負の関係性を関係そのものに導きながら、最後には自らの身を挺することによって、ジャックをも救うことになる。そして、クリスティーナとジャックが2人して窓辺に佇むシーンで物語は終わる。

この物語は、言うまでもなく、クリスティーナとジャックの物語である。そして、そこに中間項として付け加えられたポールこそ、ショーン・ペンが『クロッシング・ガード』の最後に躓かざるを得なかった広義な「愛情」というタームを一身に背負った存在ではなかったか。2人の主人公がその関係性を快復する物語に失われた命を受け継いだ者として選ばれ、立ち回った存在ではなかったか。そういう意図を僕は感じたが、もしそうであったならば、これをそのままこの物語の結末と結びつけるにはやはり少し弱い。問題の真摯さを突き詰めるにしては、あまりにも都合がよく、偶発的すぎるからだ。まぁこれを可能性のひとつの道筋と捉えて僕は納得しているが。。(その偶発性を可能性として捉える姿勢こそが重要で、それこそが「愛情」なのだとも感じる。今では。<後記>)

最後にこの映画の方法論的な「時間軸のずれ」だが、このことに対するはっきりとした答えを僕は持っていない。悪しからず。 2003年アメリカ映画(2005-01-23)
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by onomichi1969 | 2007-03-24 11:50 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 プレッジ "The Pledge" semスキン用のアイコン02

  

2006年 05月 13日

a0035172_1256297.jpgとても怖い映画だった。この映画のニコルソンをどう捉えたらいいだろうか。彼にとってのプレッジとは一体何だったのだろうか。
ショーン・ペンの前2作品を認めている身としては、彼が単なる凡庸なサスペンスを撮るような人間ではないという確信はあったし、実際そういうサスペンスのみの視点でこの作品を観るべきではないのだと思う。

この作品に通底する孤独な男の信念が徐々にその箍(たが)を狂わされていく様子は正直言って恐ろしく、それが事件と素直に繋がっていかないところが逆に評価できると僕は思っている。それを「長いネタふりのコント」だと言う辛辣な意見も見かけたが、そもそも人生とはオチのつかない枝葉なエピソードのつづきであって、傍目には全く面白みのない孤独な一人芝居を知らず知らずに演じているものなのだ。まぁそれはもう自明なことであって、僕らがそこに求めるのはその中で失われつつあるものをどう汲み取っていくかということなのだろう。

この作品は、冒頭から刑事を引退した後のニコルソンの一挙一動を克明に記していく。彼は、刑事としての本能と執念によって事件を執拗に追いかけているように見える。そして僕も映画中盤までは、その信念こそ彼が少女のイノセンスを守る孤独なキャッチャーであるというところから来ている、そういう物語なのだと思っていたのだ。<彼の語られない境遇は重要だ> ところが、、、徐々に何かが狂っていくのである。それは体の中に巣食う癌のように確実に何かを蝕んでいくのである。そんなニコルソンの微細な変化と抑えきれない狂気が垣間見える場面の恐ろしさ。彼の「イノセンスのキャッチャー」という立場は、その絶対的不可能性の罠に確実に閉じ込められていくのである。この作品のテーマはずばり「イノセンスのキャッチャー」の行く末だと思う。ニコルソンは年老いて歪んだホールデン少年の行く末なのだ。彼がプレッジとして信奉したもの、全てのイノセンスを守ることの不可能性は、容易に自らを矛盾の孤独に押し込め、どこでもない場所へ導く。なんというリアリティだろうか。
この作品のエピローグは冒頭のシーンへと繋がっているが、そこにはウロボロスの如き出口のない絶望が横たわるのみである。前作で描いた希望の光のようなものはそこには見出せない。この地平からショーン・ペンが如何にして物語を紡いでいくのか、それは次作に期待するとしよう。2001年アメリカ映画(2004-05-02)

みんなのシネマレビュー 『プレッジ』
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by onomichi1969 | 2006-05-13 12:58 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 クロッシング・ガード "The Crossing Guard" ~見えない出口を求めて~ semスキン用のアイコン02

  

2004年 08月 07日

a0035172_117240.jpgショーンペン監督2作目は、彼の前作<傑作でもある>「インディアン・ランナー」と同一線上にある作品といえる。

「兄は弟を追いながらそのことの意味を理解できない。弟は兄に追われながらその理由を失っている。」
「インディアン~」のレビューで僕はこのように書いた。人が理由なく分り合えないという切実さを描いたのが「インディアン~」であれば、「クロッシング~」はその地平をさらに一歩進め、そして反転させ、そこからポジティブな回路を模索しているように思える。追う者と追われる者という図式は同じだが、双方にはそれぞれ、そうするための理由が存在する、加害者と被害者という明確な理由があり、それは、お互いが分かり合える足場を既に失っていることを意味するのだ。

にもかかわらず、お互いがその「分かり合えなさ」に対する信憑すら持てず、失った足場の上空でもがきながらも理解への希望を捨てていないようにみえる。絶望的な立場を超えて、人と人はどうコミットし得るのか。いや、絶望的だからこそ、意味を求めてコミットする、その向こうに何があるのか。それは非常に難しいモチーフだ。この作品ではっきりとその答えが示されているとは言えないし、作品自体も1作目に比べて散漫な印象がある。ただ、目指すべきところには大いに共感できるし、正直、ぐっときたんだなぁ。
この監督、やっぱり只者ではない。ショーンペンは今後も注目すべき監督であることは間違いないだろうね。1995年アメリカ映画(2003-10-09)
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by onomichi1969 | 2004-08-07 01:04 | 海外の映画 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 インディアン・ランナー "The Indian Runner" ~時代遅れの震え~ semスキン用のアイコン02

  

2004年 07月 10日

a0035172_35223.jpg正義漢の兄と落ちこぼれの弟のお話。兄弟は、話の展開にしたがって徐々に心が離れていくようにみえる。理解しあえるようでいて、それはどんどん遠くに離れてしまうのである。そのことの理由は語られない。最終的に警察官の兄が犯罪者となった弟を追跡するシーンにまで至り、父親は兄弟の確執とは関係のないところで意味もなく自殺する。図式はありふれているし、話としても結構単純だ。しかしそのモチーフは僕にとって切実に思えた。

兄は弟を追いながらそのことの意味を理解できない。弟は兄に追われながらその理由を失っている。自分の心さえ掴めない寂莫感にお互いが自覚的ではあるけれど、最後に兄が弟を見逃すシーンに言葉はなく、ただ「アイ・シャル・ビー・リリースト」(byザ・バンド)が流れるのみ。「いつかきっと僕は解放されるだろう」
あー、なんてリアリティのないフレーズだろうか。そのことの空虚さが心を締め付ける。

「インディアンランナー」はたぶん時代遅れな映画だ。すべてに自覚的でありすぎる分、それはもう時代遅れなのだ。僕らはその時代遅れの気分でしか、もう心を震わすことができないかもしれない。それはとても切ないことだけど…。

<ちなみに冒頭で、狼の力を盗んで鹿狩りをするインディアンの逸話が出てくる。弟の中で幻影のように現れるインディアンとは、自分自身に潜む凶々しさとその神々しさが一体となったスピリチュアル・イメージであり、その「らしさ」に理由がない絶対的な存在としての強迫観念でもあるのだ。>1991年アメリカ映画(2002-01-17)
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by onomichi1969 | 2004-07-10 03:53 | 海外の映画 | Trackback | Comments(2)

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