エマニュエル・トッド、フランシス・フクヤマ、マルクス・ガブリエル。3人の識者が今の世界情勢に対して、殆ど同じ視点を共有しているところがとても興味深い。
民主主義とリベラリズムの機能不全(トッドは消滅とまで言っている)。今のアメリカやEUは寡頭制に陥っており、天才起業家や勝者がすべてを手にするモデルであり、資本主義は異常な格差が常態化している。
世界を見渡せば、既に西洋中心のリベラルな民主主義、資本主義的普遍性はもう信憑されていない。中国、ロシア、インド、そしてアフリカ。
マルクス・ガブリエルによれば、西洋的なトップダウンによる範型こそ、ボトムアップ・モデルによる倫理的(本来の)資本主義として再構築する必要があると。ドイツは、同国の伝統的な流れではあるが、既に社会民主主義へと舵を切っている。
アメリカでトランプが返り咲き、ドイツがロシアン・エネルギーへと靡けばウクライナはどうなるか。ドイツが社会主義国家(マルクス・ガブリエルは本来の資本主義と言っているが)となり、ロシアと再び手を組む未来もあり得る。(流石に中国からは手を引くと思うが)
こういった世界情勢についての認識と共に、私が本書でとても面白いと思ったのはマルクス・ガブリエルの「人間性」についての観点。
反乱軍に息子を無残に殺された母親のエピソードで、息子を殺された彼女は、その後、偶然に息子を殺した犯人に会い、死にかけていた犯人の命を救ったという。このとき彼女は「この人も誰かの子どもなんだ」と思うことで、そこに人間の顔を見るのである。
つまり、人間とは何かという問い。ジェンダーの問題を語るためには「女性」という概念が必要となる。その過程で女性の解放を促進する目的で「女性」という側面だけが強調されて分類されてしまうが、本来、人間には多くの異なる顔があり、多面性がある。
「 二人の女性を見たとき、そこにただ単に「女性たち」を見るのではなく、一人の人物ともう一人の人物──そして二人の人間の経験──を見るのです」
アイコン、概念としての人間、女性、男性。そうではない、誰かの子どもであると感じる「人間」「人間性」。それは常に多面的である。加藤典洋は、そういった思考を「文学的」と呼んだ(カミュはそれを「人間の顔」と言った)。文学は、社会的な役割や正義という観念から切り離された生の人間から発せられるノンモラルな「声」であり、表情である。その声、その語り口による文学的思考、他者を人間として捉える思考にこそ、党派観念を超えて、個から公共に繋がる道筋、その先のグローバリズムにおける共生の可能性があるのではないだろうか。(2024-2-25)