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Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 ウディ・アレン VS ミア・ファロー semスキン用のアイコン02

  

2024年 03月 11日

ウディ・アレン VS ミア・ファロー_a0035172_00254142.jpg
こういうドキュメンタリーが一方の主張を強調するのみで、真実を全く伝えていないことはもう周知でしょう。もう止めてほしい。ウディ・アレンへの誹謗中傷のオンパレードによって、彼の過去の名作が不当な扱いを受けないか本当に心配している。

そもそも彼の映画は彼の生き様でもある。『マンハッタン』は彼の体験談のようなものだし、『誘惑のアフロディーテ』や『人生万歳!』も彼の恋愛関係における屈折した思いがよく反映されている。他の作品も彼のセックス、人生観、宗教観、死についての哲学的が色濃く反映されている。それはいわゆる教条的、道徳的なものとは全く違う、ある意味で醜く、弱い、人間の根源的な不真面目さから出発していながら、真っ当な生き方をしたい、善き存在でありたいと足掻く、切実な魂の救済物語なのです。正に文学と同じ。

『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』も日本では無事に配信されてよかった。まだまだ現役の映画作家ですよ。アメリカ配信(2021-8-9)

# by onomichi1969 | 2024-03-11 00:14 | ドキュメンタリー | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 吉田美奈子 『BELLS』(1986) semスキン用のアイコン02

  

2024年 03月 11日

吉田美奈子 『BELLS』(1986)_a0035172_00403720.jpg吉田美奈子は私にとって唯一無二のミュージャン。その音楽は一貫していないが、ソロでもバンドでも優れた作品があり、ライブが特に素晴らしい。初期のSSW風サウンドから、バンド結成でクロスオーバー、ファンク、完全なソロワークスからのゴスペル、ジャズなど、その音楽は多様化する。山下達郎が「日本一歌が上手い」と評し、最近のインタビューでも「美奈子とのコーラスなら誰にも負けない」と言わしめる。

その声も変化していく。初期のカントリー調から、ソウルへ。ハイトーンバリバリのファンク、多重コーラスのゴスペル。ライブでの語り囁きからのシャウト。歌が上手い歌手は日本でも多くいるが、彼女ほどに感情が溢れた歌手はいない。彼女自身が体現する物語性。70年代のティンパン、山下達郎との邂逅と別離。80年代の配偶者の死。活動休止からの復帰。95年の再会、圧巻ライブ。そして70代となった現在でも活動を続けている。

彼女を敢えて例えるなら、存在そのものがソウルである、日本のニール・ヤング。その生き様、歌は、死者たちを含む失われつつある魂を体現する。年と共に円熟味が増し、その孤高性が唯一無二となる。

『BELLS』が素晴らしい。彼女の一人多重コーラス、"WIND"は、ビーチ・ボーイズの"Our player"のような荘厳なコーラス。そして"Christmas Tree"

♪毎日が祈りときらめき
♪だから心込めて
♪Christmas Treeに飾ろう

見せ場はラストのここ。吉田美奈子の声の倍音。その声が彼女のコーラスに重なる。おそらく、山下達郎の『クリスマス・イブ』のアンサーソングでもある。70年代に共同制作者であった二人が80年代になり、対極的な音楽的志向を取り始めた頃の曲。どちらの曲も一人多重コーラスの見せ場が特徴的だが、"CHRISTMAS TREE"のラストも圧巻である。個人的な思いとして、そろそろ二人が絡んだ新しい歌を聴いてみたい。

彼女の多重コーラスで個人的に外せないのは、アルバム『LIGHT'N UP』の"Morning Prayer"。この曲の最初のサビ、彼女の声の重なりと囁きのようなコーラスが本当に素晴らしく、何度聴いても感動する。この頃のアルバムも全て素晴らしく、特にライブでは、この時期特有のリミッター無しの高音ボイスが思う存分堪能できる。(2022-12-22)

# by onomichi1969 | 2024-03-11 00:10 | 日本のロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 岡林信康 夜ヒットで『君に捧げるラブソング』を歌う semスキン用のアイコン02

  

2024年 03月 11日

岡林信康 夜ヒットで『君に捧げるラブソング』を歌う_a0035172_00361873.jpg
『私たちの望むものは』はフォークではない、岡林信康のロックの名曲。70年中津川の「はっぴいえんど」との共演(鈴木茂の爆裂ギター)が印象深い。71年中津川では吉田拓郎の『人間なんて』の2時間に及ぶ熱狂的な大合唱があり、(その流れ故に)フォークジャンボリーの時代は幕を閉じる。吉田拓郎や井上陽水の台頭、岡林の失速(というか失踪)も、70年代初期という時代性とリンクしていた。

結局、その後の時代を作ったのは、岡林から時代を引き継いだ吉田拓郎と言うよりも、ニューミュージックとアイドル歌謡の創始者である細野晴臣、大瀧詠一、松本隆の「はっぴいえんど」の面々だった。そこから荒井由実や山下達郎も生まれた訳だし。1985年の「ALL TOGETHER NOW」までは彼らの時代だった。(そこで終わるけど)

そして、1987年、岡林が復活し、夜ヒットで『君に捧げるラブソング』を歌う。『君に捧げるラブソング』はアルバムの収録曲であるが、このライブの素晴らしさはそれ以上であった。演奏はフォークギター2本とハーモニカのみ。岡林の声は震える。そして響く。YouTubeでその歌と映像を観ることができる。今にして映像を観れば、私にはニール・ヤングの伝説のカントリーライブ"Heart of Gold"を思い起こさせる。

孤高として高音の声を響かせる岡林信康の立ち姿、その表情。彼は歌う。目をつぶり、そして、遠くを見つめる。彼が見ているもの。フォークの魂。60年代後半から70年代にかけて、人々を虜にし、消えていったフォークの魂たち。old manとなりながらも威光に満ちたその表情を通して、「それ」を映し、捉えたこと。夜ヒットの偉業は、それ故に傑作といえる。(2021-5-13)

# by onomichi1969 | 2024-03-11 00:08 | 日本のロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 戸部田誠『史上最大の木曜日 クイズっ子たちの青春記1980-1989』 semスキン用のアイコン02

  

2024年 03月 10日

戸部田誠『史上最大の木曜日 クイズっ子たちの青春記1980-1989』_a0035172_23594256.jpg「史上最大の木曜日」を読了。プロローグに「第13回は始まる前が面白い」とあり、確かにその通りだった。

私もバブル世代の末端なので、80年代のウルトラクイズの熱狂はよく覚えている。第13回はウルトラクイズを観て育った世代がクイズ競技者として出場者(主人公)となり、高いレベルでの早押しの応酬など、クイズ競技としての番組の盛り上がり方がぐっと高まった時期だったと思う。

主人公達がどのようにしてクイズに出会い、のめり込み、大学にクイズ研究会を作り、或いはそこを改革して、競技としてのクイズを確立してきたか。当時のクイズ研究会で全国屈指の実力校だった立命館大学、名古屋大学、早稲田大学のメンバーが、その成果として、ウルトラクイズやギミア・ぶれいくのクイズ王などで活躍し始める。

確かに「始まる前」が長い。ウルトラクイズ伝説の第13回ボルティモア決戦の前の長い歴史、そこに長戸、秋利と長戸、加藤のライバル物語あった。正直言って私はそういう背景を全く知らなかった。本を読んで、改めてボルティモアの動画を観るとすごく感慨深いものがある。一体何が響くのだろう?

ウルトラクイズはクイズだけではなく、運の要素も大きかったけど、それでもウルトラクイズというイベントに人生を掛けていた人達の想いは同時代人としてなんとなく判る。

1980年代後半。インターネットもなく、全てにおいて情報が少なかったからこそ、何かを始めるとき、様々な冒険や失敗があって、私達の周りは面白いことだらけだった。ここぞという場面があり、そこで失敗した経験。勝敗を超えた思い。感動、共感、そして諦念。そういった世代的な共有感覚を思い起こさせるからだろうか。福留アナのナレーションを含めて、ボルティモア決戦はその縮図のように感じる。

とても面白かったことを僕らに思い起こさせる。だからこの本は面白く、あの動画が心に響くのかな。

# by onomichi1969 | 2024-03-10 09:06 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 エマニュエル・トッド他『人類の終着点 戦争、AI、ヒューマニティの未来』 semスキン用のアイコン02

  

2024年 03月 10日

エマニュエル・トッド他『人類の終着点 戦争、AI、ヒューマニティの未来』_a0035172_00155550.jpgエマニュエル・トッド、フランシス・フクヤマ、マルクス・ガブリエル。3人の識者が今の世界情勢に対して、殆ど同じ視点を共有しているところがとても興味深い。

民主主義とリベラリズムの機能不全(トッドは消滅とまで言っている)。今のアメリカやEUは寡頭制に陥っており、天才起業家や勝者がすべてを手にするモデルであり、資本主義は異常な格差が常態化している。

世界を見渡せば、既に西洋中心のリベラルな民主主義、資本主義的普遍性はもう信憑されていない。中国、ロシア、インド、そしてアフリカ。

マルクス・ガブリエルによれば、西洋的なトップダウンによる範型こそ、ボトムアップ・モデルによる倫理的(本来の)資本主義として再構築する必要があると。ドイツは、同国の伝統的な流れではあるが、既に社会民主主義へと舵を切っている。

アメリカでトランプが返り咲き、ドイツがロシアン・エネルギーへと靡けばウクライナはどうなるか。ドイツが社会主義国家(マルクス・ガブリエルは本来の資本主義と言っているが)となり、ロシアと再び手を組む未来もあり得る。(流石に中国からは手を引くと思うが)

こういった世界情勢についての認識と共に、私が本書でとても面白いと思ったのはマルクス・ガブリエルの「人間性」についての観点。

反乱軍に息子を無残に殺された母親のエピソードで、息子を殺された彼女は、その後、偶然に息子を殺した犯人に会い、死にかけていた犯人の命を救ったという。このとき彼女は「この人も誰かの子どもなんだ」と思うことで、そこに人間の顔を見るのである。

つまり、人間とは何かという問い。ジェンダーの問題を語るためには「女性」という概念が必要となる。その過程で女性の解放を促進する目的で「女性」という側面だけが強調されて分類されてしまうが、本来、人間には多くの異なる顔があり、多面性がある。

「 二人の女性を見たとき、そこにただ単に「女性たち」を見るのではなく、一人の人物ともう一人の人物──そして二人の人間の経験──を見るのです」

アイコン、概念としての人間、女性、男性。そうではない、誰かの子どもであると感じる「人間」「人間性」。それは常に多面的である。加藤典洋は、そういった思考を「文学的」と呼んだ(カミュはそれを「人間の顔」と言った)。文学は、社会的な役割や正義という観念から切り離された生の人間から発せられるノンモラルな「声」であり、表情である。その声、その語り口による文学的思考、他者を人間として捉える思考にこそ、党派観念を超えて、個から公共に繋がる道筋、その先のグローバリズムにおける共生の可能性があるのではないだろうか。(2024-2-25)

# by onomichi1969 | 2024-03-10 09:04 | | Trackback | Comments(0)

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