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Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 The Beach Boys "Pet Sounds"(1966) semスキン用のアイコン02

  

2010年 09月 30日

a0035172_1425737.jpg『レコード・コレクターズ』誌(2007) 執筆陣が選ぶ60~80年代ロック・アルバム・ベスト1に輝く作品。(ちなみに読者選出では6位)
『ペットサウンド』が90年代以降に高評価を得た理由のひとつは、その「暗さ」が時代にフィットしたことにあるのだと思う。故に80年代に『ペットサウンズ』が今ほどの評価を受けていなかったことは至極真っ当なことだったと言える。それが80年代というポップな時代の趨勢だったから。
特にこの作品の日本での高い評価について言えば、村上春樹や山下達郎、萩原健太等の識者による宣伝が大きな影響を与えたのだろうか。永遠のNo.1アルバムと思われたビートルズの『サージェント・ペッパーズ』を超える評価は、逆に『サージェント・ペッパーズ』の醸し出すストレートなドラッグ(サイケ)・カルチャーの雰囲気が現在の日本では受け付けにくくなっているからかもしれない。それはそれとして、、、

ブライアン・ウィルソンの心情。それが『ペットサウンズ』なのだと言われる。殆ど彼一人の意向によって作り上げられたのであるから、それも当然のことだろう。アルバムを貫く統一感と不完全性、そして複雑さと矛盾は彼の心情の吐露そのものである。

冒頭を飾る『素敵じゃないか』"Wouldn't It Be Nice"はアルバムの性格をよく物語る名曲である。表題や歌詞だけ見れば、それは恋人同士の明るい未来を歌った楽しい曲であるはずであり、曲調も一見華やかなものと思える。しかし、聴けば聴くほど、この曲のアカルさの上には常に暗雲のイメージが浮かぶ。『素敵じゃないか』が全然「素敵」にきこえないという、その滲み出るような裏腹さがこの曲にある種の違和と奥深さを与えている。あとに続く『僕を信じて』"You Still Believe in Me"、『ザッツ・ノット・ミー』"That's Not Me"、『ドント・トーク』"Don't Talk (Put Your Head on My Shoulder)"のブライアンの根暗な心情3連発というシリーズが冒頭の曲のイメージにフィードバックされているとも思える。

圧巻はB面にある。
『神のみぞ知る』"God Only Knows"はアルバム唯一のカールのボーカル曲である。 この曲こそは、メロディとアレンジの完成度と美しさからアルバムの一つのクライマックスとも思える。だからこそ、ブライアンはカールにこの曲を託したのだと思う。カールが歌うことで曲の完成度と美しさが際立つが、アルバム全体の中でそれはひとつの違和を醸し出す。曲そのものだけ取り出せば、『神のみぞ知る』は今時の恋愛映画のエンディングテーマにもなるが、『ペットサウンズ』というアルバムの中で聴いてこそ、この曲の真価(完成度と違和という相反さ)を感じるのである。

『救いの道』"I Know There's an Answer" のオリジナルは、真逆の歌詞としてある"Hang On to Your Ego"である。マイク・ラブによって変更させられた歌詞。心情と曲調の齟齬と矛盾から醸し出される違和がある。

『ヒア・トゥデイ』"Here Today"はマイク・ラブのボーカルにこそ違和がある。

そして締めは、ブライアンの駄目駄目さ全開の『駄目な僕』"I Just Wasn't Made for These Times"と狂おしさ全開の 『キャロライン・ノー』"Caroline, No"である。凡そポップという枠を見事に逸脱してしまった自虐性にこそブライアンという存在自体の違和と天才があるのだ。

ブライアン・ウィルソンは、このアルバムを作り上げたことにより、天才と呼ばれるようになった。それはアルバムを通したアレンジの技術的な先駆性や卓越したメロディセンスによるところが大きいのであるが、僕は、彼の天才こそ、彼自身の人間的な(そして作品の)多重性とそこから滲み出る違和にこそあると言いたい。(そして、それを体言するブライアンの声!) 完全のようでいて不完全な、単純なようでいて複雑な、楽しいようでいて悲しい。ダブルバインドな心情の誠実な吐露。それこそがブライアンであり、『ペットサウンド』の魅力なのだと僕は思う。

by onomichi1969 | 2010-09-30 00:42 | 60年代ロック | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 青い山脈 semスキン用のアイコン02

  

2010年 09月 09日

a0035172_19105992.jpgとても面白かった。

終戦直後の昭和24年。
同じ時期の他の日本映画よりも当時の時代的雰囲気が色濃く反映された作品のように思える。小津や成瀬の現代劇にみられる良質な日本的心性、ある種の情緒的な風景を感じることは殆どできないけど、時代そのものをストレートに感じさせる。それがこの映画の最大の魅力だと思った。

『青い山脈』は海辺の町の女学校を舞台とした青春ドラマである。生徒の恋愛騒動をきっかけとして、それを認める認めないで学校のみならず地域社会を巻き込んだ話し合いにまで発展する。終戦後のデモクラティックな雰囲気の中で、恋愛というタームを高らかにうたい上げ、抑圧的な共同性(大人社会)との対比の中で、若さという特権とその青春の道筋を堂々と開放してみせたという意味において、後の学園ドラマの原型ともいえる。(同じような展開で言えば、かなり後年の金八先生では、「恋愛」が一気に「妊娠」になる。。。)

当時の日本人の集団意識について。杉葉子演じる新子が池部良演じる六助と街を連れ立って歩いただけで、同級の女学生たちがそれを不純異性交遊と見做し、学校の名誉を汚す行為だとしてその非行を断罪するシーン。それが卑劣なラブレター事件に発展し、それを授業中に原節子演じる先生に指摘されて女学生たちが次々と自身の非を認めて泣き出すシーン。同日放課後、女学生たちが教室での出来事をいとも簡単に忘れたかのように、改めて新子を糾弾するシーン。これらのシーンは当時の日本的共同体に典型的な集団ヒステリーのように思えた。

女学生たちは、卒業したら地元の男性と見合い結婚して家に入るのだからと先生に諭され、変な噂になったら嫁ぎ先を失うと窘められる。共同体の限られた情報と知識の中で、地域と寄り添って生きるしかなかった女学生たち。それは、先生らも含めた地域住民たちも同じであった。地域は自律的な相互監視と共同幻想によって支えられ、それ故に共同幻想が外圧で揺らぐことでそれは閉塞状態において容易に集団ヒステリーと化す。

このような展開は何かを思い出させる。そう、終戦直前に実際にあった沖縄戦の集団自決の悲劇である。限定的な情報、相互監視的な閉塞状態、外圧によって極限化する共同幻想。その中で集団ヒステリーはどこまで暴走するのか、歯止めが可能なのか、、、映画のシーンはその小さな名残のようなものだが、僕にはとても印象的だった。

最後に原節子は何をやっても、どういう性格を演じても、やっぱり優雅で捉えどころのない笑顔と忍耐の人、原節子その人なのだと思った。原節子に比べると本来華やかな女学生役の杉葉子が地味なのは他の作品同様に仕方がないか。木暮実千代は『祇園囃子』に次いでよいです。1949年日本映画

by onomichi1969 | 2010-09-09 01:27 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 AKB48 『ヘビーローテーション』 semスキン用のアイコン02

  

2010年 09月 09日

中学生のころからか、アイドル歌手というものが嫌いで、彼ら彼女らが歌う歌はまず聴かなかったし、そんなものを聴けば本当に耳が腐ると思っていた。大体、歌が下手で聴くに耐えないし、それで人に聴かせようなんて歌をバカにしている。何で歌う必要があるのか?可愛いというだけでその歌を認めるなんて、そんなものを有難がるような人間だけにはなりたくなかった。

以来、彼ら彼女らの歌をまともに聴いたことがない。松田聖子や中森明菜も中学生以降は聴かなかったし、高校生の頃に流行ったおニャンコクラブなんて言語道断。あんなものに浮かれるなんてバカじゃないかと本気で思った。また、彼ら彼女らが主演する、そのアイドル人気を背景とした所謂「アイドル映画」には強烈は違和感を覚え、それもまた絶対に観ないと心に誓ったものだ。

要は、アイドル歌手に対する独断的な偏見に凝り固まった人間。それが僕だったのです。

そんな僕も40歳を超え、そろそろそういった偏見で物事を一面的に判断するのはよくないと反省し、最近流行りのAKB48の新曲『ヘビーローテーション』を聴いてみた。

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うーむ。これは、耳が腐るどころか、脳みそがとろけそう。聴けば聴くほど怒りがふつふつと増してきて、まじめに聴いていると反吐が出そうだ。こりゃ聴いていると絶対に頭が呆けてくる。

人間、そうそう変わらない。やっぱり無理なものは無理でした。ちゃんちゃん。

あ~っ、ここでこの事実を書けて、すこしすっきりした。

by onomichi1969 | 2010-09-09 00:42 | 時事 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 内田樹 『街場のメディア論』 semスキン用のアイコン02

  

2010年 09月 08日

a0035172_23502694.jpg久々のウチダ本。街場シリーズ最新刊の『街場のメディア論』を読む。マスメディア、出版文化、電子書籍、著作権について、、、僕は本書の内容をほぼ100%支持したい。(共感出来なかったのは、itunesへのダウンロード数が何万件もあったらやっぱりすごいと思うことくらいかな)

出版及びメディア関係者は必読、いや、必蔵の書だと思う。四の五の言わず本書を購入すべし、です。

特に「本」及び「書架」の本質については胸を突かれる言説が多くあり。内田樹は以下のように言う。
「僕たちは「今読みたい本」を買うわけではありません。そうではなくて「いずれ読まねばならぬ本」を買うのです。それらの「いずれ読まねばならぬ本」を「読みたい」と実感し、「読める」だけのリテラシーを備えた、そんな「十分に知性的・情緒的に成熟を果たした自分」にいつかなりたいという欲望が僕たちをある種の書物に配架する行動へ向かわせるのです」

「まだ読まれない書物」が日常的に切迫して、それは「理想我」として機能する。「私はこれらの本を読んでいる人間である」ということを人に誇示でき、また「私はこれらの本を(いずれ)読み終えるはずの人間である」と自分に言い聞かせて、自己教化の手がかりとする、のである。
「「本を読む人」にとって話はそれほど単純ではありません。選書と配架におのれの知的アイデンティティがかかっていると思っている人間にとっては、「今読みたい本」と「当面読む気はないのだが、いずれ読まねばならぬと思っている本」と「読む気はないが、読んだと思われたい本」は等価なのです。(中略)「いつの日かこの本を死活的に必要とする人間になりたい」という願望が僕たちを書物に向かわせる。ジェイ・ギャツビーの書棚の本たちがそうであったように、この世界に流通している書物のほとんどはその所有者によってさえまだ読まれていない。書物の根本性格は「いつか読まれるべきものとして観念されている」という点に存じます」

感動的な言説である。こういう文章を読むととても胸が震える。
僕自身、読む本は昔からすべて買うのが普通なのであるが、その1/5くらいは読まれずにほっておかれている。読んだ本は捨てないし売らない。本は全てカバー付きで背表紙に手書きでタイトルを書く。近年は蔵書も1500冊を超え、狭い居住空間ゆえに止む無く蔵書の半分はダンボールに入れて部屋の片隅に積まれている。それが如何に悲しいことであるか。。

書架に並んだ本の背表紙をいちばん頻繁に見るのは自分自身である。自分からみて自分がどういう人間に思われたいか、それこそが実は自分自身の最大関心事なのである。そういう意味で読書とは、自身との緊密なコミュニケーションそのものであり、且つ、他者とのコミュニケーションを前景化した行為でもあるのだ。

『いつか読書する日』という映画がある。
この作品の題名と内容について、本書の上記のような言説を読むと、まるで霧が晴れるようにその意味が見えてくるようで。映画の主人公(田中裕子)の心情が読書(及び蔵書)という行為の指し示す意味を通して明らかになってくる。(詳細は以前のレビュー参照!)そういう意味で、読書(及び蔵書)と恋愛は似ているかも。

by onomichi1969 | 2010-09-08 23:50 | | Trackback | Comments(0)

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