Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 原田正治 『弟を殺した彼と、僕』 semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 07日

a0035172_2234.jpg森達也の書評を読んで以来、とても気になっていた。森曰く、「凄まじい本」
ようやく手にとってみるが、確かにそのプロローグの1ページ目から、衝撃的な内容で、僕らに切実なる違和を投げつける。それはこのように始まる。

長谷川敏彦君は、僕の弟を殺害した男です。
「大切な肉親を殺した相手を、なぜ、君付けで呼ぶのですか」
ときどき質問されます。質問する人に僕は、聞き返したい気持ちです。
「では、あなたはどうして呼び捨てにするのですか」
彼が弟を殺したことを知る前から、僕は、彼を君付けで呼んでいました。弟を殺したと知り、彼をどれほど憎んだでしょう。
「あなたは僕が彼を憎んだほどに、人を憎んだ経験がありますか」
質問者には、こうも聞いてみたいものです。それともこう聞きましょうか。
「あなたは、僕以上に、長谷川君を憎んでいるのですか」
彼を憎む気持ちと、彼を呼び捨てにすることとは違います。長谷川君のしたことを知って、呼び捨てにしてすむ程度の気持ちを抱く人を、僕は羨ましく思います。彼をやさしく信頼できる人だと思っていた僕も、彼を憎んで憎んで憎みきっていた僕も、彼を赦せないと思いつつも彼との面会を求めた僕も、彼の死刑を待ってくれと言った僕も、彼が死刑となって取り残された僕も、いつも僕は彼を「長谷川君」と呼びました。どれも、彼は彼であり、呼んでいたのは僕なのです。
被害者遺族が家族を殺した人物を呼び捨てにする、と思い込んでいる人は、世間に多いと思います。被害者遺族は、世間が求める姿でなければならないのでしょうか。仮に大部分の被害者遺族が呼び捨てにしたとしても、すべての被害者遺族が、そうする必要はないはずです。被害者遺族といっても、一人ひとり人格があります。それぞれが違う人間なのです。それぞれが自分のやり方で、迷ったり、つまずきながら、事件から受けた様々な深い深い傷から立ち直ろうとしているのです。どうか僕たち被害者遺族を型にはめないで、各々が実際には何を感じ、何を求めているのか、本当のところに目を向けてください。耳を傾けてください。
(原田正治『弟を殺した彼と、僕』)
原田さんは自らの弟を保険金目的で撲殺した犯人の一人、長谷川君のことを憎む。彼を憎みながらも、彼と直に向き合うこと(元々は長谷川君と一対一で対峙し、彼を殴り倒したいという思いから始まる)を自ら望み、手紙のやりとりを通じて、事件に対する理解を少しずつ変えていく。決して、長谷川君のことを赦すことはできないが、それでも、彼が国家の手によって死刑に処せられることや死刑が確定した後には彼に面会もできないことに疑問を抱く。長谷川君の姉は新聞の誤報が元で世間の糾弾にあって自殺し、幼かった子供も成人後に人間関係が原因で自殺する。加害者の家族というその悲惨さに原田さんは同情する。社会は法の名の下に人を裁き、世間は制裁の名の下に人を貶める。それは被害者に何ももたらさないと彼は考える。マスコミはただひたすらに彼を傷つけ、社会は被害者という型からはみ出すような行動をとる彼を疎外する。
もちろん原田さんの例は一般化され得ない。しかし、そういう例もあるのだということを僕らは知っておくべきだろう。物事を単純化し、一般化して理解することは容易いが、それは人から「思考」を奪うのである。

以前、ショーン・ペン監督作品『クロッシング・ガード』のレビューの中で僕はこう書いた。
「人が理由なく分り合えないという切実さを描いたのが『インディアン・ランナー』であれば、『クロッシング・ガード』はその地平をさらに一歩進め、そして反転させ、そこからポジティブな回路を模索しているように思える。追う者と追われる者という図式は同じだが、双方にはそれぞれ、そうするための理由が存在する、加害者と被害者という明確な理由があり、それは、お互いが分かり合える足場を既に失っていることを意味するのだ。にもかかわらず、お互いがその『分かり合えなさ』に対する信憑すら持てず、失った足場の上空でもがきながらも理解への希望を捨てていないようにみえる。絶望的な立場を超えて、人と人はどうコミットし得るのか。いや、絶望的だからこそ、意味を求めてコミットする、その向こうに何があるのか」

ただ理解するというところから物事を理解していく、そういうやり方もあるのだ。
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by onomichi1969 | 2007-03-07 02:20 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 内田樹 『ためらいの倫理学』 semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 03日

a0035172_052276.jpg内田樹の『ためらいの倫理学』を面白く読んだ。この手の評論集としては久々に納得しながら読むことができ、特に表題のカミュ論は秀逸で感動的ですらあった。これまで「不条理」という過度に文学的な言葉にひきずられてきたムルソーの行動もテロルの論理としての一対一という平等性(お互いに死を賭すことにより正当化される暴力)とそのお互いが「顔」を見合わせることにより生じる「ためらい」により解釈される。(ムルソーは「灼けた大気」と「影」によって盲目となり、相手の「顔」を拒絶することにより殺人が可能となったという。それは決して不条理でも不可解でもない、れっきとした理由を有した、彼の厳格な行動規範からの必然的な帰結なのだ) 太陽が出ていなければ彼は殺さなかった。その一対一の闘いにおいて、相手の「顔」さえ見えていれば、彼は「ためらい」、引き金を引けなかったはずなのである。個人は本質的に差異化されない主体を引き裂かれ得る存在であり、事実、カミュ自身がそのことにより第二次世界大戦後にレジスタンス時代の敵の「顔」を知ってしまったことにより、自らの分裂を生きざるを得なかった。そのあたりの詳細についてはぜひ本書を読んでいただきたいところであるが、僕自身、内田樹のカミュ読解には大変納得させられた。

本書のもうひとつの白眉、加藤典洋の『敗戦後論』をめぐる論説についても、加藤独特の廻りくどい表現を簡潔に要約しており、その骨子が大変分かりやすく解説されている。改めて日本という国が抱える「無自覚なねじれ」について考えさせられた。

その「ねじれ」が日本では、「ねじれ」としてすら受け止められていないままに便々として半世紀が流れた。「ねじれ」を感じていないということは、主観的にはすっきりしているということである。「ねじれ」は一人の人間が矛盾を抱え込むから「ねじれる」のであって、矛盾や対立が二人の人間に分割されていれば、そこにはすっきりと対峙する二人の人間がいることになり、内的な「ねじれ」は消滅する。簡単な算術だ。
これが戦後日本が採用した「ねじれ」の処理方法である。対立するふたつのイデオロギー、ふたつの党派の矛盾のうちにすべてを流し込んでしまえばよいのである。アメリカに対する感情がアンビヴァレントであるなら、「親米派」と「反米派」と二つの立場を用意して、その間で争わせる。憲法に対するスタンスが決まらないのなら、「護憲派」と「改憲派」に議論をさせておく。侵略行為への責任をどうすればよいか分からなければ、「アジアの人民への謝罪」を呼号する「知識人」と「失言」を繰り返す「大臣」に終わりのない二人芝居をやってもらう。。。これらの対立劇における二人の登場人物は、それぞれ主観的にはすこしも「ねじれて」いない。無垢で、倫理的で、論理的なのである。
この二党派の絶妙な「分業」によって、日本は自己矛盾からの罪責感からも自己免罪を果たし、かつ主体的に判断することも行動することもできないまま、何もしないで半世紀をやり過ごしてきた。その結果、加藤に言わせれば、日本人は一種の「低能」になってしまったのである。 内田樹 『ためらいの倫理学』

「善」と「悪」、「むこう側」と「こちら側」。。。これは村上春樹の『アンダーグラウンド』で用いられたタームであるが、それも全く同じことであろう。二者に現れる顔、ひとりひとりの具体的な交換不可能なあり方を描き出すことで村上春樹が救い出そうとしたものは何だろうか?ここにカミュ、加藤典洋、村上春樹(そして森達也)と連なる系譜がある。個の中の2項対立によって引き裂かれ、発見される「ねじれ」。それこそが彼らを切実に捉えた文学の系譜そのものなのだろう。

今見えない「ねじれ」がある。無自覚な「ねじれ」は既に解消不可能なのだろうか。現代の新しい小説家達も(阿部和重にしても、青山真治にしても、保坂和志にしても)、結局のところ、その現代的なあり方をどう言語化するのかを主題にしている。その切実さが真に切実なものとして捉えられる限り、文学は世の中に対して有効なのだろうと思いたい。
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by onomichi1969 | 2007-03-03 01:16 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 三田誠広 『星の王子さまの恋愛論』 semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 09日

a0035172_20332653.jpg三田誠広の『アインシュタインの謎を解く』が意外と面白く、続けて彼の『天才科学者たちの奇跡』と彼の謎解きシリーズ『聖書の謎を解く』と『般若心経の謎を解く』を読んだ。この人は小説よりもこういった解説書の方が向いているのではないか、と思ってしまう。科学や宗教の解説に文学的なエッセンスが感じられ、独特の味わいがある。もちろん、どれも内容が分かりやすく、読みやすい。

そんな彼の解説書として、『星の王子さまの恋愛論』という文庫本を発見したので読んでみた。『星の王子さま』と言えば、サン=テグジュペリ自ら描いた挿絵が印象的な絵本であり、誰もが一度は手にとってみたことがあるであろう童話的な物語であるが、その内容はメタフォリックであり、決して易しくない。

『大切なものは、目に見えない』
『砂漠が美しく見えるのは、そのどこかに井戸を隠しているから』

『星の王子さま』を初めて読んだのは、いつのころだったろうか?
僕の場合は大学生になってからだと思う。一種の寓話として愉しく読んだ記憶があり、特に上記のセリフ(有名なセリフ)はとても記憶に残っていた。
『星の王子さま』は2005年に日本での翻訳版権が切れたらしく、最近になってたくさんの新訳が出版されている。有名どころでは、池澤夏樹や倉橋由美子の新訳本があり、辛酸なめ子や三田誠広も子供向けに出版している。どうやら20近くの新訳があるようで、こりゃ選ぶ方も大変だ、、、ということでサイトを調べると翻訳本のランキングまで出ていた!これからは翻訳も選ぶ時代なのだろう。たぶん。

さて、三田誠広の解説書である。彼は『星の王子さま』を一種の恋愛論として捉える。もちろんそれは王子さまとバラの花との関係であり、そのことの原理みたいなものを王子さまときつねの関係を通して僕らは知るのである。プラトンのイデア論を引き合いに出しながら、その「目に見えない大切なもの」とは何なのかが解説される。古くからの『星の王子さま』ファンにはなかなか納得しがたいのかもしれないけど、恋愛という現象を哲学的に捉えようとする三田誠広の考え方に僕自身はわりと馴染みがあるので素直に納得できた。哲学的とは言いながら、その言説はとても分かりやすく、リリシズムは感じられない。まぁそのあたりの実践的というか、汎用的というか、奥深さよりも平易性を求める言説と文体は独特のもので、彼の解説書の特徴でもあるのだ。

今や文学も実践的な役割を担わなければならない時代なのかもしれない。文学という優しさを手放さないこと、それこそが、三田誠広が小説ではなく、こういった解説書で行おうとしている(ある種の確信に基づいた)試みなのだと感じられないこともない。彼の解説シリーズは小説家としての彼の文学的エッセンスに支えられながらも、そういった文学とか哲学といったものに対してあまりにも説明的である(ある意味で正面から取り組んでいる)が故にもはや文学的とは言いがたいけれど、彼の文学を守ろうという保護者(父親)的な意思は切々と感じるのである。(これも彼特有の父親学なのかもしれないw)
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by onomichi1969 | 2006-12-09 16:12 | | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 別役実 『満ち足りた人生』 semスキン用のアイコン02

  

2006年 11月 18日

a0035172_12275733.jpg「かつて、一度も結婚したことのない人間は、どこかおかしいのではないかと思われた。最近では、一度も離婚したことのない人間が、どこかおかしいのではないかと思われることになっている。「えっ、あいつ、まだ最初の奥さんのまんまかい」と、あからさまにあきれられ、「一体どういうことなんだ」と、金があるのに借金を返さない人間を見るような目で見られるのである」 別役実 『満ち足りた人生』

僕自身は結婚も離婚も経験しているので、上記の文章に特に違和感はないし、とても納得する。また、禁煙1年半継続中の身でもあるので、以下の文章には我が意を得たりというか、なるほどと同意する。

「煙草を喫うことは、嫌われているが禁止されてはいない。従ってそれは、周囲のものに対する「いやがらせ」にはなるが、国法に対する「反逆」にはならない。新たに煙草を喫おうとする場合、今ひとつそこにはずみがつかないのは、このせいであろう。周囲のものに「いやがらせ」をすることも、時と場合によっては楽しいものであるが、「喫いはじめるぞ」と決意させるための動機としては、こころざしが低すぎる。(中略)やはりこの動機には、天下国家に相渉る雄大さが、求められてしかるべきであろう。もちろん未成年の場合は、喫煙行為は禁止されているから、その年齢でこれをはじめることになれば「国禁を犯す」ことになるのだが、実際にはさほどのことはない。教師か親父に見つかって、「おい、よせ」と言われるくらいなものだ」 別役実 『満ち足りた人生』

恋愛についてもこんな感じである。

「不倫とは、人道にそむくことであるが、一般には、男女の仲において人道にそむくことを言う。つまり、既婚者と性的な関係を持つことなどをこう言うのだが、この場合「人道にそむく」という意味が少しばかり違って聞こえる。「えっ、この程度のことでも人道にそむくことになるのかい」といった感じなのだ。そして、この点が更に奇妙なのであるが、そのことによって意気消沈するのではなく、むしろそのことによって鼓舞奨励されたりする」 別役実 『満ち足りた人生』

もうひとつおまけに、、、

「たとえば履歴書を書いてみて、何かしら物足りなく思った時には、そこに自殺の経験をつけ加えることをお勧めする。自殺の経験は、その人間にある種の陰影を与え、「ただものではない」と思わせ、廊下ですれ違った時には思わずよけたくなるような、底ふかいニュアンスを感じさせる。これが、社会的なすべての場面で有効に作用するとは限らないものの、「おい、君、これを捨てといてくれ」とか、かんだ鼻紙を捨てさせられるような、軽い扱いをされなくなるのは間違いのないところと言えよう。「おい、君」と言われたところで、「何でしょう」とそれらしく振り返れば、「いや、いい、自分でやるよ」ということになるのだ」 別役実 『満ち足りた人生』

但し、いまや「漠然とした不安」といったような奥深い理由で自殺する人が多くいるとは到底思えないのであるが。。。

別役実の本としては、「犯罪症候群」とか、「日々の暮し方」とか、「当世病気道楽」などの同種のエッセイがなかなか面白い。僕の座右の書、幸福な時代の幸福な書である。(それに対して、近著『母性の叛乱』は幸福な時代の終わりを告げる書であろうか)
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by onomichi1969 | 2006-11-18 12:40 | | Trackback(1) | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 阿部和重 『無情の世界』 semスキン用のアイコン02

  

2006年 11月 18日

a0035172_3152987.jpgそもそも文学とは「心の闇」を描くものである。「心の闇」などと言うと、近年、ワイドショーでお馴染みのタームであり、普通の少年や主婦らによる不可解な殺人事件の動機などに安直に当てはめられ、「心の闇」を持ち出せばそこで事件の奇怪さが了解されてしまうという都合のよいフレーズと化している。「心の闇」が人間にとっての尋常ならぬ行動の源泉であり、それを抱えていること自体があたかも問題であるような印象を与えるのである。

しかし、それは間違いである。人間に「心の闇」があるのは当然であり、僕らは当然のようにトラウマを抱えているし、コンプレックスを持っている。そんなのは人間として当たり前のことではないだろうか。物語はそこから生まれるのであって、「心の闇」は物語の断絶ではなく、源泉なのである。それが文学の領域であるからこそ、彼らはそこに足を踏み入れることができないだけなのである。

さて、阿部和重の小説には「心の闇」というものが存在しない、平板的でポップでアメリカ万歳的な小説と言われる。「心の闇」が文学の源泉であるとすれば、彼の小説はその前提において文学という立場から最も遠い位置にあるということになる。加藤典洋は『無情の世界』の文庫本解説の中で、阿部の小説を3DのCG映像のように影のない、明るすぎる描写/小説であると例えた。加藤が80年代後半以来追求してきた「内面の喪失」という現代的な事象を今、最も体現しているのが阿部の小説なのであり、その小説は登場人物たちの独白で綴られる従来の私小説的な自意識劇でありながら、人間的な陰影や奥行きが全くといっていいほど乏しく、その文学的な味わいは極めて希薄であると言える。

その文学から最も離れた地平にある阿部の小説がその平板すぎる独白と明るすぎる心理描写によって読み手に強烈な違和を投げかけると同時に、狂おしいほどの共感をも生み出す。しかもそれが不思議に文学的な、「心の闇」にも届く真摯な共感なのである。それは何故だろうか?

冒頭で、昨今頻発する殺人事件の動機は「心の闇」などという問題ではないと述べた。阿部の小説を読んでいると、その認識は実は全く逆で、「心の闇」のなさこそが我々現代を生きる人間の荒んだ心情の由来ではないかと感じてしまう。真空にも物質的な密度があるように、平板さと明るさの中にこそ現代的な「心の闇」が裏返しに潜んでいて、それが瞬間的に漏れ出てくるのではないか。それこそが現代の心情の根源であるのだと。その境界の「薄っぺらさ」がある種の得体の知れなさ=息苦しさとして、僕らの胸に文学的に響いてくるのである。

大江健三郎が希求してなかなか手の届かなかった「最後の小説」、文学の終焉は時代の必須ながら、その文学の終焉を文学的に表現しえたのはノーベル賞作家の大江ではなく、阿部和重の小説『無情の世界』であり、『シンセミア』であった。そういう意味で、阿部和重の小説は文学の終焉という位置を確信的に固持する最後の小説であり、今、最も現代の心情の問題を文学的、方法論的に内包することに成功している良質な「文学」なのである。
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by onomichi1969 | 2006-11-18 03:17 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 京極夏彦 『邪魅の雫』 semスキン用のアイコン02

  

2006年 10月 19日

a0035172_1026279.jpgミステリー小説に哲学的思考法をいちはやく取り入れたのが日本では笠井潔である。彼の描く探偵、矢吹駆は現象学的還元という視点変換を用いることにより、現象の明証性を掴み、その本質直観を辿ることにより事件を解決する。それに対し、京極夏彦の描く探偵(ではなく、拝み屋)、中禅寺秋彦は、ポストモダニズム様の脱構築(デコンストラクション)という手法を用い、容疑者を含む関係者達の物語(不思議)を解体し合理化して、妖怪的なものを日常化することにより、憑物を落とす。
ここでの現代思想的タームはある種の意匠である。事件を解決する為の論理そのものが一種の還元的、脱構築的な発想なのであり、それはそもそも特別なものではない。古今東西、探偵達は常にそういった常識と非常識の狭間を論理によって行きつ戻りつしながら、殺人事件という非日常のパズルを解いていったのである。

探偵小説が見立てや密室という装飾によって人間の死を大仰に取り扱うことにより、死の尊厳を生の充実に転化しようとした、というのは笠井潔の説だったか。死の観念を完全に無化した大量死、第2次世界大戦を経て勃興したのが日本の本格探偵小説だったのである。
当初は暗黙のモチーフとしてあった探偵小説における装飾性の高いトリックや密室化など、また様々な衒学を駆使した見立てや動機などという非日常性に対し、そのモチーフを純化することによって、事実そのものを宙吊りにする手法、日常性に転化しない非日常的ミステリーを構築したのが60年代の作品、中井英夫の『虚無への供物』と70年代の作品、竹本健治の『匣の中の失楽』ということになるだろうか。これらは日常的なミステリーに対して、アンチミステリーとも呼ばれる。この系譜が細々と受け継がれているとすれば、僕の認識では、麻耶雄嵩や清涼院流水の作品がそれにあたる。(非日常的な事件の日常的現実への落とし方がミステリーとアンチミステリーの分岐点か)

さて、京極夏彦/中禅寺秋彦はいつもこう言う。
「この世には不思議なことなど何もないのだよ」
これはまさに非日常性の日常化という行為を象徴的に言い表しているもので、彼が言い当て、そして行っているのは従来のミステリーの枠組みを超えでるものではないように思える。しかし僕の印象では、その認識自体が彼の作品の中でいつも一周ひっくり返っているのである。それはアンチ・アンチミステリーとでも言うべきものではないだろうか。アンチミステリーという宙吊りを一気に叩き落してしまう、その強引な暴力的な試みを感じて、僕は京極堂第一作でもある『姑獲鳥の夏』の言説に引っかかった。しかし、その読後感が完全にすっきりとしたものかというと決してそうではなく、落ちたようでいてそこには危うさが残っていたのだ。
その感覚の由来は第2作目『魍魎の匣』ではっきりする。彼の作品から受けるその読後感、くらくらするような感覚は実は作品の中で1周或いは2周もひっくり返る日常と非日常の認識、その目まぐるしさの余韻なのである。
たしかに、「この世には不思議なことなど何もない」かもしれない。
でも、それはある時突然に、そして時々ひっくり返り、、、
「不思議でないものなど何もなく」なる。(『塗仏の宴』より)

中禅寺秋彦が行う脱構築(デコンストラクション)には常に余韻がある。収縮した物事は常に拡散するエントロピーを持ち、結果は常に原因となる。それはまさにウロボロスである。それこそが彼の作品の大きな魅力なのであり、言うなれば、ミステリーとアンチミステリーを縫合した最期のミステリーとしての京極堂作品なのかもしれない。そして、それが80年代後半に始まった新本格ミステリーを実質的に総括してしまった彼の作品の90年代的な意義なのだろう。もし、彼の作品に足りないものがあるのであれば、それは終わりの始まりであり、00年代、その先の視線である。

久々に京極堂作品を読む。8作目。
殺意と死のメッセージが冒頭を彩る全編の中で、唯一例外となるエピローグとそれに続くプロローグ。凡庸な狂気と瑣末化する悪意と殺意へのモチーフは、これまでの京極作品よりもずっと同時代的で、ある意味で説得力もあって、そして救いもあった。
そういう意味で僕はこの作品を面白いと思うし、ラストシーンにも好感をおぼえた。
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by onomichi1969 | 2006-10-19 10:26 | | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 梅田望夫 『ウェブ進化論』 semスキン用のアイコン02

  

2006年 05月 17日

a0035172_1191972.jpg『ウェブ進化論』を読んだ。巷で話題のGoogleの革新性について、確かにこの会社の存在が如何に先進的で、ある意味、革命的かがよく分かる。そのオープンソースという考え方が彼らのビジネスモデルというだけではなく、進歩思想であり、それが人々のビジネススタイルそのものを劇的に変化させうるものであること、それは正にネットの(人類の)未来を見据えた強固な確信によって支えられているのである。
Web社会を「あちら側」と「こちら側」に分ける表現方法は多分に文学的な感じもするけど、なかなか面白くて分かりやすい。Googleは「あちら側」でyahooや楽天は「こちら側」、マイクロソフトも「こちら側」なのである。これからの時代、「こちら側」の企業は完全に「あちら側」の企業に太刀打ちできなくなるという。ネット第Ⅱ世代、Web2.0の世界ではオープンソースというビジョン、あるいはシミュラークル的な自己規定と対象認識、もっと言えばGoogleというシステムの圧倒性を認めるかどうかによってフロントに立てるかどうかが決まるのだ。
GoogleとYahooの違いについて、Yahooが検索システムに対する人の介在を是とするのに対し、Googleは明確に否とする。そう、Googleはシステムを全てオートメーション化することを目標としているという。そのことから僕などはついついSFチックな自動化システム社会なるものを想像してしまう。日本のSF小説では竹本健治の『腐食』やテレビアニメのデジモン・アドベンチャー、映画でいうマトリックスの世界。80年代のポストモダン、ジル・ドゥルーズの描いた欲望を動力として自己増殖するシステム社会モデルなどなど。こういった自動システムに支配される人間社会という図式は未来像としても近年ありふれた物語となっている。しかし、それはあくまで想像とイメージの世界だったはず。。。

a0035172_0544422.jpg先週のアエラにもこんな記事が、、、
検索が支配する民主主義――「検索結果の表示順位を決める最も重要な要素は、サイトがどれほど他のサイトからリンクされているかだ。人気のサイトから多くリンクが張られると、そのサイトも人気があるとみなされる。言ってしまえば、これはグーグル流の民主主義だ。検索エンジンを使った際、注目されるのは上位5つくらいまでの情報である。そのためサイトを運営している側はどういうしくみで順位を決めているかを解析し、少しでも順位を上げようとする。逆にエンジン側は意図的に順位を上げようとするものに対して敏感になり、排除しようとする。ネット上では検索エンジンの影響力が大きく、すでに一種の権力装置となっている」

Googleの「もし世界政府というものがあるとしたら、そのシステムはすべてGoogleがつくる」という姿勢。その完全なる性善説に立つオプティミズムはとても危険のように思える。それでも人類はオートマティカルに社会の進歩へと向かわざるを得ないのだろうか。そういう運命にあるのだろうか。
とにかく、Googleがこれからどのようなアクションをしていくのかは僕らも注目せざるを得ない。彼らが現代のリアルなビッグ・ブラザーなのかもしれないので。。
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by onomichi1969 | 2006-05-17 01:24 | | Trackback(2) | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 山本七平 『「空気」の研究』 semスキン用のアイコン02

  

2006年 01月 25日

a0035172_24230100.jpg出る杭は打たれる。それも仕方のないことか。
最も効果的な経済調整とかなんとか、その為の犠牲は一切厭わず。

最近のメディアの風景、僕には一種の狂想曲のように思えるが、改めて日本を支配する「空気」というその存在そのものを感じさせる。

さて、「空気」について本格的に研究を行ったのは、山本七平であり、それは『「空気」の研究』という本に纏められている。日本では、と書いたが、実際に世情や世評、或いは世の中の動向そのものが「空気」によって支配されるのは日本独特のものであるからして、「空気」の研究とは日本論そのものになる。

日本でのある種の決定はその場の空気によって行われる。

戦艦大和が出撃したのは、その場の空気のせいだった。

そして、今でも、僕らを支配しているのはその空気なのかもしれない。
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by onomichi1969 | 2006-01-25 02:46 | | Trackback | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 三田誠広 『アインシュタインの謎を解く』 semスキン用のアイコン02

  

2005年 12月 03日

a0035172_12143580.jpg三田誠広の小説は、学生の頃によく読んだ。
『僕って、何』とか『高校時代』、『やがて笛が鳴り、僕らの青春は終る』、『エロイカ変奏曲』、『赤ん坊の生まれない日』などである。出発点となった『僕って、何』や『高校時代』から、主題はまさしく「僕って、何」ということだが、作中の主人公が大人になるに従い、その主題自体が世界との関係の中でバランスをとるように空疎化していき、結局は旧態たる成長小説の枠組みに絡めとられてしまったような印象を僕は持っている。
初期後半の小説群にはわりと失望を感じることことが多くて、彼の作品を読むことの価値をいつからか見出せなくなっていた。僕の中ではすっかり忘れ去られた小説家で、その名前を見ることも、彼の小説を改めて手にとることも最近は全くなかったのである。
ちなみに彼の作品の中の『やがて笛が鳴り、僕らの青春は終る』の文庫解説を笠井潔が書いており、その強烈な文章に感銘を受け、その後、彼の『テロルの現象学』を手にとることになる。僕にとっては、そういうつながりとして僕の読書歴の中のひとつの流れを形づくってくれたという功績がある。

さて、そんな三田誠広の本が店頭に並んでおり、題名をみると、「アインシュタインの謎を解く」である。これは一種の歴史ミステリーなのか、彼もついにこんな分野の小説を書くようになったのか、と驚きつつも、宇宙論や量子論はわりと嫌いではないので文庫本の気安さもあり、何の気なしに買ってみた。
そして、家に帰ってページをめくると思いかけずに面白くて、一気に読み終えた。

この本は現近代の物理学解説書であるとともに、アインシュタインやパスカル、ボーア、キャベンディッシュなどの物理学の巨人たちを生き生きと描く人物書でもある。
僕は一応、大学の工学部応用化学科の出身なので、いちおう教養としての量子論は勉強しているつもりである。その為、量子論の基礎であるパウリの排他律や電子スピン、波動方程式などは実際に演習もしていたので今でもその解説には違和感なく入り込める、、と思っている。(まぁ、他にもそういう解説書をたまに読んだりするので、、、)
それを差し引いても、三田誠広という文学者が描く量子論、相対論には一切の数式も図もなく、すべて文章での説明となっているわりには、適度に専門的で、にもかかわらずとても理解しやすいと感じた。文章が平易で、身近な比喩をふんだんに使うことによって読者の理解を助ける、イメージを膨らませやすい解説書となっている。
一種の文学的量子論とでも言おうか。おそらくその真骨頂は最終章にあるだろう。
そこでは現近代の物理学を文学的に総括すべく、その技術と理論の変遷を人間の認識論へと還元している。これまで宇宙論でよく耳にした「人間原理」についても科学全般における認識論へと普遍化させて説明しており、その内容にはとても納得させられる。

<ちなみに宇宙論としての「人間原理」とは、この宇宙が人間を生み出す為に作られたものであり、宇宙論の基礎たる定数などもすべて人間を生み出すのに都合のよい数値となっているということを指す。それを敷衍すれば、宇宙とは、人間が認識する限りにおいて存在し得ると言うこともできるのだ、、、まさしく人間の存在或はその認識を中心とした宇宙原理が「人間原理」である。。詳しくは、ブルーバックス「これからの宇宙論」参照!>

思いもかけずとても楽しい読書だった。
三田誠広という文学者がどういう経緯で物理学の解説書を書くことになったのか、その詳しいことはよく分からないけれど、彼が『僕って、何』から30年かけて辿り着いた場所、彼の必然的行き方、その一端が実はこの本から垣間見える。そういう意味で僕はこの本を読んで素直に感動した。
とても文学的に感動したのだ。
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by onomichi1969 | 2005-12-03 14:12 | | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 村上春樹 『東京奇譚集~品川猿~』 semスキン用のアイコン02

  

2005年 10月 08日

a0035172_19294661.jpg村上春樹の小説では、『ダンス・ダンス・ダンス』が好きで、特に印象に残っているのは五反田君を巡る物語である。僕は、それ以降の作品でも知らず知らずのうちに五反田君の行方を追うようになった。
五反田君が初登場したのは、『ダンス・ダンス・ダンス』よりも前の『納屋を焼く』という短編である。(正確には五反田君的人物であるが、、) 『納屋を焼く』は、近所の納屋を放火してまわる人物の独白が描かれるのであるが、無用の納屋の放火という牧歌的犯罪とは全く対照的に、この物語が僕らに不気味な底知れなさを与えるのは、「納屋を焼く」ことが「女の子をレイプして殺害する」という不条理で性的な殺人行為を暗示するからだと言われる。確かにこの人物と付き合っていた女の子が最後に音信不通となることがそのことを僕らに想起させる。
このメタファーは既によく知られており、その衝動的且つ計画的な犯罪行為のひとつの可能性として納得できるものである。その辺りは解釈の問題であるが、重要なのは、『納屋を焼く』という短編が「人間の底知れなさ」を暗示的に示すことによって、その恐怖感をよく描いているということである。
「心の闇」を背負い、常にそれと葛藤しながら、悪に引き摺られる人物が五反田君の原型であり、それは善良なもう一つの顔、エリートで仕事ができ、誰からも好感を持たれるポジとしての面、傍からはその正体が全く分からないという恐ろしさが大きな特徴なのである。

『納屋を焼く』は、「女の子をレイプして殺害する」ことを暗示させて、読み手に受動的な恐怖感を与えるのと同時に、自分も五反田君の側に立つ人間なのかもしれないという主体的恐怖をも感じさせる。だからこそ、『ダンス・ダンス・ダンス』以降の五反田君の行方が僕は気になるのだ。

五反田君は、『ねじまき鳥クロニクル』で綿谷ノボルになり、『海辺のカフカ』ではジョニー・ウォーカーに変遷していく。実は五反田君的人物はいつの間にか綿谷的人物に変節しており、その性質は既に完全に変化しているのである。つまり、五反田君的悪は、その葛藤を失い、着実に純化している。五反田君的葛藤はもう小説として、時代的な説得力がないのであろうか?

村上春樹の新作『東京奇譚集』の最後の書き下ろし作「品川猿」には久々に五反田君的人物、松中優子が描かれる。しかし、松中優子の葛藤、その「心の闇」はこの短編のメインテーマから確実に外れている。言うまでもなく、この短編の主旋律は、主人公、安藤みずきの心のデタッチメントの気付きであり、その快復である。愛されない子供が如何にして人を赦し、自らを快復できるのか、これは『海辺のカフカ』のテーマを引き継いだ形となっており、引いてはこれまでの一人称小説の主人公が持っていた虚無感という無根拠の根拠を明らかにしようという試みでもある。それはとても大切なことだし、その心の由来もよく分かる。
しかし、それでも僕はこの短編の松中優子の存在、森の中で自らの手首を切り刻み血まみれで死んだ彼女の葛藤の行方を知りたいと思う。それはこの小説でもやはり描かれない。

僕は村上春樹の次作には改めて五反田君の行く末を期待したいと思う。そうでなければ、象は永遠に草原に還ることができないのだ。。。五反田君的煩悶と葛藤は今でもリアリティがあるし、そのリアルさを投げ捨ててはいけないと僕は思う。
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by onomichi1969 | 2005-10-08 01:38 | | Trackback | Comments(0)

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