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Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 のりピーと選挙のこと semスキン用のアイコン02

  

2009年 09月 05日

のりピーが覚せい剤取締法違反で捕まって、一斉にマスコミによるバッシングの対象となっている。彼女は、その罪状を超えて、救いのないくらいに叩かれている。
マスコミから流れる情報は、既に虚実が入り混じっているだろう。それらを過剰に垂れ流すことに全く躊躇がない。その目的は彼女を貶め、さらし首にする以外にはないように思える。彼女を庇って火傷するような愚行を犯す人間はテレビの中に誰もいない。そういう意味でみんな賢い。

でも、僕は思う。この世の中の為に、本当に救われるべきなのは、彼女のような人間ではないだろうか? その生い立ちや言動を見るにつけ、僕は心からそう思う。
この世の中は、総体として「悪人」的である。村上春樹風に言えばそれは「リトルピープル」的ということになるだろうか。その中で僕らは知らず知らずのうちに偏在化した悪や狂気と云ったものに囚われる。そこに全体としての救いはない。救われなさの集合として、それは存在すると言ってもいいから。だからこそ、本当に救われるべきなのは、本来的な悪の要素を象徴的にも実際的にも一身に背負った彼女のような人間なのだ。そういう彼女が救われなかったら、僕らは永久に救われないとさえ思えてしまう。悪というマイナスからスタートする、そういう物語があってもいい。
誰か、そう思いませんか?

さて、選挙である。民主党が大躍進、というよりは自民党の凋落、壊滅と言った方がいいのだろう。
55年前に鳩山民主党が吉田自由党を破ったのと同じ構図ではある。(当事者の孫同士による再戦というのも運命なのだろうか) 当時は民主党が保守、自由党がリベラルというのが対立軸であったが、吉田自由党には造船疑獄の発覚や対米追従の政治手法に国民からの批判もあって、政権交代の機運が高まり、そういった「世直し気分」の流れの中で民主党が大躍進した。その点は今回の選挙結果と同様かもしれない。
但し、今回との大きな違いは、当時、革新政党であった社会党が民主党と共に躍進したことである。その危機感よって、政治的ポリシーを超えた保守合同が実現し、55年体制が確立するわけである。

今回、僕らは選挙によって民主党を選択した。
さて、同じ鳩山民主党ながら、戦後10年の時代から55年を経て、今そこにある民主党とは一体何モノなのだろう? 民主党を日本的リベラルと言うのであれば、その正体は一体何だろう?
ある人は、自民党を旧福田派、民主党を旧田中派のスピンオフと言った。それもなるほどと思う。(詳しくは内田樹のブログへ) 民主党の執行部の顔だけ見れば、同じ保守、いわゆる保守本流の顔が見える。しかし、それだけではない。民主党には旧社会党の残党や旧態たる連合、日教組等の労働組合がくっ付いているのがその正体をあいまいにしている最大の原因なのだと僕は思う。確かに党として期待すべき清新さはあるけど、あまりにもポリシーが幅広く、何でもありで焦点を欠き、あいまいなのだ。

今回の選挙の争点は何だったのだろう?
年金? 子供手当? 高速道路無料化? どれも政権交代の目玉となるような論点だとは思えない。以前のエントリーでも書いたけど、消えた年金などは社会保険庁の失態、自治労の怠慢以外の何物でもないわけで、それこそ民主党の支持母体である労組が問題の大本なのである。民主党は年金制度を国民年金含めて一元化し、新たな制度を創設することをうたっているが、制度の一元化については自民党も提唱しており、その具体的な統合の内容について実際のところ何が最適なのかは判断に難しい問題である。税制を含めた新制度と言っても公平感を維持する為には段階的な改善とならざるを得ず、マニフェストの内容を今回すぐに実現できるとは考えにくい。ある種のスローガンとして聞こえはいいけど、そもそもこの問題が党の政策として政争の具になること自体がおかしいと思える。(公約として規定すべき問題とは思えない)

本来、政党の争点は、国のビジョンであるべきだろう。それはマニフェストの名のもとにばらまかれる鼻の先の人参よりは優先されるべきもののはず。それこそが本来比較されるべきポリシーそのものではないだろうか。
保守とリベラル、旧福田派と旧田中派、保守傍流と保守本流、市場原理主義と資源分配(ばらまき)主義、、、言い方は何でもいいけど、そこに映し出されるビジョンが明確でなければならない。

日本は、高福祉高負担の北欧型の大きな政府を目指すべきなのか? 低福祉低負担のアメリカ型の小さな政府を目指すべきなのか? その対立軸の中庸として、どの位置に焦点を定めるのか? それは横軸のある1点にビジョンを定めて政治的にフォーカスすべきものであり、それでこそ国のビジョンとしてあるべきものなのだと僕は思う。

同様に国の基本方針たる国防、外交にどのようなビジョンを定めるのか?

民主党は自民党に代わる保守政権政党となり、今後は自民党が右派イデオロギーの野党勢力に成り下がるという意見もある。それは有り得るかもしれない。なぜなら、今の民主党に社民党や国民新党がくっ付けば、そこには既に保守とリベラルが合同したような挙党一致、大同団結という旧来の自民党的なまとまりのない集合政権の姿が見えるからである。それは日本という国の中で最も安定な「和」の姿なのだ。
民主党単独にしても、旧態たる連合のような組織が引っ付いている限り、日本経済に対して明確なビジョンを党として定めることができるのだろうか、と思う。

55年前、共産主義、革新政党という共通の敵のもとで大同団結した自民党。革新イデオロギーが衰退した今、政党は大同団結ではなく、二大政党でもなく、ポリシーを細分化して、それぞれの政策の横軸における立ち位置を明確にして競い合うべきなのではないだろうか? それは多様であっていいと僕は思う。その中で選ばれたグループを中心として、連立政権が組まれる。多様さの中で選び直してこそ、国民は真に参政の意識を持てるのではないだろうか。

今回の選挙で国民が選択したのは「非自民」であるにすぎない。そういう空気を切実なものとして選択したのだ。しかし、本来であれば、自民党も民主党も一度全て解散し、本当に目指すビジョンのもとでポリシー毎に再編するのが最も適当なのではないだろうか。

ちなみに僕は今回も投票しなかった。過去レビューでも書いたけど、投票しないという選択も多様さの一つとしてあるべきだと僕は思う。その権利を結果的には遂行したということ。(吉本ばななのお父さんがその昔主張していたことだ) 投票は義務ではない。投票しないことがいつの間に悪になったのか。投票しないものに政治を語る資格がないという、その論拠は精神的すぎるし、単なるマスコミのキャンペーンにすぎないと僕は思っている。それはそれで政治に関心が持たれるのなら悪いことでもないけど、それを義務というなら税金を払う根本的な意味はない。

by onomichi1969 | 2009-09-05 00:54 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 追悼 三沢光晴 semスキン用のアイコン02

  

2009年 06月 14日

90年代前半、プロレスと言えば、全日本だった。深夜放送。三沢対川田の三冠戦。身を削るような試合。投げっぱなしジャーマン3連発。30分を超えてもまだ終わらない。2人とも立ち上がれない。でも立ち上がる。フィニッシュの非情さ、過激さ。何の為に?でも、すごく痺れた。

ご冥福をお祈りします。

by onomichi1969 | 2009-06-14 14:00 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 結核、、、病という意味 semスキン用のアイコン02

  

2009年 04月 15日

 スーザン・ソンターグの『隠喩としての病い』によれば、西欧では十八世紀中葉までに、結核はすでにロマンティックな連想を獲得していた。結核神話が広がったとき、俗物や成り上がり者にとって、結核こそ上品で、繊細で、感受性の豊かなことの指標となった。結核に病んだシェリーは、同じ病いのキーツに、「この肺病というやつは、きみにような素晴らしい詩を書く人をことさらに好むのです」と書いている。また、結核を病む者の顔は、貴族が権力ではなくなってイメージの問題になりかけた時代では、貴族的な容貌の新しいモデルとなった。
 ルネ・デュボスは、「当時は病気のムードがとても広まっていたため、健康はほとんど野蛮な趣味の徴候であるかのように考えられた」(田多井吉之介訳「健康という幻想」)といっている。感受性があると思いたい者は、むしろ結核になりたがった。バイロンは「私は肺病で死にたい」といったし、太って活動的なアレクサンドル・デュマは、弱々しい肺病やみにみせかけようとした。 
(柄谷行人『日本近代文学の起源』)


健康が何にもまして尊ばれる現代からは俄かに信じがたいことかもしれないけど、日本でも明治中期以降のロマン派の時代には、病気になってこそ人生に意味が見出され、それこそが近代的苦悩の象徴であると信じられた。健康であることほど非理性的で恥ずべき能天気さはなかったのである。特に結核はそのイメージからして、自意識の仄か、神学的な苦悩の影を纏う死病の花形だった。そこにあるのは正に「意味という病」、病こそが意味そのものだった時代の転倒以外の何ものでもないけど、まぁそれも文学ということで。

最近の結核ブームから、何やらロマンティックな文学的幻想を抱く輩は、、、まぁいないだろうけど。

by onomichi1969 | 2009-04-15 00:23 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 思うんですが、、、 semスキン用のアイコン02

  

2008年 10月 11日

大相撲で八百長っていけないことなのでしょうか?
それこそ何十年も前からそんなことは言われ続けていて、いまさら何の問題があるのでしょうか? 昭和30年代の栃・若時代の映像を見れば、それが「魅せる」勝負であったことは一目瞭然でしょう。そういったプロ興行の歴史をいまさら否定してどうしたいのでしょうか? 大相撲というのは興行であり、伝統であり、祭祀であり、文化であり、勝負を魅せるものであるけれど、ガチンコかどうかを僕らが判断して告発しなければならないシロモノでは全くないと思うのです。全てがガチンコだったら、怪我や人間関係の問題であんなに多くの巡業や場所なんてこなせませんよ。(アマチュアレスリングやボクシング、総合格闘技とは違うのです)

協会や力士に八百長していますか?と聞いて「しています」なんて答えられるわけがないでしょう。それは答えられない質問というものです。それを嘘つき呼ばわりするのはどうかと思います。いまにアメリカン・プロレスさえも八百長で嘘つきだから告発すべきなんて本気で言い出す日本人が出てくるのではないかと心配。。。

週刊誌もこういうことを本気でやるようになってしまったら終わりでしょう。何様のつもりでそういうことをするのでしょうか。

昔、アントニオ猪木がソ連時代のアマチュアレスリングの選手をプロレスに出場させる為に現地で彼らを説得したときの話。プロレスラーというのは単にレスリングが強い人ではなく、試合をすることによって人々の怒りや喜び、生きている感情を自由自在に引き出すことができる超人なのだと、ソ連のレスラー達に説明したそうです。人々が生きる勇気や夢を持てるそういった幻想を与えられるのがプロフェッショナルレスラーなのだと。その言葉に感銘を受けてソ連のレスラー達は新日本プロレスに参戦することを決意したということです。(その後、アントニオ猪木の気まぐれのせいでポイ捨てされてしまいますが、、、)それが本当の話にしろ、プロレス的脚色にしろ、僕はこの話が好きです。これはニーチェですよ。
力道山が街頭の人々を勇気づけた時代。あの頃の大らかな時代精神こそがすでに遠い昔の夢のごとき幻想なのかもしれませんね。蒟蒻ゼリーへの理不尽な国家的規制(の検討)や政治家の発言に対するどうでもいいバッシング、マスコミのマスコミに対する自己言及的なやらせ報道への告発などなど、一体全体何をしたいのか、この国をどうしたいのか、殺伐とした世の中になってしまいました。

by onomichi1969 | 2008-10-11 22:10 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 EURO2008 semスキン用のアイコン02

  

2008年 06月 20日

EURO2008もいよいよ決勝トーナメントです。
と言っても、実は今回、殆ど試合を観ていないのでいまいち状況が掴めていないのですが、巷の評判では、ポルトガルとオランダが優勝候補のようですね。
ポルトガルはクリスチアーノと凸の活躍で危なげなく予選リーグも突破しました。オランダは死のリーグ(C組)を全勝で勝ち抜いた業績が評価されているようです。

ポルトガルについては、僕も先のワールドカップ@ドイツで優勝間違いなしと予言したにも関わらず、ベスト4止まりだった苦い思い出があります。その頃と比べ、クリスチアーノもかなり成長しており、今回の前評判の高さ、優勝候補の筆頭なのは誰もが納得でしょう。まぁ順当にいけばポルトガルは最も優勝に近いといえるのでしょうね。
そのポルトガルが1回戦で当るのがドイツです。
ドイツ好きの僕としては、とても微妙なのですが、敢えて、この1回戦屈指の好カードこそが事実上の決勝戦だと宣言したいところです。(実は、またまた再来週からドイツに1週間ほど出張します。もし優勝したらすごい騒ぎでしょうね)

あとはオランダとイタリアでしょうか。
スペインはいつものように予選リーグではダントツ、決勝トーナメントではダメというパターンと予想します。イタリアはいつも逆ですからね。となると、準決勝はオランダとイタリアの再戦となります。ここでイタリアが雪辱できるか、今の戦力では難しいかもしれません。

ということで、ポルトガルとドイツの勝者とオランダが決勝を戦うことになれば、相性的に言ってオランダは分が悪いような気がします。やっぱり、ポルトガルとドイツの勝者が優勝ということですね。

では、ポルトガルとドイツはどちらが勝つか、う~んと考えている内に、もうすぐ試合が始まりそうです。。。と思ったら、ドイツが勝ってしまいました。それも少し残念。

by onomichi1969 | 2008-06-20 08:17 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 名古屋国際女子マラソンを観て semスキン用のアイコン02

  

2008年 03月 09日

マラソンや駅伝を観るのが好きである。
今日も北京五輪の女子最終選考レースとなった名古屋国際女子マラソンを2時間半くらいじっーと観ていた。欧米人はただ人が黙々と走っているだけのマラソン中継に大いなる退屈さを感じるようだが、僕らはおそらくそんなことはない。国際マラソンに限らず、地域のマラソンや様々な駅伝はよくTV中継されるので、僕と同じように、長距離を走る選手達の姿を観るのが好きな視聴者が一定数いるのは確かだ。

特に駅伝が好きである。女子は年末の岐阜、男子は年始の群馬で行われる全日本実業団対抗駅伝がやはり面白い。何と言ってもそこには1年、2年越しのドラマがある。そう、駅伝やマラソンにもちゃんとドラマがあるし、走者が一定区間でのタイムを競うというまさにその中に、溢れる熱情や忍耐、苦悶、諦念、歓喜などなど、様々な感情が垣間見える。競走するという行為、そこに静かに流れるある種の縮図、その場面に僕らは胸を打たれ、そして感嘆するのだ。
マラソンの場合であれば、集団で出発し、徐々に脱落して集団がばらけ、最後はマッチレースとなって、その中のひとりだけが栄冠に輝く。長い準備期間の末の長いレース、42.195kmで強いものが勝つ。それは必ずしも僕ら凡人が易々と感情移入できるものではない。(安易な共感は失礼というものだ) しかし、そこには何かしら強靭な摂理のようなものがあり、神に選ばれし身体の極限性、その敬虔さが僕らのココロを揺さぶるのだ。

a0035172_16384548.jpg少し昔の話になるけれど、女子駅伝で僕がとりわけ印象深かったのが1996年岐阜5区、沖電気宮崎の川上優子の走りである。彼女はその年のアトランタオリンピックの1万メートルで7位入賞。当時は千葉真子(旭化成)の5位の影に隠れた形となったが、日本の女子がこの競技で2人も入賞したのは後にも先にもないだろうし、それは快挙と言ってもいいことだった。その2人が年末の実業団女子駅伝のエース区間5区(11.6km)で対決したのだ。結果は川上がチームを2位からトップに引き上げる区間新の区間賞、千葉が同じく区間新ながら区間2位、チームとしても沖電気宮崎が優勝、旭化成が3位となり、ハイレベルな争いの中で軍配は川上に上がる。その当時の2人の記録、川上 35:58、千葉 36:09というのは、いまだに岐阜5区の区間記録1、2位に君臨している。

1996年の岐阜5区、川上優子がトップから1分の差でタスキをもらった時、先頭を走っていたのが当時リクルートの高橋尚子だった。高橋はまだそれほど有名ではなかったが、それでもエース区間を任された小出監督期待のホープであった。その時のタイムが37:02なので、それなりに速いというか年によっては区間賞を十分狙えるタイムだ。今でも覚えているけど、その時の川上の走りが凄すぎた。最初からトップギアで高橋との差をぐんぐんと詰め、そして併走、最後には一気に抜き去る神懸り的な走りだったのである。

ドラマはそこで終わらなかった。続く97年、98年と同じ5区で川上優子と高橋尚子が再び対決する。そこではいずれも高橋が川上を凌ぐ走りを見せる。97年は、高橋 36:43、川上 37:05。その時の高橋の激走がその後のマラソンでの活躍の発火点となったと言われている。98年は、高橋 36:31、川上 37:24で、96年とは全く逆のシチュエーションで高橋は川上をぶっちぎる。(川上が駅伝で抜かれたのはこの時が初めてだったという。これもすごい!)
翌99年も2人は5区で対決。この時は川上が区間賞の走りでチームも優勝。川上が復活を印象づけた。川上 37:00、高橋 37:17。

ご存知のように2000年の名古屋国際女子マラソンで高橋尚子が優勝し、シドニーでも金メダルを獲る。それに対して、川上優子は99年の名古屋でマラソンに挑戦して惨敗し、オリンピックは1万メートルで出場、前回に及ばず10位となる。

その後の女子のライバル対決と言えば、渋井陽子と野口みずきの岐阜3区での競り合いもあったし、男子では中国電力の佐藤敦之とコニカミノルタの坪田智夫が数年越しの名勝負をニューイヤーで繰り返している。そういうライバル対決はおそらく当人達も十分に意識的なのだろう。それを追う見方というのもなかなか楽しい。

a0035172_18142232.jpgまぁそれはそれとして、今年の名古屋国際女子マラソンは高橋尚子の失速、新星中村友梨香の優勝という結末に終わった。中村が昨年の全日本実業団女子駅伝の3区で大活躍したという話を聞いて、そういえば昨年は岐阜駅伝を見忘れたなぁと思いつつ、僕の記憶はその10年以上前に遡ったわけだ。

やはり、実力というのはタイミングもある。川上優子は96年の活躍をその後に超えることができなかった。千葉にしても、高橋にしても、渋井にしても最もノリに乗っていた(走りの神懸っていた)時期というのが確実にあって、それが再び繰り返されることは結局のところなかった。(それは男子の場合、箱根駅伝の名選手達に言える) 力を持続するということは難しい。故障もあるし、本当の実力を発揮できる時期というのは短くて儚いのかもしれない。

いずれにしても、女子の北京の代表は土佐礼子、野口みずき、中村友梨香の3人に決定しそうだ。その中に前回の代表選手が2人も入っていること自体が実は特異的なことだと思う。

by onomichi1969 | 2008-03-09 17:21 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 「沖縄集団自決を現場検証する」 AERA '08.2.25記事 semスキン用のアイコン02

  

2008年 02月 19日

a0035172_2358417.jpgAERA(朝日新聞社発行のニュース週刊誌)が朝日新聞を批判。。。
僕は月曜日が新幹線通勤なのでその曜日に発売日となるAERAをよく買う。殆ど惰性で読むことが多いAERAであるが、最新号の特集記事は少し違った。
タイトルは「沖縄集団自決を現場検証する」である。まぁ元朝日新聞の記者が書く記事なので、内容はいつものように集団自決をめぐる教科書検定問題に関しての政府や文科省批判だろうと思って読んでみたが、実際は全然違って、客観中立的、至極真っ当な論考で正直驚いた。

a0035172_23582865.jpgこの問題に関しては、僕も過去に本ブログで記事を書いたことがある。それは、沖縄戦の渡嘉敷島で起きたとされる軍命による集団自決を検証し、実際にはそのような命令がなかったことを住民や島に駐屯した旧隊員らの証言によって明らかにした曽根綾子のルポタージュ『ある神話の背景』を評価したものだ。今回のAERAの記事は僕のエントリーと概ね同じ視点によって書かれており、共感が持てた。その骨子はこうだ。

・記者は沖縄戦での集団自決の舞台となった座間味島と渡嘉敷島を訪ね事件の当事者達にインタビューする。
・そこで沖縄戦時の米軍上陸前後の狂乱の中で斧、鉈、鎌、鍬、、、手榴弾などにより、夫婦、親子、兄弟たちがお互いに殺しあった状況を知る。
・いまも2島には殺害の加害者と被害者(及び家族)が共存する。63年間、狭い島内で過去に触れずに暮らしてきた現状があった。
・大江健三郎は『沖縄ノート』の中で自決を住民に命令したとして、当時、2島に駐在していた軍司令官をナチスのアイヒマンになぞらえて批判した。その著書の中で自決命令者として特定された梅沢少佐や赤松大尉の親族が大江健三郎に名誉毀損の訴訟を起こしている。この問題が係争中であること、それが文科省によって教科書の記述に検定意見がつけられた根拠のひとつとなっている。
・渡嘉敷島の事件については曽根綾子が『ある神話の背景』(1973)において、赤松大尉の集団自決命令にはいかなる根拠もないと結論付けている。(逆に島民に自決せずに生きることを説いていたという)
・その他、軍命令の存在を否定し、戦後に集団自決の遺族に援護法による給金を適用するためにやむをえず隊長命令としたという趣旨の証言書が多く発見されている。同様の趣旨のものがすでに『沖縄県史』や『沖縄県警察史』に渡嘉敷島の集団自決の経緯として具体的に記載されている。
・集団自決を軍の強制とする論者の有力証言となっているのは、最近になってしきりに報道されているある女性の証言である。それは村助役が自決の軍命令をその女性の家族に告げたというものあった。
・「戒厳令下では村助役の指示も軍命令と同じである」という軍制学教程があり、当時、発令はされなかったが事実上「戒厳令下」であったと見做せる。「村助役が軍命だといえばそれは否応なく軍命なのである」 それが集団自決を軍の強制とする論者の論法となっている。
・また、集団自決は当時の日本、特に沖縄の皇民化主義体制が引き起こしたものであり、集団自決というそこだけを見ていると問題を矮小化してしまう、という当時の軍国化、皇民化された日本の全体主義そのものへの批判に展開される。
・集団自決の背景には新聞などの媒体による鬼畜米英宣伝の影響が強くあった。新聞は例えばサイパンでの集団自決を「非戦闘員たる婦女子も亦生きて鬼畜の如き米軍に捕はれ恥辱を受くるよりは」(44年8月19日付朝日新聞)などと称賛していた。

そして、最後に記者はこう結んでいる。
「この際、取材者は文科省に提案する。日本史教科書なら日本史教科書でいい。いかなる憶測も排し、あの時の、確認し得る限りの日本人の集団自決の事実そのものをすべて、避けることなく直視し、淡々と記述してほしい。論評はいらない」

僕も全くそのとおりだと思う。とても真っ当な意見である。しかし、こういった意見をメディアで目にすることは久しくなかった。この記者は元朝日新聞の記者らしいが、AERAという媒体で堂々と朝日新聞批判もしてみせるのだから、なかなか勇気のある人物なのだろう。批判はたくさんあろうが、そういう人たちにこそ今回の朝日新聞社AERAの記事は発信されているのだと思う。

by onomichi1969 | 2008-02-19 09:14 | 時事 | Trackback(1) | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 言葉は攻撃する為のものなのか? semスキン用のアイコン02

  

2007年 08月 11日

言葉とは、その出自より、他者とコミュニケートする為のツールである。人を攻撃することが言葉の本質ではない。言葉があるから、人は他者との共存が可能であり、対立を緩和できるのである。

過去に何度か言及したけど、僕は世の中と逆を向く人間なので、世間でバッシングを受けている人達をその尻馬に乗って貶したりすることはしたくない。逆に擁護したくなる。
何事も批判するのは簡単だ。その簡単な手法をメディアは安易に採用してしまう。そして最近は、争点がすぐに人格攻撃となり、言葉は鋭い凶器となる。煽動的な人格攻撃を人々は喜ぶ。その恐ろしさに僕は戦慄してしまうが、それは普通の感覚ではないのだろうか?

最近、人々に不当に貶められている有名人と言えば、朝青龍、そして安部晋三だろう。

今回の騒動で僕は朝青龍のことが好きになった。
誰もが仮病と断定して、彼のことを悪く言うけれど、本当にそうだろうか?
彼が怪我の療養のためにモンゴルに帰ってたのを当初は誰もが了解していたことではなかったか?
人に誘われてチャリティサッカーに参加し、子供達にのせられてサッカーに昂じてしまった。
朝青龍ってわりといい人なんじゃないだろうか?

テレビも当初は美談として放映していたものが、いつの間にか「仮病報道」となり人格攻撃となる。テレビは当時、朝青龍に密着取材しており、朝青龍がサッカーのイベントに出ること、そして実際に参加してプレーしたことを何の問題とも捉えず日本に配信したのだ。それが担当者の思惑とは全く違ったところで報道サイドから疑惑スクープとしてニュースとされてしまった。まさに報道が如何に主観的なものかを如実に示す事例だといえる。

次に安部首相である。
僕はこの人ほど、分かりやすい人はいないと思う。近年まれにみる明確な方針、彼の目指す日本の未来像というのはアメリカとの関係という点で数分の曇りがあるものの、とてもクリアカットなのである。(但し、クリアカットであることが必ずしもいいことではない)
僕個人の感想としては、そんな彼の目指す「戦後レジームの脱却」という視座、その早急な転換政策に対して、国民がNOを突きつけたのが今度の選挙結果ではないかと思っている。

しかし、メディアはまたしても政策批判ではなく、人格攻撃である。もう勘弁してほしい。
資質とか経験とか、確かに問題はあったかもしれないが、その問題を極限まで大きくしたのはメディアのせいである。年金問題にしても、これは労働問題である。その根は明らかに民主党の支持母体でもある自治労の怠慢にあるのに、メディアはそのことを何故か取り上げない。それどころか、いつの間にか選挙の争点にまでなってしまった。なぜ年金問題が政争の論点になりえるのか、僕にはさっぱり分からない。

小沢一郎の考える2大政党制への移行スキームというのがどういうものなのか、僕にはよく分からないが、今度の選挙で明らかになったのは、民主党が旧来の自民党と全く同じ構造となっているということだ。地方が完全に民主党に抑えられたのである。甘言とバラマキによって地方を取り込み、農協等の集票組織を抑える。これは旧来の自民党のやり方そのものである。逆に自民党の集票体制は完全にぶっ壊れてしまっていたのが明らかとなったわけだ。

民主党は旧社会党のリベラル派から、新保守系まで幅広い思想の党員を抱える。かつて自民党は保守本流と傍流の拮抗によって成り立ち、新自由クラブが2大政党制の足がかりとしてみられてこともあったが、結局のところすべては自民党という大きな枠組みに取り込まれ、何も変わらずここまできた。(それが小泉、安部政権により、ドラスティックに変わった、、、はずだったのが、安部首相の党内でのバッシングをみれば、やはり、自民党が相変わらずの迎合集団でしかなかったか、、、) しかし、今の民主党はどう考えてもそれよりもひどい思想統一のなさである。こんな中途半端な政党に政権を担当できるのか?

何でもいいから一度民主党にやらせてみたらいいじゃなかという意見もあるようだが、それは無責任というものだろう。やはり、民主党も自民党も解体して、政党を改変するしか道はないのではないか?そうであれば、安部政権の歴史的役割というのが少し見えてくるのだが。

話はとんでしまったが、今メディアは盛んに安部首相の人格攻撃を行い、そして政治と金の問題への揺り戻しを図ろうとしている、その意図は一体なにか? 報道というのは必ず意図がある。(報道は主観的でしかありえない) 僕らはもっと冷静に政治を、その未来像を、この国のかたちを見つめるべきだろう。

by onomichi1969 | 2007-08-11 08:21 | 時事 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 選挙3 semスキン用のアイコン02

  

2007年 07月 30日

結局、今回も投票に行かなかった。
(敢えて言うけど、それは何にも悪いことではない)

自民党と民主党のどちらを選べと言われたら、当然、自民党ということになるのだけど、安部内閣の掲げる政策の全てを承認できるわけではない。

とは言え、民主党という労働組合を支持母体とするような政党にマトモな政治ができるとも思えない。そもそもいつの間にか争点となっていた年金問題を民主党が解決できるわけがないし。(竹中元大臣が年金問題は労働問題だって言っていたナ) 民主党という政策的矛盾を抱えた政治団体はある意味で日本的なあいまいさの象徴的存在であり、過去の55年体制の焼き直しのような政党と位置づけられなくもない。であれば、なんとなくその存在意義も分かるが、でもそれは自民党も同じか。。。

やはり、、、2大政党制というものを本当に実行するのならば、自民党を2つに割る必要があるのではないだろうか。いわゆる自民党ハト派と呼ばれる保守本流と安部首相を筆頭とする保守傍流の2つの派閥グループである。大きな政府と小さな政府。労使協調且つ公共事業を是とするグループと規制緩和・競争主義を是とするグループ。(この辺りは昔ながらの区分けとならざるを得ないと思うのだが、他に分け方があるのだろうか?)

しかし、そのどちらかを選ばなければならなくなる(2大政党制)というのは、本当に正しい姿なのだろうか?

昔、自民党と社会党は共依存の関係にあったと言われる。
労使関係がそのまま自民党と社会党に分かれ、その共存こそが55年体制の本質でもあったわけだ。そういったぬるま湯の中で日本は戦後民主主義の名の下に経済中心主義の政策を取り、親方日の丸の護送船団方式、波風立てない対外的な融和主義、官民癒着、箱物行政・談合、等等、様々な問題を抱えながらもそれを是としてやってきたのである。憲法についても、自衛隊という明らかな軍隊の存在をどのように位置づけるのかというのは、国防上の重要な問題であるにも関わらず、戦後民主主義の立場はそれを「あいまいに」やり過ごしてきた。

近年、僕ら国民自身がそれらの問題を改善すべき問題として捉え、その改革を政府に求めるようになった。またグローバルスタンダードな考え方が、どっちつかずの、あいまいな立場への立脚を認めなくなり、それが盲信的な妥当として人々の共通認識となってしまった。そして、ここ数年、小泉、安部内閣になり、構造改革を旗印として、これまでの戦後民主主義的な国家の形(安部首相、曰く、「戦後レジーム」)が急速に変えられてきたことも事実。その中には上記に挙げたような様々な問題へのカウンターメジャーとして有効なものもあったし、それらはグローバルスタンダード(アメリカンスタンダード)の流れに確実にフィットしてきた。

これまでの戦後民主主義的な大きな政府としての機能から、近年、確実に小さな政府を志向する構造改革が進められてきている。政治だけでなく、社会全体が急速に能力主義、競争主義を当たり前のように受け入れ、その結果、格差(特に希望格差)の問題が新しい社会タームとして生まれてきたのだ。この小さい政府への志向が否応なく生み出す競争社会と格差の問題は僕らが思う以上にこれからの社会の中で重要な問題となっていくであろう。

小泉、安部内閣が推し進めてきた政策は、実のところ、この国のかたちを必然的に規定してしまうような重要な政治的志向を含んでいた。しかし、それは本当に国民的が合意が得られた上での選択だったのだろうか?たぶん、その性急的な流れに社会が戸惑い始めたのだろう。
「ちょ、ちょっと、待ってくれ」 それが今回の参議院選挙の結果なのだと思う。
(憲法や戦後レジームの問題がすっかりと消えて、年金や政治と金などという瑣末な問題に対する安部政権への信任が争点となったこと、それは誰が誘導したのか? ここで言う社会とは、官庁やマスコミ、各種団体という本来的に世論を誘導できる立場の人々のことかもしれない)

何れにしろ、政党政治のあり方の中に、しっかりとした国家ビジョンの明確化は必要であり、その上での2大政党制への移行があると思うのだが、そのどちらかを完全に択一するのではなく、政府運営のあり方にもある程度の日本的な融和があるべきというのが理想だと思うが、どうだろうか?(都合よすぎるか。。。)

by onomichi1969 | 2007-07-30 00:43 | 時事 | Trackback | Comments(0)

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2007年 07月 14日

「年金未払い」って政治問題なのだろうか?
よく分からないがこれが政争に関わる問題とはとても思えない。

今回の参議院選挙の争点って何だろう?
少し調べてみると、

憲法改正、教育、年金、消費税、そして政権交替(安倍内閣の国会運営の是非)
ということらしい。

う~む、どれも重要な問題のようだ。

自民党と民主党で意見が真っ向からぶつかっているとなれば、二者択一で選択のしようがあるが、これら多くの争点に対して、3つの項目は自民だけど、あとの2つは民主党、、、
となったら、やっぱり自民党を選ぶべきなのだろうか?

でも、それらは結局のところ将来ビジョンとしてのいわゆる

小さな政府と大きな政府の問題
国防に対する基本的な考え方=憲法改正

につながるのだろう。
(もちろん国防以外での参政や共同社会幻想としての「僕らの」憲法という位置づけにおける改憲というのもある)

いやいや、選挙はやっぱり人で選ばなきゃ、人柄だよ。

なんて人もまだいるだろうね。

ところで、
最近、『希望格差社会』という本を読んでとても考えさせられたのであるが、

今の世の中で本来的な格差を生み出している元凶が「希望の喪失」であり、
「希望」が社会の中で生きていく僕らの本当の糧であるとしたら、
それを如何にして取り戻すことができるのであろうか?

ヨーロッパにおけるキリスト教、日本における仏教(鎮魂技術)、共産主義、戦後民主主義(護送船団方式、教育パイプライン方式、年功序列)

これらのシステムが社会的に支持されたのは、人々の現世における希望、或いは死後の世界における希望を掬い取ることによって、人々に生きることの満足と平等感を与えてくれたからである。例えば、現世でつらいことが多くあったとしても、教義を守り、信心さえあれば来世での暮らしが保証される、ということ。

もちろん、現代のアメリカン・スタンダードとも言われるオートマティックな資本主義社会システムはこれらの考え方を完全に稀釈する。

これが格差社会である。

余談だけど、、、
科学が希望の時代もあったが、それも今や万能ではない。
神(=ロゴス)が死んだとき、科学への信頼(完全性、確定性)も同時になくなってしまったのである。

僕の中で、いまや社会における格差と希望のあり方が将来における政治的選択の最大関心事項となっている。(あとは環境問題だけど、これはまた別の話)

憲法改正、教育、年金、消費税、そして政権交替

今後進むであろう希望格差拡大と少子化の問題にこれらのタームは密接に関わる。

久々に選挙に関心をもってみようかな、と思った。

by onomichi1969 | 2007-07-14 23:23 | 時事 | Trackback | Comments(0)

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