Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 柄谷行人 『探究Ⅰ』 その他 semスキン用のアイコン02

  

2009年 05月 14日

a0035172_155535.jpg最近、「カツキ」さんという方から僕のレビューに批判的なコメントがありました。その骨子として彼の言葉をそのまま引けば、

「あなたは、本当はたいして中身のない文章を、このような(難しい)言葉を使って、知的で高尚なものに見せかけているだけです。もし、そうではないというならば、何も調べずに、今すぐ「三島由紀夫」「ドストエフスキー」「ヘーゲル」「マルクス」について、語ってください。これらがあなたにとって一般的ならば可能でしょう」
「僕がいいたかったのは、onomichiさんのレビューは(独りよがりの)ゲーム、遊びで済まされないということです」

ということのようです。(抜粋は誤解の元かもしれませんので、気になる人はコメント欄を参照下さい)

僕はコメントを読んで、おそらくこの方は内田樹先生が『下流社会』で克明に描いた即物的な価値を信憑する若者、つまり、あらゆる行為に常に等価交換的な見返りを求めるような現代的な考え方の人なのかなとイメージしました。そういうキャラクターの人々が現代を担いつつある事実を僕は何度か映画その他のレビューで言及してきたつもりです。

僕の中で、三島由紀夫やドストエフスキーという固有名詞をレビューに引用するのはわりと自然な行為なのですが、それはおそらく僕自身が彼らの小説を好んで読んでいるからというよりも、彼らがよく引用されている文芸評論(例えば笠井潔や竹田青嗣の本)に慣れ親しんでいることの方が多く影響しているのだろうと思います。実際のところ、レビュー対象に関連する著者、著書を引用することによって、作品及びレビューをより汎用なものにできるだろうという意図を持っています。僕のレビューが対象作品を深く知る為の既存のナレッジにつながるささやかな道しるべ(はてなキーワードみたいなもの?)になればという思いもあります。
幸いにして、三島由紀夫やドストエフスキーは彼らの著書だけではなく、その評論の類がインターネットでもデータベースとして蓄積されており、それらを参照することで多少なりともその考え方に触れることができます。調べないで語れることだけが一般的な言葉或いは概念とは思いません。そのことが容易に参照でき、調べられる状態にあるということが「一般的」なことだと僕は思います。誰もが調べられる手だてを持っているのですから。

しかし、「カツキ」さんは違うようです。最初のコメントでは、「あ~、内容が分かりにくいのかな、でもそんなことを批判されても困るなぁ」と思いながらも、その意図するところがよく分からなかったのですが、彼にとっては三島由紀夫やドストエフスキーの「名前」(キーワード)すらも彼にとって一般的でないが為の拒否の対象であったようなのです。そうであれば、ヘーゲルやマルクスの名前などは卒倒ものだったのでしょう。
そこで彼は、そのような難しい人たちの名前など出さないでもレビューすることは可能でしょうと言うわけです。もちろん、確かにそれは可能です。(そんなことは当たり前ですよね)
内田樹先生は以前ブログか何かでこのような輩は無視するに限るとおっしゃっていました。先生は新聞等の論評において彼なりの哲学用語を普通に使うと、「そういった難しい言葉は理解されませんので、使わないで下さい」と新聞が度々チェックを入れることに対して、その考え方を叱責します。読むという行為は決して等価交換ではないのだと。
以前、『下流社会』のレビューの中で僕は以下のように書きました。

実は「学び」や「労働」その過程にこそ価値があり、それらに時間を費やすことはある種の「投企」であり「自己の跳躍」であると考えられるのだが、即物的な(無時間的な)価値を信憑する若者はそこに「不快」という「耐え難さ」しか見出せず、「努力」という時間経過を認めて、自ら「跳躍」することができない。

「カツキ」さんもおそらくそのような人なのだろうと僕は思いました。だから、敢えて「分からない言葉があったら調べてみればいかがでしょうか?」と申し上げたわけです。しかし、彼はまた僕の側からは全く無価値な「等価交換」を求めてきます。

「等価交換」という概念はそもそもマルクスのいう「(商品の)価値というのは前もって内在するのではなく、交換された結果として与えられる」という考え方に源流があるとも思えます。マルクスは、デカルトやカントから始められた内省を原理として人間の理性や社会のあり方とその理想を精神の現象学というタームによって構築したヘーゲルの哲学をベースとし、より現実的な人間の幸福のあり方として「社会主義」的経済を唱えたわけです。そのマルクスの最も基本的な概念として「等価交換」がありますが、そこには交換を行う為の「命がけの跳躍」ということがよく言われるのです。

連合赤軍事件の当事者の若者達は全て「マルクス主義者」でした。彼らのマルクス理解こそは「薄っぺらな切実さ」というべきものです。(当人にとって切実なものでも、それがその実際に起こった結果の由来としては全くもって浅い考え方にすぎない場合もあるのです) それは僕には「カツキ」さんの無時間的、等価交換的な価値の信じ方と通底しているように思えます。彼らはコンビニで物を買うように常に行為に対する見返りを無条件に求めます。完全なる消費主体として、理解できないことはそれを与える側の無価値を意味すると信じるようなのです。
そんな若者達だからこそ、短絡的な論理により、連合赤軍事件やよど号ハイジャック事件を起こしえたと言えないでしょうか。

それは「テロルの論理」にも繋がります。
「テロルの論理」とは、「テロル」の「論理」です。「テロル」とは、殺害などのあらゆる暴力的手段の行使、またはそれを教唆することによって、政治的に対立するものを威嚇することです。「テロルの論理」とは、「その」論理です。1848年革命やパリコミューンという19世紀の革命行動の中で、「テロルの論理」は、プロレタリアートの実践的運動の為だけに構築されます。革命という観念の中では、「自己の生命と引き換えに思想的表出を貫徹すること」が、「自己の生命を賭して革命を樹立するためには、ある種の生命の犠牲は止むを得ない」という倒錯の論理を生み出したわけです。これは自分の理解を他人にも要求する短絡的等価交換そのものと言えないでしょうか。

さて、話を変えます。
実は、ここまで書いて、僕はハタと気がつきました。「カツキ」さんの冒頭の言葉、「あなたは、本当はたいして中身のない文章を、このような(難しい)言葉を使って、知的で高尚なものに見せかけているだけです」というのは、どこかで聞いたことがあると。

それは、内省から精神現象学を構築したヘーゲルや内省のみで小説を貫通した「地下室の住人」ドストエフスキーの批判者であり、ポストモダン思想の理論的支柱ともなったウィトゲンシュタインという哲学者が言っていたことに呼応します。
ウィトゲンシュタインと言えば、「知的で高尚なものに見せかけているだけ」の従来の論理哲学を否定し、哲学界に大きなパラダイムシフトを強いた、言語ゲームという概念を唱えた人ですが、言語ゲームの本質こそがそもそも根拠を持たない言葉(全ては疑い得るというデカルト的懐疑ですね)の意味の違いを突き合わせるという(結論の出ない)不毛な議論を回避するための社会科学的なアイディアだったのだと僕は思っていました。

ちなみに言語ゲームとは、、、インターネットで調べてみると、

言葉とは、客観的な根拠によって成りたっておらず
「伝統的文化的に決められた生活様式というルール」
を根拠として述べているにすぎない。
このことを ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と表現した。

「僕は人間である」という一見正しそうな言葉でさえ、
客観的な根拠を持たず、それを「正しい」としているのは、
文化的伝統的なルール、つまり「決め付け」である。

だから、ある言葉の根拠を示そうとして、
いくら言葉を尽くそうとも、その説明のための言葉すら、
根拠のないルールをもとに述べられているにすぎない。

そうすると、言葉を使って論理的に何かを述べたと思っていても、
その正しさの根拠は、結局のところ「決め付け」によるものである。
自分自身で決めたルールのなかで、
自分自身を正しいとしているのだから
つまるところ「論理」というものは、すべて「自作自演」なのだ。

「哲学的な何か、あと科学とか」より http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/ronri2.html


しかし、ウィトゲンシュタイン論『探究Ⅰ』の作者、柄谷行人によれば、言語ゲームこそ、共通の規則(コード)<ここではルール>を持たない他者とのコミュニケーションというものを一般化せざるを得ない、つまり異質な言語ゲーム間(言葉が違う共同体間)のコミュニケーションを浮き上がらせる契機となるような新しい概念なのだというのです。

なるほど、論理とは他者の不在、つまり独我論(モノローグ)の範疇に絡めとられるのだと述べられます。だから全てはゲームなのだと。柄谷行人は、『探究Ⅰ』において、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム間のやりとりの中にこそ他者の他者性を見出します。言葉が通わないところに起こる本来的な邂逅、対話、交通の可能性こそが重要(な外部)なのだと言うわけです。

そこでまたハタと気がついたのです。なんと、「カツキ」さんのような批判者こそが僕にとっての他者なのでないかと思ったわけです。
実は、柄谷行人の『探究Ⅰ』は僕が大学時代に読んだ本なのですが、当時はその本の半分も理解できず、理解したと思った半分も殆どの言葉、文章が僕にとって切実に響かなかったのです。それは多分、その当時、柄谷行人と対立する考え方を持っていた竹田青嗣や加藤典洋に共感していたからだと思いますが。
しかし、最近になって、夏目漱石の長編小説をひと通り通読し、その流れで柄谷行人の初期の文芸評論を読むようになって、初めて彼の考え方が少しは身に染むようになったのです。

そんな中に僕にとっての現実的な他者が現れ、ようやくその意味の一端が身体化されたような気がします。

ウィトゲンシュタインは、彼の大著『哲学探究』を執筆する前に何年か小学校の教員となり、教育に熱中し、小学生の辞書を作ったりしたそうです。彼はその中で、言語ゲームというタームを編み出します。小学生は彼にとっての十分な他者だったわけですから、そこでのコミュニケーションの実践が、彼に言語ゲームという新しい概念を創出させる契機となったことは疑いありません。

さて、僕は、これまで柄谷行人の言うような「独我論」的な立場に自らの身を安住させていたのかもしれません。これまで他者は常に自分の中にいましたから。しかし、今、目の前の現実的な他者に対して、僕はどのような言葉も持ちえないのでしょうか。

80年代前半にデヴィッド・ボウイは、『スケアリー・モンスターズ』から『レッツ・ダンス』という一連のアルバムによって、これまでの前衛的なスタイルをシンプルで分かりやすいポップへと変遷させていきます。(レビュー参照!) 彼が迷いの末に勇気をもって大衆化への道を決断し、迷宮に入り込んだように、(F.F.コッポラもそうかもしれない) 僕は他者によって、何らかの変化を及ぼされるのでしょうか。。。残念ながら、僕は哲学者でも芸術家でも何でもありません。単なる一個人なのです。今はただそこにある理解しがたさというものをただ見つめることしかできないようです。
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by onomichi1969 | 2009-05-14 01:03 | | Trackback | Comments(21)

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Commented by カツキ at 2009-05-15 00:35 x
こんばんわ。
上のonomichiさんの文章を読んで、自ら墓穴を掘るようなことを書いている、という印象を受けました。今から、そのコメントをしたいのですが、これから、大学の課題があります。だから、次のコメントは2〜3日後になると思います。けれど、これ以上長引かせないので安心してください。それで、一つ頼んでおきたいことがあるのですが、上の文章を書き直さないでください。これを参考に次のコメントを書くので、その点はお願いします。


Commented by カツキ at 2009-05-15 00:39 x
ただ、まだ時間があるので、少し書いておきます。今、僕は23歳です。その僕が今までに読んだ本と観た映画は多く見積もっても、本400冊、映画300本程度です。本は、大学に入ってから、年間100冊くらいしか読んでません。ドストエフスキーと三島由紀夫の著書では、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『地下室の書記』『貧しき人びと』『金閣寺』『仮面の告白』『命売ります』しか読んでいないので、あなたのように「彼らの小説を好んで読んでいる」とはとても言えません。もちろん、彼らについて何かを語るということはできません。
Commented by カツキ at 2009-05-16 01:14 x
ちなみに僕は「語れる」ということが「分かっている」ということだと思います。僕は前回のコメントで「すぐに」ヘーゲルやマルクスについて説明してください、と言いました。つまり、あなたが何も当てにせず、どれだけそれらを「語れる」か、「分かっている」のかを知りたかったのです。当然、あらかじめ「分かっている」ものを飾り立てるために、それに何かで調べた情報を加えても構わないと思います。けれど、今回知りたかったのは、あなたが、ヘーゲルやマルクスについて、本当にどれだけ「分かっている」かです。もしも、上の文章が、あなたの本当に「分かっている」知識だけで書かれたものなら、もう、これ以上、ヘーゲルとマルクスの件に関しては何もいいません。
最後に一つだけ付け加えておきますが、一度、あんたの『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』のレビューをあなたの知人10人くらいに読ませてみてはいかがでしょうか?
では、次のコメントで最後にします。おやすみなさい。

Commented by カツキ at 2009-05-17 17:45 x
こんにちわ。
なかなか時間がとれないのですが、少しコメントします。
まず、僕の趣味の一つに絵画鑑賞があります。当たり前のことですが、絵画を観るという作業を繰り返すと、次第に作品の良し悪しが分かるようになってきます。それは、読書においても同じことだと思います。あまり本を読んでませんが、それでもonomichiさんのレビューを読んで、「これは質の低い文章だ」と感じました。
Commented by カツキ at 2009-05-17 17:46 x
次に「薄っぺらな切実」についてですが、上のあなたの文章から、その意味は「当人にとって切実なものでも、それがその実際に起こった結果の由来としては全くもって浅い考え方にすぎない場合もあるのです」ということになるのでしょうか?もしそうならば、あなたは、自分の誤った主張を正当化するために、言葉の意味を作り替え過ぎです。これでは、僕に限らず、誰も納得してくれませんよ。ちなみに、ある方の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』の批評を参考にしていうならば、連合赤軍の若者たちの切実さは決して「薄っぺらな」ものではなかったのです。答えは「切実」ではなく「知性」です。つまり、薄っぺらな知性です。念のためにいっておきますが、切実と知性は全く意味が違います。
最後に、僕は、もうすぐ芥川龍之介と夏目漱石の全集を読み終わります。そうしたら、次はonomichiさんの紹介している本を読んでみたいと考えてます。では、またコメントします。さようなら。
Commented by onomichi1969 at 2009-05-17 19:55
カツキさん、こんばんは。
僕が墓穴を掘っているという論拠をはやくコメントして下さい。人には「すぐに」書けと言っておきながら、失礼ではないですか?上のコメントの言葉使いもかなり失礼だと思いますけど。(ちゃんと推敲しているのでしょうか?)
あなたが知性ある立派な方というのは自己紹介で分かりましたが、人に「ヘーゲル」と「マルクス」について語れ、などとまるで大学の課題のように命令しておいて、その返答がこれだけですか? あなたはいったい何様なのでしょう? なんなら、あなたもドストエフスキーについて書いてください。『地下室の手記』あたりでどうでしょう。言葉とは何か、私とは何か、世界とは何か、生活とは何か、それだけ多くの文学に慣れ親しみ、自慢するほどの批評眼を持っていればいくらでも書けるでしょう。また、そういうタームに興味があるからこそ彼らの小説を読むのですよね。その態度は素晴らしいと思いますよ。
但し、長いやつはここで書かれても迷惑ですので、自分のブログで書いてください。リンクぐらいは貼りますので。
Commented by onomichi1969 at 2009-05-17 19:55
とにかく、、、拙ブログにもささやかな読者の方がいらっしゃいます。皆さんが「なるほど」と思うような有意義なコメントをお願いします。そうでなければ、ここでぐだぐだ言っているよりも、自分のお勉強をするか、柄谷行人や加藤典洋、三浦雅士の文芸批評でもじっくり読んでみて下さい。夏目漱石の理解にとても役立ちますよ。
Commented by onomichi1969 at 2009-05-17 19:56
「薄っぺらな知性」と「薄っぺらな切実さ」というのは違います。「切実さ」というものを言葉であなたに説明するのは、また堂々巡りになりそうで嫌なのですが、「生きる根拠」と言ってもいいものです。誤解を恐れずに言えば「生きる意味」にもなります。それは柄谷行人が批判するある種の「意味の病」かもしれませんが、そういう批判も含めて、僕はこれまで時代遅れともいえるようなこういった「切実さ」を作品から掬うことをレビューの主眼としてきました。(僕の批判をするのであれば、本来ここが論点です。ここにこそ論議の多様さがあるはずなのです) このように書くと「切実さ」そのものの意味をまた論われそうですが、もし、それが分かりにくかったのなら、「はぁ、そうですか、すいません」としか言いようがありません。「僕に限らず、誰も納得してくれませんよ」と言われても、大きなお世話です。
Commented by onomichi1969 at 2009-05-17 19:56
僕がレビューで言いたいことは「知性」ではないのです。あなたが参考にしたどなたかのレビューではその文脈の中で「薄っぺらな知性」という言葉を使われたかもしれませんが、それは僕の言葉、文脈ではありません。あなたも「答え」を言うのであれば、せめて自分の文脈を論拠としてください。批評の言葉は国語のテストではないのです。
「「これは質の低い文章だ」と感じました。」などという質の低いコメントも願い下げです。論拠を明らかにしてください。

上のレビューで「言語ゲーム」という概念を引用しましたが、もう一度よーく読んでみてください。世界(自己)を表現するために言葉があるのではなく、言葉が世界(自己)を構築するのです。世界(自己)が複雑である以上、そのルールは多様であるべきだと僕は思います。
Commented by カツキ at 2009-05-18 17:18 x
こんにちわ。
あなたが墓穴を掘ってるという論拠(論拠というほど大層なものではありませんが)は、上のコメントで大体は説明したつもりです。onomichiさんの上のレビューでの、「薄っぺらな切実」の意味の説明では、僕に限らず他の人も納得しないでしょう。辞書的な意味を無視するのは構いませんが、それにも限度があるでしょう。前に提案しましたが、一度あなたの知人10人ほどに、あなたの『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』のレビューを読ませてみてはいかがですか?もしかしたら、僕側に否があるかもしれませんよ。
僕も早く最後のコメントがしたいですが、今は大学のことで、本当に疲れてます。しかし、今までのコメントで、雑ではありますが、書きたいことはほどほどに書いたつもりです。

Commented by カツキ at 2009-05-18 17:20 x
昨日のあなたのコメントを読んだら、あまりにもいい加減なことが書いてあったので、それらを指摘していきます。「人には「すぐに」書けと言っておきながら、失礼ではないですか?」とありますが、あなたは、僕の質問に対して、答えもしなかったのですから、あなたも人のことはいえないでしょう。「上のコメントの言葉使いもかなり失礼だと思いますけど。」とありますが、あなたも随分と失礼なことを書いてますよ。「あなたが知性ある立派な方」とありますが、僕の頭は良くないですよ。読書量が年間100冊というのは、本当に少ないですしね。 「なんなら、あなたもドストエフスキーについて書いてください。『地下室の手記』あたりでどうでしょう。」とありますが、僕は上のコメントで「もちろん、彼ら(ドストエフスキーと三島由紀夫)について何かを語るということはできません。」と書きました。あなたこそ人のコメントを「もう一度よーく読んでみてください」(これは失礼な言葉遣いと思いますが)。僕がいいたかったのは、「分かっているつもり」でしかない言葉を、多用するのは恥ずかしくありませんかということです。けれど、見栄を張るのも大切なことと思います。

Commented by カツキ at 2009-05-18 17:20 x
「自慢するほどの批評眼を持っていればいくらでも書けるでしょう。」とありますが、自慢したつもりはありません。そもそも自慢になりません。「あなたも「答え」を言うのであれば、せめて自分の文脈を論拠としてください。」とありますが、あなたのレビューこそ、ほとんど他人の言葉を並べているだけじゃないですか。
Commented by カツキ at 2009-05-18 17:23 x
では、また、あとでコメントします。さようなら。
Commented by onomichi1969 at 2009-05-18 20:28
カツキさん
上の記事は僕があなたの為に書いたものです。いろんな論点を込めて書いたつもりですが、期待しすぎてしまったようですね。もっと、本質的なやりとりができるのかなと思っていました。
結局のところ、こういった不毛な議論になってしまうのは致し方ないと思いますが、少し残念です。そういう議論を避ける為に書いたつもりなのですが、どうも至らなかったようです。
Commented by onomichi1969 at 2009-05-18 20:37
言葉とは基本的に他人のものです。「分かっているつもり」でしかない言葉を多用するのが文章というものです。だから答えなんてそもそもないのだと思います。それでも僕らは文章を紡ぐという欲求に抗えず、他人のものでしかない言葉を並べることによって、自分の文脈を作り上げるのです。それは何故でしょう?(僕にも分かりません)
分かってるとか分かってないとか、語れるとか語れないとか、そんな基準なんてそもそもないという、、、それが言語ゲームなのです。

それでも、僕はあえて言語ゲームの罠に嵌りつつ、自分なりに反論をしてみましたが、そのことに無自覚な人には到底敵いません。堂々と「分かってない」ということを根拠として反論しながら、その根拠に無自覚なのですから、降参です。いい経験になりました。
というわけで、こちらとしても反論するのが空しいし、これ以上の徒労はしたくありません。最後のコメントとやらをはやくお願いしますね。
Commented by onomichi1969 at 2009-05-18 20:43
ちなみに僕が言葉遣いで失礼だと言ったのは、あなたが僕のことを「あんた」呼ばわりしたことです。だからちゃんと推敲しているのでしょうか、と書いたのです。それ以外の言い回しではありませんよ。
Commented by カツキ at 2009-05-18 21:37 x
あれは打ち間違えですよ。それほどあなたに不快感を与えたのなら謝ります。すみません。けど、あなたが失礼な言い回しをしたことに変わりないのですけれどね。
Commented by カツキ at 2009-05-18 21:57 x
なぜ、onomichiさんはもっと普通の文章を書いてくれないのでしょうか?このようなことをいうと、「普通とは何ですか」といった言葉が返ってきそうですね。一体、普段のあなたはどのような人たちと付き合っているのでしょうかね。
「言葉とは基本的に他人のものです。「分かっているつもり」でしかない言葉を多用するのが文章というものです。だから答えなんてそもそもないのだと思います。」とありますが、要するにあなたは「テロル」、「ヘーゲル」、「マルクス」、「ドストエフスキー」「三島由紀夫」、「心理学」について、分かっているつもりだったのでしょうか?「いろんな論点を込めて書いたつもりですが、期待しすぎてしまったようですね。」とありますが、はっきりいって、上のレビューの返事をするのは、面倒ですよ。そもそも論点を増やし過ぎでしょう。このようなことをしたら、ますます話が終わりに向かっていかなくなりますよね。これはどう考えても賢い人のすることではないですよ。

Commented by カツキ at 2009-05-18 21:58 x
さっきから繰り返していますが、もういいたいことの大体は上に書きました。しかし、論点が多いので、丁寧に答えるのは後日になります。あなたも普段は仕事が忙しいでしょうし、いつもこのコメントのことを考えているわけではないでしょう。それなら、少しぐらい待てますよね。もし時間があるのなら、僕以外の人に「薄っぺらな切実」のことなどについて、論議してみてはどうでしょう。
Commented by カツキ at 2009-05-18 22:12 x
一つ付け加えておきます。「分かってるとか分かってないとか、語れるとか語れないとか、そんな基準なんてそもそもないという、、、それが言語ゲームなのです。」とありますが、では、ある程度分かっていることを語るというただの論議をしませんか?

Commented by onomichi1969 at 2009-05-18 22:28
カツキさん
もうしわけないけど、僕はあなたと最初から論議などしたくなかったのですよ。最初に言いましたけど。。。
あなたが心配してくれるように僕もそれほど暇ではないのです。
もう、コメントも入りませんので、あとはご自分のお勉強に時間を費やしたらいかがですか?結局のところあなたのいいたいことに対する僕の意見を一言で言えば、、、「大きなお世話です」
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