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semスキン用のアイコン01 曽野綾子 『ある神話の背景』 ~沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実 semスキン用のアイコン02

  

2007年 05月 15日

a0035172_1183361.jpg1973年に上梓されたノンフィクション。原題を『ある神話の背景』といい、当時通説となっていた沖縄戦の渡嘉敷島で起きたとされる軍命による集団自決を検証し、実際にはそのような命令がなかったことを住民や島に駐屯した旧隊員らの証言によって明らかにしたルポタージュである。長らく絶版になっていたが、1年程前に『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』という題名で復刻した。そこには、大江健三郎の『沖縄ノート』等の記載をめぐる現在進行中の裁判が政治的に関係していることは容易に想像がつくが、とりあえずこの名作が改めて日の目をみたことは単純に喜ばしい。

最近、教科書からも「旧日本軍の命令による集団自決」という言葉はなくなりつつあるようで、現状の歴史認識からすると、これまで集団自決の犯人とされていた、当時、渡嘉敷島に駐屯していた海上挺進戦隊は、自決を強制するような命令を出してはおらず、逆に島民に自決せずに生きることを説いていたということが事実のようである。実際のところ、一箇所に避難していた300名程の島民は、未だ見た事のない鬼畜米軍がいよいよ大挙上陸したという情報と迫撃砲の被弾によってパニックに陥り、また「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓にあまりに忠実であったが故に自らの命を失することになる。(島の人間は本土以上に天皇陛下に対する忠誠が厚かったという) しかし、戦後、遺族が遺族年金や弔慰金を国から支給されるためには自決した人々が準軍属扱いでなければならず、その為にこそ「軍の自決命令」が必要であった。そこで島民らは当時の駐屯隊の隊長であった赤松大尉に頼み、「軍命」であったことを了解してもらった経緯が今となっては明らかになっている。そういった経緯の中で「軍命」だったという虚偽の証言のみが一人歩きし、まともな裏付け調査もなく当時のマスコミがその風説そのものを記事にしたことが「軍命による島民の集団自決説」の発端であった。そこには当時の日本軍を悪者にすることによって、事態を分かりやすいものとしたい、自分達の何かを貶めることによって、逆に自らの正義感を満足させたいというある種の正しさに対する捩れた欲求が我々日本人の中にあったことも否めない。この記事が広く流布し、多くの歴史書に引用されたことにより、赤松氏を始めとする当時の駐屯隊及びその家族がそれを信じた一般の人々にひどい中傷を受け、肩身の狭い生活を強いられたという。

今となっては実際のところその時に何があったのかはもう誰にも分からない。様々な証言があり、それらに基づいたいくつかの事実は遡及可能であるが、「真実」というものはもう誰にも一元化できないのである。それはこの問題に限らず、「南京事件」にしても、「慰安婦」や「強制連行」の問題についても同様だろう。僕らはそれらの現実をそのまま受け止めて、決して単純化せず、全てを有り得ることとして、常識的に理解すること以外にできることはない。

ただ、この本をここで取り上げたのは上記のような(今やイデオロギー的な言説を伴ってしまうような)一般論を言うためではない。
僕がこの本の中で最も衝撃を受けたのは、「人は愛するものを、その愛するが故に、自らの手で殺すことができる」という事実である。これは疑問形ではない。それは「集団自決」の実際を体験した当時16歳の少年による以下のような証言である。

「弱い老人婦女子を残して死んでいく非人情な者は一人もいなかった。父親や男の若者達は、自分の手で肉親や身内の者の命を断ち、その死を自分の目で見とどけてから、死んでいく。このようにして死は一番愛する者、かわいい者から始められたのである。私は兄と二人で母や弟妹達の命を自分達の手で断った時、生まれて始めて悲しみの余り号泣した」
その後、少年は敵軍への切り込みと惨殺を目的に自らの死を一旦保留し、集団自決の場所から敵軍迎撃の為に移動するが、そこで本来ならばいないはずの(彼にとっては死んだと思われた)大多数の島民に出会い、ショックを受ける。しかし、彼の肉親はその中にいなかった。何故ならば、彼自らの手によって、最も愛するものを最も速やかに最も徹底的に殺したからである。

この少年はその後地獄の苦しみの中でキリスト教と出会い、牧師となって伝道の道に入る。彼はそれでも生きることを選択するのである。僕らはその異常な情景を想像して言葉を失うだろう。その状況は僕らの現実的な想像力をはるかに超えている。しかし、それは現実として起こりえる、そういうことを僕らに伝える。生を超えた死の肯定がそこにはある。そして、それはまた逆転し、死は否定され、ただ生のみが残る。現代の価値観を基準として、僕らに何が糾弾できるのだろうか。そして僕らはそこからどんな教訓を得ることができるというのだろうか。想像力を超えた出来事に対して、ある種の断定を禁じ、ただものごとを理解する、そういった理解の仕方でしか僕らはそのものごとに接することができないのだろう。

ナショナリズムとは別の次元において、この本は文学的に訴えるものが確実にある。言葉を失うという体験が伝えるもの。その重み。それはただ理解するしかない質のものである。

AERAの記事に関するエントリィ
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by onomichi1969 | 2007-05-15 00:37 | | Trackback | Comments(16)

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Commented by けらま at 2007-09-30 22:37 x
どうして、本の中でしか語られないことを信じられるのですか。私の親戚たちは日本軍から手榴弾を手渡された時の恐怖の話をしてくれました。本の向こうのルポタージュのどれほどが真実でしょう?まだ、沖縄には体験者が生きています。
>海上挺進戦隊は、自決を強制するような命令を出してはおらず、逆に島民に自決せずに生きることを説いていたということが事実のようである。
なんて悲しいことを言わないでください沖縄ではまだ怒りも悲しみも生きているんです。
遺族年金?生き抜いたおばぁたちを侮辱しないで。
Commented by onomichi1969 at 2007-10-02 00:52
コメント有難うございます。ご意見ごもっとも。特に反論はありませんが、だからと言って、僕の考え方は変わりませんし、エントリィの内容を変えるつもりも毛頭ありません。
記事の中にも書きましたが、この問題に対して、いくつかの事実が遡及可能とはいえ、真実は既に一元化できないと思います。また、今、この問題の真実を追究することにどれほどの意味があるのかとも感じます。戦争とは、歴史であるとともに、歴史の喪失でもあります。世に様々な戦争を描いた物語<戦場、戦後含めて>がありますが、本来そこには戦争に関わった人々の数だけのナラティブがあり、その多くは既に失われているということを僕らは知るべきなのでしょう。
あなたの親戚たちの物語があるのと同じように赤松元大尉の物語もあることは理解して頂けると思います。その証言は確かに対立しています。そして、そのどちらが正しいか、真実かを僕らが言い当てることはできないし、どちらかが嘘をついているということを暴き立てることにどれほどの意味があるのか、ということです。
Commented by onomichi1969 at 2007-10-02 00:53
(前よりつづき)今の教科書の記述変更の問題は、そのどちらが正しいという判断を保留したということですね。それは間違ったことなのでしょうか。
本問題は現在も裁判で争われていますが、それは多分に政治的意味合いが強いものです。僕は正直いってそういったイデオロギー的なものに関心がないし、そもそもどちらが正しくあるべきかといったような考え方に与しません。それはとても不毛な議論だと思うのです。
Commented by onomichi1969 at 2007-10-02 01:06
(最後に)『ある神話の背景』は、とても読み応えのあるルポタージュです。ここには真実があるのではなく、真実の究明が如何に困難であるか、これまで通説とされていた赤松隊の集団自決命令という史実が如何に裏づけのないものであったかを克明に記しているのです。敢えて言えば、この問題を軍命の為に起こった悲惨な事件という分かりやすい物語に還元すべきではなく、(その多くは失われているとはいえ)そこには様々な要因があり、それが戦争という狂気によって引き起こされていることを直視することが反戦への意思の為にも必要だと説いていると僕は感じました。全ての悪を日本軍というものに押しつけるのではなく(この場合は赤松隊とその家族の方々ということになるけど)、日本人が日本国民の責任としてこの問題を受け止めたときこそ、戦争の本質(その悪の本質)が見えてくるのではないでしょうか。戦争が、そして集団自決という事件がそんなに単純なものだとは僕にはとても思えないのです。
Commented by ですが at 2008-05-29 08:02 x
>沖縄ではまだ怒りも悲しみも生きているんです。
>遺族年金?生き抜いたおばぁたちを侮辱しないで


命令したと一方的に決め付けられた元軍人も生きているし、「生き抜いたおじぃ」なんですよ
Commented by キー坊・オキナワ人 at 2008-05-31 20:24 x
ブログ主さんも、曽野綾子の調子のよい文章に乗せられたようです。
この本で言ってることは、本土人にはとても耳障りが良いと思います。日本人は沖縄人に酷いことをしなかった・・・。嘘つきは沖縄人のほうだ・・・。

曽野綾子が「ある神話の背景」を書いた背景は何か?を考えなくてはなりません。

「援護金をもらう為に、隊長命令を捏造した。」 <

とてもわかり易いような曽野の説明です。が、隊長命令の記述は、援護法が成立する以前から、公式の記述になっていたのです。
あの激戦の中で、住民を一ヶ所に終結させ、手榴弾を大量に配った赤松隊・赤松隊長の所業は、「自決強制」にはならないと言うのでしょうか?
Commented by キー坊・オキナワ人 at 2008-06-04 10:25 x
私の問いに、onomichiさんの答えはないようですね。

当然、隊長の命令が在ったか無かったかも、十分吟味されなければなりません。が、それが無ければ、日本軍及びその指揮官たる隊長に責任無しと言えますか?
集団自決から生き残った金城牧師は、「あの集団死は自発的殺し合いに名を借りた、日本軍国主義による虐殺であった。」と言っているのです。

この本一冊を読んで、貴方が日本人として救われた思いを持ったとしたら、曽野綾子の目論見に共加担して死者を侮辱する事になるのです。
Commented by onomichi1969 at 2008-06-08 22:46
貴方の質問に僕の答えはありません。「言った、言わない」といったような事実認定の議論に何故僕が答えなければならないのか?そういうことに全く意味を感じない僕のような人間にとっては申し訳ないけど不毛な議論です。
僕が言いたいことはエントリィの内容に大体書きました。日本軍国主義が悪いというのは誰も否定していませんし、それこそ当時の日本国民全体、敷衍すれば我々日本人全てが受け継ぐ問題です。だからこそ、問題を日本軍とか軍国主義とかいうタームに矮小化し、責任そのものを個人に押し付けることに疑問を感じるのです。それで日本人は救われた思いになるのでしょうか?虐殺は常に主義によって行われるものですが、それは一体何故なのか?日本軍も殺した人も殺された人も同じ日本人なのですよ。その由来を真剣に考えることの方がよっぽど意味があることだと思います。
AERAの記事に関するエントリィをリンクしておきましたので、そちらもご覧下さい。それ以外に言いたいことはなしです。(これ以上の議論はしません)
Commented by キー坊・オキナワ人 at 2008-06-14 20:49 x
>。(これ以上の議論はしません)

私も、そう言われればこれ以上議論する気は無いですよ。

アエラの記事は読んだ記憶があります。
曽野綾子の本1冊を読み、2・3の雑誌記事等を読んで、うすっぺらなブログ記事を書くような大和人と議論しても仕様がありません。

ただ、曽野綾子の狙いは、貴方のような大和人を増やす事に在ったのです。沖縄人に比べて圧倒的多数派の大和人に、薄っぺらに理解してもらえばよかったのです。貴方みたいな皮相な理解をしてくれる大和(日本)人はかなりの数に登ります。日本社会は所詮多数決だからね。
Commented by onomichi1969 at 2008-06-14 22:20
どこのどなたか分からない人と議論するつもりは全くないのですが。。。僕にとっては貴方のような人こそ「薄っぺらい」んです。貴方の文章こそ透けてみえるほど皮相で悲壮な理解としか僕には写らない。大和人だかオキナワ人だか知らないけど、多数派云々などという無意味なコメントは止めて欲しい。
Commented by キー坊・オキナワ人 at 2008-06-17 09:08 x
「薄っぺらい」なんて、どこの日本語だろう?

>どこのどなたか分からない人と…

え?ブログは誰も、どこの誰だかわからないのじゃないか?
オレは沖縄人と名乗っただけましじゃない?

ああ言えばこう言う、今時日本人の典型。バイ。
Commented by onomichi1969 at 2008-06-17 18:43
だから、、、どこの誰だか分からない相手とのブログでの議論そのものが不毛だと言うのですよ。こんなところで議論なんて出来るわけないでしょ。お互いに言いたいことだけ言って、相手の意見の揚げ足をとるだけ。そもそも理解し合おうという意志もないし。。。ということで、バイ。
Commented by キー坊・オキナワ人 at 2008-06-17 23:09 x
俺も、アンタ見たいな薄っぺら大和人と議論なんかしようと思わなかったさ。

ただな、権力の御用物書き・曽野綾子の本一冊を読んで、分ったかのような傲慢かつ軽薄な文章を書いてる大和人に、むかついただけさ。

書く話題は映画とか音楽に止めなきゃ、手前という人間の薄っぺらさを世の中に披露する事になるよ。
それだけ、「集団自決」について解ったふりして、能書きたれる大和人に、むかついている沖縄人、及び大和人も居るということだよ。
今度こそバイバイ。
Commented by onomichi1969 at 2008-06-17 23:51
ハイハイ。貴方は「集団自決」についてよく知っているでしょうね。まるで見てきたようにね。ただね、重要なのは知っている、或いは判る、能書きをたれるということじゃない。ある種の断定を禁じ、ただものごとを理解する(自分のことのように引き受ける)、そういった理解の仕方でしか僕らはそのものごとに接することができないんじゃないか。。。って、同じことをレビューでも書いたけど、この人は本当に僕の文章を読んでコメントしているのかな?理解力がないだけなのかな?こういうことを書くのも疲れるナ。ホント。
Commented by ウチナーンチュ at 2009-06-10 19:17 x
ほぼ1年前のやりとりですが、今日、読ませて頂きました。
いちウチナーンチュとして。

キー坊・オキナワ人、フリムン、アビランケー。

onomichiさんの主旨に100%賛同します。
真実の一元化、歴史認識の共有という事は現実は無理だとつくづく思います。
例えば、昨日のささいな事も、その渦中にいる5人に聞いたらそれぞれが違う受け取り方をしているし、違う真実があり、誰も嘘は言っていない。

大和人という言葉は、関西人、東北のヒト程度、同列の意味でヤマトゥンチュ、ナイチャーとして日々使うけど、本気で、沖縄人という被害者意識を前提にして使っているウチナーンチュがまだ居る事に塞いでしまう。
なんか、「近隣諸国」の被害者声高々となんら変わらない。

読むんじゃなかった。
Commented by onomichi1969 at 2009-06-14 12:33
ウチナーンチュさん、こんにちは。
1年前のやりとり。自分で読んで悲しくなりました。なかなか難しいものですね。
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