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semスキン用のアイコン01 中田力 『日本古代史を科学する』 semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 01日

中田力 『日本古代史を科学する』_a0035172_1229032.jpg序章【二十一世紀の科学】には感銘を受けた。
世界は、複雑系の科学によってしか解明できない。ニュートン力学のような線形物理学のみでは、もはや世界を明らかにすることはできず、科学は、物理学的な曖昧さや確率論、非線形現象や離散系を受け入れなければならない。結局のところ、初期条件のみでは運動は確定せず、近似や補正なくして、科学は何も決定できないことが科学的に証明されているのである。(ラプラスの悪魔も現代では発狂死してしまうだろう)

科学的アプローチとは何か? 僕自身、エンジニアであり、設計者であることもあり、日頃からそういうことは意識せざるを得ない。科学的アプローチのひとつにリスクアセスメントという手法がある。リスクを点数化するこの方法にとって、前提条件というのはとても重要な事項となる。設計者にとっての設計条件も同様である。設計条件、前提条件をどこから引っ張ってくるのか? 公的な推奨値なのか、テストデータなのか、実績値なのか、安全率はどのくらい見込むのか?

最近、科学の限界故に、その根拠が信用できず、前提の中に絶対的な国民感情とも言うべき非科学性を入れるべきだとする論説がある。実は、そんなことは科学の世界で珍しいことではない。それは往々にして、実際に起きた事故の影響によって付け加えられる。事故が起こり、その後の訴訟等の影響も鑑みて決められた条項、科学者が手を出せない政治的な領域というものはどの分野にもある。(科学的根拠やビジネスを超えて)

それはそれとして、僕らエンジニアは科学的アプローチを手放して前に進むことができないが、アプローチとして適用する科学は、多くの場合、いまだに線形物理学を基本せざるを得ない。現象の複雑系故のばらつきや不確かさを近似し、単純化すること、そして、前提条件を決定する。前提となる公理、公準とそこから導き出される定理、公式から理論を構築し、実証していくというプロセスがあり、前提条件を間違えてしまうと、結果は全て台無しになってしまう。それが数値や安全率の話ならまだいいが、方向性を間違えれば、それは全く取り返しがつかないことになる。前提条件の決定こそは大いなるリスクなのだ。(エンジニアリングの世界でもフロントエンドが最も重要と言いますな)

いささか大げさな話になってしまったが、、、
実は今回取り上げる『日本古代史を科学する』は、邪馬台国の位置や大和朝廷との関連性を科学的に明らかにする試みなのだが、その前提条件が『魏志倭人伝』への絶対的な忠実性なのである。当時の先進国である中国王朝の史書に間違いはない、に違いないという前提。。。これって、そもそも間違っていませんか? (序章はすごく良かったのに。。。)

最近、古代史ブームなのか、同様の本がいくつか新たに出版されている。
八幡和郎著『本当は謎がない「古代史」』、森浩一著『倭人伝を読みなおす』とか。(何故か最近の新書ではどれも邪馬台国九州説!) 松本清張の古代史シリーズでも書いてあったけど、魏志倭人伝の全ての記載を信じることはナンセンスである。どの部分が正しくて、どの部分がいい加減か、それを見極めることが大事であると。倭人伝の記述を中央官史の(お気楽)出張報告とみれば、邪馬台国に到達するまでに掛かった日数は大いに怪しい(滞在旅程を移動日程に付け替えたり、旅程などそもそもクソまじめに報告する必要性などない)と考えるのが妥当だろう。つまり、邪馬台国の位置を倭人伝に記載された陸行や水行の日数で大真面目に推し量るというのはナンセンスである。

それに対し、信用できそうな(虚偽が許されない)のが、方角、現地での習俗や戸数の記載など。
そういったもろもろのことを合理的に考えれば、自ずと邪馬台国が何処にあるのかは決まってくるだろう。倭人伝に記載されている邪馬台国の人々の姿は明らかに南方系(江南地方系)である。邪馬台国には当時、7万余戸の家があったとされ、4人/戸とすれば、20万強の人々が暮らしていたことになる。その周辺(北部)にも多くの国が隣接しており、それだけ多くの人々が安心して共存できる(広く豊かで交通の便がよい)土地は何処にあったのか? 常識的に考えて、そういった場所というのは自ずと決まってくる。

本書の著者は、邪馬台国を宮崎に比定する。(そこでの距離計算はかなり強引でとても科学的とは思えないのだけど。。。) それは確かに大和政権が神武天皇より日向から起こったとされる古事記/日本書紀の記述にあう。邪馬台国と大和王朝は同じであるという考え。邪馬台国は本来「やまと国」と呼んでいたのであり、当て字に惑わされてはいけないのだと。

邪馬台国は東遷して大和の地に移った。著者はそのように言うが、そこにはゲルマン民族大移動なみの10万人単位の移住を想定しなければならない。仮に多くの人々を国元に残してきたのであれば、そういう記載が記紀にあってしかるべきだろう。記紀には、神武東征はごく少人数で行われたとしか書いていない。

邪馬台国と大和朝廷はその繁栄した時期に重なりもあり、全く違う王朝であったとみるのが妥当だと思う。但し、大和朝廷の起源が日向にあったことも記紀の記載から明らかである。邪馬台国は、筑後にあり、隣国の熊本(菊池)にあった狗奴国(狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」に比定され得る)と争っていた。そして、邪馬台国はその地でしばらく繁栄し、滅んだ。高千穂~日向を起源とする大和朝廷の祖先と全く関係ないとは断言できないけど、邪馬台国が国として引き継がれて、大和朝廷になったと考えること自体に無理があるように思う。(だから、邪馬台国は奈良にあったとも思わないけど)

この本で書かれている邪馬台国や奴国の人々が中国の江南地方から山東~朝鮮半島経由で海伝いにやってきたというのは、遺伝学的な根拠もはっきりしているし、おそらく正しいだろう。九州と朝鮮半島は対馬を挟んで近接しており、船で容易に行き来して、朝鮮半島の人々も随時、九州に移住してきたに違いない。元々、朝鮮南部は倭の一部(倭というひとつの国、カルタゴのような地中海国家)だったと見做す歴史家もいる。そこだけは科学的に納得できたかな。

by onomichi1969 | 2012-07-01 19:06 | | Trackback | Comments(0)

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