Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 タグ:80年代ロック ( 68 ) タグの人気記事 semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 Whitney Houston ”Whitney Houston” 『そよ風の贈りもの』(1985) semスキン用のアイコン02

  

2012年 02月 19日

a0035172_12402639.jpgホイットニー・ヒューストン女史が逝去されました。
ご冥福をお祈りします。

ホイットニーは、僕らMTV世代の「ディーバ」でした。
彼女は、1985年、アルバム『そよ風の贈りもの』(原題”Whitney Houston”)からのファーストシングル『そよ風の贈りもの』(”You Give Good Love”)で彗星のごとく現れ、セカンドシングル『すべてをあなたに』”Saving All My Love For You”で早々に全米No.1を獲得します。その後の快進撃は凄まじく、出す曲すべてが全米No.1。結局、ビートルズの6曲連続を超える7曲連続全米No.1という記録は未だに破られていません。絶頂期の彼女は、どんな曲でも全米No.1にしてしまう、No.1製造機。歌が上手いだけで人間的な側面に乏しいとの評価もあり、彼女に対しては、ある種否定的な見方もあったかもしれません。( 斯く言う僕もその一人でした)

しかし、彼女の歌には人を強烈にひきつける魅力が確かにありました。張りのあるメリハリの利いた力強い歌声、全身から迸るソウル、伸びやかな高音、圧倒的な声量、そして、モデルのような体形と美しい顔立ち。彼女は80年代に現れた黒いミューズでした。80年代中期から後期にかけて、彼女以上にディーバの称号が相応しい女性シンガーはいなかったでしょう。

彼女の全盛期は、1985年から91年、3枚のアルバムを跨いで全米No.1を出し続けた頃。そして、映画『ボディガード』(1992)と彼女の最大のヒット曲”I Will Always Love You”によってホイットニーのMusical Historyはクライマックスを迎えます。その後にボビー・ブラウンとの華々しい結婚。。。

1990年以降、僕は洋楽を殆ど聴かなかったので、その当時の彼女の動向は殆ど知らなかったのですが、彼女は「その後」の人生をうまく生きることができなかったようです。結婚はボビーのDVとドラッグにより悲惨な結末を迎え、彼女は離婚後に歌手として復活するも晩年はアルコール依存症とドラッグ渦からのリハビリに日々を費やし、ほぼ破産状態であることが最近の週刊誌で取り上げられたりしました。

そして、ホイットニー死去のニュース。
今日、たまたまテレビで彼女の葬儀の模様を観ていたのですが、ケビン・コスナーのスピーチがとても感動的で思わず目頭が熱くなってしまいました。彼は、映画『ボディガード』で「白人のシンガーをヒロインにした方がいいのでは?」との声を敢然として否定し、ホイットニーを推したのです。彼女こそレイチェル役にふさわしい唯一の女性なのだと。彼のスピーチを読んで、ホイットニーがとても繊細で、気の小さい少女のような性格であったことを僕らは知ります。彼女の人間的な姿を知り、それ故にとも言うべき彼女の晩年の姿に想いを馳せます。それにしても、ケビン・コスナーは彼女のことが本当に好きだったのだなぁ。

"I asked her to trust me and she said she would. A half hour later she went back in to do her screen test and the studio fell in love with her. The Whitney I knew, despite her success and worldwide fame still wondered am I good enough? am I pretty enough? will they like me? It was the burden that made her great, and the part that caused her to stumble in the end. Whitney, if you could hear me now I would tell you, you weren't just good enough, you were great. You sang the whole damn song without a band. You made the picture what it was. A lot of leading men could have played my part. A lot of guys -- a lot of guys could have filled that role, but you, Whitney, I truly believe were the only one that could have played Rachel Mirren at that time." - Kevin Costner's Speech at Whitney Houston's Funeral


彼のスピーチの最後の言葉。感動的です。

"So off you go, Whitney, off you go. Escorted by an arm of angels to your heavenly father, and when you sing before him, don't worry... you'll be good enough." - Kevin Costner's Speech at Whitney Houston's Funeral


ホイットニーの有名なパフォーマンスで、彼女の力強いうたの魅力を一番感じることができるのが1991年スーパーボウルでの国家斉唱だと思います。いろいろな人がアメリカの国歌を歌っていますが、彼女のこのパフォーマンスは近年のジェニファー・ハドソンと共に最も印象に残るものです。彼女の歌う笑顔が素晴らしい。

Rest in Peace, Whitney! You were really great!!


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by onomichi1969 | 2012-02-19 12:22 | 80年代ロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 Steely Dan "Gaucho"(1981) semスキン用のアイコン02

  

2010年 10月 09日

a0035172_0503157.jpg以前、ロキシーミュージックの音楽を形而上学的と称して、その進歩の直線的な止揚の過程を追ったことがある。ロキシーと同様に70年代から80年代にかけて音楽的な完全性を求めて進歩を突き詰めたバンドといえば、スティーリー・ダンの名前を挙げない訳にはいかないだろう。

スティーリー・ダンの代表作といえば、"Aja"『彩(エイジャ)』(1977)ということになろうか。"Can't Buy A Thrill"(1972)のデビュー以来、彼らは、独自のサウンド・クリエイティビティとテクニックを洗練させていき、アルバム毎にそのクオリティを上げていった。"Katy Lied"(1975)から"The Royal Scam"(1976)を経て、彼らは、音楽の形式をほぼ確立させ、"Aja"『彩(エイジャ)』というアルバムにその完成させたスタイルを結実させることになる。

Black Cow→Aja→Deacon Blues と繋がるA面の完璧な流れ。B面の最初を飾るPegの洗練と斬新。そして最後のWhen Josie comes home, so goodの残心。どれも印象的な曲でありながら、アルバムとしてひとつの流れを形成している。流れの中で曲は微妙に姿を変えつつ全体として調和していく。アルバムと曲の流れの中に平衡した系。流れが流れつつもバランスを保った系。そう、これは生命の本質的な姿でもある動的平衡。人間の生命がある種の完璧な系であるのと相似的にこのアルバムが完璧であることを印象づける。

人は完璧を求めれば求めるほど、シンプル化を徹底せざるを得ない。これは一般的なこと。複雑になればなるほどそのエントロピーは拡散の方向に向かい、物事は収拾が付かなくなる。シンプルであれば、物事は制御しやすいだろう。ロキシーミュージックもスティーリー・ダンも基本は音楽をシンプル化することの中でその音楽性を進歩させてきたと思える。そこにアルバムとしてのバランス、生成と消滅の平衡としてのバランスを持ち込むことにより、"Aja"『彩(エイジャ)』(そして、ロキシーで言えば『アヴァロン』)はアルバムのトータルとしての完璧さを実現したのだと思える。

"Aja"『彩(エイジャ)』の面白さは、そのディテールにもある。それぞれの曲のソロ演奏の巧みさが曲全体に実に絶妙な彩(いろどり)を添える。それが楽しい。が、それは劇的すぎる、、とも感じる。

スティーリー・ダンは、"Aja"『彩(エイジャ)』で彼らの音楽性を極めた。それは一般的な評価だろう。但し、"Aja"『彩(エイジャ)』は彼らの最終作ではない。本来、彼らの一つの頂点と言える作品、それは、"Gaucho"『ガウチョ』(1981)になるはずだったのではないか。。。

その冒頭。ゆったりしたリズム。自然に繰り返され、敢えて変化を抑え、バランスされるループ。Babylon Sistersを聴けば、彼らがこのアルバムで目指したもう一段上の極みを見出すことができる。自然との快い調和と微妙な緊張感、生成と消滅の流れと平衡という、人間の本質であるが故に人間にとっての完璧な音楽イメージがここにある。変化がないからこそ、曲は時間を超えて、過去の作品を、そのフレーズと変化を、彼らの音楽的な過程を必然的に想起させる。

Babylon Sistersこそは、彼らの渾身の1曲だったに違いない。想像力の音楽。

しかし、Babylon Sistersの完璧さはアルバムという流れの中で最初の1曲目のみに止まり、2曲目以降に続いていかなかった。2曲目以降の凡庸さは、アルバム製作に関わる幾多のトラブル(マスターテープの消失やキース・ジャレットによる盗作の訴え)やウォルター・ベッカーの不調がアルバム自体の出来に反映されたものと思える。

一般的に言って、"Gaucho"『ガウチョ』は"Aja"『彩(エイジャ)』程に評価を得ていない。アルバムをトータルとしてみれば、その完璧さという観点において、それは妥当な評価というものだろう。結局のところ、彼らは"Aja"『彩(エイジャ)』というアルバムを超えられなかった。完璧さは、その頂きにおいて崩壊していく運命だったのかもしれない。Babylon Sistersを頂点として、完璧さが崩壊していく過程。それが、"Gaucho"『ガウチョ』(1981)というアルバムなのだろうか。それはそれでひとつのプロセスであり、逆にBabylon Sistersという曲をより美しいものにみせているとも思える。


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by onomichi1969 | 2010-10-09 23:03 | 80年代ロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 Neil Young & Crazy Horse “Life”(1987) semスキン用のアイコン02

  

2010年 02月 02日

a0035172_2121378.jpgニールとクレイジーホースの数あるアルバムの中で、60年代といえば”Everybody Knows This is Nowhere”(1969)であり、70年代は”Zuma”(1975)、90年代は”Ragged Glory”(1990)が代表作だというのは多くの人が納得する選択だと思うが、では、80年代は何か?
ニールにとってのexperimental years 80年代の様々なアルバムの中でキラリと光る逸品。実に80年代らしいサウンドでありながら、そういったラベリングを易々と超える彼らにしか出来得ない傑作。僕の中で、ニールとクレイジーホースの80年代の代表作は“Life”(1987)なのである。おそらく多く人に異論はあろうと思うが。。

このアルバムは、Aサイドを飾るMideast Vacation、Long Walk Home、Around the World、Inca Queen、そしてラストのWe Never Dancedに尽きる。特にLong Walk Homeこそはこのアルバムの肝である。

If Liberty was a little girl
Watching all the flags unfurl
Standing at the big parade
How would she like us now?

朴訥としたハーモニカが響くオープニング。朗々としたニールのボーカルにピアノ、そして80年代風のシンセサウンドが被さる。そこに銃声が轟く。爆撃機の銃撃音。大地に突き刺さる弾丸の音。爆裂により吹き飛ぶ人々。ここは戦場である。

From Vietnam to old Beirut
If we are searching for the truth
Why do we feel that double-edged blade
Cutting through our hand.

正直言って、最初にこの曲を聴いた時はびっくりした。ギターで爆音を表現する奏法はよくあるが、爆音そのものをバックに歌うこと、その直截的な表現に何とも言えない違和を感じた。その違和こそがニール・ヤングなのだ。そして、胸が震えたのである。

America, America
Where have we gone?
It's such a long walk home

アメリカ、アメリカ
俺たちは何処に迷い込んでしまったのか。
故郷まで、何て長い道のりなのだろう。

彼の反骨精神が作ったアルバムである。“Re-ac-tor”(1981)のShots、銃撃音に彩られた名曲の流れをアルバムとして汲む。通底するのは何かが違う、普通でない感覚、ある種の唐突感であり、屈折であり、違和である。
巷ではあまり評判のよくないようだが、このアルバムは間違いなく、彼の代表作である。80年代の真っ只中に、こんな凄いアルバムが「密かに」作られていたのか。彼は長い長い道のりの途中にあることを常に自覚していたのだ。
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by onomichi1969 | 2010-02-02 22:22 | 80年代ロック | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 Bryan Adams "Into the Fire"(1987) semスキン用のアイコン02

  

2009年 09月 21日

a0035172_21575862.jpg中学生の頃は、まだ夜更かしが得意ではなかったので、夜11時過ぎに始まる「ベストヒットUSA」を毎回観ることがなかなかできなかった。僕が最初にこの番組を観たのが中学3年の頃で、その時のチャートのNo.1がシンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」だったか、ヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」だったか、いまいち記憶が判然としないのだけど、時期としては84年の春頃だと思う。それ以来、時々、番組を単発で観るくらいだったが、プリンスやジョン・ウェイト、ゴーストバスターズ、ワムがNo.1で紹介された回のことをおぼろげに覚えている。ベストヒットUSAを観る度に毎回大いなる感銘を受け、次回も絶対に観るぞ~と思っていたのだが、なかなかそれができなかったのである。(早寝だったのね)

ベストヒットUSAを本格的に観続けるようになったのは1984年も冬に入った頃。ちょうどホール&オーツの「アウト・オブ・タッチ」がNo.1の時だったと思う。この回にはドン・ヘンリーの「ボーイズ・オブ・サマー」やマドンナ「ライク・ア・ヴァージン」等が赤丸急上昇で、その中には今回紹介するブライアン・アダムスの「ラン・トゥ・ユー」も上位にランクインしていた。ブライアン・アダムスの「ラン・トゥ・ユー」は、ニューアルバム『レックレス』からのファースト・シングルで、PVの映像がなかなかかっこよかったという印象が強く残っている。サングラスを掛けるブライアン・アダムスが渋くて、ギターをかき鳴らす姿もハマっていた。また、このPVに出ていた女の子が結構可愛くて、彼女見たさにMTVや他の洋楽チャンネルでこのPVを期待して見るようになったのだ。彼女はその後、ブライアン・アダムスのPVに出てくる「彼女」として、僕の記憶に留まることになる。彼女はその他に「想い出のサマー」にも出演している、と思う。たぶん。

以上の記憶のもとで、つい先ほど、Youtubeで当時のPVを観たら、、、あれ?こんなだったかな??やっぱり時代は80年代ですなぁ。昔は心からかっこいいと思ったんだけど。
あれから25年。いつしか長い年月が流れているのであった。。。

まぁそれはそれ。
「ラン・トゥ・ユー」によって、僕の中でブライアン・アダムスは一押しのミュージシャンとなった。もちろん、アルバム『レックレス』(1984)と前作『カッツ・ライク・ア・ナイフ』(1983)は早速貸しレコード屋で借りてダビングし、繰り返しテープを聴いたものだ。お気に入りの「ヘブン」や「イッツ・オンリー・ラブ」も全米で大ヒットし、僕はとても満足したのだった。その頃はベストヒットUSAが学校のクラスの中でも浸透していて、友達とチャートの行方に一喜一憂した。

ブライアン・アダムスの代表作と言えば、やはり『レックレス』(1984)ということになる。
このアルバムはある意味で80年代ロックの金字塔とも思える。シングルカットされた曲は言うに及ばず、名曲が揃った本当にいいアルバムだ。1曲目の「ワン・ナイト・ラブ・アフェアー」は彼のアルバムの中でも最高のリードオフだと思う。アルバムを1枚選ぶとすれば、『レックレス』はどうしても外せないだろう。
ただ、『レックレス』について以前に紹介しているので、今回は、『レックレス』から3年ぶりに発表された次作『イントゥ・ザ・ファイアー』(1987)を取り上げることにする。(長い前フリでしたが、、、)

『イントゥ・ザ・ファイアー』からはシングルカットとして、「ヒート・オブ・ザ・ナイト」が全米トップ10ヒットとなったが、それ以降のシングル「ハーツ・オン・ファイアー」は全米26位、「ヴィクトム・オブ・ラブ」に至ってはマイナーヒットに留まる。アルバム全体のトーン、個々の曲調についても前作から明らかに違いがあった。前2作で築いた彼の売れ線とでも言うべきキャッチーでメロディアスなロックサウンドはここでは見られない。全体的に明るさが抑えられ、シンプルで骨太なギターサウンドが金属的に響く。それが本当に彼の目指すサウンドだったのかはよく分からないが、彼が現状の立ち位置に満足せず、よりオリジナルな音楽性を目指したのは確かである。結局のところ、それは大ヒットした前作の栄光の前に易々と飲み込まれてしまうのであるが、僕はその姿勢を評価したい。

よくよく聴いてみれば、寂れたトーンのギターが特徴的なこの時期のバラードはなかなかよい。Native SonやRebel、Home againといった曲だ。彼の持つある一面、モノクロの色彩が広がるアルバムジャケットに象徴される、彼の佇む都市の風景を彼自身の原風景(オリジナルなもの)として思い浮かべさせる。寂れたトーンの中に豊かな叙情性を響かせる。これらのバラードは彼の隠れた名曲だろう。

ブライアン・アダムスは、アルバム『レックレス』によって、アメリカや日本でアイドル的な人気を得た。しかし、彼には元々アイドル的な要素というのは乏しい。一見して精悍で爽やかな白人の若者というイメージだし、PVでの映りがいいのでファーストインプレッションは悪くないが、実際の彼は背が低いし、顔はあばただらけ、容姿はとことん田舎くさい。ある種のコンプレックスを抱えた若者といった風情さえ感じさせる。そんな彼が『レックレス』の大成功を彼自身のスター性としてそのまま受け止めることができなかったとしても、それは理解できない話ではない。

『カッツ・ライク・ア・ナイフ』、『レックレス』があって、『イントゥ・ザ・ファイアー』がある。『イントゥ・ザ・ファイアー』は世間的にいったら失敗作だろう。しかし、この3枚のアルバムの流れの中にこそブライアン・アダムスの本質が見えるようで、僕は、彼のこと、彼そのものが好きなように、これらのアルバムが否応無く好きなのである。
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by onomichi1969 | 2009-09-21 18:31 | 80年代ロック | Trackback | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 Billy Ocean "Greatest Hits"(1989) semスキン用のアイコン02

  

2009年 05月 31日

a0035172_13164090.jpgビリー・オーシャンは、80年代中期のベストヒットUSAの常連であり、全米で3曲のNo.1と2曲のNo.2ヒットを含め、8曲のトップ10ヒットを量産したヒットメーカーである。彼はトリニダード・トバゴ生まれでUK育ち、元々ロンドンをベースに活躍していたR&Bシンガー&ソングライターらしいが、当時は、"Big Bam Boom"(1984)のホール&オーツや同じUKのワム!に代表されるソウル&ポップなダンスミュージックに対する黒人側からの回答のように受け止められたと思う。一見地味な存在ながら、マイケル・ジャクソンやライオネル・リッチーからの流れをうまくフォローして、意外なほどに多くのヒット曲を飛ばした。当時、黒人のポップシンガーというのはわりとニッチな位置で、ラップ以前の80年代という時代の中では、その曲の良さと歌の上手さもあり、そのポップセンスが時代のニーズにピタッと嵌ったのだと思える。

Billy Ocean "Greatest Hits"(1989)は、ビリー・オーシャン絶頂期のヒット曲を寄せ集めたものである。トップ10ヒットの名バラードLove is Foreverが選から漏れているのが少し残念だけど、"Suddenly"(1984) 、"Love Zone"(1986) 、"Tear Down These Walls" (1988)という3枚の大ヒットアルバムからシングルカット12曲が並ぶ贅沢な構成となっている。

今、改めて聴いてみれば、それらはまさしく80年代中期を代表するポップであり、ダンスミュージックであり、バラードである。1. When the Going Gets Tough, The Tough Get Going(全米No.2:映画の主題歌で大ヒット)、2. License to Chill(全米No.32:これは007主題歌予定だった曲らしいが直前に却下→題名変更)、3. Caribbean Queen (No More Love on the Run) (全米No.1:ファーストヒットでNo.1) 、4. There'll Be Sad Songs (To Make You Cry) (全米No.1:2度目)、5. Loverboy(全米No.2)、6. Suddenly(全米No.4)、7. Get Outta My Dreams, Get into My Car(全米No.1:3アルバム連続でNo.1獲得)、8. Love Zone(全米No.10) 、、、という流れは当時のヒットパレードそのものでありつつ、曲の良さで売っていただけあって、なかなか聴かせるシリーズである。特にSuddenly~なんていう曲はサビのメロディがとても響く、素晴らしいバラードだと思う。

ワム!のジョージ・マイケルも似たような音楽的傾向をもつミュージシャンだと思うが、同時期の彼が良質なポップセンスとソウルフルな歌声を武器にアイドル・グループからブラック・コンテンポラリーの方へ接近していったのと違い、ビリー・オーシャンはブラック・コンテンポラリーの側からポップシーンへと滑り出た人である。その世界でアイドルになるのは無理な話として、彼の登場が「深化」を否定したところから始まったが故に、80年代後半以降(本アルバム以降)の行き場を失ったのは致し方ないことかもしれない。
ちなみに、マイケル・ジャクソンは、ブラック・コンテンポラリーからポップの世界にいちはやく踏み込んで、人種やアイドルなどという枠を超えたスーパースターとなったが、その音楽的な行き場のなさ故に、彼の凋落は案外と自然な出来事だったのかなと改めて思えた。
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by onomichi1969 | 2009-05-31 13:13 | 80年代ロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 1985年 ポップスが世界を救う semスキン用のアイコン02

  

2009年 02月 01日

幕開けは1984年の暮だった。
バンドエイドの"Do They Know It's Christmas?"がイギリスで発売され、大ヒットを記録した。カルチャークラブ、ワム、デュラン・デュラン、スティング、スタンダー・バレエ、U2など、当時のキラ星の如きポップスター達が一同に会し、世界に向けてメッセージを発する。
「飢餓に苦しむアフリカを救おう」
「音楽を通じて、世界をひとつにするんだ」
なんて素晴らしいことだろう。当時、中学生だった僕らはものすごく共感し、ポップ・ミュージックによる連帯という可能性を感じた。


次はアメリカである。
1985年3月に発売されたUSA for Africaの"We are the World"である。ベストヒットUSAで初めてPVを観た時の感動。ライオネル・リッチーが、マイケル・ジャクソンが、ブルース・スプリングスティーンが、そして、ダリル・ホールに、シンディ・ローパーが、、、正に当時のアメリカを代表するミュージシャンが本当に集まったんだなー。あまりの興奮に程なく発売される予定だったアルバムはいち早く予約し、新聞に投書までした。
「世界の一流のミュージシャンが一同に会してボランティアのレコードを作ったそうです。単なるポップスターだと思っていた彼らが、今世界に向けてメッセージを投げかけています。アフリカの飢餓を救おうと。それに答えるのは今度な私たちなのだと思います。私たちがレコードを買えば、その収益金がアフリカの飢えた子供たちを救うことになるのです」
実際のところ、何を書いたのか詳細は覚えていないけど、たぶんこんな感じだろうと思う。その投書は毎日新聞の読者欄に掲載された。


アメリカの次はカナダということで、
"We are the World"のLP版には、カナディアン・オールスターズ、Northern Lightsの"Tears are not Enough"という曲が収録されていて、個人的にはすごく気に入っていた。
ブライアン・アダムス、コリー・ハート、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、マイク・レノ、、、プロデュースはデビッド・フォスターである。
このPVも初めて観たのがベストヒットUSAだったと思うけど、あまりにダサい作りとニール・ヤングの怪しい外見はかなり衝撃的だった。。。(前2作のPVがわりとスタイリッシュだっただけに、、、)


カナダの次は日本でしょう。
ライブエイドに先立つこと1ヶ月。1985年6月、日本でも当時のチャリティ・ブームに乗り、国立競技場で一大イベントが開かれた。それが「ALL TOGETHER NOW」である。
集まったのは、ニューミュージックのトップスター達で、オフコース、松任谷由美、財津和夫、吉田拓郎、佐野元春、サザン・オールスターズなど。
日本の版権の関係でレコード化にはならなかった(と記憶する)が、ラジオでは放送されたので、しっかりとエアチェックした。それがフィナーレを飾ったテーマ・ソング「ALL TOGETHER NOW」である。
その他、サザンと佐野元春、オフコースと吉田拓郎の夢の共演があったり、今考えるとなかなかのステージだった。


その後、ライブ・エイドがあり、ファーム・エイドがあり、サン・シティがあり、しばらくこの手のチャリティイベントが続くが、1986年以降、そういった流れはなくなっていく。(その中で、ファーム・エイドだけは毎年欠かさずコンサートを続けているのは特筆に価する)

1985年は、ある意味でポップスという幻想が一気に拡大した時代とも言える。ポップスが世界を救うという幻想。実際チャリティとして実効力があったのは確かだと思うけど、僕らにとって、それはやはりひとつの大きな物語としての幻想だった。それは祝祭であったのかもしれない。

ライブエイドの世界同時中継を僕らはテレビにかじりついて観た。そして、両親に、ライブエイドとはどんなに素晴らしいイベントで、ここに出ているミュージシャンが世界でどんなに有名な人達なのかを説明した。僕の母親が"We are the World"のPVに登場するブルース・スプリングスティーンを見て、「何この人、気持ち悪い~」などと言うので、僕は彼女に彼のアメリカでの人気が如何にすごいものであるかを説明しなければならなかったのだ。(これは当時の洋楽ファンの家庭ではよくあった風景だと想像する)
とはいえ、衛星中継番組としてはなはだ出来が悪かったのも事実で、たどたどしい同時通訳や突然曲がカットされてCMが入ったり、司会者の無知・無理解ぶりにはかなりイライラして、思わずテレビ局に抗議の電話をしそうになったことを覚えている。これもありがちな話だけど。




1960年代後半、モンタレー'67からウッドストックという流れの中で、ロック・ミュージックは確実に世界を駆動した。それは、「一体感というある種の幸福感を共有できる麻薬的な幻想」だった。それから15年たち、80年代という全てが大衆化を志向した時代、それによって消費文化が花開いた時代に世界はポップスによって再び一体化する。それは全世界同時中継という形をとり、まさに80年代的な流れの中で消費されたとも思える。確かにその盛り上がりもあっけないほどに短い期間だったけど、そこで描かれた幻想は80年代の僕らにとって、60年代後半のモンタレーやウッドストックと同じくらいの価値があったと言っていい。たとえそれが消費という記号に彩られたものであったとしても、である。

大きな物語が人々の心を確実に捉えた1985年の出来事について。モンタレー'67の記事で書いた以下の言葉をもう一度掲載し、締めくくることにする。
人間は幻想によって生きている。それは僕らを生かし、そして殺す。それもまた幻想。その全ては「心々」であり、また、それが僕らの心を震わす源泉なのである。

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by onomichi1969 | 2009-02-01 18:33 | 80年代ロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 TOTO "TOTO IV"(1982) semスキン用のアイコン02

  

2008年 11月 05日

a0035172_1211289.jpg本エントリーも便宜上、プログレ・ハードに分類しているが、TOTOほどひとつのジャンルに括れないバンドもないだろう。それはTOTOの特徴が拡散する多様な音楽性と高い技術に裏打ちされたディテールにこそあるからだと思う。
TOTOというグループが80年代ロックを最も象徴しているバンドでありながら、他の産業ロック系のバンドと違い80年代という枠に固着化できないのはその特徴所以である。彼らの存在なくして、80年代の音楽的トレンドは語れないが、その作品は高い技術と音楽性故にトレンドを超えた根強い支持を受け続けているのである。
TOTOは、メンバーそれぞれが元々腕っこきのセッションミュージシャンであり(ながら同級生というすごさ!)、ボズ・スキャッグスの名盤『シルク・ディグリーズ』のレコーディング・セッションが母体となって結成されたというのは有名な話である。その影響もあって、彼らの1st"TOTO"(1978)はAOR的な色彩が強いが、彼らの音楽的エントロピーは拡散しており、アルバムは多様な楽曲センスと多彩な音楽的技術を軽々と発揮した傑作といえる。2nd"Hydra"(1979)は一転して当時流行のプログレ・ハードに拘ったコンセプチュアルな内容である。これも彼らの特徴である多様で多彩な音楽性をプログレ的な味付けで達成した作品で、重厚な構成でありながら作品自体を軽々と作り上げてしまったかのような軽快感が印象的である。
3rd"Turn Back"(1981)は前回の肩肘張った構成から、今度は少し力を抜いたバンドサウンドで、これがなんというか無個性でミニマルで、ある意味でTOTOというバンドの80年代的な無臭性を印象付ける作品となっている。
そして、彼らの最高作と言われるのが4th"TOTO IV"(1982)である。この作品は彼らが「いっちょ、ヒットアルバムでも作ってやっか」的な感じで仕上げたであろう、これまで以上にポップなヒットチューンで構成されているのが特徴である。まずは名曲Rosanna、この曲ほど彼らの多様性を印象付ける曲はないだろう。ジェフ・ポーカロの16ビートシャッフルに乗せ、スティーブ・ルカサーの多彩なギターが炸裂、スティーブ・ポーカロのスペーシーなシンセサイザーに、デビッド・ペイチのジャズ・ライクなエレクトリック・ピアノが共存する。ボーカルはルカサーとボビー・キンボールのハイトーンボイスが交互にソロをとり、ペイチのコーラスが被さる。ポップな曲調の中に小宇宙の如き彼らの音楽的多様性を内包しているのが大きな特徴で、高度に統制されたアンサンブルとコーラスは正に絶妙であり、聴けば聴くほど驚きに満ちた楽曲である。
その他、I Won't Hold You BackやAfrica、It's a Feelingなど、このアルバムのひとつひとつの曲にはくっきりとした輪郭があり、多様でポップな彩りがとても豊かである。それぞれ、ルカサー、ペイチ、スティーブ・ポーカロの曲でもあり、その個性は見事に分散している。個人的にはハードさが特徴的なAfraid of Loveも好きな曲である。
"TOTO IV"は1982年度グラミー賞で最優秀アルバム賞など6部門を独占し、その年の象徴的なロックアルバムとなると共に、80年代プログレ・ハードのひとつの到達点として、またAORの傑作アルバムとして燦然と輝く名盤の地位を獲得する。その特徴は繰り返すようだが、拡散する多様な音楽性と高い技術に裏打ちされたディテールにある。構成力よりもアンサンブルであり、主題よりもディテールである。それは80年代という時代の特徴と重なりつつ、定型化した80年代サウンドの典型となっていく。(次作5th"isolation"(1984)も良し)
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by onomichi1969 | 2008-11-05 01:55 | 80年代ロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 Journey "Escape"(1981) semスキン用のアイコン02

  

2008年 11月 02日

a0035172_1134077.jpg80年代ロックの代表的なバンド、ジャーニーの大ヒットアルバムである。1980年のベストアルバムがREOスピードワゴンの『禁じられた夜』ならば、1981年は『エスケイプ』である。同じく全米No.1を獲得、全世界で1000万枚以上を売り上げた。
個人的には、彼らの作品の中で、グレッグ・ローリーのボーカル曲もある"Infinity"(1978) 『インフィニティ』が好きであるが、よりキャッチーでいわゆる産業ロック的な路線を確立した『エスケイプ』こそが彼らの代表作だろうと思う。
このアルバムからは、ドント・ストップ・ビリーヴィン Don't Stop Believin' 、クライング・ナウ Who's Crying Now、オープン・アームズ Open Arms が大ヒットする。それぞれに今でもCMやTV挿入歌、カバー等でお馴染みの名曲達である。
特に"Open Arms"はマライア・キャリーのカバーでも有名で(僕らの世代からはこういうと文句が出そうだが)、僕はこっちのマライア・バージョンも結構好きである。

『エスケイプ』は、スティーブ・ペリーと新しく加入したジョナサン・ケインが中心となり、ニール・ショーンのギターをフューチャーしつつ、メロディアスなナンバーを揃えて、80年代ロックの流れを彼らなりに確立したアルバムであり、彼らの最高傑作となる。アルバムとしても1曲1曲を際立たせたヒット曲志向は当時のMTVの潮流にフィットし、彼らのPVも盛んにローテーションされた。それ以後、彼らはMTVを否定し、PVを製作しないという手段を選ぶが、彼らの音楽を支持した層こそがMTV世代であったことを考えればそれは無謀な選択であり、結局のところ、その方針を打ち出した次作"Raised on Radio"(1986)は前作ほどの売れ行きには到底至らなかった。そのことが遠因となってかバンドは活動停止状態となる。1996年に一時的に復活するが、中心人物だったスティーブ・ペリーも脱退。その後の停滞をみれば、やはり彼らも80年代という時代に焼き付けられた典型的な80年代ロックなバンドと言えよう。
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by onomichi1969 | 2008-11-02 01:22 | 80年代ロック | Trackback(1) | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 REO Speedwagon "Hi Infidelity"(1980) semスキン用のアイコン02

  

2008年 11月 01日

a0035172_23472761.jpg僕らの世代にとって、REO Speedwagonといえば、80年代中期忘れじの名曲"Can't Fight This Feeling"(『涙のフィーリング』)である。この曲や"In My Dreams"(『涙のドリーム』)』、"I Don't Want to Lose You"(『涙のルーズ・ユー』)、"Here With Me"(『ヒア・ウィズ・ミー』)といったいかにも80年代と言うべきキャッチーなバラード(名曲!)がとても印象深い。彼らのベスト盤"The Hits"(1988)『ヒッツ』はシカゴやエア・サプライのベストと共にエイティーズの必須ベスト盤と言っていいだろう。ちなみに、、、邦題に涙、涙って、なんとかの一つ覚えか、、、(涙)

ちょっと前に映画『ラブソングができるまで』でREOスピードワゴンがすっかり80s懐メロバンドとして小馬鹿にされていた(アダム・アントと同じ扱い!)のにはちょっとショックだったけど、今のアメリカ人にとって、このバンドは80年代という時代に焼き付けられた、ある意味で忘れがたい、一世を風靡したからこその印象深さがあるのだろう。
REOスピードワゴンが長い下積みの時代(結成が1968年!)を経て、大ブレークしたのが1980年に発売された傑作"Hi Infidelity"(『禁じられた夜』)からである。『禁じられた夜』は全米で15週連続No.1を記録し、最終的に1000万枚以上を売り上げて、80年の年間ベストアルバムとなる。まさに80年代ロック幕開けの年を象徴するロックバンドがREOスピードワゴンだったわけだ。いわゆる産業ロックの幕開けである。

彼らのアルバムとしては、先に挙げたベスト盤と共に、『禁じられた夜』が定番中の定番だろう。このアルバムには彼らのベスト盤から何故か漏れてしまった名曲『涙のレター』(涙シリーズのオリジン)や『フォロウ・マイ・ハート』、『タフ・ガイズ』などのキャッチーなポップチューンが並ぶ。このアルバムの楽曲の質の高さは、彼らが単なるアメリカンロックなライブバンドではなく、稀代のメロディメーカーであることを如実に示していると言えよう。全曲がとてもポップで聴きやすく、爽やかで、それでいてロックしている。まさに80年代という時代の風をロックに取り入れて大成功したバンド。だからこそ80年代という時代に焼き付けられ、見事に殉死してしまったともいえる。
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by onomichi1969 | 2008-11-01 23:59 | 80年代ロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 R.E.M. "Green"(1988) semスキン用のアイコン02

  

2008年 10月 29日

a0035172_010143.jpg世界で最も重要なロックバンドと言われるR.E.M.の80年代の傑作アルバムである。
彼らの80年代のアルバムでは”Life's Rich Pageant”(1986)も印象深いが、90年代に連なる傑作群の先駆けであり、各雑誌でその年のベストアルバムに選ばれて、R.E.M.の日本での知名度を一気に押し上げた作品”Green”(1988)はやはり彼らの記念碑的なアルバムだといえよう。
ロックが70年代中期から大衆化し、単純化していったのが80年代中期までの流れで、その成果がパンク、ニューウェーブを経たブリティッシュ・ポップであり、また『明日なき暴走』以降のブルース・スプリングスティーンに代表されるストレートでポップなアメリカン・ロックだというのが僕の考えである。
ポップと大衆化の流れの中で肥大していった80年代ロックが90年代初頭に行き詰る。世界が消費文化を謳歌し、ポップという幻想が生き生きとしたイメージで捉えられた80年代のポストモダンがその幻想を剥ぎ取られ、無力さと無根拠さを突きつけられたのが湾岸戦争から始まった90年代の現実だと言われる。ポップと言う幻想の剥奪。これが90年代ロックの出発点であろうか。その先にニルヴァーナやチリペッパーズ、レディオヘッドの音楽が浮かぶ。

90年代はいろんなものが価値を奪われ、その廃墟に佇むかのごとき途方を露わにするのだが、それらの閉塞感、空虚感は僕らの精神を損ない、無自覚に内面化された為に、ある種のジャンクとしての物語とでも言うべき得体の知れない共同幻想(日本ではオウム)を引き寄せる。自覚なき空虚感こそが90年代の精神である。90年代ロックはそのようなタームによって強迫され内面化された。それが80年代とは全く違った色合いのダークでヘヴィーな90年代ロックを生み出したのだと思う。

R.E.M.”Green”(1988)は、80年代のポップさとは違う内面化された空虚さ、仄暗い明るさが特徴的なアルバムである。内面化されるが故に無自覚な空虚感。それが引き寄せる幻想としての地図。その後の90年代ロックの歴史はR.E.M.の道程そのもののように思える。彼らが”Out Of Time”(1991)、”Automatic For The People”(1992)を経て、”Monster”(1994)という世紀末の傑作を生み出す必然が既に本作に垣間見える。80年代から90年代にかけて、R.E.M.ほどロックを直線的に深化させたバンドはいないだろう。それは70年代から80年代にかけて形而上的にロックを止揚させ、最終的に「空無」に辿り着いて解散したロキシー・ミュージックとはまったく逆の道程である。空無から出発し、深化したロックは自らの地図を失い、必然的に解体へ向かうだろう。その先にレディオヘッドの”Kid A”(2000)をイメージできるのであるが、それはまた別の話である。
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by onomichi1969 | 2008-10-29 00:15 | 80年代ロック | Trackback | Comments(1)

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