Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 タグ:海外の映画 ( 225 ) タグの人気記事 semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 華氏451 "Fahrenheit 451" semスキン用のアイコン02

  

2004年 08月 07日

a0035172_225204.jpgブラッドベリの名作SF小説の映画化。小説の冒頭に物語のイメージを決定付ける挿絵がある。
火焔に包まれた家とその中で本を片手に叫ぶ女性。取り囲む群衆と無残に踏み捨てられた本の数々。一人の焚書官の背中が大写しとなっている。ファッショナブルな防護服とモヒカン様のヘルメット。背中には何やら火炎発生器のような四角い装置を背負って、そこから伸びるトカゲの尻尾のようなホースを手に持っている。小説の内容以上に印象に残る絵だ。
トリュフォーがこの近未来小説のビジュアルイメージ化を焦点にしてこの映画を製作したことは想像に難くない。焚書官の制服は挿絵や小説の記述イメージそのままだし、部屋の一面を使った巨大なテレビや自動扉付の家もこの近未来小説に沿って造形されている。
しかし、小説で描かれるその他の自動機械の映像化は全く無視されており、現代の僕らから観て、あまりにも牧歌的な装置の数々にはちょっと落胆するものがある。大体がブラッドベリ自身、4,5世紀先として描いた自動化イメージが今現在あっさりと凌駕されてしまっているというのも二重の悲劇だ。この映画をSFと呼ぶのが躊躇われるのも致し方ないかもしれない。
にもかかわらず、この映画に僕らを惹きつける魅力があると感じるのは何故だろう。

小説の中にこういう記述がある。
「二十世紀の初期になって、映画が出現した。つづいてラジオ、テレビ、こういった新発明が大衆の心をつかんだ。そして大衆の心をつかむことは、必然的に単純化につながざるをえない」

元々、ブラッドベリは本と対立するものとしてイメージを規定する装置である映画やテレビを想定しているのだ。トリュフォーはそれにどう答えたか。それがこの映画の中にある。徹底的に簡素化された登場人物たちの演技や印象的な音楽、想像力を喚起するイメージ映像。トリュフォーが敢えてこの小説を映画化した意味を強く感じるのだ。1966年フランス・イギリス映画(2004-03-01)

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by onomichi1969 | 2004-08-07 01:17 | 海外の映画 | Trackback(2) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ニューシネマパラダイス "Nuovo cinema Paradiso" ~あの兵士は誰なのか?~ semスキン用のアイコン02

  

2004年 08月 07日

a0035172_1111178.jpg兵士はなぜ99日待ちつづけて100日目に現れなかったか?
それは100日目には王女様が現れてしまうことが約束されていたからではないでしょうか。99日目までに王女が現れることへの期待と待つことによって募っていく憧れそのものが彼にとっての恋愛だったと僕は思います。

可能性としての恋愛。憧れ。叶わない、手の届かないことの中に可能性としての恋愛がある。それは、挫折を恐れるナイーブな感性をもつアルフレドの人生観そのものじゃないかな。あの兵士はアルフレドそのものでしょう。

逸話の中の王女とスクリーンの中の女優たち。
アルフレドの憧れとトトの挫折。

この映画の忘れられないラストシーンもそう考えるとよりいっそう印象深いものになるんじゃないかな。1989年イタリア・フランス映画(2002-04-11)

完全版のレビューはこっち!
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by onomichi1969 | 2004-08-07 01:13 | 海外の映画 | Trackback(2) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 クロッシング・ガード "The Crossing Guard" ~見えない出口を求めて~ semスキン用のアイコン02

  

2004年 08月 07日

a0035172_117240.jpgショーンペン監督2作目は、彼の前作<傑作でもある>「インディアン・ランナー」と同一線上にある作品といえる。

「兄は弟を追いながらそのことの意味を理解できない。弟は兄に追われながらその理由を失っている。」
「インディアン~」のレビューで僕はこのように書いた。人が理由なく分り合えないという切実さを描いたのが「インディアン~」であれば、「クロッシング~」はその地平をさらに一歩進め、そして反転させ、そこからポジティブな回路を模索しているように思える。追う者と追われる者という図式は同じだが、双方にはそれぞれ、そうするための理由が存在する、加害者と被害者という明確な理由があり、それは、お互いが分かり合える足場を既に失っていることを意味するのだ。

にもかかわらず、お互いがその「分かり合えなさ」に対する信憑すら持てず、失った足場の上空でもがきながらも理解への希望を捨てていないようにみえる。絶望的な立場を超えて、人と人はどうコミットし得るのか。いや、絶望的だからこそ、意味を求めてコミットする、その向こうに何があるのか。それは非常に難しいモチーフだ。この作品ではっきりとその答えが示されているとは言えないし、作品自体も1作目に比べて散漫な印象がある。ただ、目指すべきところには大いに共感できるし、正直、ぐっときたんだなぁ。
この監督、やっぱり只者ではない。ショーンペンは今後も注目すべき監督であることは間違いないだろうね。1995年アメリカ映画(2003-10-09)
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by onomichi1969 | 2004-08-07 01:04 | 海外の映画 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 インディアン・ランナー "The Indian Runner" ~時代遅れの震え~ semスキン用のアイコン02

  

2004年 07月 10日

a0035172_35223.jpg正義漢の兄と落ちこぼれの弟のお話。兄弟は、話の展開にしたがって徐々に心が離れていくようにみえる。理解しあえるようでいて、それはどんどん遠くに離れてしまうのである。そのことの理由は語られない。最終的に警察官の兄が犯罪者となった弟を追跡するシーンにまで至り、父親は兄弟の確執とは関係のないところで意味もなく自殺する。図式はありふれているし、話としても結構単純だ。しかしそのモチーフは僕にとって切実に思えた。

兄は弟を追いながらそのことの意味を理解できない。弟は兄に追われながらその理由を失っている。自分の心さえ掴めない寂莫感にお互いが自覚的ではあるけれど、最後に兄が弟を見逃すシーンに言葉はなく、ただ「アイ・シャル・ビー・リリースト」(byザ・バンド)が流れるのみ。「いつかきっと僕は解放されるだろう」
あー、なんてリアリティのないフレーズだろうか。そのことの空虚さが心を締め付ける。

「インディアンランナー」はたぶん時代遅れな映画だ。すべてに自覚的でありすぎる分、それはもう時代遅れなのだ。僕らはその時代遅れの気分でしか、もう心を震わすことができないかもしれない。それはとても切ないことだけど…。

<ちなみに冒頭で、狼の力を盗んで鹿狩りをするインディアンの逸話が出てくる。弟の中で幻影のように現れるインディアンとは、自分自身に潜む凶々しさとその神々しさが一体となったスピリチュアル・イメージであり、その「らしさ」に理由がない絶対的な存在としての強迫観念でもあるのだ。>1991年アメリカ映画(2002-01-17)
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by onomichi1969 | 2004-07-10 03:53 | 海外の映画 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 バッファロー'66 "BUFFALO '66" ~内包する弱さの救済~ semスキン用のアイコン02

  

2004年 07月 10日

a0035172_25912.jpgヴィンセント・ギャロは、自らの腐っていく弱さと自閉していくイノセンスをギリギリのラインで救済して見せたのだと思う。

この映画を「主人公にとって都合の良すぎる展開だ」ということで責めるのはちょっと違う。それはその展開こそが映画の方法論だからだ。
この映画が指し示す「愛情」というテーマには切実に納得させられた。ビリーにとってレイラが確かな存在として捉えられる、その弱さを包含したからこそ了解される「愛情」がビリーを破滅から救うことになる。ビリーというとてつもなくか弱いキャラクターをギリギリまで粗暴に扱っておいて、最終的にレイラへの「愛情」という装置に吸収してしまう方法は、一見するとなんの変哲もない物語に思われるかもしれない。ただ、僕にはその弱さの自明的な崩壊がギリギリのところで救われるというか、1周ひっくり返ってやっぱり救われる、崩壊への暴力と広範囲な救済をない交ぜにするような「愛情」という風呂敷でスッポリと包み込んで救われる、というような微妙に違和感のあるラインがとても新鮮だったのだ。

ギャロが最後のシーンで描きたかったのは、個から愛への広範囲なひっくり返しの救済というイメージだったのだろうと思う。確かにイメージへの意識が強すぎて、展開が唐突な感じがしないでもない。レイラの母性を強調しすぎる点もちょっとひっかかる。しかし、今の世の中で成熟を永遠に放棄した人間たちがその内包している弱さを開放する方法など全くないのが現実なのだ。ギャロはそれをどうだと言わんばかりに開放してみせた。
そこには人間の成長物語など初めから存在していないことに留意してほしい。人間の弱さこそ優しさの源泉だと僕は思う。しかし、それは腐っていくものだ。そして、それは絶対的な強さに転換などしない。僕らはそれをただ抱えていくのみで、そのことは人間の成長とは全く関係のないことだ。

敢えて言えば、損なわれつつある人間が絶対的な個という「強さ」を放棄することによって回復していく、そういう可能性の物語なのだといえるのではないか。1998年アメリカ映画(2004-05-19)
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by onomichi1969 | 2004-07-10 03:00 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

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