Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 タグ:村上春樹 ( 7 ) タグの人気記事 semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 ノルウェイの森 semスキン用のアイコン02

  

2010年 12月 26日

a0035172_21504324.jpg素直に感動した。一般の評価が低いことを知っていただけに、期待以上に見応えがあった。

僕が小説『ノルウェイの森』を初めて読んだのは大学に入った頃だと思う。初読の印象はさほどではなかったけど、数か月後に村上春樹のデビュー作から年代順に続けて読んで、此の物語の深さに感銘した。というよりも、共鳴した。それ以来、僕は此の物語を3回程再読したと思う。ただ、最後に読んだのは10年以上も前だろうか。

久しぶりにその世界に触れ、心が震えた。確かに小説のいくつかのエピソードが省かれていた分、此の物語に親しみがない人にとっては、それぞれの人物に絡みつく悲しみの影がみえず、彼らの行動の必然が理解できないかもしれない。しかし、僕はその欠陥を記憶で埋めながら、自然に観ることができたと思う。だから、それは欠陥にはならなかった。
僕の中で、永沢さんはナメクジを飲んだ永沢さんだったし、レイコさんは少女に翻弄されて自分を見失ったレイコさんだった。(レイコさんはもう少しシワシワの方がよかったかも) 突撃隊は説明がなくとも突撃隊だった。

これまで何度か書いていることだけど、映画を観るという行為は絶対的に個人的なものだと僕は思う。故に、その評価は、個人の記憶や経験、境遇によって変わってくるのは当然であり、原作を何度か読んでいる僕にとって、この映画の評価は、そういう個人的なもの、様々な記憶の補完とともに立ち上ってくるものとしてある。僕の感動の由来は、客観的な評価の中にはあり得ない。

基本的に原作に忠実なところがよかった。何も足さず、的確に小説の情景を、そのエッセンスを映像化していたと思う。松山ケンイチのワタナベくんも菊池凜子の直子も、そして水原希子の緑も、此の物語を体現した存在として、自然にそこに在ったと思う。此の物語はセックスと死をめぐる寓話でもある。映画は総じて感傷を排し、テーマそのものにフォーカスした感じだと思うけど、セックスの表現は悪くないし、僕の作品に対するイメージを損なうものではなかった。

草原で髪を風になびかせる直子。その大きな瞳から虚ろに漂う視線。とてもぐっときた。直子を失ったワタナベくんが海辺で慟哭するシーン。バックの映像はすこし演出に走りすぎたかなとも感じたけど、彼の慟哭の表情は、失ったもの、それが如何に切実なものであったかを僕らに突きつける。

「ワタナベくん、今、どこにいるの?」と最後に緑が電話口で問いかける。彼はどこでもない場所にいる。直子が死んで、彼は、彼の生きてきたひとつの根拠を失った。しかし、彼は、それでも生きていくことを決意し、緑に電話する。生の象徴である緑の口元に漂う微笑み。それは映像だからこそ現れたアカルイミライのようにも見え、それはそれで面白いと思った。

此の物語を体現した人物、映像、演出、、、素晴らしい作品だと思った。
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by onomichi1969 | 2010-12-26 22:20 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 村上春樹 『1Q84』 semスキン用のアイコン02

  

2009年 06月 28日

a0035172_23494950.jpga0035172_2350152.jpg村上春樹の最新刊『1Q84』を読んだ。途中、book2を犬に食われて買いなおすというハプニングもあったが、ほぼ1週間で読了した。

これをハルキワールドの集大成と言われれば、全くその通りだと思う。なぜなら、この小説に彼がこれまで描いてきたほぼ全てのアイテムを見出すことができるから。
『ノルウェイの森』を短編『蛍』の劣悪なリライトとするならば、『1Q84』はこれまでの村上作品を劣悪的に集大成したものとも言える。(そのようなレビューも散見した) しかし、それこそが作者の意図したところなのだと僕は思う。実際のところ、『ノルウェイの森』の一文一文がその基となった『蛍』に比べて、如何に周到に、意図的に劣悪化されたかについては加藤典洋の解説本(『村上春樹イエローページ』)に詳しい。

2人の主人公は、一見して、これまでの村上作品に通じるクールでスマートな人物として描かれながら、同時にこれまでになく醜悪な一面を見せる。かなり醜悪であると言っていいだろう。特に性的な面に関してはある種のだらしなさを全く隠さない。(余談だけど、村上春樹作品で、その露骨な性描写と優雅な性生活を批判される場合があるが、彼は男女関係の基本的なコミュニケーションとして性交というものを忠実に捉えているに過ぎない。それは露骨で醜悪であるけど、他者との身体的な関係という点で実に真っ当で文学的行為なのだと僕は思う)
村上春樹の初期の作品のキーワードのひとつにレティセンスというタームがある。レティセンスとは「言わずにおくこと」である。ほんとうのことを言わずにおくことで、そのことが指し示す本来的な輪郭を暗示的に浮かび上がらせる。それが村上春樹の初期のスタイルだったといってもいいだろう。
『1Q84』は、そういったこれまでのスタイルを完全に変容させている。『ねじまき鳥』以降の作品で徐々に変化させてきたスタイルのひとつの到達点のようにも思える。

また、今回の作品には様々な家族関係が赤裸々に綴られている。特にこれまで村上作品では描かれることが少なかった「父」が多く登場する。昨今の日本映画でも多くの「父子」の物語が描かれた。元々、明治から昭和にかけて、文学における父子の関係というのは、「父」の不在という前提の下でひとつの大きなテーマとなっていたが、近年、それが復活してきたということだろうか。70年代から80年代にかけて、思想や宗教に精神の拠り所(暗喩としての父)が失われ、家族という共同体の自明性が崩壊し、私の在り方が脱構築された。その中で個のアイデンティティを支える新しい物語がつくられなければならなくなり、今にして、新しい家族や役割というものが改めて問われているということか。

根拠のない世の中では、様々な物語によって、その空白が埋められていく。オウム真理教が示したジャンクな物語は決して少なくないの人々の心を捉えた。それは、一部のアニメや小説への心酔、或いはある種の政治運動と全く同じ構造である。80年代に唱えられた「物語否定論」はそのことを予見的に示していた。物語は構造によって規定され、言葉は一種の意匠であり、表層の戯れ、差異にすぎない。その際に批判の対象として真っ先に取り上げられたのが村上春樹の小説であった。

村上春樹の作る物語がオウム真理教の作る物語と同じ構造をもっている。その事実に一番自覚的だったのが作者本人であったことは彼のオウム真理教を巡る言説からも明らかであろう。人々は、「自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地良いお話」に共感したのであり、そこに「実証可能な真実」などは不要であったのだ。

『1Q84』は、多くの登場人物がこれまでになく饒舌である。彼らはドストエフスキーやチェーホフについて語り、脳科学、分子生物学、狂気について、そしてニーチェを思考する。オウム真理教を模した宗教団体「さきがけ」のリーダーが言う。
「この世の中に絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。(中略)重要なのは、動き回る善と悪とのバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾き過ぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、均衡そのものが善なのだ」
それに比べて、悪の象徴とされるリトルピープルは殆ど何も語らない。一体、リトルピープルとは何者なのだろう? いや、リトルピープルとはそもそも実体としての「何者か」を象徴するものなのだろうか?彼らはその気になれば何人にでも分散するのだ。

「ネズミを彫る少年」の逸話がある。少年は言う。「ネズミを木の塊から取り出す」と。 この話は夏目漱石の『夢十夜』の第六夜、運慶の話のアナロジーである。これは夏目漱石の語る夢の話で、大体下記のような話である。
「運慶が山門で群集に囲まれて仁王を彫る様子を見て、「能くああ無造作に鑿を使って、思う様な眉や鼻ができるものだな」と私が独言のように言ったところ、別の見物人が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と云った。果してそうなら誰にでもできる事だと思い、自分でも多く樫木を彫ってみたが、不幸にして、仁王は見当らなかった。遂に明治の木には到底仁王は埋っていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由も解った」

村上春樹がこれまで物語ってきたこと。それは生きることの真っ当さであり、善悪の彼岸であり、狂気の行方であり、快復としての赦しであった。それがここでも繰り返されている、と同時に登場人物達にバランスよく散りばめられているように思える。
『1Q84』は、青豆と天吾を巡る「100%の恋愛」の物語としても読める。それが「彼らの物語」という物語であり、二つの月が見える者だけの世界「1Q84」であり、彼らが紡ぐ言葉と記憶そのものである。彼はそれでも物語る。ある種の必然性に導かれ、可能性と不可能性の狭間にあるものとして、痛みを伴うものとして、「この世界のことが何も分からず」、それでも書き続けられるものとして。
物語とはどうあるべきなのだろう?全てのエレメントは『1Q84』に示されており、その回答は読者に委ねられている。なぜなら、物語とは、絶対的に個人的で矮小なものであるべきだから。

村上春樹の小説は確実に拡散し、饒舌化しているという意味で進化していると僕には思える。但し、それによって僕らを何処か新しい場所へ連れて行くことは永遠にない。そういう大きな物語は完全に否定されたと言うべきだろう。拡散し、バランスし、劣悪化、矮小化して紡がれた物語。物語の構造は同じであり、幾多のイコンは螺旋上に繰り返されて、意味は個人の物語の何処かに降下していくのみである。
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by onomichi1969 | 2009-06-28 00:06 | | Trackback | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 レイモンド・チャンドラー著 村上春樹訳 『ロング・グッドバイ』 semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 18日

a0035172_10481796.jpg『長いお別れ』を読んだのは15年以上前のことである。チャンドラー作品で僕が初めて手にとった本で、以降、マーロウものの長編作品は全て読むことになった。
そして、今回、『長いお別れ』は、『ロング・グッドバイ』と名前を変え、村上春樹翻訳本として生まれかわった。村上春樹が『長いお別れ』の新訳本を出すという話は、以前から本人も公言していたし、彼がチャンドラーを敬愛しているということもよく知られている話であるが、僕らにとって、清水俊二訳に親しんだチャンドラーが一体どういうことになるのか、あの硬質かつロマンチシズム溢れた文体が村上訳ではどのように変化するのか、といったことは言ってみれば、ある種の違和感というか不安感として捉えられたことも事実であろう。
しかし、それも杞憂であったといわざるを得ない、というか、『ロング・グッドバイ』は村上春樹のこれまでの翻訳シリーズの中でもベストの部類に入る作品だと僕は思う。また、別の言い方をすれば、『ロング・グッドバイ』は、村上春樹の翻訳を経ることによって、彼の小説世界と必然的にオーバーラップし、旧訳版とは別の深化を遂げたという風に感じた。

村上春樹が原文に忠実に、そしていくつかの遊びを加えながら訳したというその内容は、ハードボイルド的な雰囲気に彩られたこれまでの作品世界から、レノックスをめぐる物語とマーロウの冒険を、その文学的輪郭をくっきりと際立たせている。ある意味で村上春樹の文体こそが、『ロング・グッドバイ』の世界を最もよく表現するものであり、それは、文章のリズム、表現の仕方、比喩やアフォリズムの挟み方のようなディテール部分もそうであるが、何と言っても、マーロウやレノックスの人物造形そのものが村上春樹の文学的核心を体現している(相似である)と感じるのだ。

これは、あとがきで村上春樹自ら分析している『ロング・グッドバイ』の構造が、実は村上春樹の小説世界、その文体表現そのものを言い当てていることに呼応する。彼はあとがきでヘミングウェイやハメット、フィッツジェラルドを引き合いに出しながら、チャンドラーの文体、マーロウやレノックスの人物造形について解説を加えているが、それは村上春樹の初期小説での「僕」や「鼠」、「五反田君」の人物造形にそのまま当てはまる。僕にはこの村上春樹による解説こそはそういうことの(自らとチャンドラーの相似に関する)確信的な言及であると感じた。

加藤典洋は、昔、村上春樹の『ノルウェイの森』をレティセンスの小説と例えた。レティセンスとは、「言わずにおくこと」という意味であり、それは自らの心を意識的に閉ざすことである。
また彼は、ダシール・ハメットのサム・スペードの造形(本書でも村上春樹が自我を排除した人物として評している)こそが、村上春樹の描く「僕」に近いということを示し、そういう精神は無根拠で「恥知らず」であると共に、現代的な喪失感を生き抜くための確信犯的な処世であると評したが、今にして思えば、村上作品の「僕」は「恥知らず」というよりも、世の中の全ての2項対立(例えば、正しいこととそうでないことと思われていること)から必然的に「引き裂かれ」、その「ねじれ」を抱えるが故に決定を常に「ためらう」存在として在る人物なのだといえる。

それは、村上春樹の初期作品を現在という地点、あまりにも上から眺めすぎた視点かもしれない。やはりチャンドラーではなく、ハメットのスペードこそが「僕」なのかもしれない。が、まぁそんなことはどうでもいいか。
村上春樹がチャンドラーを敬愛し、その彼が『ロング・グッドバイ』を完訳した。その中で描かれたマーロウやレノックスの造形は、明らかに村上春樹的であった。それは村上春樹が訳したことの単なる帰結というよりも、村上春樹とチャンドラーこそが相似的な(相性がいい)存在なのだということを演繹的に僕らに指し示すのではないだろうか。彼らの主人公たちは決してロマンチシズムを捨てない。その源泉としての可能性を固持し、自らの格率(マキシム)を生きるのである。(だから彼らはタフ(ハード)であると同時にやさしい)

こうなると、『さらば愛しき女よ』なども村上訳で読んでみたい気がしてくる。その際の邦題はやはり『フェアウェル、マイ・ラブリー』になるのだろうか。。。個人的には『プレイバック』もお願いしたいところかも。
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by onomichi1969 | 2007-03-18 11:27 | | Trackback(3) | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 トニー滝谷 semスキン用のアイコン02

  

2007年 01月 21日

a0035172_1524454.jpgトニー滝谷の妻はいつも優美に服をまとっていた。彼女は元々洋服を買うのが好きであったが、ある時期を境にそれはまるで何かの中毒のように抑制が効かなくなってしまう。彼女は言う。「目の前に綺麗な服があると、私はそれを買わないわけにはいかないの」

孤独と恋の話である。トニーは彼女と出会う前、孤独であった。彼は彼女に恋をし、二人は結婚する。恋は孤独を安住の地から耐えがたい牢獄に変える。では、彼にとって結婚は安住の地となりえたのだろうか?
トニーは彼女のことが好きであったが、彼女が服を買いすぎることが気がかりだった。実際にそのことが彼女を突然の死へと導いてしまう。
彼女は洋服を買うことを「ただただ単純に我慢ができなかった」 それは彼女の中の異質なものの発現であり、今ある状態に決して充足できない何かが、彼女の趣味であり可能性であった洋服を過剰な渇望に変えてしまったのである。それは彼女にとって孤独と等値なのだろうか?

トニーは結局、孤独に帰るのであるが、それはもう静かで穏やかな世界ではありえない。大きな欠落感であり、生暖かい闇の汁である。
ただ、映画で最後に(原作にはない直接的な表現としての)希望の光、ある種の共有感への予感が描かれている。トニーはひとりぼっちであるが、もう孤独ではいられないはずなのだ。このシーンは原作にはないが、悪くないと僕は思う。

映画。
多くの人が指摘するように、映画『トニー滝谷』は、小説の朗読と映像、音楽及び独白で綴られた作品であり、従来の(映画的と言われる)手法の映画とは趣きを異にする。ページを捲るように場面は展開し、単調な調べはその作品を小説それ以上にもそれ以下にもしない、そういう配慮のようにも思える。
僕はこの短編小説が好きなので、この作品も好きである。市川準の映像も小説世界にマッチしているし、宮沢りえの透明感溢れる存在感もよい。イッセー尾形は年を取り過ぎており、僕のトニー像にはいまいちフィットしないが、まぁそれなりの表情をみせる。
この映画で退屈することはまったくなかった。小説を読むように映画が展開するのだから、小説を楽しむように、この作品を楽しむことができるだろう。 2004年日本映画
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by onomichi1969 | 2007-01-21 08:59 | 日本の映画 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 100%の女の子 semスキン用のアイコン02

  

2006年 08月 27日

村上春樹の短編に100%の恋愛の話がある。それはこんな話である。

「お互いを自分にとっての100%だと思っている男の子と女の子がいました。100%の恋人同志でいることはとても素晴らしいことでした。あるとき2人は本当に100%同士かどうか確かめるために一度別れてみることにしました。ところが運命のいたずらか、別れたとたんに2人とも重い病気に罹り、治ったときには昔の記憶をすっかりなくしていました。それから2人はなんとか努力して社会復帰をはたしましたが、お互いのことはすっかりと忘れてしまいました。それぞれに新しい生活を始め、60%や70%の恋愛、また80%や85%の恋愛も経験しました。そして月日は驚くべきはやさで流れていきました。
ある晴れた朝、男の子はある用事で街へ出かけます。女の子もまた違う用事で同じ街に出かけます。そして2人は、その同じ街のある通りの真中で遭遇したのです。2人はすれ違い、一瞬見つめ合います。そのとき、失われた記憶の微かな光が2人の心を一瞬照らしました。
「彼女はもしや・・・」
「彼こそはもしかしたら・・・」
しかし、彼らの記憶の光はあまりにも弱く、2人は言葉もなくすれ違い、そのまま人ごみの中に消えてしまいました。
悲しい話だと思いませんか?」

正直に言うと僕は学生の頃、この話を女の子への口説き文句に使っていた。初めて会った女の子にこの話をするのである。
「100%ってすごいよね。でも、昔、両性具有だった人間がゼウスに引き裂かれて以来、僕らは失われた片割れを求め続けているんだよね、、、」なんて話を付け足して。なんと赤面チックなことを言うものだと思うかもしれないけど、でも、僕はこの村上春樹の超短編小説に心底、100%共感したのだ。それは事実である。それからプラトニック・ラブについてもそれをその不可能性のベクトルによって信じていた。だから僕はこの話を自分の独善的な恋愛観として聞かせたかっただけで、それを女の子に示すことが一種のポーズだったのだ。もちろん相手の女の子がどう言ったのかなんて覚えていないし、興味はなかった。

この100%の恋愛の話を悲しいと思う僕自身が悲しい存在なのです。

そのことを言いたかっただけなのだ。当然のことながら、そんな人間はいつかしっぺ返しをくらうしかない。

a0035172_23395137.jpgこの小説は山川直人によって映画化されている。
このDVDは発売と同時に買った。当時DVDプレーヤーを持っていなかったにも関わらずw

僕は(僕らは)今でもこの物語を悲しいと思うだろうか?



恋愛というのは相手を甘く見ることである、、、というのは最近読んだ小説(これについてはまたレビューしますけど、女の子は恐るべしということを痛切に教えてくれる小説です)の一説だけど、そもそも、そういった悲しい出発点にいちいち納得してしまうことからして、僕はあまり進歩がないのかもしれない。
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by onomichi1969 | 2006-08-27 23:48 | 日本の映画 | Trackback | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 村上春樹 『東京奇譚集~品川猿~』 semスキン用のアイコン02

  

2005年 10月 08日

a0035172_19294661.jpg村上春樹の小説では、『ダンス・ダンス・ダンス』が好きで、特に印象に残っているのは五反田君を巡る物語である。僕は、それ以降の作品でも知らず知らずのうちに五反田君の行方を追うようになった。
五反田君が初登場したのは、『ダンス・ダンス・ダンス』よりも前の『納屋を焼く』という短編である。(正確には五反田君的人物であるが、、) 『納屋を焼く』は、近所の納屋を放火してまわる人物の独白が描かれるのであるが、無用の納屋の放火という牧歌的犯罪とは全く対照的に、この物語が僕らに不気味な底知れなさを与えるのは、「納屋を焼く」ことが「女の子をレイプして殺害する」という不条理で性的な殺人行為を暗示するからだと言われる。確かにこの人物と付き合っていた女の子が最後に音信不通となることがそのことを僕らに想起させる。
このメタファーは既によく知られており、その衝動的且つ計画的な犯罪行為のひとつの可能性として納得できるものである。その辺りは解釈の問題であるが、重要なのは、『納屋を焼く』という短編が「人間の底知れなさ」を暗示的に示すことによって、その恐怖感をよく描いているということである。
「心の闇」を背負い、常にそれと葛藤しながら、悪に引き摺られる人物が五反田君の原型であり、それは善良なもう一つの顔、エリートで仕事ができ、誰からも好感を持たれるポジとしての面、傍からはその正体が全く分からないという恐ろしさが大きな特徴なのである。

『納屋を焼く』は、「女の子をレイプして殺害する」ことを暗示させて、読み手に受動的な恐怖感を与えるのと同時に、自分も五反田君の側に立つ人間なのかもしれないという主体的恐怖をも感じさせる。だからこそ、『ダンス・ダンス・ダンス』以降の五反田君の行方が僕は気になるのだ。

五反田君は、『ねじまき鳥クロニクル』で綿谷ノボルになり、『海辺のカフカ』ではジョニー・ウォーカーに変遷していく。実は五反田君的人物はいつの間にか綿谷的人物に変節しており、その性質は既に完全に変化しているのである。つまり、五反田君的悪は、その葛藤を失い、着実に純化している。五反田君的葛藤はもう小説として、時代的な説得力がないのであろうか?

村上春樹の新作『東京奇譚集』の最後の書き下ろし作「品川猿」には久々に五反田君的人物、松中優子が描かれる。しかし、松中優子の葛藤、その「心の闇」はこの短編のメインテーマから確実に外れている。言うまでもなく、この短編の主旋律は、主人公、安藤みずきの心のデタッチメントの気付きであり、その快復である。愛されない子供が如何にして人を赦し、自らを快復できるのか、これは『海辺のカフカ』のテーマを引き継いだ形となっており、引いてはこれまでの一人称小説の主人公が持っていた虚無感という無根拠の根拠を明らかにしようという試みでもある。それはとても大切なことだし、その心の由来もよく分かる。
しかし、それでも僕はこの短編の松中優子の存在、森の中で自らの手首を切り刻み血まみれで死んだ彼女の葛藤の行方を知りたいと思う。それはこの小説でもやはり描かれない。

僕は村上春樹の次作には改めて五反田君の行く末を期待したいと思う。そうでなければ、象は永遠に草原に還ることができないのだ。。。五反田君的煩悶と葛藤は今でもリアリティがあるし、そのリアルさを投げ捨ててはいけないと僕は思う。
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by onomichi1969 | 2005-10-08 01:38 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 村上春樹 『東京奇譚集~偶然の恋人~』 semスキン用のアイコン02

  

2005年 09月 26日

a0035172_1932652.jpgこの短編では2つのことが確信的に語られている。
ひとつは「偶然の一致」について、もうひとつは「赦し」について。
そしてこれら2つのことが物語として繋がる時、この小説は僕らにささやかなバイブレーションを届ける。

偶然の一致とは、実はとてもありふれた現象で、その大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされる。しかし僕らに強く求める気持ちがあればそれはあるメッセージを浮かび上がらせる、その時、それはまったく不思議なことなのではなく、僕らの為に呼び寄せられた必然的な出来事になりうるのだ、、、ここで著者はこの物語の語り部たるゲイの調律師にそう語らせるのである。

村上春樹の小説では、このような感覚の出来事はわりとありふれているが、ここまでストレートに偶然の一致について述べた(語らせた)ことはなかったように思う。確かにその偶然というものの捉え方には素直に納得するし、至極もっともなことだと思う。しかし、僕らは一体何を強く求めればいいのだろうか?

著者自身もゲイの調律師の言説を少々都合がよく、対象があいまいすぎると感じているようだ。そのため、よりシンプルなものの考え方として、神様(偶然)を引き合いに出す。
僕自身の感触でも、僕らがあるきっかけを捉えるには「偶然を必然に変えるような強い意思」を持つというよりも、常に自分自身に耳を澄まし、自らの視点を安定させることで自身の明澄たる心の有りようが得られる、そのことこそが大事なのではないかと感じる。もっと言えば、きっかけやタイミングのようなものにいかに素直に捉えられるかは、「赦す」という心持ちからこそ得られるものだと思うのだ。

『海辺のカフカ』が赦しの物語であったように、この短編でもゲイの主人公が喧嘩別れした姉を赦す場面が描かれる。赦しという行為は、相手が僕と同じ(弱い)人間であるという確信に由来する生きていく原理そのものである。僕らがまっとうに生きていく為には、いまこそ「赦す」ことからやり直さなければならない。その為のきっかけを掴む為に僕らは常に自分自身に耳を澄ます。そしてそこに見えてくる自分自身の弱さを優しさの感情へと変えていくのだ。
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by onomichi1969 | 2005-09-26 23:00 | | Trackback | Comments(1)

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