Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 ニューシネマパラダイス "Nuovo cinema Paradiso" ~あの兵士は誰なのか?~ semスキン用のアイコン02

  

2004年 08月 07日

a0035172_1111178.jpg兵士はなぜ99日待ちつづけて100日目に現れなかったか?
それは100日目には王女様が現れてしまうことが約束されていたからではないでしょうか。99日目までに王女が現れることへの期待と待つことによって募っていく憧れそのものが彼にとっての恋愛だったと僕は思います。

可能性としての恋愛。憧れ。叶わない、手の届かないことの中に可能性としての恋愛がある。それは、挫折を恐れるナイーブな感性をもつアルフレドの人生観そのものじゃないかな。あの兵士はアルフレドそのものでしょう。

逸話の中の王女とスクリーンの中の女優たち。
アルフレドの憧れとトトの挫折。

この映画の忘れられないラストシーンもそう考えるとよりいっそう印象深いものになるんじゃないかな。1989年イタリア・フランス映画(2002-04-11)

完全版のレビューはこっち!
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# by onomichi1969 | 2004-08-07 01:13 | 海外の映画 | Trackback(2) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 クロッシング・ガード "The Crossing Guard" ~見えない出口を求めて~ semスキン用のアイコン02

  

2004年 08月 07日

a0035172_117240.jpgショーンペン監督2作目は、彼の前作<傑作でもある>「インディアン・ランナー」と同一線上にある作品といえる。

「兄は弟を追いながらそのことの意味を理解できない。弟は兄に追われながらその理由を失っている。」
「インディアン~」のレビューで僕はこのように書いた。人が理由なく分り合えないという切実さを描いたのが「インディアン~」であれば、「クロッシング~」はその地平をさらに一歩進め、そして反転させ、そこからポジティブな回路を模索しているように思える。追う者と追われる者という図式は同じだが、双方にはそれぞれ、そうするための理由が存在する、加害者と被害者という明確な理由があり、それは、お互いが分かり合える足場を既に失っていることを意味するのだ。

にもかかわらず、お互いがその「分かり合えなさ」に対する信憑すら持てず、失った足場の上空でもがきながらも理解への希望を捨てていないようにみえる。絶望的な立場を超えて、人と人はどうコミットし得るのか。いや、絶望的だからこそ、意味を求めてコミットする、その向こうに何があるのか。それは非常に難しいモチーフだ。この作品ではっきりとその答えが示されているとは言えないし、作品自体も1作目に比べて散漫な印象がある。ただ、目指すべきところには大いに共感できるし、正直、ぐっときたんだなぁ。
この監督、やっぱり只者ではない。ショーンペンは今後も注目すべき監督であることは間違いないだろうね。1995年アメリカ映画(2003-10-09)
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# by onomichi1969 | 2004-08-07 01:04 | 海外の映画 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 『三島由紀夫vs東大全共闘』 semスキン用のアイコン02

  

2004年 07月 10日

a0035172_434.jpg最近、三島由紀夫と東大全共闘との討論会を収録した本を読んだ。三島といえば、自己観念の住人のようなイメエジを持っていたけれども、案外にも観念と現実(文学と政治)についての思考は明解であったような気がする。それは本書の中の精神と肉体や時間認識に関わる彼の論説に垣間見える。
言うなれば彼は時代の仇花であった。彼は自らトリックスタアと化した。(彼曰く、それは自らの歴史によるのかもしれない…と) いまや彼のような人間はどこにもいないし、誰もバカらしくてそんな行動はできない。けれども、彼の行動に対して誰も正しく批判できていないのではないか?とも感じる。なぜなら彼はあまりにも「正しく」行動し、そして自覚的であったから。彼の嫌悪した日本の戦後民主主義は、バブルを経由しても未だ無自覚に信仰されているのである。(そういえば同じ戦後日本の言語空間を批判していた江藤淳も自殺した。)
改めて彼の小説群を読んでみようと思う。三島由紀夫とは、「春の雪」や「金閣寺」のような美しくも儚い小説を書き、自衛隊に飛び込んで割腹自殺した人間なのです…。彼は結局、美に殉じることを通して、自己観念への永遠の呪縛を開放してみせたのだろうか。僕は同じ日本人として、同じ現代を生きる人間として、もう一度彼の声に耳を傾けてみたいと思う。答えはもう彼の小説を越えてしまったかもしれないが。
それにしても東大全共闘の論説は非常にクールである。非連続的な時間を共有できる人々。彼らは三島のように行動できなかっただろう。彼らは日本赤軍や連合赤軍のようにならなかっただろう。(これは彼らを批判しているのではない。彼らの昇華しきれない観念、超越しきれない行動と自然に対する苦悶を僕は切に感じる)
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# by onomichi1969 | 2004-07-10 04:04 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 真島昌利 『夏のぬけがら』(1989) semスキン用のアイコン02

  

2004年 07月 10日

a0035172_35535.jpgブルーハーツのファンなら知っている人も多いかもしれないが、真島昌利のソロ1stアルバムに『夏のぬけがら』という作品がある。
このアルバムは、僕が大学1年くらいの時に発売されたので、もう15年以上前の作品になるか。
基本的に全編アコースティックサウンドで非常に地味な印象かもしれない。でも、サウンドは心地よく、ボーカルは例のだみ声。
このアルバムが発売された時、ある音楽評論家は、ボーカルがへたくそで聴くに堪えないと酷評していた。まぁ、そう思えないこともないが、うたがヘタであっても、心に響くこともあるものである。(最終的にはウマヘタの基準も個人の感覚だ。。。)
全体的にけだるい感じの曲調で、もどかしさややり切れなさ、言い知れない優しさ、どうしようもなく切羽詰った感情を唄った詩が印象的。唄い方も雰囲気がある。

僕は、このアルバムの中の『カローラにのって』という曲が好きで、夏の天気の良い日には愛車マーチ(残念ながらカローラではなかった)に乗りながら、カセットデッキでこの曲を繰り返して聞いたものだ。
今でも夏の終わりになると、このアルバムを無性に聴きたくなる。

『夏のぬけがら』は、巷であまり話題になることもなかったので、今や忘れ去られた夏の名盤と言えない事もない。。。?
まぁ、とにかく興味をそそられた人は御試聴を。。。 
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# by onomichi1969 | 2004-07-10 03:56 | 日本のロック | Trackback(2) | Comments(12)

semスキン用のアイコン01 インディアン・ランナー "The Indian Runner" ~時代遅れの震え~ semスキン用のアイコン02

  

2004年 07月 10日

a0035172_35223.jpg正義漢の兄と落ちこぼれの弟のお話。兄弟は、話の展開にしたがって徐々に心が離れていくようにみえる。理解しあえるようでいて、それはどんどん遠くに離れてしまうのである。そのことの理由は語られない。最終的に警察官の兄が犯罪者となった弟を追跡するシーンにまで至り、父親は兄弟の確執とは関係のないところで意味もなく自殺する。図式はありふれているし、話としても結構単純だ。しかしそのモチーフは僕にとって切実に思えた。

兄は弟を追いながらそのことの意味を理解できない。弟は兄に追われながらその理由を失っている。自分の心さえ掴めない寂莫感にお互いが自覚的ではあるけれど、最後に兄が弟を見逃すシーンに言葉はなく、ただ「アイ・シャル・ビー・リリースト」(byザ・バンド)が流れるのみ。「いつかきっと僕は解放されるだろう」
あー、なんてリアリティのないフレーズだろうか。そのことの空虚さが心を締め付ける。

「インディアンランナー」はたぶん時代遅れな映画だ。すべてに自覚的でありすぎる分、それはもう時代遅れなのだ。僕らはその時代遅れの気分でしか、もう心を震わすことができないかもしれない。それはとても切ないことだけど…。

<ちなみに冒頭で、狼の力を盗んで鹿狩りをするインディアンの逸話が出てくる。弟の中で幻影のように現れるインディアンとは、自分自身に潜む凶々しさとその神々しさが一体となったスピリチュアル・イメージであり、その「らしさ」に理由がない絶対的な存在としての強迫観念でもあるのだ。>1991年アメリカ映画(2002-01-17)
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# by onomichi1969 | 2004-07-10 03:53 | 海外の映画 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 坂口安吾 『青春論』 semスキン用のアイコン02

  

2004年 07月 10日

a0035172_33922.jpg「淪落」というのは、坂口安吾の『青春論』の中にでてくる言葉である。
「現実の中に奇蹟を起こすこと」らしい。
僕は学生のころにこの文章に出会って非常に衝撃を受けた覚えがある。ただ最初は、安吾の言葉の勢いに圧倒されただけだと思うが。。。
こんな風にも書いてある。

僕の青春は「失われざるための愚かしさ」があるのみで、それは同時に「淪落」であると。

今の僕はこう思う。
安吾は切ない。

というか、もどかしくもある。それはまるで自分と向き合っているときのようなもどかしさ。
いみじくも安吾自身も例えば孤独ということについてこのように言っている。
「僕は全身全霊をかけて孤独を呪う。全身全霊をかけるがゆえに、また、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものもない。魂の孤独を知れる者は幸福なるかな。・・・けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと思う。云々」
ここで言う孤独とは、自分自身とも置き換えられる。自分自身に対する信とその行き場のなさの堂堂巡り。
結局は生きるとはそういうことなのだ、ということ。
安吾の文章はそのことを言うためだけのものにしては切実すぎる。。。
(まるで人の行き方の割り切れなさを表明しているようなものだ。)
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# by onomichi1969 | 2004-07-10 03:40 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 Brian Setzer "The knife feels like justice"(1986) semスキン用のアイコン02

  

2004年 07月 10日

a0035172_33216.jpgかのブライアン・セッツァーがオーケストラを組んで活躍しているという話を最近になって知り、遅れ馳せながらようやくCD『ダーティー・ブギ』を聴いた。
相変わらずのあの声。ちっとも変わらない。。。でも、ストレイ・キャッツ・オーケストラという感じがしないでもないか。
ブライアン・セッツァーといえば、ストレイ・キャッツ時代のアルバムが有名だが、僕が一番好きなのは、セッツァーのソロ1st"The knife feels like justice"(1986)という作品なのだ。
それは80年代中頃のこと。。。
僕は、MTVでこの表題曲がかかっていたのを偶然耳にし、そのカッコ良さに痺れて思わず貸しレコード屋に駆けこんだ。僕自身はストレイ・キャッツをよく聴いたというわけでもなく、セッツァーにとくに思い入れもなかったが、"The knife feels like justice"を最初に聴いた時の印象はやはり忘れられないものがある。
このアルバムは所謂ポップ色の強いロックンロールが基本的なスタイルである。たぶんそれは当時流行っていたブライアン・アダムスやジョン・クーガーの影響なのだろう。だが、セッツァーの曲には彼らにない独特のキレがあり、それが僕にとっては新しい感覚だったのだ。(それはまるでナイフのように、、、)
あのドスのきいたダミ声に響きのあるギターサウンド。時に甘く、時に渋く、それは切迫感のあるフレーズとともに僕らの体に沁み入り、そしてブギ-の疾走感とともに空間を突き抜ける。
特にミドルテンポの表題曲なんて最高にカッコイイ。
このアルバムは絶対にいい。売れる!と思って、その当時、結構ふれ回ったが、結局あまり話題にはならなかった。残念ながら。。。
しかし、今、彼のオーケストラがヒットを飛ばした(ちょっと古いが)ようだし、もし彼の声に痺れた人がいたのならば、彼の昔のアルバムも手にとって欲しい。
でも、今聴くとやはり古い!って思うかもしれない…。
良くも悪くも80年代サウンドなのである。(2000-01-20)

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Brian Setzer "Live Nude Guitars"(1988)のレビューはこちら!
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# by onomichi1969 | 2004-07-10 03:33 | 80年代ロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 「うたのひびき」とはなんだろうか?試論 semスキン用のアイコン02

  

2004年 07月 10日

a0035172_32752.jpgポップミュージックにおける詠い手の役割というのはとても重要である。声が楽曲を構成する他の要素に比べて、ひとのココロに響きやすいことは誰もが感じるところであろう。ジャズやクラッシックでの声楽曲というのは、カテゴリーとして全体の一部にすぎず、ある意味で語りとしての役割を担っていた為にその必要が求められる曲に限定される。つまり、声楽曲が楽曲全体の中での調和<音程>を重要視されていたのに対し、声そのものの響きが構成要素としての価値をもち始めたのはゴスペル等の所謂ソウルミュージックからなのである。情念の深い黒人音楽の中でソウルとは魂であり、それは絞られ震わされる声そのものであろう。R&Bのスターであるオーティスレディングにしろ、ウィルソンピケットにしろ、その唱法は、まさに「ソウル」に溢れたものだ。エルビスによって白人によるロックンロールが広められるが、それは始源において黒人音楽の模倣であり、当然その唱法もしかり。但し、響きにおいて、その声が黒人と殆ど同じ味わいを持ち、さらにはハイブリッドであるが故の如何わしさが別の魅力として、新たな響きを持ち始めたのは60年代も後半以降であろう。ストーンズのミック・ジャガーは、そのデビュー当時より、ひしゃげた響きのある黒っぽい唱法によって、独自のボーカルセンスを魅せつけたが、スモールフェイセズのスティーブ・マリオットに至っては黒人同等の響きの声を持ち、さらにはバンド特有のロックスピリットとの融合により、独特のグルーブ感を発散させ、ロックボーカルのスタイルとしてひとつの典型を確立したといえよう。。。

僕はロック&ポップミュージックをボーカリストによって選ぶ。

スティーブ・マリオット、フェリックス・キャバリエ、ポール・ロジャース、ヴァン・モリソン、ジャニス・ジョプリン、リチャード・マニュエル、ローウェル・ジョージ、ボズ・スキャッグス、ミック・ジャガー、ピーター・ウルフ、ロッド・スチュワート、ステーブ・ウィンウッド

ここに響きを共有するひとつの類型がある。それは「ソウルフル」な「ロックボーカル」と言われるものだ。僕が愛すべき類型。

ラップが流行りである。ラップは元来メッセージそのものを強調する表現方法であったが、昨今、特に日本におけるラップミュージックというものにメッセージは皆無であり、そこにはニュアンスの共有を「言葉遊び」する感覚があるに過ぎない。声は平板で響きに乏しく、それがココロに訴えることはない。今、メッセージを叫ぶことは空虚感を通り越して、滑稽であることは否めないのだ。なぜなら、訴えることがないからだ。僕らは空虚感への敗北を背負う運命にあるが、悪いことにそのことへの自覚は年々希薄になっているようだ。空虚感への敗北に対する無自覚というものの当然の帰結として、今の状況がある。

響きとはなんだろうか?なぜ僕は響きを欲するのか?

厳密に言ったら精神的自由などというものはどこにも存在し得ないものだと思う。だって精神というものは僕らを縛るものであり、僕らは精神というものに本来縛られたがっているのだから。でも、そういう精神なんて今の世の中、どこを探したらあるのだろうか。
60年代、ロックムーブメントを支えたヒッピーやモッズ達が信じた自由とは、そんな自覚が生み出すある種の諦めや敗北感からの自由だったのではないか?(だからこそ僕らはあの時代の映画や音楽に触れて心を震わされるし、時代の感覚として確かにそれは僕らの胸に切羽詰ってくる。)
彼らが敗北感への反抗に対して敗北を味わった…といえるだろうか。確かに彼ら自身はそうかもしれない。でも僕らは今でもそういう敗北感に対するラディカリズムをある生き難さの感覚として抱えている。

「叫びたいことなんか、ない! ただ、響きを感じること、そのことに覚える感動が欲しいのだ。」
「響きのないR&B唱者よ!あなたは幸いである。なぜならあなたの聞き手は響きを欲さない平板の民であるのだから。」
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# by onomichi1969 | 2004-07-10 03:29 | ロック全般 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 Electric Light Orchestra "Balance Of Power"(1986) semスキン用のアイコン02

  

2004年 07月 10日

a0035172_31910.jpg久々に『ディスカバリー』を聴いてみた。確か『ディスカバリー』からELOのサウンドはそれまでのストリングス中心からキーボード中心のアンサンブルに変わった。
そして『アウト・オブ・ブルー』を聴いてみる。大仰なストリングス。う~ん、さすがに20年前の最新サウンドも今や古めかしさを拭い切れないか。。。
でも、でも、僕はELOが好きだ。いや、ジェフリンのあの変わらぬメロディラインが好きなのだ。
そこで、僕がお薦めしたいのがELOの80年代中期の作品『バランス・オブ・パワー』である。ELOの中で屈指の不人気アルバムでもある。
でもこのアルバムは素晴らしい。ここには当時の新しいELOサウンドがある。80年代後半から90年にかけてプロデュース業で大活躍するジェフ・リン・サウンドの萌芽、そしてELOサウンドの完成形がある。よりシンプルでポップなアレンジ。スカッとしたり、ダルっとしたり、これまで以上にキャッチーで親しみやすいメロディ。リラックスしたボーカル。主旋律を奏でるギターサウンド。どれをとっても今までにない味わいであった。
これまでのように凝りに凝ったサウンドではないけれど、リラックスし、よりシンプルに纏められている。今までのELOサウンドからひと皮むけたようだ。
今聴いても新しいELOサウンド。それが『バランス・オブ・パワー』なのです。

『コーリング・アメリカ』を聴いて欲しい。あのシンプルでトボけた味わい。ジェフ・リンはこのアルバムで掴んだんでしょうね。シンプル・イズ・ポップだってことを。
素朴になったスペース・サウンド。それはELOの完成形であり、またジェフ・リンが帰着したポップ・ロックの成果ともいえるのだ。(2000-01-20)

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Electric Light Orchestra "A New World Record"(1976)のレビューはこちら!
Electric Light Orchestra "Out of the Blue"(1977)のレビューはこちら!
Electric Light Orchestra "Discovery"(1979)のレビューはこちら!
Electric Light Orchestra "Time"(1981)のレビューはこちら!
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# by onomichi1969 | 2004-07-10 03:20 | 80年代ロック | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 バッファロー'66 "BUFFALO '66" ~内包する弱さの救済~ semスキン用のアイコン02

  

2004年 07月 10日

a0035172_25912.jpgヴィンセント・ギャロは、自らの腐っていく弱さと自閉していくイノセンスをギリギリのラインで救済して見せたのだと思う。

この映画を「主人公にとって都合の良すぎる展開だ」ということで責めるのはちょっと違う。それはその展開こそが映画の方法論だからだ。
この映画が指し示す「愛情」というテーマには切実に納得させられた。ビリーにとってレイラが確かな存在として捉えられる、その弱さを包含したからこそ了解される「愛情」がビリーを破滅から救うことになる。ビリーというとてつもなくか弱いキャラクターをギリギリまで粗暴に扱っておいて、最終的にレイラへの「愛情」という装置に吸収してしまう方法は、一見するとなんの変哲もない物語に思われるかもしれない。ただ、僕にはその弱さの自明的な崩壊がギリギリのところで救われるというか、1周ひっくり返ってやっぱり救われる、崩壊への暴力と広範囲な救済をない交ぜにするような「愛情」という風呂敷でスッポリと包み込んで救われる、というような微妙に違和感のあるラインがとても新鮮だったのだ。

ギャロが最後のシーンで描きたかったのは、個から愛への広範囲なひっくり返しの救済というイメージだったのだろうと思う。確かにイメージへの意識が強すぎて、展開が唐突な感じがしないでもない。レイラの母性を強調しすぎる点もちょっとひっかかる。しかし、今の世の中で成熟を永遠に放棄した人間たちがその内包している弱さを開放する方法など全くないのが現実なのだ。ギャロはそれをどうだと言わんばかりに開放してみせた。
そこには人間の成長物語など初めから存在していないことに留意してほしい。人間の弱さこそ優しさの源泉だと僕は思う。しかし、それは腐っていくものだ。そして、それは絶対的な強さに転換などしない。僕らはそれをただ抱えていくのみで、そのことは人間の成長とは全く関係のないことだ。

敢えて言えば、損なわれつつある人間が絶対的な個という「強さ」を放棄することによって回復していく、そういう可能性の物語なのだといえるのではないか。1998年アメリカ映画(2004-05-19)
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# by onomichi1969 | 2004-07-10 03:00 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

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