Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 きみに読む物語 "The Notebook" semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 01日

a0035172_2217787.jpg胸がじーんとなった。
ジーナ・ローランズとジェームズ・ガーナーの2人が良かった。そして、もちろん若い2人、レイチェルとライアンも最高にハマっていたね。
ストーリーは最初からミエミエ(あっちの2人がこっちの2人に重なれば、そりゃそうなるよね)なのだけど、それでも感動した。僕って、こういうベタなラブストーリーにめちゃめちゃ弱いのです。

レイチェル・マクアダムスがとにかく可愛かった。特別に美人!って感じではないんだけど、表情が豊かで、素直に感情が迸るところなど、すごく愛嬌があって、思わず抱きしめたくなる感じ。
ライアン・ゴズリングも生真面目で一途な感じがよく出ていた。少し憂いがある目元もいい。彼の言葉、"I want all of you, forever, you and me, every day!"... しびれました。
ジーナ・ローランズ。『グロリア』の彼女もすっかりおばあちゃんになってしまったけど、最後に見せた笑顔がとても可愛くて、救いがあったよ。
そして、ジェームズ・ガーナー。『大脱走』カッコよかったなぁ。あの精悍なアメリカの調達屋がすっかり好々爺になっていて。。。でも、ラストシーンにはとてもグッときた。昔の写真の2人もキマっていたよ。(敢えてこっちの2人の写真にしたところが僕はよかったと思う) 2004年アメリカ映画
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# by onomichi1969 | 2012-07-01 22:19 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 日本古代史を科学する semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 01日

a0035172_1229032.jpg序章【二十一世紀の科学】には感銘を受けた。
世界は、複雑系の科学によってしか解明できない。ニュートン力学のような線形物理学のみでは、もはや世界を明らかにすることはできず、科学は、物理学的な曖昧さや確率論、非線形現象や離散系を受け入れなければならない。結局のところ、初期条件のみでは運動は確定せず、近似や補正なくして、科学は何も決定できないことが科学的に証明されているのである。(ラプラスの悪魔も現代では発狂死してしまうだろう)

科学的アプローチとは何か? 僕自身、エンジニアであり、設計者であることもあり、日頃からそういうことは意識せざるを得ない。科学的アプローチのひとつにリスクアセスメントという手法がある。リスクを点数化するこの方法にとって、前提条件というのはとても重要な事項となる。設計者にとっての設計条件も同様である。設計条件、前提条件をどこから引っ張ってくるのか? 公的な推奨値なのか、テストデータなのか、実績値なのか、安全率はどのくらい見込むのか?

最近、科学の限界故に、その根拠が信用できず、前提の中に絶対的な国民感情とも言うべき非科学性を入れるべきだとする論説がある。実は、そんなことは科学の世界で珍しいことではない。それは往々にして、実際に起きた事故の影響によって付け加えられる。事故が起こり、その後の訴訟等の影響も鑑みて決められた条項、科学者が手を出せない政治的な領域というものはどの分野にもある。(科学的根拠やビジネスを超えて)

それはそれとして、僕らエンジニアは科学的アプローチを手放して前に進むことができないが、アプローチとして適用する科学は、多くの場合、いまだに線形物理学を基本せざるを得ない。現象の複雑系故のばらつきや不確かさを近似し、単純化すること、そして、前提条件を決定する。前提となる公理、公準とそこから導き出される定理、公式から理論を構築し、実証していくというプロセスがあり、前提条件を間違えてしまうと、結果は全て台無しになってしまう。それが数値や安全率の話ならまだいいが、方向性を間違えれば、それは全く取り返しがつかないことになる。前提条件の決定こそは大いなるリスクなのだ。(エンジニアリングの世界でもフロントエンドが最も重要と言いますな)

いささか大げさな話になってしまったが、、、
実は今回取り上げる『日本古代史を科学する』は、邪馬台国の位置や大和朝廷との関連性を科学的に明らかにする試みなのだが、その前提条件が『魏志倭人伝』への絶対的な忠実性なのである。当時の先進国である中国王朝の史書に間違いはない、に違いないという前提。。。これって、そもそも間違っていませんか? (序章はすごく良かったのに。。。)

最近、古代史ブームなのか、同様の本がいくつか新たに出版されている。
八幡和郎著『本当は謎がない「古代史」』、森浩一著『倭人伝を読みなおす』とか。(何故か最近の新書ではどれも邪馬台国九州説!) 松本清張の古代史シリーズでも書いてあったけど、魏志倭人伝の全ての記載を信じることはナンセンスである。どの部分が正しくて、どの部分がいい加減か、それを見極めることが大事であると。倭人伝の記述を中央官史の(お気楽)出張報告とみれば、邪馬台国に到達するまでに掛かった日数は大いに怪しい(滞在旅程を移動日程に付け替えたり、旅程などそもそもクソまじめに報告する必要性などない)と考えるのが妥当だろう。つまり、邪馬台国の位置を倭人伝に記載された陸行や水行の日数で大真面目に推し量るというのはナンセンスである。

それに対し、信用できそうな(虚偽が許されない)のが、方角、現地での習俗や戸数の記載など。
そういったもろもろのことを合理的に考えれば、自ずと邪馬台国が何処にあるのかは決まってくるだろう。倭人伝に記載されている邪馬台国の人々の姿は明らかに南方系(江南地方系)である。邪馬台国には当時、7万余戸の家があったとされ、4人/戸とすれば、20万強の人々が暮らしていたことになる。その周辺(北部)にも多くの国が隣接しており、それだけ多くの人々が安心して共存できる(広く豊かで交通の便がよい)土地は何処にあったのか? 常識的に考えて、そういった場所というのは自ずと決まってくる。

本書の著者は、邪馬台国を宮崎に比定する。(そこでの距離計算はかなり強引でとても科学的とは思えないのだけど。。。) それは確かに大和政権が神武天皇より日向から起こったとされる古事記/日本書紀の記述にあう。邪馬台国と大和王朝は同じであるという考え。邪馬台国は本来「やまと国」と呼んでいたのであり、当て字に惑わされてはいけないのだと。

邪馬台国は東遷して大和の地に移った。著者はそのように言うが、そこにはゲルマン民族大移動なみの10万人単位の移住を想定しなければならない。仮に多くの人々を国元に残してきたのであれば、そういう記載が記紀にあってしかるべきだろう。記紀には、神武東征はごく少人数で行われたとしか書いていない。

邪馬台国と大和朝廷はその繁栄した時期に重なりもあり、全く違う王朝であったとみるのが妥当だと思う。但し、大和朝廷の起源が日向にあったことも記紀の記載から明らかである。邪馬台国は、筑後にあり、隣国の熊本(菊池)にあった狗奴国(狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」に比定され得る)と争っていた。そして、邪馬台国はその地でしばらく繁栄し、滅んだ。高千穂~日向を起源とする大和朝廷の祖先と全く関係ないとは断言できないけど、邪馬台国が国として引き継がれて、大和朝廷になったと考えること自体に無理があるように思う。(だから、邪馬台国は奈良にあったとも思わないけど)

この本で書かれている邪馬台国や奴国の人々が中国の江南地方から山東~朝鮮半島経由で海伝いにやってきたというのは、遺伝学的な根拠もはっきりしているし、おそらく正しいだろう。九州と朝鮮半島は対馬を挟んで近接しており、船で容易に行き来して、朝鮮半島の人々も随時、九州に移住してきたに違いない。元々、朝鮮南部は倭の一部(倭というひとつの国、カルタゴのような地中海国家)だったと見做す歴史家もいる。そこだけは科学的に納得できたかな。
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# by onomichi1969 | 2012-07-01 19:06 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 マイレージ、マイライフ "Up in the Air" semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 01日

a0035172_1020435.jpgこれは面白かった。主人公に共感できるところが多くあり、身につまされるというか。。。映画の評価って、そういうところが大きいよね。

主人公の生き方。孤独を愛し、同時に人を愛する。矛盾しているように感じるかもしれないけど、生活という拘束、結婚という制度を否定すれば、それは達成可能である。マイレージ(1000万マイル!)を生き甲斐とする考えは、ある意味で意地のようなもの。確かにアメリカの航空会社のマイレージって有効期限もなく、格付けによる利便性が高いので、それを自らのステータス、生活スタイルの象徴としてしまう心情も分からなくはない。但し、彼自身もそのこと、それが意地にすぎないことは分かっていて、だからこそ、最後にそれをあっさり否定してみせる。

アフリカを舞台にした30年前のレッドフォードとメリル・ストリープの映画を思い出した。人は恋愛によって変わる。恋愛はこれまで貫いてきた彼の「自由」な生活、孤独という名の自己愛と自然愛を脅かし、献身は自己の不安を呼び起こすが、それでも彼、彼女は否応なく惹かれ合う。彼らは、「恋愛」を知っている。故に、それに纏わる喜びや哀しみを繰り返し受け入れられる余地を持っている。いつでも、いつまでも。。。それなのに、何故、結婚しようとする? 人の重荷まで一緒に受け入れる必要がある?

結婚を否定する考えは反社会的、反倫理的で間違っている、という意見は正しい。なぜなら、人は老いる。結婚こそは人を老いの恐怖から救う制度、短い生涯を有効に生きる、人類社会の英知でもあるから。レッドフォードは若くして都合よく人生を終えてしまうけど、本作の主人公の人生は、これからもずっと続く。

現代的な現実としても考えさせられるけど、それ以上に胸にぐっとくるものがあった。それがいいのか、悪いのか、境遇が近いと、感想も書きづらいなぁ。人生万歳。。。2009年アメリカ映画
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# by onomichi1969 | 2012-07-01 10:39 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 幸せのキセキ "We Bought a Zoo" semスキン用のアイコン02

  

2012年 06月 17日

a0035172_2057174.jpgテーマを超えて、全編に溢れるロックテイストが心地よい映画だった。
音楽も60年代後半から80年代の名曲たち。ボブ・ディラン、トム・ペティ、ランディ・ニューマンにニール・ヤング。"Cinnamon Girl"が流れた時はなんかすごく嬉しくなった。

キャメロン・クロウと言えば、僕の中ではやっぱり『初体験/リッジモント・ハイ』(” Fast Times at Ridgemont High”:キャメロン原作・脚本作)である。言わずと知れた80年代ロック全開のハチャメチャ青春映画。(決してエロ映画ではない。ポロリはあるけど) ジャクソン・ブラウン、ドン・ヘンリー、Go-Go’sなど、80年代のロック&ポップに彩られた楽曲たち。そして、初監督作『セイ・エニシング』。カセットデッキから流れるは、ナンシー・ウィルソンの”All For Love”。

ナンシー・ウィルソンは80年代に流行ったロックバンド、ハートの中心人物、ウィルソン姉妹の妹の方。綺麗でスタイルがよくて、ムチムチした衣装でギターを掻き鳴らす姿がすごくセクシーだった。彼女がキャメロン・クロウと結婚したのが86年頃だから、ちょうどハートの絶頂期。ナンシーが82年のリッジモン卜・ハイに「車を運転する美女」で出演したのはどういう経緯だったのだろう? 当時、新進気鋭の若手ライターだったキャメロンとロック界のミューズ、ナンシー。

キャメロンとナンシーは2010年に離婚しているんだけど、僕にはどうしても、この映画の最後のシーン、カフェでの「20秒の勇気」のところは、キャメロンとナンシーの現実の出会いを思い起こさせる。年上の美女に勇気の告白。”Why not?” ナンシーならきっとそう言っただろうな。あんなに仲の良い二人だったのに。別れがあって出会いがある。スカーレットみたいな女の子との出会いだったら、それもまた良しか。人生万歳!2011年アメリカ映画
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# by onomichi1969 | 2012-06-17 21:19 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 断章:汎神論から不在の神へ semスキン用のアイコン02

  

2012年 06月 16日

a0035172_2336312.jpg「「不在の神」とは何でしょうか?」 そういう質問のようなものを連続して頂いたこともあり、少し自分なりに纏めてみました。取り留めもないメモのようなものです。

信仰としての神は、その対象としての実体であり言葉であり霊的なモノとして捉えられますが、神を哲学として捉えた時、スピノザに代表される汎神論、「いっさいの完全性を自らの中に含む神。超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因となる神。神とはすなわち自然である」という考えが一つの前提となります。完全性としての神は、言い換えれば信仰としての神の不在となり、スピノザは無神論者というレッテルを貼られることになりました。

汎神論は、「不在の神」という概念を導き出します。思想家であればシモーヌ・ヴェイユ、文学者であればドストエフスキーに代表される考え方かと思います。

ヴェイユは自己否定としての神を語ります。神は創造以前には全てであり、完全であったのが、創造によって自分以外のものが世界に存在することに同意して、自ら退くことになります。神の代わりに世界を支配するようになった原理は、人格の自律性、物質の必然性です。ヴェイユは、偽りの慰めを退け、想像上の神を信じる者より、神を否定する者の方が神に近いと言いました。全く神が欠けているということで、この世界こそが神そのものであり、その奥義に触れることで人ははじめて安らぐことができると、ノートに書き残しているのです。「神の恩寵は、しばしば不幸のさなかにおいてさえ、われわれに美を感じさせる。そのとき、ひとがそれまで知っていた美よりももっと純粋な美が啓示されるのだ」と。

神を実体として信仰することは、この世の中の不幸、幼い子供が虐待によって何の罪もなく死んでいくという現実の矛盾を肯定することと同義なのではないか?これはドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で問うた命題です。この世の中には絶対的な悪がある、それを以て神の不在を唱えるのは簡単であるが、その不在を含んだ世界の有り様にこそ、真に人を倫理的に人たらしめる道があり、それこそが信仰すべき対象、愛の源泉としての神の徴なのだと考えるしかない。ドストエフスキーの中には神の実在と不在が常に共存していました。

汎神論及び不在の神という概念は、認識論の中の究極の妥当性(二律背反の統合)という観点において、現代科学にこそ当て嵌まるものだと思います。欧米では、科学と宗教は基本的に矛盾しません。量子力学と神の存在は両立するのです。そもそも、神の御業によって成立した世界を人間の理性によって明らかにしようとする試みこそが科学であり、だから、アインシュタインは量子の確率論的な不確定性を「神はサイコロを振らない」と言って否定しました。神は完全であるべきだと。「私は、スピノザの神を信じる。世界の秩序ある調和として現れている神を」と。しかし、世界は不完全で不確定であることが科学的に証明された現代において(ハイデルベルグの不確定性原理とゲーデルの不完全性定理)、神は、完全さと不完全さを包含した世界を肯定し得る唯一の存在として感じることもできるのです。

科学の最先端にこそ、神の影を見いだすことができます。宇宙のビッグバン以前、高密度の物質と真空エネルギーのインフレーションは、その空間と時間のゼロ地点、その先を遡ることができない「特異点」という問題にぶつかります。近年、それはトンネル効果であるとか、量子ゆらぎであるとか、いろいろ言われていますが、要はこれが「神のひと押し」であり、科学の限界の先の物語なのです。そういう人知の及ばない(神懸かり的な)領域は、宇宙の始まりだけでなく、量子論や生命科学にも存在します。つまり、全てのフォアフロント、所謂「細部」にこそ、奇跡があり、神は「宿る」のではないでしょうか。

神の実体的な存在と恩寵を信じられなくなってしまった現代において、汎神論は一般的な概念と言っていいと思います。その派生として、不在の神という概念を理解することはさほど難しくありません。そのような神の概念は、人々の不幸の意識に対する救済を期待するような従来の宗教には到底なりえませんが、創造神に対する敬虔と畏怖という人間にとっての父母たる信仰になり得るのではないか。物質主義によって覆われた現代社会にこそ、科学で解明できない非知への敬虔と畏怖として、神への信仰が成り立つのだと思います。信仰の対象となる神秘の部分こそ、先端科学におけるフォアフロントであり、「細部」に呼応するものと思えるのです。

ちなみにシモーヌ・ヴェイユは、晩年(といっても30代)に神の不在を前提としたキリストへの敬虔なる信仰に目覚めます。キリスト者とは、ドストエフスキーやキルケゴールの思想も同様ですが、世の絶望と対峙するために生きていく力となりうる信仰と科学的合理性が融合した近代的な信仰の在り方とも言えます。

スピノザ的な汎神論は、「神は自然」と見做すように、日本的/原始的な信仰、アニミズムに近い考え方です。但し、「神は、万物の内在的な原因であり、唯一の実体である」とも言っており、基本的に一神教であり、日本の八百万の神々を合一した唯一神なのです。

非在ではなく、不在であり、神の不在ではなく、不在の神。スピノザ、ヴェイユとドストエフスキーからアインシュタインへ。日本的な自然信仰(アニミズム)と一神教の融合。細部に宿る神。沈黙の神。荒ぶる神。それは不在の神と習合するものであり、そういう信仰こそ現代的に有意ではないかと思うのです。
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# by onomichi1969 | 2012-06-16 23:40 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 私が、生きる肌 "La Piel Que Habito" semスキン用のアイコン02

  

2012年 06月 11日

a0035172_0301534.jpgペドロ・アルモドバルの話題の最新作を鑑賞。
途中で「まさか...それだけは勘弁して...」と思ったが、その通りになってしまった。。。そうであれば妥当なラストかなと思う。(未見の人にはなんのこっちゃって感じですが)

愛する人を不慮の事故で失った時、もう一度、彼、彼女に会いたいと思う。それって、歌(♪会いたい)にもあったけど、人間にとっては至極自然な欲望である。但し、死んだ彼、彼女を再生したいとなると、これは禁断の欲望。自分の子供だったら、鉄腕アトムの悲劇(天馬博士に捨てられる)であり、スティーブン・キングならホラー小説になる。本作も同じ。アントニオ・バンデラス演じる医師は、自らの特殊技能により、死んだ妻の再生を目論む。それが犯罪であり、許されない倫理の超越だとしても、欲望を抑えることができない。それを愛と呼ぶなら、彼は、その為に悪魔と手を組むこともできる。

他人である「誰か」を整形と皮膚の合成という再生医療的処置により妻に仕立てあげる。確かにそれは「狂気」であり、「倒錯の愛」ではあるけど、発想としては「究極」でも「斬新」でもなく、手塚治虫の漫画に出てきてもおかしくない、ありふれたプロットである。

ペドロ・アルモドバルの世界において、禁断の二人の関係は「倒錯の美」となり、その変態的な世界観からすれば、そういう愛も有り得るのか、と錯覚するのだけど、実際は、そうではなく、無理強いされた側に最初から倒錯の愛もクソもなかったのである。当たり前か。でも、その姿で言われたら、やっぱり信用してしまうんだな。それは致命的に避け難い成行きだったのかも。

ラストで『私が、生きる肌』(The Skin I Live in)というタイトルの意味が分かる。外見の完璧さ、倒錯の愛、その有り得なさに期待した僕らこそ、完全にうっちゃりを食らわせられる。そして、少しホッとしたりもする。
そもそもアルモドバルの描く愛って常に一方的な自己愛の反映で、だからこそ本質的なところで僕らに響いてくるのだ。2011年スペイン映画
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# by onomichi1969 | 2012-06-11 00:54 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ミッドナイト・イン・パリ "Midnight in Paris" semスキン用のアイコン02

  

2012年 06月 04日

a0035172_1421328.jpg前作『人生万歳』に続くウディ・アレンの傑作映画。

夜12時の鐘と共に現れる幻想のパリ。タイムスリップ? 死者たちの徘徊? それとも壮大な夢オチ? まぁ、そんなことはどうでもいいか。旧き良きロマンをこよなく愛する主人公が迷い込むのは1920年代のパリ。当時のパリは狂騒の街と呼ばれ、禁酒法のアメリカから多くの異邦人がやってきて、毎夜のどんちゃん騒ぎが繰り広げられていたという。芸術家達が集うカフェで生まれる新しい時代の潮流。シュール・レアリズムからアール・デコ。そして、エコール・ド・パリ。その舞台に登場するのは、フィッツジェラルド夫妻、パパ・ヘミングウェイ、ピカソ、ダリ、ルイス・ブニュエルといった著名な若き芸術家達。主人公は、そんな魅惑の世界の中、芸術家達に愛されるファム・ファタール的な美女アドリアナに恋をする。恋する2人のタイムトラベルはさらに時代を下り、ベル・エポックのパリへ。伝説のマキシムに集うのは、ロートレック、ゴーギャンにドガ。彼らはそこで古き良きルネサンスの時代を語り始める。

主人公は悟る。古き良き時代への憧憬はどの時代にもあるファッションのようなものだと。そして、彼は現代のパリを生きていく決心をする。ロマンだけはしっかりと胸に携えて。(主人公が古い時代を生きられない理由がウディ・アレンらしくて笑ってしまった)

なんだかんだ言いつつ、主人公は3人の女性に恋をする。レイチェル・マクアダムス、マリオン・コティヤール、そして、レア・セドゥー。それぞれに魅力溢れる女性たち。いやはや、人生万歳。何でもアリだ。最後に主人公は、レアとアレクサンドル三世橋の上で再会し、雨が降り始める中、傘もささずに2人して歩き出す。別れがあって、出会いがある。切なくも希望に満ちた、とても素敵なシーンだった。

ウディ・アレンは、ニューヨークの街とそこに住む人々の風景を撮り続けてきた人。最近はNYを飛び出して、すっかり世界のアド街ック、街の観光案内的な映画を撮り続けているのだけど、街そのものが主役ならば、それもまた良し。次回作はロンドン。次々回はローマとのこと。これらも楽しみ。2011年アメリカ映画
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# by onomichi1969 | 2012-06-04 08:23 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち semスキン用のアイコン02

  

2012年 06月 03日

a0035172_035188.jpg三島由紀夫と楯の会に関して、これまで語られてきた史実、保阪正康のノンフィクションや森田必勝について書かれた本の内容を淡々とドラマ化しているという印象であり、本映画作品によって、三島事件について、新たなパースペクティブを得られるようなことは特になかった。

三島の人物造型について、楯の会と11.25の自決事件に関する史実を中心に描くと、本作のように一面的な描写に終始してしまうのだろう。保阪正康の本もそうだったし。小説、例えば、『金閣寺』や『春の雪』で描かれる彼の文学性と自決事件での行動が現実の中でうまく整合しない。故に三島の文学性が如何に彼の行動にリンクしていたのかがいつも切り捨てられてしまう。三島自身が楯の会や自衛隊の体験入隊等の行動の中で、彼自身の文学性を自ら否定してみせるので、それも致し方ないのかもしれないが。三島文学や三島事件について、これまで多くの言説が弄されてきたが、彼の文学と事件が融合して語られない、文学者は事件に触れず、事件記者は文学に触れない。それこそが三島の特異な二面性として、事件から40年以上経った今でも、三島由紀夫という人物の本質を未だに捉えきれない要因なのだと思う。

三島の作品の中で、『憂國』や『英霊の聲』にこそ、彼の美意識の極点として、美しき日本の文化を象徴する幻想としての天皇主義の萌芽があった。その思想は彼の遺作ともなる『豊饒の海』によって完成することになる。1965年から自決の前夜まで。楯の会の行動と並行して著された『豊饒の海』にこそ、彼の行動と思想の全てがあるのだと僕は思う。その分析を抜きにして、三島事件を語ることはできない。『春の雪』の究極の禁忌としての恋愛があり、『奔馬』におけるテロルと自死への強烈な憧憬がある。『暁の寺』で唯識と煩悩の狭間で迷界を通過し、そして、『天人五衰』のラストに至る。三島も小説の本多と同様に、最後に月修寺の寂漠を極めた庭に佇み、門跡と対話して、無の境地としての豊饒の寂漠に辿りついたのだ。

「そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもあられなんだ、ということではありませんか? その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?」 三島由紀夫『天人五衰』 最終章 月修寺門跡の言葉


映画の三島はヤサオトコ過ぎて、また、彼の文学的な側面がストーリーからすっぽりと抜け落ちている為、実際の三島から発散される(覆い隠すことができない)自意識の匂いが全くしない。彼の実際の姿を今やyoutube等で簡単に観ることができる。彼の強さと弱さが同居したような肉体と言葉には、押し出しの強さと共にためらいとあらがいが常に見え隠れしている。

本作は、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』と同様、若松孝二監督が60年代後半から70年代前半の若者達を捉えた学生運動や思想がどのように先鋭化し、追い詰められ、最終的に「事件」に行きついたのかを総括した作品だといえる。前作同様、あくまで実録として、心理劇としての見応えはあるけれど、その文学的/観念的な側面を含めた事件の本質を描き切るまでには至っていないと思う。(そんなものを物語として描き切れるとは思わないけど。。)

参考レビュー
春の雪
三島由紀夫vs東大全共闘
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# by onomichi1969 | 2012-06-03 01:09 | 日本の映画 | Trackback(1) | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 イントレランス "Intolerance" semスキン用のアイコン02

  

2012年 05月 14日

a0035172_023557.jpg1916年、映画の父と呼ばれるD・W・グリフィスにより製作された超大作映画。紀元前500年頃のペルシャによる新バビロニア王国の征服、イエスの磔刑、宗教改革期のフランス、サン・バルテルミの虐殺という歴史的悲劇と共に、現代篇として、1910年代当時のある青年の冤罪に関わる物語を並行して描く。特にバビロン篇は、バビロニアの空中庭園、イシュタール門や宮廷を舞台とした豪華絢爛なセットと大人数のエキストラを配した壮大なシーンがあり、その画面から溢れだすエネルギーに圧倒される。(その舞台裏についてはタヴィアーニ兄弟の『グッドモーニング・バビロン』で観られる) そして、4つの物語に「不寛容(イントレランス)」というテーマが貫かれるのであるが、全く時代の違う物語に見出させる「不寛容」とは一体何だろうか?

本作品は、当時、フランス戦線が始まっていた第一次世界大戦を想定した反戦映画として位置づけられる。その意図はラストシーンで挿入される現代の戦争シーンでも分かるだろう。バビロン陥落とサン・バルテルミの虐殺劇は、それぞれ、大量虐殺の象徴としての戦争の実態を表している。そして、各々の戦争の経緯と共に、ある女性と青年に焦点を当てた悲恋のストーリーが同時に語られるのであるが、彼女らは戦争という歴史の犠牲者として、最後には殺戮されてしまう。(バビロンでは、山ガールと詩人、フランスでは、ブラウンアイズと傭兵がそれに当たる)

新約から引用されるイエスのシーンは、本作を構成する物語というよりも、「不寛容」の象徴としてある。イエスこそは、人間に対する「不寛容」を一身に背負って磔刑となったキリストなのだと。

3つの歴史の物語が「不寛容」な結末を迎え、現代篇が最後に残る。青年は無実にも関わらず裁判で死刑の判決を受ける。彼の可愛い妻は彼を助けようと懸命に奔走する。目まぐるしく入れ替わる展開はスピード感に溢れ、僕らは手に汗を握り、画面にくぎ付けとなる。(ラストの列車追跡シーンは本当に素晴らしい) そして、青年の運命は如何に。。。その伏線がバビロンとフランスの2つ悲恋物語にある。

162分に及ぶ長大で矮小な物語。それは僕らに「不在の神」という概念を思い起こさせる。「不寛容」とは、創世の後、自ら退いた神の人間に対する基本的な態度であり、イエスが自らの死と引き換えに人間に託した教え、「キリスト教」が人々に必要とされる由来でもある。イエスの教えとは、人の人に対する「寛容」であり、隣人愛なのだから。

中世のキリスト教より、サン・バルテルミの虐殺に繋がる宗教戦争という歴史の悲劇。しかし、グリフィスは、そこに男女の矮小な純愛を対峙させることで、全くの個人を出発点とした「寛容」を説いてみせる。そのバックグランドには、バビロンの山ガールと詩人、フランスのブラウンアイズと傭兵、彼らの愛と死があって、そして、イエスがいる。この物語はそういう物語としてあるのだと僕は思う。

いろいろな意味で映画の可能性を問うた作品であり、壮大なる反戦映画。その意義が映画史に燦然と輝く、と同時に、僕らのイマジネーションを掻き立てる素晴らしい映像世界であった。1916年アメリカ映画

※イエスとは、「不在の神」を合理化する神の子である。イエスへの敬虔なる信仰こそは、神の不在を前提としつつ、世の絶望と対峙するために対象化された信仰そのものであり、恩寵としての神の不在、万物の内在的な原因となる神、完全なる神に科学的合理性を融合させた近代的な信仰の在り方といえる。

※タヴィアーニ兄弟の『グッドモーニング・バビロン』で描かれたように、『イントレランス』の現場製作に関わった人々、実際にエキストラとしてセットの中で戦争を演じた人々も第一次世界大戦の戦線で多く戦死した。
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# by onomichi1969 | 2012-05-14 00:40 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ゲッティンゲン~シュヴェービシュハル semスキン用のアイコン02

  

2012年 05月 13日

1週間仕事でドイツに行ってきました。今回はゲッティンゲンに1日。残りはシュヴェービシュハルです。

フランクフルトからゲッティンゲンへICEで移動。ここは静かな大学都市で、ちょっと車を走らせると田舎道になります。今回、あまり写真を撮る機会もなく、朝、ジョギングついでに撮った湖と河の写真しかありませんでした(>_<)
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ゲッティンゲンからニュルンベルグ経由でシュヴェービシュハルへICEとREを乗り継いで移動、、、の予定が、電車が途中で止まってしまった為、ニュルンベルグからタクシー。200ユーロ!

シュヴェービシュハルは4-5回目です。
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帰りはレンタカーを借りてもらって、フランクフルトまで。途中、ヴュルツブルグのサービスエリアにて。小さな街並と葡萄畑。遠くにお城。
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# by onomichi1969 | 2012-05-13 16:53 | 旅の記録など | Trackback | Comments(0)

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