Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 賀正 2013年 semスキン用のアイコン02

  

2013年 01月 02日

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あけまして おめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします


またまた忙しい年になりそうですが、
たまに更新しますので。

by onomichi1969 @2013年 お正月
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# by onomichi1969 | 2013-01-02 23:01 | お知らせ | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ロック・オブ・エイジズ "Rock of Ages" semスキン用のアイコン02

  

2012年 11月 02日

a0035172_3541689.jpgめちゃめちゃ面白かった。頭空っぽで楽しめる。LHの機内映画でもやっていたので、劇場で観た後にさらに2回観てしまった。
この映画で扱われるロックとは、所謂、80年代に興った産業ロックとか、大衆ハードロック、ヘアメタル(LAメタル)と呼ばれるものである。それは60年代後半から70年代前半のハードロックやマニア限定のスラッシュメタルとは違う。大衆に広く浸透した誰もが歌えるみんなのロックなのである。
産業ロックの代表格は、ジャーニー、フォリナー、REOスピードワゴン、そのハードロック系は、デフ・レパード、クワイエット・ライオット、ナイト・レンジャー、ボン・ジョヴィなど、80年代以降のヴァン・ヘイレンやエアロスミスも含めていいだろう。ヘアメタルからは、ポイズンとトゥイステッド・シスター。本当は、ラットこそ代表格なのだと思うけど、如何せん曲がない。。。(女性シンガーはパット・ベネターとジョーン・ジェット。。。ハートじゃないのか?)

映画の中で歌われるロック。実は、これって主人公のシェリーが持っていたアルバムで、彼女が崇め奉るロックバンド達の曲である。産業ロック。60年代後半に変革を叫び、夢破れたロックは、70年代以降に大衆へと向かい、個的な愛や夢を語る装置として幻想化する。多くの人々がそれを共有化することで、商業的にも成功するのだ。
ただ僕はこの映画の80年代ロックを卑下するつもりは全くなく、逆に賞賛したいのである。なぜなら、僕自身がこの時代のポップ化したロックを聴いて育った世代だから。ある時期、それを否定して時代を遡ったけど、25年経った今、やっぱりその音楽が心に沁みるから。50年代に生まれたロックが反逆や反体制というイメージを覆し、大衆化、ポップ化していく過程を思うと、僕は自分自身や時代と重ねあわせて、ロックそのものをとても愛おしく感じる。ロック・オブ・エイジズを観ているとロックって素直にいいなぁって思う。観ているだけで、僕の涙腺は自然にゆるむのだ。

我が青春の楽曲たち。スクリーンで弾けるその映像は、まさしくベストヒットUSAやMTVで観た洋楽PVそのものである。キラ星の如きロックスターたち。僕らが洋楽に憧れたイメージ、幻想としての物語、その映像化。80年代の傑作映画ストリート・オブ・ファイヤを思い出す。

映画の楽曲の中で、僕の一押しは、ゼタ=ジョーンズ渾身の”Hit Me with Your Best Shot”とゆる~い”Can’t Fight This Feeling”、そして” We're Not Gonna Take It”と”We Built This City”のミックスバージョンである。REOのTシャツを着て歌う年老いたケビン・クローニン。最高に泣けたなぁ。主人公2人のデュエットも素晴らしかった。最後の”Don’t Stop Believin’” トム・クルーズもカッコよくて、無様で、とても痺れたよ。2012年アメリカ映画
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# by onomichi1969 | 2012-11-02 03:57 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 桐島、部活やめるってよ semスキン用のアイコン02

  

2012年 08月 27日

a0035172_23293995.jpgとても面白かった。
いわゆるメタ映画であり、尚且つ、それ以上のものが感じられる映画。こういう映画をもっと観たいなぁ。

この映画を味わうには、その構造を理解し、それをどのように解釈するかが重要だと思う。桐島とはいったい何者なのか? 映画部の彼らはなぜゾンビに拘るのか? 野球部幽霊部員の彼は何故、最後に涙を流したのか? いくつかの事象を帰納的に反芻することで、この映画の見事なまでの構成が見えてくる。

映画の解釈については、その高い評価と共に、既にネット上で広まっている。
代表的なのが、不条理劇『ゴドーを待ちながら』(ゴドー(GOD)の不在をめぐる物語)を下敷きとしつつ、その変容としての桐島=キリスト=希望というメタファー。そしてその対立軸としてのゾンビ=虚無=絶望という図式である。桐島の不在にオタオタする多くの登場人物たちと、それを自明なものとして、ゾンビ映画に拘るオタクの映画部員たち。そういった構造でみれば、この映画はとても分かり易い。それは他の解釈を許さないほどに。但し、僕がこの映画に感銘するのは、そういった構造を超えたところに、実は彼らのアカルイミライが垣間見えたからである。

最後のシーン。
映画部の彼と野球部幽霊部員の彼が夕日をバックに対峙する。そこでの映画部の彼のセリフが僕らの胸にすごく響くのだ。彼は高校生にして、既に絶望を知っている。でも、それに負けない自分というものを持っている。周りをゾンビに囲まれたショッピングセンターの中で、彼はそれでも闘い生きていこうと決意する。それは何故か?彼は撮ることによって常に希望と繋がっているから。彼は絶望を知りつつ、同時に希望と繋がっている。桐島=キリスト=希望。 映画部の彼こそ、桐島と唯一繋がっていたことが最後に明らかとなる。彼こそがアカルイミライの細い道すじをただ一人しっかりと見据えていたのだ。野球部の彼は、そのことを理解し愕然とする。桐島に電話して繋がらないことで、自分がゾンビに喰われてしまった側であることを悟り、そして涙する。

なんて素晴らしいラストシーンだろう。僕らのミライも少しアカルイと思える。

この映画の冒頭の多視点による物語の反復。これもこの監督の決意表明だと思った。映画とは「他者の視線から見られた世界の風景」である。(内田樹『映画の構造分析』) 世界を本当に捉えようと思ったら、たとえやみくもであろうとも、その世界なるものを多くの視点で囲んでいくしかない。そこには桐島と同じように「不在」しかないかもしれないけど、その中空構造の周辺から、浮かんでくる様々思い、そのさざめき、その切実さを僕らは、それによってこそ目撃することができるのだ。
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# by onomichi1969 | 2012-08-27 22:58 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 荒井由実 『ひこうき雲』(1973) semスキン用のアイコン02

  

2012年 08月 13日

a0035172_165911.jpgユーミンが少女だったころのアルバム。

彼女の曲で1曲挙げるとすれば、僕は「ひこうき雲」を選ぶ。
初期の「瞳を閉じて」や「卒業写真」、80年代の「守ってあげたい」、90年代の「Hello,my friend」もいいけど、1曲選ぶとすれば、彼女のデビューアルバムの冒頭を飾る「ひこうき雲」を選ぶ。

白い坂道が 空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は 昇ってゆく
何もおそれはない そして舞い上がる

高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
ほかの人には わからない
あまりにも 若すぎたと
ただ思うだけ けれどしあわせ

空に憧れて 空をかけていく
あの子の命は ひこうき雲

荒井由実「ひこうき雲」

彼女の瑞々しい声がとても響く曲。死んでしまった「あの子」の命をひこうき雲に見立てて歌う。「あの子」は、空に憧れて、何もおそれなく、しあわせだった。死がファンタジーとして、何か自明なもの、ポジティブなものとしてあるのは、少女らしい感性であり身体性である。少女であること、それが儚いものであることの悲しさ。「あの子」は少女であり、その死は彼女を永遠なものとする。彼女の少女性はこの曲の中に封じ込められ、葬られ、そして、しあわせを得たのだ。

70年代前半。都会に住むロック好きな十代の少女の感性が当時の日本の最先端の音楽クリエーターだったティン・パン・アレーのメンバーを動かし、ニューミュージックを創った。ユーミンこと荒井由実にとって、デビューアルバム『ひこうき雲』は十代(少女性)の結晶のような特別な作品だったに違いない。2nd 『MISSLIM』、3rd『Cobalt Hour』とアルバムを重ねる毎に彼女の音楽は徐々に大人になっていくのだから。(新たな魅力を獲得しつつ、否応なく喪失するものとして)

松任谷由実となったユーミンは、80年代にニューミュージックの女王となり、アルバムを出せばミリオンヒット。苗場の恒例コンサートはエンターテイメントに徹した構成で常に満員。バブル時代、彼女の歌はサーフ&スノーに欠かせない音楽となる。恋愛を伝道し、世の男たちを啓蒙する彼女は、女子大生やOLのカリスマとなる。

しかし、彼女の音楽の出自は、「ひこうき雲」で魅せた少女性にある。あの生と死を揺蕩(たゆた)った少女が大人になり、恋愛をして、出会いや別れを経験する。そして結婚し家族を得る。そういう来歴こそが彼女の音楽である。

少女から大人へ。そして、おばさんに。そういう歴史を重ねられるミュージシャンって他にはいないのじゃないかな。
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# by onomichi1969 | 2012-08-13 01:21 | 日本のロック | Trackback(1) | Comments(3)

semスキン用のアイコン01 ブラス! "Brassed Off" semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 22日

a0035172_21274023.jpgイギリス・ヨークシャーの炭鉱町のブラスバンドが全英コンテストを勝ち抜いていく素晴らしきミュージカル映画、、、ではない。この映画は、とてもポリティカルな作品であり、その全てがダニーの最後の演説にあったのではないか。

ロイヤル・アルバートホールでの大会決勝戦。炭鉱の閉鎖、失業、借金、家族離散、闘病、自殺騒動など、幾多の困難があり、それでも音楽を自らの誇りとして、バンドメンバー達は決勝の舞台に立つ。最高の演奏をして、優勝を手にした彼らの喜びは本物であったに違いない。バンドが生き甲斐であり、全てだったダニーが観客を前に言う。「以前は音楽が大事だったが、人間の大切さには及ばない」と。炭鉱が閉鎖され、失業し、生活の糧を失って、それでも彼らは音楽を続けていくことができるか? 答えはノーだと。

1984年の全英ストから10年。イギリスはサッチャー首相の元、「小さな政府」を政策の根本として財政を立て直し、様々な民営化や規制緩和を進めた。その結果、新自由主義、経済至上主義の中で地方経済はズタズタとなり、失業者が溢れることになった。そういうイギリスが抱える背景の中に、この物語はある。

アルバートホールでの決勝戦、彼らは素晴らしい演奏をして優勝した。しかし、音楽は彼らの生活を救わない。その将来に明るい希望は見えない。最後の演奏は彼らの音楽に対する信と自らの誇り、そのギリギリの成果であったが、将来に生きる希望がなければ、その意志は持続しないのだと。状況は、正にBrassed Off (うんざり)なのだ。

それでも、僕は思う。この映画の素晴らしさは、やはり音楽にこそあると。ダニーの病室の前で、メンバーたちがヘッドライトを付けながら演奏する「ダニー・ボーイ」。テナーホーンを失ったアンディが口笛を吹く。音楽は、言葉や政治、諍いを超えた感動をもたらす。それが何かを生み出すという可能性。ダニー親子を救い、彼らをギリギリのところで繋ぎとめたのは音楽だった。そういう音楽の力を感じさせる素晴らしきミュージカル映画、、、かな。やっぱり。1996年イギリス映画
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# by onomichi1969 | 2012-07-22 21:44 | 海外の映画 | Trackback | Comments(5)

semスキン用のアイコン01 おとなのけんか "Carnage" semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 15日

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メチャメチャ笑えた。4人の関係が徐々に険悪化していき、エゴ剥きだしで体裁も何もなく、ハチャメチャになっていくのに、笑いは止まらない。但し、ポランスキーにしては珍しく、ただそれだけのコメディ作品とも思える。。。いや、この監督だからこその、ある意味で現代人の本質を醜悪に捉えた秀逸なブラック・コメディか。

題材的には、三谷幸喜あたりの舞台劇にもなりそうだが、日本ならば、喧嘩両成敗で、最後は全て水に流して、丸く収まるというのが落としどころで、あんな収拾がつかない終わり方にはしないだろう。さらに現実には、日本のこども同士の関係性って、おとなの世界の縮図だから、こどもの方がおとなを差し置いて先に仲直りしているということもないだろう。

おとながこどもみたいに自分や自分の周りだけを優先して自己保身と責任追及(転嫁)に執心する世の中で、こどもはそんなおとなに倣うわけだから、いつまでたっても日本に「いじめ」なんかなくならないよ。2011年仏・独・ポーランド映画

※日本でも『大人は、かく戦えり』のタイトルで2011年に舞台上演されているようです。大竹しのぶ、段田安則、秋山菜津子、高橋克実出演。。。
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# by onomichi1969 | 2012-07-15 23:21 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 再会の時 "The Big Chill" semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 15日

a0035172_21463692.jpg原題を"The Big Chill"という。ロスマクならば"The Chill"。ハードボイルド的には「大いなるさむけ」とでも言うべきなのだろうけど、その意味は、「死や臨死、或いは死にたい程に悲惨な体験」ということらしい。(answerbag調べ)

日本では団塊の世代。アメリカではBaby Boomerという。戦後生まれで人数が多く、68年の大学闘争を経験した世代である。物語はそれから15年後の1983年、自殺した仲間の葬儀にかつての学友、男女7人が集まったことから始まる。

日本で言えば、柴田翔の『十年の後』の世界だろうか。それとも80年代中期の『男女7人夏物語』だろうか?
学生の頃に反体制を叫んでいたケヴィン・クラインも今では会社の経営者となっている。他のメンバーも雑誌記者、俳優、医者に弁護士と、それぞれが社会の中で確固たる地位を築いているわけだ。その中でウィリアム・ハートだけが定職も持たず、コカイン中毒で、いまだにベトナム体験を引きずっている。(身体的にも戦争によって生殖機能を損傷したからか) 彼らが久しぶりに一同に会して週末を過ごす。友人の死、彼は何故死んだのか? そして友情の行方、今の生活について、彼らの語らいはとてもライトである。最終日の夜にはいくつかのセックスまで行われる。15年越しの告白であり、共助の精神であり、再出発へのふれあいである。

能天気と言えば、そうかもしれない。確かにそれは80年代という時代の軽チャーを象徴しているように思える。しかし、それは"The Big Chill"でもある。1968年の熱狂とその後の挫折との対比として、それはある。彼らの世代が80年代のポップカルチャーを作った。そして僕はその80年代に青春時代を過ごした。だから分かる。この作品があってこそ、『男女7人夏物語』があり、『セント・エルモス・ファイアー』や『愛という名のもとに』が作られたことを。時代がその根底に"The Big Chill"を抱いていたことを。1983年アメリカ映画
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# by onomichi1969 | 2012-07-15 23:18 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 僕たちは世界を変えることができない。 But, we wanna build a school in Cambodia. semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 15日

a0035172_827319.jpgアカルイミライな現代の「僕たち」がカンボジアの子供達の為に学校を建てようと奮闘する姿を捉えた半分ドキュメンタリーっぽい青春映画。なかなか面白く観ることができた。満ち足りない大学生活の中で何かをしたい。そうだ!カンボジアに学校を建てよう!その為の資金をパーティによって集めよう!動機は単純で、発想は唐突である。彼らは募金だけではなく、実際にカンボジアという国を知る為に視察(ロケ)にも行く。そこで、カンボジアが長期の内戦によって辿った悲惨な歴史、クメール・ルージュによる70万~300万人と言われる大虐殺の実態、戦争の負の遺産(地雷原やHIVの蔓延など)によって今でも苦しめられている人々の姿を知る。

そこには、ベトナム戦争を背景にアメリカと北ベトナムの対立を軸としたカンボジア内戦の経緯があり、共産主義政党クメール・ルージュの台頭と中国の介入、毛沢東主義者ポル・ポトが行った大虐殺の実態がある。(都市居住者、技術者、知識人が財産をはく奪、農村で強制労働させられ、最後には処刑される。映画『キリング・フィールド』に詳しい) その後、ベトナム軍介入によるポル・ポト政権の崩壊と中越戦争による中国の敗退を経て、今度はソ連を後ろ盾としたベトナム軍による支配が続くことになる。80年代後半から、ベトナムの開放路線による駐留軍の撤退があり、東西冷戦の瓦解と共にようやく内戦が終結する。今、ネットで検索すれば、その辺りのことを調べるのにさほど時間はかからない。

実話をベースにした映画である。実際の主人公たちは、その後も継続して学校の維持やボランティアに関わっているという。素晴らしいことである。映画自体はかなり軽い作りになっているし、最後の『青空』は自己満足的ですごく違和感があったけれど、結局のところ、この物語は、若者達が自己実現とか、自分探しなどという幻想からボランティアを始めつつ、自立や自助が難しい世界の実態を知ることで、共生・共存、公共の意識に目覚めるという至極真っ当なお話であると僕には感じられた。というか、そう信じたい。実際、その動機が主人公たちとカンボジアの人々との間に築かれた人間関係所以であるのは事実だが、そもそも、それが世界というものの基本だと僕は思う。
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# by onomichi1969 | 2012-07-15 19:53 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 Neil Young : Heart of Gold (2006) semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 14日

a0035172_1110212.jpgニール・ヤングのライブ・ドキュメンタリー映画である。

ニールとメンバーのインタビューは冒頭のみ。あとはひたすら彼のライブ・ステージを映す。ニールのライブ映像と言えば、クレイジーホース名義のハードロックギンギン、インプロヴィゼーション満載の"Year of the Hose"がある。1997年のジム・ジャームッシュ監督作品。こちらは、クレイジーホースに関心がない人にとって、単なるノイジーなおっさんバンドのステージを遠目に延々映している退屈な作品に見えるかもしれない。確かにエンターテイメントには程遠い作品である。

それに比べたら、本作はかなり観られるのではないかな? 場所がカントリーの聖地、ナッシュビルのライマン・オーディトリアムということで、ニール・ヤングのカントリー作品を中心にした曲構成となっている。音響が素晴らしく、温かみのある演奏がよく響く。特に後半は、"Heart of Gold"や"Old Man"、Needle of the Damage Down"など、有名な曲が続くので全く飽きさせない。彼にとってはナッシュビルに所縁のある"Harvest"、"Comes a Time"、"Harvest Moon"の3枚の傑作アルバムからの選曲が中心となっているのもいい。(個人的には80年代の"Old Ways"も仲間に入れてほしかったなぁと。。。)

本作の監督はジョナサン・デミである。ジョナサン・デミと言えば、彼の出世作、Talking Headsのライブ・ドキュメンタリー映画"Stop Making Sense"が有名である。これは、舞台演出をライブに取り入れた楽しい作品で、演劇的要素あり、アコースティックあり、ダンスあり、ポップアートあり、映像としてもライブ盤としてもエンターテイメント溢れる傑作だった。そもそも"Stop Making Sense"にはライブで盛り上がっているはずの観客が殆ど映らない。ライブ映像というよりも映像作品そのもの、音楽エンターテイメント映像作品である。バックショットなんかはスコセッシの"The Last Waltz"を彷彿とさせて、この絵がすごくカッコいいんだなぁ。

本作"Heart of Gold"も観客を一切映すことなく、ステージ上で演奏するニールや共演者たちの所作をひとつひとつ丁寧に映す。その絵がとても綺麗。ニールが歌う表情のアップ。ギターを爪弾く指の動き。ハーモニカを吹く時の口元。共演者たちとの距離感。彼の奥さんでもあるペギー・ヤングを含め、ギタープレイヤーたちが総勢で一列に並ぶ"Comes a Time"と"Four Strong Winds"。まるでスタジオ映像のように、演者たちのひとりひとりをじっくりと映し出す。観ている僕らはライブの観客の一員ではなく、まるでバンドの一員になったような錯覚に陥る。

アットホームなステージ。その中心に孤高として高音の声を響かせるニール・ヤングの立ち姿、その表情。彼は歌う。目をつぶり、そして、遠くを見つめる。彼が見ているもの。ロックの魂。60年代後半から70年代にかけて、人々を虜にし、消えていったロックの魂たち。すっかりold manとなりながらも威光に満ちたニールの表情を通して、「それ」を映し、捉えたことによって、本作は、スコセッシの"The Last Waltz"と並び、音楽ドキュメンタリー/ライブ映画の傑作になったと思う。2006年アメリカ映画
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# by onomichi1969 | 2012-07-14 22:23 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 赤い砂漠 "Il Deserto Rosso" semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 08日

a0035172_2284162.jpgモニカ・ヴィッティの存在、彼女が放つ美の重力が世界を歪ませるのだろうか。それは、美と孤独の関係を思い起こさせる。美が必然的に引き寄せる孤独と美に惹きつけられる孤独。孤独と孤独が紡ぐ性愛は人を何処にも連れて行かないが、その圧倒的な力に人は逆らうことができない。重力に身を任せながら、男は回転儀のようにバランスしつつ、美の周りを廻り続けるしかない。そして女も。彼女自身の美しさ故に、その外部の力が彼女の心のバランスを崩していく。

美は永遠でない。世界は移ろい、絶対的な信などない。発電プラントのコンクリートやラックの鉄骨、配管の硬質性、排蒸気の規則性のみが単純で線形的、重厚長大な存在感を残す。登場人物達が醸し出す不安感、非線形性とのコントラストが美の在り方を浮き彫りにし、映像としてフィルム(物質)に焼き付けられる。こうして美は、その在り方と共に永遠となるべきなのだと言わんばかりに。

同時に、男が信じることとして挙げた「人間性」「正義」「進歩」「社会主義」、それらの線形的なイデーが脆く崩れ去っていくのを僕らはこの映画の裏側に観ているのかもしれない。1964年イタリア映画
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# by onomichi1969 | 2012-07-08 22:15 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

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