Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 <   2012年 07月 ( 9 )   > この月の画像一覧 semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 ブラス! "Brassed Off" semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 22日

a0035172_21274023.jpgイギリス・ヨークシャーの炭鉱町のブラスバンドが全英コンテストを勝ち抜いていく素晴らしきミュージカル映画、、、ではない。この映画は、とてもポリティカルな作品であり、その全てがダニーの最後の演説にあったのではないか。

ロイヤル・アルバートホールでの大会決勝戦。炭鉱の閉鎖、失業、借金、家族離散、闘病、自殺騒動など、幾多の困難があり、それでも音楽を自らの誇りとして、バンドメンバー達は決勝の舞台に立つ。最高の演奏をして、優勝を手にした彼らの喜びは本物であったに違いない。バンドが生き甲斐であり、全てだったダニーが観客を前に言う。「以前は音楽が大事だったが、人間の大切さには及ばない」と。炭鉱が閉鎖され、失業し、生活の糧を失って、それでも彼らは音楽を続けていくことができるか? 答えはノーだと。

1984年の全英ストから10年。イギリスはサッチャー首相の元、「小さな政府」を政策の根本として財政を立て直し、様々な民営化や規制緩和を進めた。その結果、新自由主義、経済至上主義の中で地方経済はズタズタとなり、失業者が溢れることになった。そういうイギリスが抱える背景の中に、この物語はある。

アルバートホールでの決勝戦、彼らは素晴らしい演奏をして優勝した。しかし、音楽は彼らの生活を救わない。その将来に明るい希望は見えない。最後の演奏は彼らの音楽に対する信と自らの誇り、そのギリギリの成果であったが、将来に生きる希望がなければ、その意志は持続しないのだと。状況は、正にBrassed Off (うんざり)なのだ。

それでも、僕は思う。この映画の素晴らしさは、やはり音楽にこそあると。ダニーの病室の前で、メンバーたちがヘッドライトを付けながら演奏する「ダニー・ボーイ」。テナーホーンを失ったアンディが口笛を吹く。音楽は、言葉や政治、諍いを超えた感動をもたらす。それが何かを生み出すという可能性。ダニー親子を救い、彼らをギリギリのところで繋ぎとめたのは音楽だった。そういう音楽の力を感じさせる素晴らしきミュージカル映画、、、かな。やっぱり。1996年イギリス映画
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by onomichi1969 | 2012-07-22 21:44 | 海外の映画 | Trackback | Comments(5)

semスキン用のアイコン01 おとなのけんか "Carnage" semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 15日

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メチャメチャ笑えた。4人の関係が徐々に険悪化していき、エゴ剥きだしで体裁も何もなく、ハチャメチャになっていくのに、笑いは止まらない。但し、ポランスキーにしては珍しく、ただそれだけのコメディ作品とも思える。。。いや、この監督だからこその、ある意味で現代人の本質を醜悪に捉えた秀逸なブラック・コメディか。

題材的には、三谷幸喜あたりの舞台劇にもなりそうだが、日本ならば、喧嘩両成敗で、最後は全て水に流して、丸く収まるというのが落としどころで、あんな収拾がつかない終わり方にはしないだろう。さらに現実には、日本のこども同士の関係性って、おとなの世界の縮図だから、こどもの方がおとなを差し置いて先に仲直りしているということもないだろう。

おとながこどもみたいに自分や自分の周りだけを優先して自己保身と責任追及(転嫁)に執心する世の中で、こどもはそんなおとなに倣うわけだから、いつまでたっても日本に「いじめ」なんかなくならないよ。2011年仏・独・ポーランド映画

※日本でも『大人は、かく戦えり』のタイトルで2011年に舞台上演されているようです。大竹しのぶ、段田安則、秋山菜津子、高橋克実出演。。。
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by onomichi1969 | 2012-07-15 23:21 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 再会の時 "The Big Chill" semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 15日

a0035172_21463692.jpg原題を"The Big Chill"という。ロスマクならば"The Chill"。ハードボイルド的には「大いなるさむけ」とでも言うべきなのだろうけど、その意味は、「死や臨死、或いは死にたい程に悲惨な体験」ということらしい。(answerbag調べ)

日本では団塊の世代。アメリカではBaby Boomerという。戦後生まれで人数が多く、68年の大学闘争を経験した世代である。物語はそれから15年後の1983年、自殺した仲間の葬儀にかつての学友、男女7人が集まったことから始まる。

日本で言えば、柴田翔の『十年の後』の世界だろうか。それとも80年代中期の『男女7人夏物語』だろうか?
学生の頃に反体制を叫んでいたケヴィン・クラインも今では会社の経営者となっている。他のメンバーも雑誌記者、俳優、医者に弁護士と、それぞれが社会の中で確固たる地位を築いているわけだ。その中でウィリアム・ハートだけが定職も持たず、コカイン中毒で、いまだにベトナム体験を引きずっている。(身体的にも戦争によって生殖機能を損傷したからか) 彼らが久しぶりに一同に会して週末を過ごす。友人の死、彼は何故死んだのか? そして友情の行方、今の生活について、彼らの語らいはとてもライトである。最終日の夜にはいくつかのセックスまで行われる。15年越しの告白であり、共助の精神であり、再出発へのふれあいである。

能天気と言えば、そうかもしれない。確かにそれは80年代という時代の軽チャーを象徴しているように思える。しかし、それは"The Big Chill"でもある。1968年の熱狂とその後の挫折との対比として、それはある。彼らの世代が80年代のポップカルチャーを作った。そして僕はその80年代に青春時代を過ごした。だから分かる。この作品があってこそ、『男女7人夏物語』があり、『セント・エルモス・ファイアー』や『愛という名のもとに』が作られたことを。時代がその根底に"The Big Chill"を抱いていたことを。1983年アメリカ映画
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by onomichi1969 | 2012-07-15 23:18 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 僕たちは世界を変えることができない。 But, we wanna build a school in Cambodia. semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 15日

a0035172_827319.jpgアカルイミライな現代の「僕たち」がカンボジアの子供達の為に学校を建てようと奮闘する姿を捉えた半分ドキュメンタリーっぽい青春映画。なかなか面白く観ることができた。満ち足りない大学生活の中で何かをしたい。そうだ!カンボジアに学校を建てよう!その為の資金をパーティによって集めよう!動機は単純で、発想は唐突である。彼らは募金だけではなく、実際にカンボジアという国を知る為に視察(ロケ)にも行く。そこで、カンボジアが長期の内戦によって辿った悲惨な歴史、クメール・ルージュによる70万~300万人と言われる大虐殺の実態、戦争の負の遺産(地雷原やHIVの蔓延など)によって今でも苦しめられている人々の姿を知る。

そこには、ベトナム戦争を背景にアメリカと北ベトナムの対立を軸としたカンボジア内戦の経緯があり、共産主義政党クメール・ルージュの台頭と中国の介入、毛沢東主義者ポル・ポトが行った大虐殺の実態がある。(都市居住者、技術者、知識人が財産をはく奪、農村で強制労働させられ、最後には処刑される。映画『キリング・フィールド』に詳しい) その後、ベトナム軍介入によるポル・ポト政権の崩壊と中越戦争による中国の敗退を経て、今度はソ連を後ろ盾としたベトナム軍による支配が続くことになる。80年代後半から、ベトナムの開放路線による駐留軍の撤退があり、東西冷戦の瓦解と共にようやく内戦が終結する。今、ネットで検索すれば、その辺りのことを調べるのにさほど時間はかからない。

実話をベースにした映画である。実際の主人公たちは、その後も継続して学校の維持やボランティアに関わっているという。素晴らしいことである。映画自体はかなり軽い作りになっているし、最後の『青空』は自己満足的ですごく違和感があったけれど、結局のところ、この物語は、若者達が自己実現とか、自分探しなどという幻想からボランティアを始めつつ、自立や自助が難しい世界の実態を知ることで、共生・共存、公共の意識に目覚めるという至極真っ当なお話であると僕には感じられた。というか、そう信じたい。実際、その動機が主人公たちとカンボジアの人々との間に築かれた人間関係所以であるのは事実だが、そもそも、それが世界というものの基本だと僕は思う。
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by onomichi1969 | 2012-07-15 19:53 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 Neil Young : Heart of Gold (2006) semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 14日

a0035172_1110212.jpgニール・ヤングのライブ・ドキュメンタリー映画である。

ニールとメンバーのインタビューは冒頭のみ。あとはひたすら彼のライブ・ステージを映す。ニールのライブ映像と言えば、クレイジーホース名義のハードロックギンギン、インプロヴィゼーション満載の"Year of the Hose"がある。1997年のジム・ジャームッシュ監督作品。こちらは、クレイジーホースに関心がない人にとって、単なるノイジーなおっさんバンドのステージを遠目に延々映している退屈な作品に見えるかもしれない。確かにエンターテイメントには程遠い作品である。

それに比べたら、本作はかなり観られるのではないかな? 場所がカントリーの聖地、ナッシュビルのライマン・オーディトリアムということで、ニール・ヤングのカントリー作品を中心にした曲構成となっている。音響が素晴らしく、温かみのある演奏がよく響く。特に後半は、"Heart of Gold"や"Old Man"、Needle of the Damage Down"など、有名な曲が続くので全く飽きさせない。彼にとってはナッシュビルに所縁のある"Harvest"、"Comes a Time"、"Harvest Moon"の3枚の傑作アルバムからの選曲が中心となっているのもいい。(個人的には80年代の"Old Ways"も仲間に入れてほしかったなぁと。。。)

本作の監督はジョナサン・デミである。ジョナサン・デミと言えば、彼の出世作、Talking Headsのライブ・ドキュメンタリー映画"Stop Making Sense"が有名である。これは、舞台演出をライブに取り入れた楽しい作品で、演劇的要素あり、アコースティックあり、ダンスあり、ポップアートあり、映像としてもライブ盤としてもエンターテイメント溢れる傑作だった。そもそも"Stop Making Sense"にはライブで盛り上がっているはずの観客が殆ど映らない。ライブ映像というよりも映像作品そのもの、音楽エンターテイメント映像作品である。バックショットなんかはスコセッシの"The Last Waltz"を彷彿とさせて、この絵がすごくカッコいいんだなぁ。

本作"Heart of Gold"も観客を一切映すことなく、ステージ上で演奏するニールや共演者たちの所作をひとつひとつ丁寧に映す。その絵がとても綺麗。ニールが歌う表情のアップ。ギターを爪弾く指の動き。ハーモニカを吹く時の口元。共演者たちとの距離感。彼の奥さんでもあるペギー・ヤングを含め、ギタープレイヤーたちが総勢で一列に並ぶ"Comes a Time"と"Four Strong Winds"。まるでスタジオ映像のように、演者たちのひとりひとりをじっくりと映し出す。観ている僕らはライブの観客の一員ではなく、まるでバンドの一員になったような錯覚に陥る。

アットホームなステージ。その中心に孤高として高音の声を響かせるニール・ヤングの立ち姿、その表情。彼は歌う。目をつぶり、そして、遠くを見つめる。彼が見ているもの。ロックの魂。60年代後半から70年代にかけて、人々を虜にし、消えていったロックの魂たち。すっかりold manとなりながらも威光に満ちたニールの表情を通して、「それ」を映し、捉えたことによって、本作は、スコセッシの"The Last Waltz"と並び、音楽ドキュメンタリー/ライブ映画の傑作になったと思う。2006年アメリカ映画
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by onomichi1969 | 2012-07-14 22:23 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 赤い砂漠 "Il Deserto Rosso" semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 08日

a0035172_2284162.jpgモニカ・ヴィッティの存在、彼女が放つ美の重力が世界を歪ませるのだろうか。それは、美と孤独の関係を思い起こさせる。美が必然的に引き寄せる孤独と美に惹きつけられる孤独。孤独と孤独が紡ぐ性愛は人を何処にも連れて行かないが、その圧倒的な力に人は逆らうことができない。重力に身を任せながら、男は回転儀のようにバランスしつつ、美の周りを廻り続けるしかない。そして女も。彼女自身の美しさ故に、その外部の力が彼女の心のバランスを崩していく。

美は永遠でない。世界は移ろい、絶対的な信などない。発電プラントのコンクリートやラックの鉄骨、配管の硬質性、排蒸気の規則性のみが単純で線形的、重厚長大な存在感を残す。登場人物達が醸し出す不安感、非線形性とのコントラストが美の在り方を浮き彫りにし、映像としてフィルム(物質)に焼き付けられる。こうして美は、その在り方と共に永遠となるべきなのだと言わんばかりに。

同時に、男が信じることとして挙げた「人間性」「正義」「進歩」「社会主義」、それらの線形的なイデーが脆く崩れ去っていくのを僕らはこの映画の裏側に観ているのかもしれない。1964年イタリア映画
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by onomichi1969 | 2012-07-08 22:15 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 きみに読む物語 "The Notebook" semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 01日

a0035172_2217787.jpg胸がじーんとなった。
ジーナ・ローランズとジェームズ・ガーナーの2人が良かった。そして、もちろん若い2人、レイチェルとライアンも最高にハマっていたね。
ストーリーは最初からミエミエ(あっちの2人がこっちの2人に重なれば、そりゃそうなるよね)なのだけど、それでも感動した。僕って、こういうベタなラブストーリーにめちゃめちゃ弱いのです。

レイチェル・マクアダムスがとにかく可愛かった。特別に美人!って感じではないんだけど、表情が豊かで、素直に感情が迸るところなど、すごく愛嬌があって、思わず抱きしめたくなる感じ。
ライアン・ゴズリングも生真面目で一途な感じがよく出ていた。少し憂いがある目元もいい。彼の言葉、"I want all of you, forever, you and me, every day!"... しびれました。
ジーナ・ローランズ。『グロリア』の彼女もすっかりおばあちゃんになってしまったけど、最後に見せた笑顔がとても可愛くて、救いがあったよ。
そして、ジェームズ・ガーナー。『大脱走』カッコよかったなぁ。あの精悍なアメリカの調達屋がすっかり好々爺になっていて。。。でも、ラストシーンにはとてもグッときた。昔の写真の2人もキマっていたよ。(敢えてこっちの2人の写真にしたところが僕はよかったと思う) 2004年アメリカ映画
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by onomichi1969 | 2012-07-01 22:19 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 日本古代史を科学する semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 01日

a0035172_1229032.jpg序章【二十一世紀の科学】には感銘を受けた。
世界は、複雑系の科学によってしか解明できない。ニュートン力学のような線形物理学のみでは、もはや世界を明らかにすることはできず、科学は、物理学的な曖昧さや確率論、非線形現象や離散系を受け入れなければならない。結局のところ、初期条件のみでは運動は確定せず、近似や補正なくして、科学は何も決定できないことが科学的に証明されているのである。(ラプラスの悪魔も現代では発狂死してしまうだろう)

科学的アプローチとは何か? 僕自身、エンジニアであり、設計者であることもあり、日頃からそういうことは意識せざるを得ない。科学的アプローチのひとつにリスクアセスメントという手法がある。リスクを点数化するこの方法にとって、前提条件というのはとても重要な事項となる。設計者にとっての設計条件も同様である。設計条件、前提条件をどこから引っ張ってくるのか? 公的な推奨値なのか、テストデータなのか、実績値なのか、安全率はどのくらい見込むのか?

最近、科学の限界故に、その根拠が信用できず、前提の中に絶対的な国民感情とも言うべき非科学性を入れるべきだとする論説がある。実は、そんなことは科学の世界で珍しいことではない。それは往々にして、実際に起きた事故の影響によって付け加えられる。事故が起こり、その後の訴訟等の影響も鑑みて決められた条項、科学者が手を出せない政治的な領域というものはどの分野にもある。(科学的根拠やビジネスを超えて)

それはそれとして、僕らエンジニアは科学的アプローチを手放して前に進むことができないが、アプローチとして適用する科学は、多くの場合、いまだに線形物理学を基本せざるを得ない。現象の複雑系故のばらつきや不確かさを近似し、単純化すること、そして、前提条件を決定する。前提となる公理、公準とそこから導き出される定理、公式から理論を構築し、実証していくというプロセスがあり、前提条件を間違えてしまうと、結果は全て台無しになってしまう。それが数値や安全率の話ならまだいいが、方向性を間違えれば、それは全く取り返しがつかないことになる。前提条件の決定こそは大いなるリスクなのだ。(エンジニアリングの世界でもフロントエンドが最も重要と言いますな)

いささか大げさな話になってしまったが、、、
実は今回取り上げる『日本古代史を科学する』は、邪馬台国の位置や大和朝廷との関連性を科学的に明らかにする試みなのだが、その前提条件が『魏志倭人伝』への絶対的な忠実性なのである。当時の先進国である中国王朝の史書に間違いはない、に違いないという前提。。。これって、そもそも間違っていませんか? (序章はすごく良かったのに。。。)

最近、古代史ブームなのか、同様の本がいくつか新たに出版されている。
八幡和郎著『本当は謎がない「古代史」』、森浩一著『倭人伝を読みなおす』とか。(何故か最近の新書ではどれも邪馬台国九州説!) 松本清張の古代史シリーズでも書いてあったけど、魏志倭人伝の全ての記載を信じることはナンセンスである。どの部分が正しくて、どの部分がいい加減か、それを見極めることが大事であると。倭人伝の記述を中央官史の(お気楽)出張報告とみれば、邪馬台国に到達するまでに掛かった日数は大いに怪しい(滞在旅程を移動日程に付け替えたり、旅程などそもそもクソまじめに報告する必要性などない)と考えるのが妥当だろう。つまり、邪馬台国の位置を倭人伝に記載された陸行や水行の日数で大真面目に推し量るというのはナンセンスである。

それに対し、信用できそうな(虚偽が許されない)のが、方角、現地での習俗や戸数の記載など。
そういったもろもろのことを合理的に考えれば、自ずと邪馬台国が何処にあるのかは決まってくるだろう。倭人伝に記載されている邪馬台国の人々の姿は明らかに南方系(江南地方系)である。邪馬台国には当時、7万余戸の家があったとされ、4人/戸とすれば、20万強の人々が暮らしていたことになる。その周辺(北部)にも多くの国が隣接しており、それだけ多くの人々が安心して共存できる(広く豊かで交通の便がよい)土地は何処にあったのか? 常識的に考えて、そういった場所というのは自ずと決まってくる。

本書の著者は、邪馬台国を宮崎に比定する。(そこでの距離計算はかなり強引でとても科学的とは思えないのだけど。。。) それは確かに大和政権が神武天皇より日向から起こったとされる古事記/日本書紀の記述にあう。邪馬台国と大和王朝は同じであるという考え。邪馬台国は本来「やまと国」と呼んでいたのであり、当て字に惑わされてはいけないのだと。

邪馬台国は東遷して大和の地に移った。著者はそのように言うが、そこにはゲルマン民族大移動なみの10万人単位の移住を想定しなければならない。仮に多くの人々を国元に残してきたのであれば、そういう記載が記紀にあってしかるべきだろう。記紀には、神武東征はごく少人数で行われたとしか書いていない。

邪馬台国と大和朝廷はその繁栄した時期に重なりもあり、全く違う王朝であったとみるのが妥当だと思う。但し、大和朝廷の起源が日向にあったことも記紀の記載から明らかである。邪馬台国は、筑後にあり、隣国の熊本(菊池)にあった狗奴国(狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」に比定され得る)と争っていた。そして、邪馬台国はその地でしばらく繁栄し、滅んだ。高千穂~日向を起源とする大和朝廷の祖先と全く関係ないとは断言できないけど、邪馬台国が国として引き継がれて、大和朝廷になったと考えること自体に無理があるように思う。(だから、邪馬台国は奈良にあったとも思わないけど)

この本で書かれている邪馬台国や奴国の人々が中国の江南地方から山東~朝鮮半島経由で海伝いにやってきたというのは、遺伝学的な根拠もはっきりしているし、おそらく正しいだろう。九州と朝鮮半島は対馬を挟んで近接しており、船で容易に行き来して、朝鮮半島の人々も随時、九州に移住してきたに違いない。元々、朝鮮南部は倭の一部(倭というひとつの国、カルタゴのような地中海国家)だったと見做す歴史家もいる。そこだけは科学的に納得できたかな。
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by onomichi1969 | 2012-07-01 19:06 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 マイレージ、マイライフ "Up in the Air" semスキン用のアイコン02

  

2012年 07月 01日

a0035172_1020435.jpgこれは面白かった。主人公に共感できるところが多くあり、身につまされるというか。。。映画の評価って、そういうところが大きいよね。

主人公の生き方。孤独を愛し、同時に人を愛する。矛盾しているように感じるかもしれないけど、生活という拘束、結婚という制度を否定すれば、それは達成可能である。マイレージ(1000万マイル!)を生き甲斐とする考えは、ある意味で意地のようなもの。確かにアメリカの航空会社のマイレージって有効期限もなく、格付けによる利便性が高いので、それを自らのステータス、生活スタイルの象徴としてしまう心情も分からなくはない。但し、彼自身もそのこと、それが意地にすぎないことは分かっていて、だからこそ、最後にそれをあっさり否定してみせる。

アフリカを舞台にした30年前のレッドフォードとメリル・ストリープの映画を思い出した。人は恋愛によって変わる。恋愛はこれまで貫いてきた彼の「自由」な生活、孤独という名の自己愛と自然愛を脅かし、献身は自己の不安を呼び起こすが、それでも彼、彼女は否応なく惹かれ合う。彼らは、「恋愛」を知っている。故に、それに纏わる喜びや哀しみを繰り返し受け入れられる余地を持っている。いつでも、いつまでも。。。それなのに、何故、結婚しようとする? 人の重荷まで一緒に受け入れる必要がある?

結婚を否定する考えは反社会的、反倫理的で間違っている、という意見は正しい。なぜなら、人は老いる。結婚こそは人を老いの恐怖から救う制度、短い生涯を有効に生きる、人類社会の英知でもあるから。レッドフォードは若くして都合よく人生を終えてしまうけど、本作の主人公の人生は、これからもずっと続く。

現代的な現実としても考えさせられるけど、それ以上に胸にぐっとくるものがあった。それがいいのか、悪いのか、境遇が近いと、感想も書きづらいなぁ。人生万歳。。。2009年アメリカ映画
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by onomichi1969 | 2012-07-01 10:39 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

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