Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 幸せのキセキ "We Bought a Zoo" semスキン用のアイコン02

  

2012年 06月 17日

a0035172_2057174.jpgテーマを超えて、全編に溢れるロックテイストが心地よい映画だった。
音楽も60年代後半から80年代の名曲たち。ボブ・ディラン、トム・ペティ、ランディ・ニューマンにニール・ヤング。"Cinnamon Girl"が流れた時はなんかすごく嬉しくなった。

キャメロン・クロウと言えば、僕の中ではやっぱり『初体験/リッジモント・ハイ』(” Fast Times at Ridgemont High”:キャメロン原作・脚本作)である。言わずと知れた80年代ロック全開のハチャメチャ青春映画。(決してエロ映画ではない。ポロリはあるけど) ジャクソン・ブラウン、ドン・ヘンリー、Go-Go’sなど、80年代のロック&ポップに彩られた楽曲たち。そして、初監督作『セイ・エニシング』。カセットデッキから流れるは、ナンシー・ウィルソンの”All For Love”。

ナンシー・ウィルソンは80年代に流行ったロックバンド、ハートの中心人物、ウィルソン姉妹の妹の方。綺麗でスタイルがよくて、ムチムチした衣装でギターを掻き鳴らす姿がすごくセクシーだった。彼女がキャメロン・クロウと結婚したのが86年頃だから、ちょうどハートの絶頂期。ナンシーが82年のリッジモン卜・ハイに「車を運転する美女」で出演したのはどういう経緯だったのだろう? 当時、新進気鋭の若手ライターだったキャメロンとロック界のミューズ、ナンシー。

キャメロンとナンシーは2010年に離婚しているんだけど、僕にはどうしても、この映画の最後のシーン、カフェでの「20秒の勇気」のところは、キャメロンとナンシーの現実の出会いを思い起こさせる。年上の美女に勇気の告白。”Why not?” ナンシーならきっとそう言っただろうな。あんなに仲の良い二人だったのに。別れがあって出会いがある。スカーレットみたいな女の子との出会いだったら、それもまた良しか。人生万歳!2011年アメリカ映画
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by onomichi1969 | 2012-06-17 21:19 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 断章:汎神論から不在の神へ semスキン用のアイコン02

  

2012年 06月 16日

a0035172_2336312.jpg「「不在の神」とは何でしょうか?」 そういう質問のようなものを連続して頂いたこともあり、少し自分なりに纏めてみました。取り留めもないメモのようなものです。

信仰としての神は、その対象としての実体であり言葉であり霊的なモノとして捉えられますが、神を哲学として捉えた時、スピノザに代表される汎神論、「いっさいの完全性を自らの中に含む神。超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因となる神。神とはすなわち自然である」という考えが一つの前提となります。完全性としての神は、言い換えれば信仰としての神の不在となり、スピノザは無神論者というレッテルを貼られることになりました。

汎神論は、「不在の神」という概念を導き出します。思想家であればシモーヌ・ヴェイユ、文学者であればドストエフスキーに代表される考え方かと思います。

ヴェイユは自己否定としての神を語ります。神は創造以前には全てであり、完全であったのが、創造によって自分以外のものが世界に存在することに同意して、自ら退くことになります。神の代わりに世界を支配するようになった原理は、人格の自律性、物質の必然性です。ヴェイユは、偽りの慰めを退け、想像上の神を信じる者より、神を否定する者の方が神に近いと言いました。全く神が欠けているということで、この世界こそが神そのものであり、その奥義に触れることで人ははじめて安らぐことができると、ノートに書き残しているのです。「神の恩寵は、しばしば不幸のさなかにおいてさえ、われわれに美を感じさせる。そのとき、ひとがそれまで知っていた美よりももっと純粋な美が啓示されるのだ」と。

神を実体として信仰することは、この世の中の不幸、幼い子供が虐待によって何の罪もなく死んでいくという現実の矛盾を肯定することと同義なのではないか?これはドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で問うた命題です。この世の中には絶対的な悪がある、それを以て神の不在を唱えるのは簡単であるが、その不在を含んだ世界の有り様にこそ、真に人を倫理的に人たらしめる道があり、それこそが信仰すべき対象、愛の源泉としての神の徴なのだと考えるしかない。ドストエフスキーの中には神の実在と不在が常に共存していました。

汎神論及び不在の神という概念は、認識論の中の究極の妥当性(二律背反の統合)という観点において、現代科学にこそ当て嵌まるものだと思います。欧米では、科学と宗教は基本的に矛盾しません。量子力学と神の存在は両立するのです。そもそも、神の御業によって成立した世界を人間の理性によって明らかにしようとする試みこそが科学であり、だから、アインシュタインは量子の確率論的な不確定性を「神はサイコロを振らない」と言って否定しました。神は完全であるべきだと。「私は、スピノザの神を信じる。世界の秩序ある調和として現れている神を」と。しかし、世界は不完全で不確定であることが科学的に証明された現代において(ハイデルベルグの不確定性原理とゲーデルの不完全性定理)、神は、完全さと不完全さを包含した世界を肯定し得る唯一の存在として感じることもできるのです。

科学の最先端にこそ、神の影を見いだすことができます。宇宙のビッグバン以前、高密度の物質と真空エネルギーのインフレーションは、その空間と時間のゼロ地点、その先を遡ることができない「特異点」という問題にぶつかります。近年、それはトンネル効果であるとか、量子ゆらぎであるとか、いろいろ言われていますが、要はこれが「神のひと押し」であり、科学の限界の先の物語なのです。そういう人知の及ばない(神懸かり的な)領域は、宇宙の始まりだけでなく、量子論や生命科学にも存在します。つまり、全てのフォアフロント、所謂「細部」にこそ、奇跡があり、神は「宿る」のではないでしょうか。

神の実体的な存在と恩寵を信じられなくなってしまった現代において、汎神論は一般的な概念と言っていいと思います。その派生として、不在の神という概念を理解することはさほど難しくありません。そのような神の概念は、人々の不幸の意識に対する救済を期待するような従来の宗教には到底なりえませんが、創造神に対する敬虔と畏怖という人間にとっての父母たる信仰になり得るのではないか。物質主義によって覆われた現代社会にこそ、科学で解明できない非知への敬虔と畏怖として、神への信仰が成り立つのだと思います。信仰の対象となる神秘の部分こそ、先端科学におけるフォアフロントであり、「細部」に呼応するものと思えるのです。

ちなみにシモーヌ・ヴェイユは、晩年(といっても30代)に神の不在を前提としたキリストへの敬虔なる信仰に目覚めます。キリスト者とは、ドストエフスキーやキルケゴールの思想も同様ですが、世の絶望と対峙するために生きていく力となりうる信仰と科学的合理性が融合した近代的な信仰の在り方とも言えます。

スピノザ的な汎神論は、「神は自然」と見做すように、日本的/原始的な信仰、アニミズムに近い考え方です。但し、「神は、万物の内在的な原因であり、唯一の実体である」とも言っており、基本的に一神教であり、日本の八百万の神々を合一した唯一神なのです。

非在ではなく、不在であり、神の不在ではなく、不在の神。スピノザ、ヴェイユとドストエフスキーからアインシュタインへ。日本的な自然信仰(アニミズム)と一神教の融合。細部に宿る神。沈黙の神。荒ぶる神。それは不在の神と習合するものであり、そういう信仰こそ現代的に有意ではないかと思うのです。
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by onomichi1969 | 2012-06-16 23:40 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 私が、生きる肌 "La Piel Que Habito" semスキン用のアイコン02

  

2012年 06月 11日

a0035172_0301534.jpgペドロ・アルモドバルの話題の最新作を鑑賞。
途中で「まさか...それだけは勘弁して...」と思ったが、その通りになってしまった。。。そうであれば妥当なラストかなと思う。(未見の人にはなんのこっちゃって感じですが)

愛する人を不慮の事故で失った時、もう一度、彼、彼女に会いたいと思う。それって、歌(♪会いたい)にもあったけど、人間にとっては至極自然な欲望である。但し、死んだ彼、彼女を再生したいとなると、これは禁断の欲望。自分の子供だったら、鉄腕アトムの悲劇(天馬博士に捨てられる)であり、スティーブン・キングならホラー小説になる。本作も同じ。アントニオ・バンデラス演じる医師は、自らの特殊技能により、死んだ妻の再生を目論む。それが犯罪であり、許されない倫理の超越だとしても、欲望を抑えることができない。それを愛と呼ぶなら、彼は、その為に悪魔と手を組むこともできる。

他人である「誰か」を整形と皮膚の合成という再生医療的処置により妻に仕立てあげる。確かにそれは「狂気」であり、「倒錯の愛」ではあるけど、発想としては「究極」でも「斬新」でもなく、手塚治虫の漫画に出てきてもおかしくない、ありふれたプロットである。

ペドロ・アルモドバルの世界において、禁断の二人の関係は「倒錯の美」となり、その変態的な世界観からすれば、そういう愛も有り得るのか、と錯覚するのだけど、実際は、そうではなく、無理強いされた側に最初から倒錯の愛もクソもなかったのである。当たり前か。でも、その姿で言われたら、やっぱり信用してしまうんだな。それは致命的に避け難い成行きだったのかも。

ラストで『私が、生きる肌』(The Skin I Live in)というタイトルの意味が分かる。外見の完璧さ、倒錯の愛、その有り得なさに期待した僕らこそ、完全にうっちゃりを食らわせられる。そして、少しホッとしたりもする。
そもそもアルモドバルの描く愛って常に一方的な自己愛の反映で、だからこそ本質的なところで僕らに響いてくるのだ。2011年スペイン映画
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by onomichi1969 | 2012-06-11 00:54 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ミッドナイト・イン・パリ "Midnight in Paris" semスキン用のアイコン02

  

2012年 06月 04日

a0035172_1421328.jpg前作『人生万歳』に続くウディ・アレンの傑作映画。

夜12時の鐘と共に現れる幻想のパリ。タイムスリップ? 死者たちの徘徊? それとも壮大な夢オチ? まぁ、そんなことはどうでもいいか。旧き良きロマンをこよなく愛する主人公が迷い込むのは1920年代のパリ。当時のパリは狂騒の街と呼ばれ、禁酒法のアメリカから多くの異邦人がやってきて、毎夜のどんちゃん騒ぎが繰り広げられていたという。芸術家達が集うカフェで生まれる新しい時代の潮流。シュール・レアリズムからアール・デコ。そして、エコール・ド・パリ。その舞台に登場するのは、フィッツジェラルド夫妻、パパ・ヘミングウェイ、ピカソ、ダリ、ルイス・ブニュエルといった著名な若き芸術家達。主人公は、そんな魅惑の世界の中、芸術家達に愛されるファム・ファタール的な美女アドリアナに恋をする。恋する2人のタイムトラベルはさらに時代を下り、ベル・エポックのパリへ。伝説のマキシムに集うのは、ロートレック、ゴーギャンにドガ。彼らはそこで古き良きルネサンスの時代を語り始める。

主人公は悟る。古き良き時代への憧憬はどの時代にもあるファッションのようなものだと。そして、彼は現代のパリを生きていく決心をする。ロマンだけはしっかりと胸に携えて。(主人公が古い時代を生きられない理由がウディ・アレンらしくて笑ってしまった)

なんだかんだ言いつつ、主人公は3人の女性に恋をする。レイチェル・マクアダムス、マリオン・コティヤール、そして、レア・セドゥー。それぞれに魅力溢れる女性たち。いやはや、人生万歳。何でもアリだ。最後に主人公は、レアとアレクサンドル三世橋の上で再会し、雨が降り始める中、傘もささずに2人して歩き出す。別れがあって、出会いがある。切なくも希望に満ちた、とても素敵なシーンだった。

ウディ・アレンは、ニューヨークの街とそこに住む人々の風景を撮り続けてきた人。最近はNYを飛び出して、すっかり世界のアド街ック、街の観光案内的な映画を撮り続けているのだけど、街そのものが主役ならば、それもまた良し。次回作はロンドン。次々回はローマとのこと。これらも楽しみ。2011年アメリカ映画
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by onomichi1969 | 2012-06-04 08:23 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち semスキン用のアイコン02

  

2012年 06月 03日

a0035172_035188.jpg三島由紀夫と楯の会に関して、これまで語られてきた史実、保阪正康のノンフィクションや森田必勝について書かれた本の内容を淡々とドラマ化しているという印象であり、本映画作品によって、三島事件について、新たなパースペクティブを得られるようなことは特になかった。

三島の人物造型について、楯の会と11.25の自決事件に関する史実を中心に描くと、本作のように一面的な描写に終始してしまうのだろう。保阪正康の本もそうだったし。小説、例えば、『金閣寺』や『春の雪』で描かれる彼の文学性と自決事件での行動が現実の中でうまく整合しない。故に三島の文学性が如何に彼の行動にリンクしていたのかがいつも切り捨てられてしまう。三島自身が楯の会や自衛隊の体験入隊等の行動の中で、彼自身の文学性を自ら否定してみせるので、それも致し方ないのかもしれないが。三島文学や三島事件について、これまで多くの言説が弄されてきたが、彼の文学と事件が融合して語られない、文学者は事件に触れず、事件記者は文学に触れない。それこそが三島の特異な二面性として、事件から40年以上経った今でも、三島由紀夫という人物の本質を未だに捉えきれない要因なのだと思う。

三島の作品の中で、『憂國』や『英霊の聲』にこそ、彼の美意識の極点として、美しき日本の文化を象徴する幻想としての天皇主義の萌芽があった。その思想は彼の遺作ともなる『豊饒の海』によって完成することになる。1965年から自決の前夜まで。楯の会の行動と並行して著された『豊饒の海』にこそ、彼の行動と思想の全てがあるのだと僕は思う。その分析を抜きにして、三島事件を語ることはできない。『春の雪』の究極の禁忌としての恋愛があり、『奔馬』におけるテロルと自死への強烈な憧憬がある。『暁の寺』で唯識と煩悩の狭間で迷界を通過し、そして、『天人五衰』のラストに至る。三島も小説の本多と同様に、最後に月修寺の寂漠を極めた庭に佇み、門跡と対話して、無の境地としての豊饒の寂漠に辿りついたのだ。

「そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもあられなんだ、ということではありませんか? その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?」 三島由紀夫『天人五衰』 最終章 月修寺門跡の言葉


映画の三島はヤサオトコ過ぎて、また、彼の文学的な側面がストーリーからすっぽりと抜け落ちている為、実際の三島から発散される(覆い隠すことができない)自意識の匂いが全くしない。彼の実際の姿を今やyoutube等で簡単に観ることができる。彼の強さと弱さが同居したような肉体と言葉には、押し出しの強さと共にためらいとあらがいが常に見え隠れしている。

本作は、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』と同様、若松孝二監督が60年代後半から70年代前半の若者達を捉えた学生運動や思想がどのように先鋭化し、追い詰められ、最終的に「事件」に行きついたのかを総括した作品だといえる。前作同様、あくまで実録として、心理劇としての見応えはあるけれど、その文学的/観念的な側面を含めた事件の本質を描き切るまでには至っていないと思う。(そんなものを物語として描き切れるとは思わないけど。。)

参考レビュー
春の雪
三島由紀夫vs東大全共闘
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by onomichi1969 | 2012-06-03 01:09 | 日本の映画 | Trackback(1) | Comments(4)

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