Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 増田俊也 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 semスキン用のアイコン02

  

2011年 12月 31日

a0035172_1121954.jpg今年の新刊書の中では一番面白かった。単行本サイズ2段組み700ページで読み応え十分、ハードとしても厚くて重い!通勤中に読むには結構つらかったが、殆ど一気に読んだ。

「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われた不世出の柔道家 木村政彦の生涯を綴った評伝である。
格闘技ファンならば、木村政彦の名前を知らない者はいないだろう。鬼の木村、鬼の柔道と呼ばれ、柔道の公式戦で15年間無敗。寝技にも優れ、ブラジルでエリオ・グレイシーを破った男。そして、力道山との世紀の一戦、プロレスの喧嘩マッチで無残に敗れた男。しかし、世間一般に木村の名前はあまり知られていない。何故か? 輝かしい記録を持ちながら、プロ柔道やプロレスを経験したことにより、現在の講道館柔道の世界から排斥され続け、また力道山系譜のプロレス界からもその名前は殆ど抹殺されているからである。

その人生は破天荒であり、人間は豪放磊落であった。ただ己の強さのみを求め、柔道を究めた。格闘の技術の為には、空手をやり、ボクシングをやり、柔道を強化した。立ち技でも寝技でも最強。師匠で元全日本王者の牛島辰熊と共に「三倍努力」(人の3倍努力する)と称して一日9時間の激しい稽古を積んだ。ウェイトトレーニングによって養った超人的な筋肉と骨格、肉体表面を苛め抜いて得た痛みを感じない鋼の体。彼の技は正確で寸分の狂いもなく、乱取でも常に同じ動作を繰り返したという、まさに格闘ロボット。それが木村である。
169センチと小柄ながら、自分よりも大きな相手を叩きつけるような大外刈りで一瞬にして沈め、高専柔道仕込みの寝技で捻じ伏せた。今の階級重視の講道館柔道では考えられないが、小よく大を制し、晩年でも190センチ強の外国人選手を寝技で子ども扱いしたという。ヒクソン・グレイシーを知っている今となってはその逸話も何ら違和感ない。

戦前の最強時代の木村。そして、戦後のプロ柔道時代からプロレスへの転向。エリオとの一戦。著者は資料を綿密に紐解き、関係者を隈なく当たり、そこで起こった事実を隙間なく叙述していく。それは戦前から戦中、戦後にかけての柔道(柔術、武徳会や高専柔道が廃れ、柔道がスポーツを唱える講道館派に集約していく過程)と戦後に興ったプロレスの歴史そのものとなる。これは木村を中心にした昭和初期の格闘技史でもある。その密度とボリュームからしてこの本は第一級のノンフィクションと言えよう。僕は格闘技が大好きでありながら、このような歴史の詳細を殆ど知らなかったので、大変興味深く、柔道やプロレスと政治、経済界、やくざとの関わりについても面白く読んだ。

実は、この本を読んで、木村政彦という人間を理解できたかというと、その答えはノーである。結局のところ木村とは何者だったのか。格闘ロボット。彼は、単純にして巨大な暗闇であった。ただ強さのみを究めた暗闇である。ただ、格闘以外の場面では、人間的な魅力に溢れ、多くの人に印象を残し、そして慕われた。彼の私生活のエピソードは、えげつないものが多く、今のテレビであれば殆どが放送禁止である。彼は一生を通して、悪ガキであった。多くのやくざと付き合い、酒を飲んでは喧嘩をし、外国に行けば女を買いまくった。プロレスでひと稼ぎして、経営していたキャバレーでどんちゃん騒ぎをする。ただ、柔道の真剣勝負となると人が全く変わった。今やこういう人物は表舞台で生きていけまい。生死を賭した格闘(敗けたら死ぬつもりで切腹の練習をしたという)と磊落な私生活。とにかく、彼は人間として極端であり、大きすぎたのだ。

理解を超える、理解を拒むこと自体に人間の本質があり、その人間がここにいるのだ。
木村政彦は、思想的な信条の全くない現代的で空っぽな人間であり、柔道とプロレスにおいて、極限の栄光と挫折を経験した。20代前半で強さを究め、その後を余生と見做した。食うために始めたプロレスで金を覚え、全くの油断(それが力道の八百長破りとしても)から力道山に敗れた。プロレスが視聴率100%だった時代、KOされた柔道王 木村の名声はガタ落ちし、その人生は奈落の底に突き落とされたのである。プライドはズタズタとなったに違いない。それでも生きていく為の混沌の中でただ生を全うし続けた。晩年は拓大での柔道指導に自らの生活を捧げた。

「人生には2つある。学ぶ人生とその後の人生」 映画『ナチュラル』のヒロインが主人公に言った言葉を僕は思い出す。彼の人生は、戦前と戦後ではっきりと二極化しつつ、特に戦後以降は混沌としているのだ。

この本の読後感は、加藤典洋の『アメリカの影』に似ていると感じた。『アメリカの影』は、江藤淳とは何者か、その言説を丹念に追うことで戦後日本の(アメリカの傘の下にある)言語空間を描いた評論でもある。アメリカに反発しつつ、そのあからさまな反発にも反発する。二律背反。セメントとフェイクが混沌としている。その言説は真実なのか、アングル(作り話)なのか。そもそもその生き方に真実はあるのか。世間に対して自らがダブルバインドな状態であることへのナイーブな心情が伝わってくる。そして晩年の閉口。真実はいつも語られない(が故に真実となる)。胸が締め付けられるような感覚が残った。

最後に、戦前の木村の柔道は、現代の講道館柔道と全く違うということが再三書かれている。確かに今、柔道を辞め、総合格闘技に身を置く選手はたくさんいるが、彼らは柔道の技術によって戦うというよりもトップアスリートとしての身体能力を武器にキックを習い、寝技を習い、総合格闘技の舞台に立っているという理解が正しい。僕らは柔道家の戦いがボクシングやキックに終始しているという試合を何度も観ている。しかし、木村は違った。彼が柔道として会得した技術を持って、エリオと戦い、そして圧倒したのである。武道とは何か。格闘技とは何か。柔道とは本来何であったのか。この本を読み、失われたものに思いを馳せた。
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by onomichi1969 | 2011-12-31 12:29 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 男はつらいよ 備忘録 semスキン用のアイコン02

  

2011年 12月 17日

男はつらいよのシリーズを観始めて10作目。同じパターンの作風にそろそろ何がどれだか分からなくなってきたので、せめてミニコメントを残して備忘録にしておこうと思う。

1. 男はつらいよ(1969年)第1作目
いやー、泣いた。笑った。楽しんだ。車寅次郎の20年ぶりの葛飾柴又への帰郷から始まる寅さんシリーズ(映画)『男はつらいよ』第1作目。渥美清の寅さんが若い! 登場早々、祭に飛び入り参加して纏(まとい)を手に威勢よく踊りまくるのだけど、これがなかなかカッコいいのだ。テキ屋の売の口上も最高にキマっている。倍賞千恵子のさくらちゃんはとても可憐だし、前田吟の博も精悍だ。寅さんと博の船上での張り合いはなかなか緊張感のあるシーン。会話がすれ違いつつ、何故か噛み合うという絶妙さが楽しく、寅さんの純情な男気と気風の良さがよく分かるシーンでもある。博は、職工ながら大学教授の父親を持つ理知的な人物で、尚且つ腕っぷしの強さを秘めているという、若き前田吟がなかなか役に合っている。(最後の涙も感動的だった)
寅さんのおせっかいが逆に功を奏して、さくらちゃんと博がめでたく結婚し、その結婚式に博の父親、志村喬が現れる。家を飛び出した博とは8年ぶりの再会、そして披露宴の最後に挨拶。志村喬の朴訥としたスピーチに寅さんと博同様に僕も号泣;; ここはシリーズ屈指の名シーンだろう。この披露宴で、御前様の笠智衆と博の父親役の志村喬が同じ画面の中にいるのです。それだけで感動的なのだなぁ。ちなみにシリーズ初のマドンナは光本幸子。寅さんがメロメロになる御前様のお嬢様で、少し地味だけど、品があってよかったよ。

2. 男はつらいよ 寅次郎相合い傘(1975年夏)第15作目
マドンナは2回目の浅丘ルリ子。シリーズでは1,2を争う人気作である。メロン騒動が寅さんのドタバタ劇の中でも秀逸だけど、やっぱり最後の寅さんとリリーが結婚かという場面で、じわっと盛り上がって、すうっと引いてしまう心の機微には悲しくてグッときた。
船越英二を含めた男女3人の旅模様はとても楽しかった。寅さんとリリーは計4作で共演することになるが、本作が2人の若さと勢いがあって、一番いい。

3. 男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け(1976年夏)第17作目
マドンナは太地喜和子。彼女の可愛らしさが光る。愛しい彼女の金銭トラブルを解決しようと奮闘する寅さん。思いは必死だけど、金のない寅さんにはどうしようもできない。これはつらい。でも最後に押し掛けた画家先生に思いが通じて、なんとかお金が工面できることに。こういう伏線があったのね。人徳は大事。寅さんの男気と優しさに感動した一篇。

4. 続男はつらいよ(1969年)第2作目
マドンナは佐藤オリエ。彼女で金八先生を思い浮かべるのは僕らの世代。寅さんの学生時代の先生、東野英治郎(黄門様)も味がある演技だった。茶の間騒動、マドンナに振られて終わるパターンも本作で確立したって感じ。元気いっぱいで喜怒哀楽の表情と動きが豊かな寅さんは見ていて清々しい。

5. 男はつらいよ 寅次郎恋歌(1971年)第8作目
マドンナは池内淳子。これは傑作。泣けたなぁ。最後の縁側のシーン。池内淳子親子を思いやる寅さん。自分では彼女を幸せにできないと自ら身を引くところはこれまでと違う落ち着いた味わい。再登場の志村喬が最後に博夫婦に会いに行くところも良かった。志村喬の寅さんへの説教「りんどうの花」。これを受け売りにする寅さんの口上が笑わせる。本作で初代おいちゃん森川信が最後の出演となるのだが、まさか本当に死んでしまうとは思っていなかったのだろう。作品のいろんなところでおいちゃんの死を暗示させるセリフが多かったような気がする。「ばかだね~」「俺しらねぇよ」「まくら、さくら」など、最高です。寅さんの「きっちゃてんでこーしー」ってのも笑ったなぁ。寅さんと森川信の最後のドタバタ騒動。さくらの「母さん」の歌も泣けた。寅さんの人柄をあらわす旅一座との交流もあって、見せ場てんこ盛りの一作。

6. 男はつらいよ 知床慕情(1987年夏)第38作目
マドンナは2回目の竹下景子。そして彼女の父親役に三船敏郎。本作は三船の晩年の傑作と言っていいだろう。やもめの獣医役。いかにも「男は黙ってサッポロビール」って感じの役柄なのだが、最後に勇気の告白をやらせちゃう。そうきたか。山田さん。その相手が淡路恵子というのは黒澤へのオマージュなのだろう。

7. 男はつらいよ 寅次郎夢枕(1972年冬)第10作目
マドンナは八千草薫。彼女が演じるお千代さん。いいね。寅さんの幼馴染ということで、いつものように寅さんがマドンナにのぼせ上がる代わりにインテリ助教授(米倉斉加年)にその役回りをさせるという。お千代さんと寅さんは、結構相性がよかったのではないかな。珍しく寅さんがマドンナを振ってしまうというパターンでした。

8. 男はつらいよ 望郷篇(1970年)第5作目
マドンナは長山藍子。彼女はテレビシリーズでさくらを演じていた。その彼氏が同じくテレビシリーズで博役だった井川比佐志。寅さんが井川のことを博に似てると何度も言うのだけど、そりゃそうだ。同じ山田作品『家族』『故郷』でも井川比佐志と前田吟は兄弟だったな。その時は井川が倍賞千恵子の旦那だったというところも錯綜していて面白い。
真面目になろうとする寅さんが語る「額に汗して、油にまみれて働く、、、」というのがさくらの寅さんに対する説教の受け売りだというのが笑える。

9. 男はつらいよ 純情篇(1971年)第6作目
マドンナは若尾文子。あいかわらず綺麗かつ妖艶である。艶めかしすぎて、とらやに全くマッチしていないw この違和感は致し方ないかな。とらやではハチャメチャな寅さんも、地方に出向くとすごくいい人。人情に篤く、気配りの効いた人徳者となる。宮本信子が若い。森繁じいとの絡みをもっと見たかったな。

10. 男はつらいよ 寅次郎物語(1987年冬)第39作目
マドンナは秋吉久美子。前作に続き、後期の傑作。このころになると、寅さんというのは作品の主人公というよりも、ひとつの「舞台装置」と言ってもいい存在となる。その舞台で、秋吉久美子や五月みどりの息子たち登場人物が何か心暖かいものを得て、人として快復していくのである。
最後の満男と寅さんの会話。満男「おじさん、人間ってさ」 寅さん「人間?人間どうした?」 満男「人間は何のために生きているのかな?」 寅さん「うん、まぁ、難しいこと聞くなぁ。えー、何ていうかな、ほら、あぁ生まれてきてよかったなぁって思うことが何べんかあるじゃない。ね、その為に人間生きているんじゃないのか?」 満男「ふ~ん」(納得したようなしていないような微妙な表情) 寅さん「そのうちお前にもそういう時が来るよ。うん?まぁ、がんばれ、な!」(と満男の肩をポンと叩き、一人駅に向かう悠然とした後姿)
その後のシーンで寅さんが「人間は何のために生きているのか」と仲間の一人に尤もらしく問うという、いつもの受け売りパターンがあり、ついに満男からもパクるのかと。でも、いいシーンだなぁ。

つづく
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by onomichi1969 | 2011-12-17 18:50 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ラブ・アクチュアリー "Love Actually" semスキン用のアイコン02

  

2011年 12月 17日

a0035172_23020.jpgクリスマスが近づくと思いだす映画『ラブ・アクチュアリー』。素敵なロマンティック・コメディですね。

冒頭でヒュー・グラントがナレーションで呟く”Love actually is all around.”がタイトルとなっていますが、この場合のLoveは恋愛というよりも、広義の「愛」でしょう。確かにこの映画の群像劇では、いろんな形の「愛」が描かれます。英首相の身分を超えた恋愛であり、幼い恋愛であり、言葉を超えた恋愛であり、肉体を超えた恋愛であり、肉体の恋愛であり、親友の彼女への横恋慕であり、大人のちょっとした火遊びであり、家族愛であり、姉弟愛であり、男同士の友情であり、、、。最後の方もやっぱりLoveなんですよね。ある意味で恋愛という幻想を超えた現実的なLoveです。それもいろんな形としての。

恋への勇気を描いた映画という評価もあるけれど、どちらかと言えば、「愛」という言葉の広がりというか、その大きさと共にミニマルさを感じさせる映画に思えます。ビートルズの”All Need is Love”が挿入歌として有名ですが、僕にはラストに流れるビーチ・ボーイズの”God Only Knows”が心に響きます。「君」は、デブのマネージャーでもあり、幻想の君でもあるのです。その愛に支えられている自分を感じ、それを伝えたくなるのです。2003年イギリス・アメリカ映画

If you should ever leave me
Well life would still go on believe me
The world could show nothing to me
So what good would living do me
God only knows what I'd be without you

もし君が僕から去るなんて事が起きたら
人生はそれでも続くけど 信じてほしい
この世は何の価値も示さない
生きる事に何の良さがあるんだい?
神のみぞ知る 君がいないと僕がどうなるか

The Beach Boys “God Only Knows”

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by onomichi1969 | 2011-12-17 02:10 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

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