Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 ジュリエットからの手紙 "Letters to Juliet" semスキン用のアイコン02

  

2011年 08月 22日

a0035172_1422019.jpg恋愛映画というよりも、人生讃歌。

そもそも、「ヴァネッサ・レッドグレーヴおばあちゃんの昔の恋人を探せ」的な展開は、その描き方からして彼女の若き日の熱烈な恋愛エピソードから50年後の後日談であり、それだけとってみれば、これは恋愛映画というよりも恋愛ドキュメンタリーのようなものである。彼女の実らなかった恋の話は詳しく語られないが、敢えてイメージすれば、『ローマの休日』や『カサブランカ』の後日談と言ってもいいものだろう。

若き日の恋心。そして挫折。恋愛の時期を過ぎれば、家庭や仕事、生活という些事に忙殺され、僕らの生活はそれらに没頭する毎日となる。(もちろん生活も生き甲斐である) 年を経て、そういった全ての些事から開放される年代となり、ようやく若き日の恋愛に思い至る。恋愛とは何だろう?黙って見つめ合うだけで気持ちを共有できる(と幻想する)関係だろうか。人が人を求め、人に求められる。幻想が確信となれば、それは人生において生きる心の支えになるだろう。

クレアが昔の恋人と再会するシーン。彼女が見つめると彼はだまって見つめ返す。50年の時を経て気持ちが通じ合う2人。ありえないと思いつつ、とても感動的なシーンでもある。クレアが昔の恋人と再会した後、今度はソフィーとチャーリーの恋愛がクローズアップされ、クレアがそれを見守る立場となる。 実はソフィーとチャーリーの存在は、観客たる僕ら自身とも重ねられる。クレアの恋愛ドキュメンタリーを見守る立場として、ソフィーとチャーリーと僕らは同じ視線を共有していたのである。ソフィーとチャーリーはクレアの影響を受けて、お互いを見つめ合い、そのことを確信することで、恋愛に踏み出す決意をする。僕らは知らず知らずのうちに彼らと気持ちを共有しつつ、自らの生活を思い返す。(映画としてそういう構造になっている)その時、僕らは映画を他人の恋愛を非日常的に傍観するのとは違う、より日常に引き寄せた心持ちとして体験し、見つめるべき人の姿を想い、そこに人生に対する新しい希望を見出すのである。(見い出せない人もいるだろうけど。。) だから僕は、この映画を通常の恋愛映画とは違う、寧ろ人生讃歌と言いたいのである。2010年アメリカ映画
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by onomichi1969 | 2011-08-22 02:09 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 頭脳警察 『頭脳警察1』(1972) semスキン用のアイコン02

  

2011年 08月 18日

a0035172_0191041.jpgそれではお待たせしました! 頭脳警察です!

あ、あ、あ、あ、あ。
試験、試験。期末試験、実地試験、中間試験。
あ、あ、入試阻止。あ、あ。


ブルジョアジー諸君!!

我々は、世界中で君達を革命戦争の場に叩き込んで一掃する為に、ここに公然と宣戦を布告するものである。

君達の歴史は、もはや分かりすぎている。
君達の歴史は、血塗られた歴史じゃないか。

君達の間での世界強盗戦争の為に我々はだまし、互いに殺しあわせてきた。嘘だとは言わせない。

我々はもうそそのかされ、だまされはしない。

君達にベトナムの民を好き勝手に殺す権利があるなら、我々にも君達を好き勝手に殺す権利がある。

君達にブラックパンサーを殺し、ゲットーを戦車で押しつぶす権利があるなら、我々にも、ニクソン・佐藤・キージンガー・ドゴールを殺し、ペンタゴン・防衛庁・警視庁・君達の家々を爆弾で破壊する権利がある。

君達に沖縄の民を銃剣で刺し殺す権利があるなら、我々にも君達をナイフで突き殺す権利がある。

いつまでも君達の思い通りになると思ったら大間違いだ。
君達の時代は既に終わった。
我々は最後の戦争の為に、世界革命戦争の勝利の為に、君達をこの世から抹殺する為に最後まで戦い抜く。

我々は自衛隊・機動隊・米軍諸君に公然と銃を向ける。
殺されるのがいやなら、その銃を後ろに向けろ。
君達をそそのかし、後ろであやつる豚共に向けて。

我々を邪魔する奴は、容赦なく抹殺する。

世界革命戦争宣言をここに発する。

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というわけで、
頭脳警察の『頭脳警察1』である。

1972年、カッティング前には既に発禁となっており、幻のレコードと呼ばれていたが、30年の時を経た2001年、まさかまさかの再発となった。

過激な歌詞。しかし、その内容は完全に風化してしまった。
(だから再発されることになったのだろう)
上記の頭脳警察版の『世界革命戦争宣言』は、1969年に赤軍派が発した「世界革命戦争宣言」が基になっている。

PANTAが歌う『世界革命戦争宣言』はとてもよく響く。何度聴いても、彼の叫びは心に響くものがある。何故だろう? 歌詞自体は今や空疎そのものなのだが。

但し、『言い訳なんていらねえよ』という歌の歌詞はとてもここに書けないシロモノである。ここだけ聴けば、何故再発が許可されたか不思議なくらい。


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by onomichi1969 | 2011-08-18 00:35 | 日本のロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ツリー・オブ・ライフ "The Tree of Life" semスキン用のアイコン02

  

2011年 08月 15日

a0035172_22145347.jpg生きていくということ。生命の系譜について。その大切なことの全てがこの映画には詰まっている。創世から神の国に至る道筋を個人の意識(記憶)を含めたイメージとして映像化し得たこと。素晴らしいと感じた。これまでに経験したことのない種類の感動が確かにあった。旧約の世界。創世から人類の誕生。生命の樹。楽園からの追放。カインとアベル。ヨブの物語。そしてイエスの愛。それは、キリスト教世界のエッセンス、歴史を辿るイメージであると共に、現実的な主人公の家族を巡る物語に重なる。壮大且つちっぽけな物語。

"There are two ways through life. The way of nature and the way of grace. You have to choose which one you will follow."

映画の冒頭で語られる母親(ジェシカ・チャステイン)の言葉であり、一見この映画の主題そのものを言い当てているように思える。「世俗に染まるか、神に委ねるか」と訳されていたが、意味合いとして、世俗とnatureは少し違うような気もするけど、natureとgraceがキリスト教世界における対概念であることは確かである。しかし、この映画から僕が受けた印象は、その対立ではなく、融合。対立を含む一体化である。

アメリカ人の90%は神の存在を信じているという。故に、先に発表されたホーキング博士の「神の非在発言」『ホーキング、宇宙と人間を語る』)が如何にセンセーショナルだったかは想像に難くない。確かに宇宙物理学者であり、究極の無神論者であるホーキング博士はとても稀な存在と言える。アメリカでは、科学と宗教は基本的に矛盾しない。量子力学と神の存在は両立するのである。そもそも、神の御業によって成立した世界を人間の理性によって明らかにしようとする試みこそが科学である。だから、アインシュタインは量子力学の確率論的な不確定性を「神はサイコロを振らない」と言って否定した。神は完全であるべきだと。人間理性によって認識に至らない非知の世界もあるだろう。しかし、世界は不完全で不確定であることが証明された現代において、神(GOD)の存在は、完全さと不完全さを包含した、世界を肯定し得る存在として感じることもできる。

本作品の映像世界が示すのは対立ではなく、融合である。映像によって一体化されるnatureとgrace。それは地球と生命の歴史を含んだ旧約から新約に至るキリスト教的な世界の系譜そのものであり、イエスの愛に至る道筋そのものであり、同時にそれは個人の歴史に重なり合う。その物語、その映像。究極にエッセンシャルな物語。だからこそ、この映画はすごい。

National Geographic的な映像の美しさがこの映画の特徴でもある。その中に恐竜のCGが挿入されていて、最初は??と思ったが、あの映像こそ、この映画の主題そのものに通じていたのだと今にして思う。それは、兄弟や父子の確執が途中決定的な亀裂を垣間見せながら、最終的に和解へと至る道筋を示唆していたと言えないだろうか。そういう伏線も感動的である。

この作品は、確かにこれまでの映画という概念を易々と超えている。映画を評価する客観的な従来型の指標があるとして、それには到底当てはまらないし、自らの知識と理解を超えた内容に対して「これは酷い」と思わずつぶやいてしまう気持ちも分からないではない。しかし、それはすごく勿体ないことだ。この映画が誘う世界、想像力が導く世界は、新しいイコンである。僕は、この作品をもう一度観たいと思った。2011年アメリカ映画
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by onomichi1969 | 2011-08-15 22:41 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 東京公園 semスキン用のアイコン02

  

2011年 08月 14日

a0035172_181015100.jpg伝わる映画。

日常の中、生活全般に関わる些事の中で泡のように浮かんでは消えていく淡い想い。それでいて胸を締め付ける想い。そんな人を愛しむ想いの大切さを教えてくれる。(映画の中で榮倉奈々ちゃんは『雪のように溶ける想い』って言っていたよ) それは真っ直ぐに見つめるべきもの。そして、見つめ返されることの中に答えがある。(いや、見つめ返されることそのものが答えか) この物語はそう語りかける。海風の漣、暖かい陽だまり、木の葉のさざめき、大樹の陰。公園も語りかける。それが自然なのだと。

主人公はレンズの先の女性(井川遥)に導かれ、東京中の公園を巡る。異母兄弟となる姉(小西真奈美)に導かれ、亡き友人の彼女(榮倉奈々)に導かれ、最後には最も自然なカンケイに収まるのである。男たちは迷う。もちろん、女たちも迷う。想いが泡のように浮かんでも、せわしなさの中で、ともすれば、それを掴み損ねる。そんな時、東京を、そしてその場所を公園だと思えば、そこに佇むのも悪くない。

真っ直ぐに見つめ合い、ただお互いを確認し合う。そういう時間があっていいのだなぁ。公園のような暖かさ。主人公の自然な振る舞いは、確かに小津映画に出てくる人々を思い出す。それが生活というものの本来的な味わいに繋がっていくのだろうなぁ。生活感あふれる現実的なラストシーンは、そんなことを思い起こさせるに十分意図的な演出なのだろう。

※本作品、ロカルノ国際映画祭で金豹賞審査員特別賞を受賞したそうです。なるほど、欧米の方々の理解は案外僕らより深いのかな。

【ロカルノ映画祭】青山真治監督『東京公園』が審査員特別賞

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by onomichi1969 | 2011-08-14 18:16 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ミッション:8ミニッツ ”Source Code” 10月公開予定 semスキン用のアイコン02

  

2011年 08月 06日

a0035172_23563542.jpg
本来、理論的位置づけがそこはかとなくあって、主題が現代思想的にも有意で、なおかつ人間的に必然な要素(恋愛とか利己とか家族愛とか)が絡んでいて、とにかく面白い、というのがSF作品に僕らが求めるところではないだろうか。
映画『インセプション』のレビューで僕はこう書いた。そして、昨日、そんなSF作品に偶然出会ってしまった。映画『ミッション:8ミニッツ』(原題”Source Code”)である。日本未公開ながら、LufthansaのFRT~NRT機内映画として上映していた。これがとても面白かったのである。

SFとしての設定はそれほど難しくない。
シカゴで列車爆破事件が起きる。アメリカ陸軍の元ヘリコプター・パイロット、コルター・スティーブンスは、政府の開発したシステム『ソース・コード』によって、テロの犠牲になった一般人の死ぬ直前8分間の意識(記憶)に侵入し、犯人の手がかりを掴むというミッションを与えられる。彼は、カプセルの中に拘束され、コントロール室の女性大尉コリーン・グッドウィンの指示により他者の記憶への侵入を繰り返す。
このミッションの成否により、次に予告されている大規模爆破テロを防げるかどうかが決まる。繰り返される8分間の中で、コルターは「何故自分なのか?」という考えに囚われてコリーンと対立しつつも、ミッションを果たすために奮闘するのだが。。。

コルターは、他人の記憶に意識を同化させることにより、彼の最期の8分間を何度も「生きる」。しかし、彼は、犯人に辿り着くことなく、列車を何度も爆発させてしまう。その中で、列車の中で関わる人々の動きが彼自身の行動の変化によって毎回違うことに彼は気付く。これは記憶の変遷、仮想現実の単なるバリエーション(誤差範囲)にすぎないのか?そして、何度目かの意識同化の中で、彼は逃走した犯人の手掛かりを見つけることに成功し、犯人は現実の中で逮捕される。しかし、ミッションの成否に関わらず、列車の中の人々は、現実にはもう既に死んでいる過去の記憶の断片にすぎないのだ。そして彼も。。。

彼は、2-3度目かの記憶同化の際に、同席していた女性を列車から救い出し命を助ける。彼は、既存記憶の枠を超えて彼女の命を助け得たことに、彼の行動が持つある種の可能性に気付く。繰り返される8分間の中で、彼は彼女と何度も出会い、会話を繰り返し、彼女に恋をした。彼は、現実には死んでいる彼女を助けたいと切実に願った。その思いは冷徹と思われたコリーン・グッドウィンを動かす。最後の最期の8分間の中でコルターはある決意をする。。。

脳内信号が言語データとして扱えること。他人の脳内記憶データを認識することにより、意識が時空間を超えて存在できること。そして、そこから人間原理に基づく量子力学的な多世界解釈が生まれること。この映画のラストシーン。時空を超えた意識が確率論的な現実を生み出し、量子力学的な多世界解釈と結びつく。彼は彼女を助け、世界を変える。意識のパラレルワールドを現実として生きる。素晴らしい。そうきたか!僕は「やったー!」と叫びたくなった。

あと1分しか生きられなかったら、何をする?

たぶん、今年一番のSF映画だと思う。日本では10月公開予定。(アメリカでは2011年4月公開、米映画)

※監督のダンカン・ジョーンズは、デヴィッド・ボウイの息子である。さすが、センスがいいね。
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by onomichi1969 | 2011-08-06 00:43 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

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