Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 ブラック・スワン "Black Swan" semスキン用のアイコン02

  

2011年 05月 30日

a0035172_0242529.jpg『ブラック・スワン』は、ナタリー・ポートマン演じるバレリーナの自己自身をめぐる物語である、という解釈はその通りだと思う。さらに言えば、この物語は、彼女の自己分析的な記憶そのものである。彼女が精神科医への告白の中で(或いは死後の告白の中で)紡ぎだした彼女自身の経験と妄想の交錯した記憶こそが、『ブラック・スワン』の物語である、と僕は思う。

映画は、いくつかの視点によって物語を追う。ある時、それは彼女自身の視点として、そして、ある時、それは彼女の背後からの視点として彼女自身を含めた風景の中で捉えられる。演出家のトマも、ライバルとなるリリーも、彼女の記憶により、その性格を改変させられている。

映画とは「他者の視線から見られた世界の風景」である。だが、それはいったい「誰の視線」から見た風景なのだろう。(内田樹『映画の構造分析』)

『ブラック・スワン』の場合、それは彼女自身の視覚記憶に基づく視線であり、風景であり、物語である。それが映像の意味を決定している。私は、私の記憶(脳)によって完璧に騙される。彼女は、最後にPerfectと呟くが、ホワイト・スワンたる彼女が最後の最後でブラック・スワンに変身し、彼女の中の善と悪、可憐さと妖艶さ、超自我とエス、エロスとタナトスが融合することで得られた恍惚こそが彼女にとってのPerfectだったのだと思う。

最後のバレエシーン。彼女は、ホワイト・スワンの演技で決定的な失敗を犯し、ここで挫折してしまうのかと思いきや、楽屋でリリー(の幻想)を殺戮することにより、衝動的にブラック・スワンそのものに変身する。リリー(の幻想)を殺戮することで得たものは何か? 解放したものは何か?
彼女が求めたものは「美しさ」である。バレエとは、常に自分自身を鏡で映すことで紡ぎだされる肉体運動の美しさであり、自己規律訓練的、反自然的な「美しさ」への自己希求であり、その希求は、結局のところ、他者の承認を求めざるを得ない飽くなき欲望となる。それが彼女自身の変身願望に繋がる幼少時代からの無意識の抑圧であり、妄想の源泉だった。彼女がホワイト・スワンとして死を迎える時に彼女の視線が捉えるのは彼女の母親の姿である。母親の喜ぶ顔を瞼に浮かべながら、その承認を得て、彼女はPerfectと呟くのである。

僕らはこの映画を観ている最中に知らず知らずの内に緊張している自分に気が付く。それは、肉体的な痛みを喚起するシーンからくる緊張もあるけれど、映像そのものが観る者の無意識に訴える「痛み」があるからなのだと僕は思う。その痛みの深度によって、観客はやはり無意識的に映画に巻き込まれる。何故、こんなに映画に魅せられるのか? そして、映画は否応なく解釈と分析の対象となり、その時にこそ、映画は製作者達と同列に個人のものとなる。いい映画は多くの人々に其々の解釈を許す。そういうものだと思う。2010年アメリカ映画
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by onomichi1969 | 2011-05-30 00:25 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 内田樹×中沢新一×平川克美 『大津波と原発』 semスキン用のアイコン02

  

2011年 05月 20日

a0035172_0532771.jpg東日本大震災で引き起こされた大津波は天災であるけれど、原発事故は人災である、、、多くの人はそのように考えているだろう。

そういう言説に少し違和感があった。原発事故は本当に人災なのだろうか? そこで浮かんでくる災いの元となった「人」とは、一体誰なのだろうか? つまり、原発事故は、誰によって引き起こされた人災なのだろうか?
原子炉の設計者なのか? 危機管理を怠ってきた東京電力のエンジニアリング部隊なのか? 初動処置を誤った施設管理者なのか? 統括責任としての東京電力の社長なのか? 原子力部門トップの副社長なのか? 原子力村の人々、原発推進派の学者達、経産省の官僚達、政治家達なのだろうか? 東電顧問の政治家、原発の父と呼ばれる大新聞社の元社主、歴代の首相達、そして、現在の首相、政府の責任者。
一体、人災と呼ばれる時にイメージすべき人の顔は、どの顔なのだろうか? それは翻って、僕ら国民それぞれの顔になるのか?

Ustreamで放映された内田樹と中沢新一と平川克美の対談が『大津波と原発』という小冊子になった。

この本の中で中沢新一は、原子力を一神教的な神の如きものと見做し、原子力発電を一神教的技術と解している。内田樹と同じく、僕もこの考えには「なるほど」と膝を打った。インドの原子力発電所は、シヴァのリンガ(男根)の形をしているという。つまりインド人にとって、原子力はシヴァ的な神として怖れ、鎮められる存在であるわけだ。フランスでも同じで、原子力発電所は、荒ぶる神を扱うが如く、その危険さ(リスク)が国民から常に認識され、慎重に扱われてきたという。(後記:シヴァは自然神なので、一神教的な神様とは違う。インドでの原子力の扱いは自然を超越したものではないとも言えるが、そもそもインドには一神教的な神様はいないので、そこが精一杯ということなのだろう)

ところが、日本では、原子力をして一神教的な「鬼神を排して、之を遠ざく」扱い方ができていなかったのではないか。そもそも原子力を本来的に取り扱うことのできる文化的なノウハウがなかったのではないか。内田樹はそう述べる。

日本は、一神教ではなく、多神教であり、神仏習合である。「恐ろしいもの」を「あまり恐ろしくないもの」と見境がつかないように「ぐちゃぐちゃにする」というのが日本的な神の制御方法である。日本は昔から信仰の中心に御霊鎮魂があり、その流れの中にアミニズムがあり、神仏習合があったと理解している。古来、日本では、天災や疫病は怨霊の祟りであるとされ、政(まつりごと)により、祟神を特定して、それを崇め、鎮魂したという。その技術の中に神事があり、仏教があり、陰陽道があった。日本では、宗教は御霊と自然鎮魂の為の技術だったわけだ。

日本人はそもそも原子力を霊的なもの、神的なものとして全く認識していなかった。そこがインド人やフランス人と違った点だろう。日本人は原子力を単なる科学技術として信憑していた。鉄腕アトムは神ではなく、科学技術の粋である原子力ロボットなのである。戦後、原子力を推進していく中で日本は、科学技術こそが信仰の対象となった。だから、原発は、インドやフランスような絶対的な聖域、神殿ではなく、安全安心の高度で無機質な科学技術の粋だった。そこには霊的、神的な要素は全くない。

原発事故は人災ではなく、「神による災い」である。
インドやフランスの人ならばそう考えただろうか? 原子力は、人知を超えたもの、人間にとって完全に制御できないもの、それでいて自然界には全く存在しないもの、自然を超越しているという意味で、やはり神の如きものだったのだと思う。「神の火」は、自然を作り上げた神の力の源であり、神の領域ともいえる原子核に由来するエネルギーだったのだと。

日本人は、「恐ろしいもの」を「恐ろしいもの」として崇め奉る一神教的技術によって、原子力を扱うことができなかった。思想として、儀式として、それを怠ってきた、というより、文化的にそれが出来る素養がなかった。要は、単なる技術として甘くみていたのである。そして、災いとなった。

未曾有とか想定外とか、そもそもそういった領域にこそ自然界は存在し、原子力はそんな自然をも超越したところに生み出された鬼っ子だったのだと、今にして思う。原子力がそういった「神による災い」を包含しているという認識がないところに日本人としての災いがあるのかもしれない。

原子力と水と石油達の為に私達は何をしてあげられるの?
井上陽水 『最後のニュース』

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by onomichi1969 | 2011-05-20 19:35 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ついでに、、、フレンスブルグ semスキン用のアイコン02

  

2011年 05月 19日

昨年12月に行ったドイツ最北端の町、フレンスブルグ。12月1日にしてすごい雪でした。
田舎町の民宿に泊まりましたが、外は吹雪。こりゃ部屋で丸くなるしかないって感じ。
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フレンスブルグの中心街です。
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by onomichi1969 | 2011-05-19 23:29 | 旅の記録など | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 ケルン~デュッセルドルフ~ブリュッセル semスキン用のアイコン02

  

2011年 05月 19日

またまた仕事でドイツに行ってきました。
今回は、ケルンを常宿にしてデュッセルドルフに通い、休日にはブリュッセルを観光しました。

朝のケルン大聖堂
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ケルン大聖堂に登り、外を見ると、そこに歴史が。
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金曜日午後5時頃のデュッセルドルフ、ラインの畔
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ブリュッセルと言えば、絢爛たる劇場 グラン・ブラス!
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また、ブリュッセルと言えば、お約束の「がっかり」
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サン・ミッシェル大聖堂での講話
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ケルンの縁結び?
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その他の旅の記録は、こちらをご覧ください。

1ヶ月程滞在した時のドイツ通信もあります。(ちょっと古いけど、、、)
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by onomichi1969 | 2011-05-19 22:54 | 旅の記録など | Trackback | Comments(1)

semスキン用のアイコン01 マーク・ブキャナン 『歴史は「べき乗則」で動く』 semスキン用のアイコン02

  

2011年 05月 11日

a0035172_138112.jpgマーク・ブキャナン『歴史は「べき乗則」で動く』を読む。
アメリカ西海岸のある断層での調査によると地震の発生は「べき乗則」(f(x) = ax^k )に従うとのこと。但し、これは地震発生数と規模の相関であって、これによって地震を予知できるわけではなく、逆に地震が予知できないものであることを「べき乗則」は指し示している。
地震の発生しなかった期間が長いほど、近い将来にそこで地震が発生する可能性は低くなる。(中略)現在地震を予知する最良の方法は、一度地震が起きるのを待ち、そして直ちに、別の地震が起きるという予知を出すという方法だろう。(本文より)

地震の発生と規模の関係が「べき乗則」に従うとすれば、地震のエネルギーは、発生件数の多い規模の小さい地震によって都度発散され、規模の大きな地震の周期性は否定される。

砂山ゲームと呼ばれるシミュレーション・ゲームがある。砂を1粒づつ落とし続けて砂山を作り、さらに砂粒を限りなく落としつづけていった時、砂粒落下の影響で砂山が滑り落ち雪崩を起こす規模とそのタイミングを全て記録していくと、その関係は「べき乗則」に従うという。雪崩の砂粒の数が2倍になると、回数は2分の1弱になる。
地殻の動きも同様ではないか、と考えた人がいて、単純化した地殻の揺動モデルによって同様のシミュレーションを行ったところ、地殻の揺れの規模と頻度の関係はやはり「べき乗則」に従ったという。(実際の調査結果とモデルによるシミュレーション双方ともに「べき乗則」に従ったということである)
大地震は、砂山が「臨界状態」になれば起こるが、その発生頻度は不規則であるが故に予測不可能となる。雪崩(地震、歴史)は全く同じように繰り返すのではなく、「べき乗則」を保存した状態で繰り返す。よって予測はできない。

「べき乗則」にはスケール不変性という特徴がある。f(x) = ax^k は、logf(x) = klogx + loga となり、両対数グラフによって直線的に表せる。よって、その関係はどこまでいっても比例的に保存されるのである。それが時系列或いは規則的な変化となった場合、その変化は対数の区切り毎の自己相似的は現象として現れる。いわゆるフラクタルである。自然界の形状記憶的な紋様は、図形としてのフラクタルを示すことがあり、葉脈や海岸線の形状がそれに当たる。

「べき乗則」によって説明できる自然現象として、他に、地球上の種の絶滅の規模と頻度の関係がある。絶滅の規模が2倍になると、頻度は4分の1になる。地球の歴史上、全生物の99パーセントが既に絶滅しているが、大規模な絶滅は、数千万年から1億年の単位で発生している。
最後の大規模な絶滅は、白亜紀と第三紀との境の6500万年前で、恐竜の他、全生物の75パーセントが絶滅した。次の絶滅がいつか? それが何によるものなのか?(隕石?気候変動?)それは分からない。それは予測不可能であるけれど、砂山が「臨界状態」になれば必然的に起こる。

数理物理学的というか、統計学的な見地から地球の歴史を眺めれば、それは、分析されつつある長大な過去と予測できない未来のお話となる。今日は、砂山に落下した1粒の砂である。たまたま、我々の祖先は絶滅を逃れて生き残り、今は平衡状態で全てにおいて平和な時期にある、という。

そういう見方もあるのかなと思う。
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by onomichi1969 | 2011-05-11 01:37 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 輪島裕介 『創られた「日本の心」神話』 semスキン用のアイコン02

  

2011年 05月 04日

a0035172_1912581.jpg『創られた「日本の心」神話』を読む。なかなか面白かった。

本書は、「演歌」が実は「日本固有」で「伝統的」な表現ジャンルではないこと、また、「レコード歌謡」と呼ばれていたものをいつ、誰が、どのような視点で「演歌」として概念化したのか、それがどのように流行し、どのような効果を持ったのか、について考察している。
従来、知識人から蔑視と非難にさらされてきたレコード歌謡が「演歌」ないし「艶歌」というキーワードによってその価値を否定から肯定へと反転させ、ある時期には一種の「国民文化」とまで目されるようになった。(本文より)
演歌の女王、美空ひばりがその死後に神格化され、彼女の歌が万葉以来の抒情/叙情を湛えた「日本の心」を体現した「演歌」であるという声が広く信憑されている。しかし、それは間違った認識ではないか、という疑問を著者は本書の冒頭で投げかける。
彼女はそのデビュー当時、低俗で退廃的というレッテルを張られ、雑多な海外音楽や民謡、芸者歌の要素を取り入れた流行歌の歌い手であり、『悲しい酒』や『柔』のような今では典型的な演歌調の曲(これらの曲は全盛期を過ぎた古賀政男と美空ひばりが初めて組んだものであり、実は当時流行の曲調を取り入れて、その後の演歌の定型となるものであるが、古賀メロディの特徴であるモダンさとは相容れないものであった)もあるが、彼女の幅広い音楽キャリアからすれば、演歌の女王などという演歌のレッテルに限定されるべきものではないという。それはどういうことだろう。
戦後のある時期まで、少なくとも「知的」な領域では、ひばりを代表とする流行歌は「悪しき」ものとみなされていたのが、いつしか「真正な日本文化」へとその評価を転回させたこと。
もう一つは、日本の流行歌の歩みは元来きわめて雑種的、異種混淆的であり、現在「艶歌」と呼ばれているものはその一部をなしてきたにすぎないということです。(本文より)

著者はこのような観点により、日本の流行歌の歴史(=連続体)を包括的かつ詳細に追いながら、いつどのような作為の中で「演歌」という言葉が生まれ、その意味がどのように「日本の心」に結びつくように変遷していったかを明らかにしていく。これって、フーコーの系譜学だよねと。

フーコーの系譜学とは、僕らが既に常識として思っていることにも実は「始原」があり、それが制度化されるプロセスを辿ることで世界のありようの「ほんとうのすがた」(構造)を明らかにする学問(知の考古学)である。彼は『狂気の歴史』や『臨床医学の誕生』で、そのような系譜学的アプローチによって、理性と狂気、あるいは正常と異常といった区分が17世紀から18世紀にかけて、西洋の知の体系からつくり出された産物であることを示した。そして『監獄の誕生』では、人間をコントロールする権力というもの、「支配-服従」の関係が暴力によって生まれるのではなく、相互の「見る-見られる」という関係を非対称に調整することで形成される自律的なシステムであることを明らかにした。ヨーロッパでの監獄や17世紀に発生したペストへの対処法を例にとり、空間の配分や視線による監視、記録と報告、相互の働きかけなど、それらネットワーク全体を「規律訓練のための装置」とみなし、それが可動するところに介在するはたらきを「権力」と呼んだ。人間を管理するには、相手を外側から暴力的に拘束するのではなく、「規律訓練のための装置」をつくりさえすれば、相手はそのメカニズムに介在している権力によって、自分自身を内側から拘束しはじめるのである。

フーコーは真理の概念について、「歴史のなかで長らく焼かれて、かたちを変えられないほど固くなっているので、もはや論駁できない種類の誤謬」と言っている。「演歌」という概念はたかだか40-50年ほどの歴史しかないが、既にそのような種類の誤謬となっているのではないか。『創られた「日本の心」神話』の著者はそう述べているように思える。

そういえば、僕が小さい頃、70年代中期の頃、演歌というジャンルはもっと限定的で流行物的な印象であったと記憶する。森進一や五木ひろし、都はるみ、八代亜紀などが体現していたもの。それはまだまだ若い創られた「日本の心」であった。それが80年代に美空ひばりの復活と演歌そのものの健全化があり、急速に日本の伝統に結びつきつつ、古来からの日本の心を綴る叙情となったのである。(その「何故」については、なかなか分かりにくく、ここでは言及しないけど、興味のある人は本書を参照されたし)

これは日本という国特有のことなのだろうか。フーコーは系譜学的アプローチによって、狂気や理性の本質や権力というシステムを発見したが、『創られた「日本の心」神話』の著者は、一体何を発見したのだろうか。日本文化の雑駁性なり表層性だろうか、マスコミの論調に容易に扇動されてしまう大衆性だろうか、それとも忘れっぽくて移ろいやすい日本的心性だろうか。いずれにしても、今の原発の問題しかり、僕らが当たり前と思っていたことも実は「始原」を辿れば全く確かではないどころか、とてもあやふやで危うい神話であるという現実は、日本において顕著であると言えるのかもしれない。
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by onomichi1969 | 2011-05-04 09:29 | | Trackback | Comments(0)

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