Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 武田邦彦 『大麻ヒステリー』 semスキン用のアイコン02

  

2009年 07月 28日

a0035172_0145770.jpg最近、本書を読んで、大麻(マリファナ)というのが麻薬ではなく、幻覚作用などが殆どない、どちらかといえば沈静作用のある比較的新しい嗜好品だということを知った。日本には「大麻取締法」という法律があり、大麻の所持や栽培は禁じられている。大麻とは、麻であって、日本では伝統的な繊維であり、薬ではあったが、煙草のように煙を吸うという使い方は全くなかった。(元々、日本の大麻草には作用成分が殆ど含まれたいなかったというから当然だろう) ところが、アメリカの歴史的背景によって制定された戦後の法律によって(麻薬や覚醒剤ではない、大麻取締法のみによって)悪とされてしまった、法律にしかその悪の根拠を見出しにくい典型的な例だといえる。(さらに日本では何処よりも厳格化されているようである)
だからといって、ここ数ヶ月でニュースになっている有名大学内での大麻問題について、彼らが意図的に法律を犯している事実をみれば、全く罪がないとは言えないだろう。彼らは法律を破ったというそのことに於いてのみ悪人なのだから。でも、、、もともと害のないものに悪を象徴させ、そこに罪を背負わせるのは、科学的に言って、あまり正しいことではないような気がする。

いずれにしても、この本、大麻に関して総合的によく調べてあって、レポートとしても纏まっていると思う。環境問題についての本もなかなか勉強になって面白かったけどね。
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by onomichi1969 | 2009-07-28 00:19 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 尾崎豊 『十七歳の地図』(1983) semスキン用のアイコン02

  

2009年 07月 26日

a0035172_1210097.jpg『十七歳の地図』に『15の夜』、そして『I Love You』
尾崎豊の衝撃のデビュー作にして、代表作でもある。尾崎豊のことを僕は10年近く前に書いたことがある。今、彼のことを改めて書こうとして、僕は当時と同じ思いを抱く。30歳になって書いた文章を40歳直前の僕がなぞる。ただ、思いは10代の頃に遡る。
僕らの世代にとって、尾崎豊というのはある種の共同幻想であったと思う。彼が「盗んだバイクで走り出す」と歌い、「夜の校舎、窓ガラス壊して廻った」と叫ぶ。今の若者はたぶん、「そんなものは犯罪じゃん」と言って鼻を鳴らすだろう。彼が「星空を見つめながら、自由を求め続けた」と歌えば、臭いセリフが周囲から浮いたイタい存在にしか思えないだろう。

僕らは当時、彼の歌に共感した。管理された社会を憂い、大人に抗う彼の歌に喝采した。彼の歌にあるような、今では無茶としか思えない行為を僕らは現実に行ったものだ。そういう行為が反社会的であることを分かった上で、それでもそういった常識や教条に抗うような行為に走ったのである。それが僕らのリアルであったし、また、一種の祝祭でもあった。若さがまだ特権でありえた、そういう時代だった。
実際のところ、尾崎豊は、大人によって作られた幻想であり、虚構であり、偶像であった。彼は社会によって認められて初めて音楽業界にデビューできた訳だし、そのイメージは戦略的に纏われたものだ。80年代のサブカルチャーを支えたのは当時30代の団塊の世代の人々である。80年代の音楽シーンも結局のところ彼らによって築き上げられたポストモダンの楼閣であった。尾崎豊は、80年代中期のJ-ロックのコマーシャリズムを超えた存在であると共に、70年代初期に挫折した団塊の世代の人々によって作られた「価値転倒」の象徴であり、蘇らされた幻想であったのだと思う。それに僕らは見事に嵌ったのだ。

昨今、若者達は、バカなことをしなくなった、というか出来なくなってしまったと言われる。酔って公園で裸になったり、電柱に登ったりすれば逮捕されるし、以前にも増して多くの規制によってがんじがらめとなっているようだ。僕はそういう光景をとても可哀想だと思うが、彼らにとってみたら、そう思う僕の方がイタい存在なのかもしれないけど。

1991年の湾岸戦争、1995年のオウム事件、1997年の神戸での少年による連続殺人事件、そして、2001年の9.11。90年代から連なる幾多の事件を経て、21世紀の僕らの社会は様々に管理を強化され、フーコーの描いた監視・制限された規律社会が自明のものとしてそこにある。自律的な相互監視の中で、個人は孤立を許容し、幻想としての共同性を失う。その中での生き難さを比べたら25年前の比ではないだろうに、彼ら(僕ら)は、環境にすっかり馴染んできている。非共同性とセキュリティ化を当然のことと身体化されている。
彼らはもう尾崎豊のような「価値転倒」的な共同幻想に共感しえない。というか、僕ら大人がある意図を持って、尾崎豊のような共同幻想を現代の子供たちに提示することができない。そこには転倒すべき価値への不満といったものがそもそもないし、いわゆる等価交換的なあり方に馴染んだ(大人の価値観を生来的に持った)子供たちにとって、そういう幻想は既に本当の意味での幻想であり幻滅でしかないのだから。。。でも、、、本当にそうなのだろうか?

「15の夜」とその「暴走」を失った社会。物分りよく受け入れ、価値を当然の代償として受け取る、そのことにのみ価値を見出す社会。即物的な社会意識の中で、全ては個人の中に澱んでいくけど、そのこぼれおちた「意味」に無自覚であるが故に、それが狂気と化したときの自己への衝撃は凄まじいものがあるだろう。それが昨今の「事件」として顕現しているのだとしたら。

ということで、僕もたまには「暴走」してみようかなと思う。それも自覚的であり、多くの人に迷惑でなければ、それほど悪くないのだと思えたりする。また、尾崎豊を聴いてみたりする。
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by onomichi1969 | 2009-07-26 15:21 | 日本のロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 5周年です semスキン用のアイコン02

  

2009年 07月 10日

気がつけば、本日で5周年となりました。
僕も2004年以来、、、ここまで続くとは思いもよりませんでしたね。本当に。

まぁ、これからも、その時々の気分で、ボチボチやっていきます。

たまに暴走したりします。

♪盗んだバイクで走り出す、行く先も分からぬまま~♪
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by onomichi1969 | 2009-07-10 02:12 | お知らせ | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 映画のプロが選ぶ21世紀の日本映画ベスト10 semスキン用のアイコン02

  

2009年 07月 05日

AERA MOVIE ニッポンの映画監督 (AERA Mook AERA MOVIE)
(2008/02/19)

2001年から2007年8月までの実写作品が対象。評価しているのは映画評論家やライター、映画祭関係者、上映関係者など、61人とのこと。

1位:ユリイカ
2位:誰も知らない
3位:ゆれる
4位:下妻物語
5位:それでもボクはやってない
6位:ハッシュ!
7位:いつか読書する日
8位:パッチギ!
9位:血と骨
10位:フラガール
11位:たそがれ清兵衛
12位:ジョゼとトラと魚たち
13位:アカルイミライ
14位:ヴァイブレータ
15位:UNloved
16位:回路
17位:美しい夏キリシマ
18位:殺し屋1
19位:天然コケッコー
20位:害虫

※12本鑑賞済み。1-3位は納得かな。
2008年の映画を入れると変わってくるでしょうね。
ということで、、下記は2008年のキネマ旬報ベスト10です。こちらも参考まで。

第82回(2008年度)キネマ旬報ベストテン<日本映画>

1位 おくりびと
2位 ぐるりのこと。
3位 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程
4位 トウキョウソナタ
5位 歩いても 歩いても
6位 闇の子供たち
7位 母べえ
8位 クライマーズ・ハイ
9位 接吻
10位 アフタースクール
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by onomichi1969 | 2009-07-05 13:05 | ランキング | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 愛を読む人 "The Reader" (シュリンク 『朗読者』 "Der Vorleser" ) semスキン用のアイコン02

  

2009年 07月 01日

a0035172_1191114.jpgケイト・ウィンスレットの演技に脱帽。原作のハンナのイメージそのままに、物語る身体を忠実に再現してみせる。出来れば、原語であるドイツ語の台詞だったらどんなにか良かっただろう。(あと、タイトルは何故『朗読者』でなかったのだろう?)
この物語は、そして彼女の演技は、語られないハンナの生き様を否応なく想像させる。少年と同じように、僕らは強く惹きつけられる。
ハンナの立ち姿とその因果を見るにつけ、悪とは?善とは何だろう?ということを深く思う。『1Q84』ではないけれど、この世の中に絶対的な悪がないように、絶対的な善もない。善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。
ハンナは親衛隊であり、ユダヤ人収容所の看守だったことが大罪であった。戦後20年が過ぎ、彼女はナチ狩りの裁判によって断罪される。戦後20年の視点により、同じドイツ国民の名において、戦時の彼女が断罪されるのである。しかし、彼女が罪を認めたのは、「文盲」であり、そのことを自らに恥じていたからだった。彼女には物事の「ほんとう」を知るすべがなかった。そういう意味でこそ、彼女は真の悪人だったのだろう。

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。 – 『歎異抄』第3章

悪人
衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。
阿弥陀仏の大悲に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らが何ものにも救われようがない「悪人」であると気付かされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。

善人
「善人」を、自らを「善人」であると思う者と定義する。「善人」は、善行を完遂できない身である事に気付くことのできていない「悪人」であるとする。
また善行を積もうとする行為(自力作善)は、「すべての衆生を無条件に救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。

因果
凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

僕らも本来的に救われようがない悪人なのだろう。それは共同性を超えて、私というものの避けがたい在り方を直視させる。しかし、下記のような言葉もある。実は、ここにこそ僕らにとっての生きる「救い」があるのではないだろうか。

「君は悪から善をつくるべきだ。それ以外に方法はないのだから」
(ロバート・P・ウォーレン 『ストーカー』 題辞)
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by onomichi1969 | 2009-07-01 01:32 | 海外の映画 | Trackback | Comments(2)

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