Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 村上春樹 『1Q84』 semスキン用のアイコン02

  

2009年 06月 28日

a0035172_23494950.jpga0035172_2350152.jpg村上春樹の最新刊『1Q84』を読んだ。途中、book2を犬に食われて買いなおすというハプニングもあったが、ほぼ1週間で読了した。

これをハルキワールドの集大成と言われれば、全くその通りだと思う。なぜなら、この小説に彼がこれまで描いてきたほぼ全てのアイテムを見出すことができるから。
『ノルウェイの森』を短編『蛍』の劣悪なリライトとするならば、『1Q84』はこれまでの村上作品を劣悪的に集大成したものとも言える。(そのようなレビューも散見した) しかし、それこそが作者の意図したところなのだと僕は思う。実際のところ、『ノルウェイの森』の一文一文がその基となった『蛍』に比べて、如何に周到に、意図的に劣悪化されたかについては加藤典洋の解説本(『村上春樹イエローページ』)に詳しい。

2人の主人公は、一見して、これまでの村上作品に通じるクールでスマートな人物として描かれながら、同時にこれまでになく醜悪な一面を見せる。かなり醜悪であると言っていいだろう。特に性的な面に関してはある種のだらしなさを全く隠さない。(余談だけど、村上春樹作品で、その露骨な性描写と優雅な性生活を批判される場合があるが、彼は男女関係の基本的なコミュニケーションとして性交というものを忠実に捉えているに過ぎない。それは露骨で醜悪であるけど、他者との身体的な関係という点で実に真っ当で文学的行為なのだと僕は思う)
村上春樹の初期の作品のキーワードのひとつにレティセンスというタームがある。レティセンスとは「言わずにおくこと」である。ほんとうのことを言わずにおくことで、そのことが指し示す本来的な輪郭を暗示的に浮かび上がらせる。それが村上春樹の初期のスタイルだったといってもいいだろう。
『1Q84』は、そういったこれまでのスタイルを完全に変容させている。『ねじまき鳥』以降の作品で徐々に変化させてきたスタイルのひとつの到達点のようにも思える。

また、今回の作品には様々な家族関係が赤裸々に綴られている。特にこれまで村上作品では描かれることが少なかった「父」が多く登場する。昨今の日本映画でも多くの「父子」の物語が描かれた。元々、明治から昭和にかけて、文学における父子の関係というのは、「父」の不在という前提の下でひとつの大きなテーマとなっていたが、近年、それが復活してきたということだろうか。70年代から80年代にかけて、思想や宗教に精神の拠り所(暗喩としての父)が失われ、家族という共同体の自明性が崩壊し、私の在り方が脱構築された。その中で個のアイデンティティを支える新しい物語がつくられなければならなくなり、今にして、新しい家族や役割というものが改めて問われているということか。

根拠のない世の中では、様々な物語によって、その空白が埋められていく。オウム真理教が示したジャンクな物語は決して少なくないの人々の心を捉えた。それは、一部のアニメや小説への心酔、或いはある種の政治運動と全く同じ構造である。80年代に唱えられた「物語否定論」はそのことを予見的に示していた。物語は構造によって規定され、言葉は一種の意匠であり、表層の戯れ、差異にすぎない。その際に批判の対象として真っ先に取り上げられたのが村上春樹の小説であった。

村上春樹の作る物語がオウム真理教の作る物語と同じ構造をもっている。その事実に一番自覚的だったのが作者本人であったことは彼のオウム真理教を巡る言説からも明らかであろう。人々は、「自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地良いお話」に共感したのであり、そこに「実証可能な真実」などは不要であったのだ。

『1Q84』は、多くの登場人物がこれまでになく饒舌である。彼らはドストエフスキーやチェーホフについて語り、脳科学、分子生物学、狂気について、そしてニーチェを思考する。オウム真理教を模した宗教団体「さきがけ」のリーダーが言う。
「この世の中に絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。(中略)重要なのは、動き回る善と悪とのバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾き過ぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、均衡そのものが善なのだ」
それに比べて、悪の象徴とされるリトルピープルは殆ど何も語らない。一体、リトルピープルとは何者なのだろう? いや、リトルピープルとはそもそも実体としての「何者か」を象徴するものなのだろうか?彼らはその気になれば何人にでも分散するのだ。

「ネズミを彫る少年」の逸話がある。少年は言う。「ネズミを木の塊から取り出す」と。 この話は夏目漱石の『夢十夜』の第六夜、運慶の話のアナロジーである。これは夏目漱石の語る夢の話で、大体下記のような話である。
「運慶が山門で群集に囲まれて仁王を彫る様子を見て、「能くああ無造作に鑿を使って、思う様な眉や鼻ができるものだな」と私が独言のように言ったところ、別の見物人が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と云った。果してそうなら誰にでもできる事だと思い、自分でも多く樫木を彫ってみたが、不幸にして、仁王は見当らなかった。遂に明治の木には到底仁王は埋っていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由も解った」

村上春樹がこれまで物語ってきたこと。それは生きることの真っ当さであり、善悪の彼岸であり、狂気の行方であり、快復としての赦しであった。それがここでも繰り返されている、と同時に登場人物達にバランスよく散りばめられているように思える。
『1Q84』は、青豆と天吾を巡る「100%の恋愛」の物語としても読める。それが「彼らの物語」という物語であり、二つの月が見える者だけの世界「1Q84」であり、彼らが紡ぐ言葉と記憶そのものである。彼はそれでも物語る。ある種の必然性に導かれ、可能性と不可能性の狭間にあるものとして、痛みを伴うものとして、「この世界のことが何も分からず」、それでも書き続けられるものとして。
物語とはどうあるべきなのだろう?全てのエレメントは『1Q84』に示されており、その回答は読者に委ねられている。なぜなら、物語とは、絶対的に個人的で矮小なものであるべきだから。

村上春樹の小説は確実に拡散し、饒舌化しているという意味で進化していると僕には思える。但し、それによって僕らを何処か新しい場所へ連れて行くことは永遠にない。そういう大きな物語は完全に否定されたと言うべきだろう。拡散し、バランスし、劣悪化、矮小化して紡がれた物語。物語の構造は同じであり、幾多のイコンは螺旋上に繰り返されて、意味は個人の物語の何処かに降下していくのみである。
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by onomichi1969 | 2009-06-28 00:06 | | Trackback | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 池谷裕二 『単純な脳、複雑な「私」』 semスキン用のアイコン02

  

2009年 06月 15日

a0035172_22194125.jpg若き脳科学者、池谷裕二の最新本である。
ブルーバックスで話題となった『進化しすぎた脳』に続き、高校生への実際の講義を収録した本となっている。これら聴衆への語りかけ/対話というスタイルが彼独特の語り口となっていて、文体としても説得力があるし、すごく面白く読める。(彼の書き下ろしや対談よりもしっくりきたりする)

前作は最新の脳科学の情報が盛りだくさんで、「脳の構造と機能がここまで分かった!」というのがとても衝撃的で、尚且つ実際的で雑学的なところが興味深かった。それに比べて、今回のコンテンツ自体は前回ほどの目新しさはない(動画等の趣向は楽しい)が、脳科学が指し示す最新データの「解釈」という意味で、池谷裕二の思考/志向がより深く反映されているように思える。彼は言う。

「脳科学というのは、今までまったく無縁だった学問、たとえば、哲学とか心理学とか社会学とか、そういったものを結びつける接着剤の役割を担える分野なんだ」

前作には、これまで哲学という分野で扱われていた「主客一致論」(主観と客観はどのように一致するか?)や「身体論」(認識と身体はどちらが先行するか?)を脳科学という意匠によって補完するという意図を感じたが、今回は、それをより深く掘り下げているように思う。但し、「認識は自己の記憶(主観)に依存する」や「身体の動きが認識に先立つ」といったことは哲学の分野でよく言われていたもので、これまでの認識論の科学的証明という意味では「なるほど」と思うが、トピックとしての目新しさには若干乏しい。(それは前作の延長線上にある)
そんな中、この本の中盤以降にある「脳のゆらぎ」の問題、そして、思考というものを脳の動作パターンによって説明していく様はなかなか新鮮なものがあった。「脳のゆらぎ」とは脳からの出力が恒常的なノイズによって常にズレてしまうことを言う。例えばプロゴルファーが同一グリーン上の同じ位置で同じクラブよって同じ動作のパッティングしてもカップインしたりしなかったりするのはその時の脳の状態(ゆらぎ)によるという。同じ入力条件でもタイミングによって出力が「必然的に」変わる。時間軸によって認識そのものもズレるというのはなかなか興味深い話であるが、脳の状態は、最大のノイズであるα波の出力のフィードバックコントロールによってある程度制御可能であるともいう。その辺りにいくと「脳トレ」的な自己啓発の話に移行してしまうのであるが、この作者はそっち方面の話題もわりと好きらしい。

脳科学は「心とは何か?」「思考とは何か?」を明らかにしようとしていると思える。それは無謀で無邪気なフォアフロントへの挑戦なのだろうか。今のところ脳科学は哲学的な認識論をトレースしてきているが、「思考(意識)」は哲学の範疇を易々と超える。近代哲学は全てを疑うことによって、疑いえない思考する自己を見出したことが出発点だった。その出自より、思考とは何かという構造的な議論を放棄していたわけだ。そもそも思考する自己というのは自明すぎること(それが大前提)だったから致し方ないが、20世紀の構造論(フロイト<無意識>やソシュール<言語>)もさして変わらず、思考という現象の解析そのものには至っていない。そんな既知を超えた未開の領域を池谷裕二は脳科学を武器に屈託ない語り口で進もうとしている。なにはともあれ、それはすごいことなのだなと思うのだ。しかし、彼は言う。

「脳を使って脳を考えるということは、その行為自体が矛盾。リカージョンというスパイラルの悪魔に、どうしようもなくハマってしまう。脳を駆使して脳を解明するというのは、まさに自己言及であって、パラドックスが避けられない。僕ら脳科学者のやっていることは、そんな必然的な矛盾をはらんだ行為だ。だから、脳科学は絶対に答えに行き着けないことを運命づけられた学問なのかもしれない。一歩外に出て眺めると、滑稽な茶番劇を演じているような、そういう部分が少ながらずあるんじゃないかなと僕は思うんだ」

そこにあるのは哲学者の苦悩か。文学者の黄昏か。いや、彼はどう見てもそのプロセスを楽しんでいるように思える。さすがアカルイ科学者だ。僕よりひとつ年下だし。。。こういう言説は次を期待させるよね。
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by onomichi1969 | 2009-06-15 22:55 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 追悼 三沢光晴 semスキン用のアイコン02

  

2009年 06月 14日

90年代前半、プロレスと言えば、全日本だった。深夜放送。三沢対川田の三冠戦。身を削るような試合。投げっぱなしジャーマン3連発。30分を超えてもまだ終わらない。2人とも立ち上がれない。でも立ち上がる。フィニッシュの非情さ、過激さ。何の為に?でも、すごく痺れた。

ご冥福をお祈りします。
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by onomichi1969 | 2009-06-14 14:00 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 天使と悪魔 "Angels & Demons" semスキン用のアイコン02

  

2009年 06月 14日

a0035172_13025.jpg『天使と悪魔』を観た。その後、小説も読了。
まず映画から。これは近年流行りのヨーロッパを舞台としたサスペンス&アクション映画の一群として見れば、展開がスリリングでプロットも意外性に富み、アクションもそこそこで、尚且つローマ観光も出来るという、とてもお得な作品となっている。脳みそ空っぽで純粋に楽しめる、ハリウッド娯楽大作としてはよく出来ていると言えよう。

前作『ダ・ヴィンチ・コード』は歴史ミステリーの占める部分が多く、サスペンス&アクション映画として見れば少し中途半端な印象は否めなかった。現実の事件(ミステリー)が歴史的な謎(ミステリー)の解明へと繋がり、そこに原始キリスト教に纏わる様々な衒学趣味(ペダントリー)が織り込まれる。2重のミステリーとそれをとり囲むペダントリー。小説はその結論も含めてとても刺激的で衝撃的な内容だった。その映画化である。幾多の薀蓄(うんちく)や科学的解説を全て映画化するのは所詮無理があり、映画は小説の映像的補完として位置づけるのが妥当というところだった。

それに比べれば、小説『天使と悪魔』は映画化に向いていたと思える。小説で言えば次回作となる『ダ・ヴィンチ・コード』よりも『天使と悪魔』は歴史ミステリーの要素がそもそも乏しい。舞台はカトリック総本山であり、実在した秘密結社イルミナティの歴史やベルニーニ、ガリレオと言った過去の偉人達の作品を巡りながら、事件は実に現実、現代的なものに終始する。確かにテーマである宗教対科学を象徴とする「創世記」対「ビッグバン」という仮想は規模としても壮大だし、今後の先端科学が哲学とか宗教学へと導かれる先駆けとなるような発想、照合だと思うが、そこに絶対的な結論はあり得ないが故に、本作品では、いつしか各人の個人的な納得レベルへと収斂される。これも娯楽小説としては仕方のないところだろう。

いずれにしろ、『天使と悪魔』は映画として、歴史や芸術に対する薀蓄や解説等、ペダンチックな部分を排したが故にサスペンス&アクション映画として優れているのだと思えた。

但し、映画を観てから小説を読んだ(前作は逆だった)からかもしれないけど、前作が映画を小説の映像的補完と捉えたのとは全く違い、『天使と悪魔』は小説と映画が同じプラットフォームを持ちながらも全く違う作品のようにも思えた。小説は映画に比べて、かなり鈍重であった。小説には展開毎に登場人物達の回想シーンが入り、これがかなりうざったくて、登場人物の動きの描写も分かりづらいし、いろんな要素が詰め込みすぎの印象が否めない。もちろんこれらは小説のテーマに沿ったものであるから、致し方ないのであるが、映画はそのテーマ自体を潔くカットしており、それにより、ストーリーは短絡され、登場人物が幾人か入れ替わり、また人物造型に違いが生じている。

ここからかなりネタバレ(映画&小説)になるけど、、、
小説の隠れテーマはそもそも「親子」というものであった。故にラストの衝撃的な事実が生きてきたのだが、そういった親子関係を映画は一切持ち込まない。この潔さは映画を軽くし、テーマを絞るという点では功を奏しているが、犯人とヒロインの動機をかなり弱くしている。
また、主人公2人の性格が違っている。映画は実にハリウッドの典型的な人物造型であり、小説のようだと万人の納得が受けられず、おそらく消化不良になるのだろうなと思える。
ハサシンもキャラクターが全く違うけど、映画はそのおかげでアクションポイントをかなりアップできているのでこれも了解できる。
あと、現実に存在する組織や人物を扱う作品なので、その辺りは小説よりも穏当な配慮が施され、いくつかのプロットもそれを理由に変更されているように思えた。

そして、最後に宗教と科学について、、、
作品のメインテーマである宗教と科学という問題は個人的にも興味深いタームである。小説の中のローマ教皇はそれが融合されることを望み、犯人はそれを拒否する。事件は全てそこから生まれた悲劇と言えよう。
僕はこう思う。日本的発想かもしれないけど、宗教(神という概念)はそもそも細部に宿るものだ。またそれは全ての究極の果てにおいて否が応でも関わってくる。ビッグバン以前、高密度の物質と真空エネルギーのインフレーションは、その空間と時間の始まりのゼロ地点→特異点という問題にぶつかる。近年、それはトンネル効果であるとか、量子ゆらぎであるとか、いろいろ言われているが、要はこれが「神のひと押し」であり、科学の限界の先の物語なのである。そういう神懸り的な(人知の及ばない)領域は、宇宙の始まりだけでなく、量子論や生命科学にも存在する。(池谷裕二の最新本はそのことをよく教えてくれる) 全てのフォアフロントにこそ、神は「見出せる」のではないだろうか。
宗教と科学は乖離とか融合とかを意図するものではなく、元々が同じ領域のものである。(特に日本では宗教こそが鎮魂の為の科学だった) 小説ではその認識の違いが最初の死者を生み、死者が十分に理解しながら、犯人が最後まで理解できなかった点となっている。
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by onomichi1969 | 2009-06-14 01:49 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

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