Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 <   2009年 03月 ( 9 )   > この月の画像一覧 semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 美しい夏キリシマ semスキン用のアイコン02

  

2009年 03月 29日

a0035172_1457981.jpgこの物語は死者と共にある。
少年は、学徒動員先の工場で戦死した親友を見殺しにしたという意識に取り付かれ、薄ぼんやりとした生と贖罪の中で生きている。
全てをジャングルに置いてきたと語る片脚を失った傷病復員兵と不安の中で彼に嫁ぐことになった女。彼は自分は幽霊のようなものだと女に語る。
南方で戦死した夫を持ちながら兵士と関係する女、その兵士は満州で人を殺したと呟く。それを受け流す彼女の生は日常の中での生死の意識を軽々と越えている。
静かに特攻での決死の覚悟を報告する海軍将校とそれを受け入れる女。それは既に多くの死の上にある運命といえる。

死者は記憶となり、記憶は生者を縛る。そしてその風景の中で人は生きた。

石田えり演じる宮脇イネが事の終わりに兵士に言う。
「死んでるもんでも生きてるもんでもなか気色の悪かものになっていくのが恐ろしゅうて、気持ちよか」
彼女は、戦死したと思っていた夫が生きていることを知り、罪の意識の中で生と死に揺れる。兵士に導かれて死を選ぼうとするが、結局、その男にも逃げられ、入水も未遂に終わる。彼女は生と死の日常を拒み、死者すらも失って村を出る。

死と死者が日常を揺蕩う終戦間近のキリシマ。そこでの数日間の出来事を美しい自然と人々の心象の風景と共に綴る叙事詩。それが黒木和雄なりの当時キリシマに生き、死んだ人々に対する鎮魂歌なのだと思った。それは美しい夏に翳り、さざめく影となって僕の心を打った。素晴らしい映画だと思う。2002年日本映画
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by onomichi1969 | 2009-03-29 15:26 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 TOKYO! semスキン用のアイコン02

  

2009年 03月 28日

a0035172_23343829.jpg池袋の新文芸坐で『トウキョウソナタ』(こっちが本命!)との2本立てで鑑賞。東京シリーズか。。
『エターナル・サンシャイン』のミシェル・ゴンドリー、『ポンヌフの恋人』のレオス・カラックス、『グエムル/漢江の怪物』のポン・ジュノ。3人の作家が描くオムニバス形式のTOKYOの物語である。
人々の想像の裏側から描く東京というファンタジー。椅子女。下水道の怪人。ボタン少女。ある種の「東京奇譚集」だろうか。
予備知識がなかった分、それぞれに意外な展開が面白かった。唐突に椅子に変身し、そのことに充足し依存していく女の仄かな孤独。都市への安住を否定する存在、下水道の怪人メルド(糞)という潜在的恐怖とその捩れた存在の奇怪さへの戸惑いと怒り。そして、恋と地震によって揺りだされる引きこもり達の生への欲求と畏れ。
新しい東京物語は、現代的な心情が紡ぐ都市伝説とでも言うべきものだろうか。そこには悲壮感がそこはかとなく漂うのみで、全体的にアカルイ映像が印象的だった。2008年フランス・日本・韓国・ドイツ映画
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by onomichi1969 | 2009-03-28 23:38 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 トウキョウソナタ semスキン用のアイコン02

  

2009年 03月 28日

a0035172_9532345.jpg廃墟の光景。
その昔、世界を失った者は、生活という場所に帰った。或いは、自己観念に囚われ否応なく破滅を志向した。今やそのような行き方というか逃げ場自体が失われてしまったようだ。それが『トウキョウソナタ』で描かれた現代的な喪失感なのだと思った。
役割を失えば、信じるべき自分という存在すら信じられない。役所広司演じる全てを失った泥棒に小泉今日子演じる「お母さん役」の佐々木恵が言う。「最後に信じられるのは自分自身でしかないと」 その言葉は空虚に響き、結局のところ、彼は自らの命を絶つに至る。
自己という観念が崩壊した世界で、彼らは帰るべき自分という場所すら見出せず、ただ孤立したまま、家族の食卓に戻る。そこで大切なのは、失った者同士が改めて集い、新たな役割を再構築することなのだと僕は思う。
最後の「月の光」とは、一体何だったのだろうか? 夜の海辺に瞬く光の波。カーテンに差し込む穏やかな光の漣。ピアノ曲。このとってつけたご褒美のような「希望」と「救い」は何だったのだろうか?
そうか、それが「アカルイミライ」なのか。行き場のない現代人にとってのフラットで等価交換的なアカルイミライなのか。そもそもそこには深みや影がないという、表層の瞬きという発見なのだろうか。2008年日本映画
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by onomichi1969 | 2009-03-28 09:57 | 日本の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 semスキン用のアイコン02

  

2009年 03月 28日

a0035172_9362712.jpg坂口弘らの手記を基にして構成されたであろう連合赤軍の山岳ベースを舞台にしたリンチ殺人・粛清劇の映画化である。そもそも連合赤軍事件は、12人の同志殺害という事実だけで繋ぎ合わせてみれば、「総括」や「自己批判」などという内実のない言葉だけが飛び交う、理想と現実と空想が入り乱れた薄っぺらな観念劇とならざるを得ない。
本当にそうだったのだろうか? 連合赤軍事件とは一体何だったのか? 学生達が殺し合い、12人が死んだという事実を連ねただけでは事件の全てを「総括」できはしないだろう。12人の同志殺害というテロルの論理は、密室における群衆心理や永田洋子の執拗な嫉妬心等の心理学だけで理解できるものではないと思う。そもそも、彼らを集団殺人へと駆り立てた観念とは何なのか? 一線を越えさせた契機とは一体何だったのか?

先鋭化した学生運動に深く関わった経歴をもつ推理小説作家笠井潔は、連合赤軍事件に衝撃を受け、革命という観念が必然的に生み出すテロルの論理について思考し、三島由紀夫やドストエフスキーの小説についての文芸批評、ヘーゲル哲学の方法論によってマルクス主義を象徴とする観念批判論を纏め上げた。80年代に上梓された名著『テロルの現象学』である。この本によれば、テロルは、自己観念-共同観念-党派観念という道筋を辿ることにより、方法論として正当化され、論理的、観念的に絶対化される。
僕は学生時代に『テロルの現象学』と『バイバイ、エンジェル』を読み、連合赤軍という事件を初めて理解した(と思った)。事件そのものは映画で描かれたような思想的に矮小な集団殺人劇であったかもしれないが、それを本当に批判の対象とするには、観念という悪霊の出自、テロルの論理を理解することが必要なのだと思う。
連合赤軍事件とは一体何だったのか? オウム事件からさえも10年以上経った現在では、その問い自体が空疎に響かざるを得ない。それはこの映画が放つ薄っぺらな切実さと共鳴し、(その後に鑑賞した)映画『トウキョウソナタ』で描かれた現在の廃墟へと一直線に伸びているように思えた。 2007年日本映画
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by onomichi1969 | 2009-03-28 09:49 | 日本の映画 | Trackback | Comments(11)

semスキン用のアイコン01 おくりびと semスキン用のアイコン02

  

2009年 03月 19日

a0035172_9212054.jpg死とは非日常である。『おくりびと』を語る時、僕らは必然的に「死」というものを手元に引き寄せて、その輪郭を凝視することを強いられる。
死とは穢れである。故に古より、死は死穢を伴うものであり、日常から隠されてきた。

映画『おくりびと』には2つの側面があるように思える。それは納棺師という職業、その仕業についての物語。もうひとつは主人公と父親の「赦し」の物語。

後者については、最近、『歩いても 歩いても』や『イントゥ・ザ・ワイルド』でも同じテーマで書いたので、敢えてこの映画で繰り返すこともないかなと。同じ時期に同じようなテーマを描く映画が並んだことは一種のシンクロなのかもしれないけど、それはポアンカレ的な偶然、実は時代と密接にリンクした現象の複雑系から導き出された結果なのだと考えたい。心理学的に言えば、父と子の物語というのは、個人の精神の最もベースとなる問題である。父親との関係、子供が大人になるとはどういうことなのか?これまでの宗教や共同体的なイニシエーションとは違う、それらが作用しない世界でのシンプルでベーシックな大人への道程。大人になるということは、最も身近にある大人としての親の心情を理解し、赦すことと同義であると思える。そんなシンプルなことをこれら映画の物語はささやかに描いてみせる。そこから見えてくる時代とは何だろう?

話を戻す。死についてである。
映画は「死」を美化しているように捉えられる。実際はそんなことはないと思うが、事実として、この映画を観て納棺師を志す人が増えたというニュースを聞けば、この映画がある種のイメージを喚起していることは否めない。もちろん、死者は「隠されるが故に美化される」というのが本来正しいだろう。死を衣装することにより、日常の中で隠蔽する技術こそが納棺師の仕業というものなのだと思うから。但し、この映画の中で納棺師は「おくりびと」というイメージを以て僕らに伝えられる。

医者、葬儀人、屠者、皮革加工者、料理人、刑吏、警吏、狩猟者、清掃人、等、死に纏わる職能者は、その存在そのものが死を喚起する為に古来より忌み嫌われていたと言われる。その中には医者や料理人のように現在では全く差別の対象ではない職能も含まれる。それは新しい知識とその蓄積、資格の敷居の高さによって克服されてきた。果たして納棺師はどうであろうか。

ハレやケという考え方は、日本人の心情の由来として説明されることが多いが、それは今でも有効なのだろうか? ファストフードやリサイクルの考え方、幾多の映像や情報が席巻する現代の世の中で、それらは既に新しい物語に組み込まれることが必要なのかもしれない。古からの伝統と心情を現代の日本にマッチさせる為の新しいイメージ。そういうものが可能なら、『おくりびと』は、良くも悪くもその先駆けなのかなと思った。2008年日本映画
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by onomichi1969 | 2009-03-19 09:35 | 日本の映画 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 ぐるりのこと。 semスキン用のアイコン02

  

2009年 03月 18日

a0035172_21535725.jpg自らの意志のみで世の中を真っ当に生きることはそもそも難しいことである。智に働けば角が立ち、情に棹させばながされる、意地を張れば窮屈だ。明治の代からそれは変わらない人情という世情である。
夏目漱石が『草枕』で描いた非人情の風景。誠実さ故に人情の世界の中では「狂い」のものとされてしまう女。その女に人間として惹かれる画家の男。それは絵画的な風景としての生の捉え方であったか。

『ぐるりのこと。』は、自らの行き方と世の中のズレを許容できないばかりに、次第に精神を病んでいく女とそれを見守る男の物語である。「ぐるり」とは、自分たちを取り巻く世の中のこと、という意味だと察せられる。(英語題より)
女は非日常的に自らの誠実さを表現できる「絵画」を日常とすることによって快復していく。男はそれを見守る法廷画家の男である。彼は「ぐるり」を描き続ける男でもある。
もちろん、彼らは10年という年月をリアルに生きており、それは決して非人情という風景の断片ではない。丹念に描かれ、紡がれる生活というもの。日常があり、非日常がある。その繰り返しの中で生きる辛さに押しつぶされてしまったが為に、破錠しかける2人の生活。
生きるというのは「ぐるりのこと。」であり、「関係」であるが故に辛いけど、それが為に繋がる喜びである可能性もある。彼らの10年はそのことを漸く知る為の10年であったことが僕らに伝えられる。

生きることは、年輪を重ね合わせることである。そう思わせてくれる「物語」であった。2008年日本映画
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by onomichi1969 | 2009-03-18 22:06 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 Electric Light Orchestra "Zoom"(2001) semスキン用のアイコン02

  

2009年 03月 08日

a0035172_1322882.jpg90年代以降に洋楽を離れてから、ニューアルバムは殆どノーチェック。最新作として購入するのは、レディオヘッドとブライアン・ウィルソンのアルバムくらいだったろうか。。。いや、もう一人いた。ジェフ・リンである。ELOである。エレクトリック・ライト・オーケストラである。
ELOの「楽団ひとり」となったジェフ・リンの最新作は、2001年の”Zoom”まで遡る。”Zoom”は、巷で殆ど話題にもならなかったアルバムであるが、80年代ポップの傑作”Balance of Power”(1986)以来のジェフ=ELOのオリジナルアルバムで、その思いもかけなさも相まって、内容は僕らの微かな期待を超えた素晴らしい出来であった。

ELOは70年代、フル編成のストリングスをロックに取り入れたシンフォニックな音楽性を独自のスタイルとし、かつジェフ・リンの「ポップの魔術師」と呼ばれるメロディが融合して、数多くのヒット曲を放った。彼らの70年代の到達点が2枚組大作”Out of the Blue”(1977)であろう。”Out of the Blue”とは、地球から離れてという意味だと思うが、字句どおりに訳せば「青色を超えて」という意味にもなる。

青とは435.8nm の波長もつ可視光領域の7色のひとつであるが、実は、青こそが最後の色、白のその先にある、恒星が最も高い温度で輝く色、波長スペクトル的にも色(紫)の「終わり」なのである。
つまり、70年代的なELOのオーケストラ・サウンドは、”Out of the Blue”(1977)で究極の青を超えたのであり、最終曲Wild West Heroの壮大な黄昏の向こうに完結したと見るべきなのだと僕は思う。そして、80年代ポップは”Discovery”(1979)によって始まり、”Balance of Power”(1986)のシンプリフィケーションに至る。ジェフの音楽は、オーケストラから最終的にシンプルなギターサウンドに行き着き、その派生として、ジョージ・ハリソンやトム・ペティのアルバムのプロデュース、トラベリング・ウィルベリーズの成功があったのである。

00年代に70年代的なELOを期待する意味はない。70年代のELOの音楽は70年代に存在したELOが奏でたものでしかありえないのだから。00年代のELO。。その時、僕は期待できたのである。70年代の黄昏の向こうにある00年代の彼らの音楽を。

果たしてELOの”Zoom”(2001)は傑作であった。特に1曲目で1stシングルともなった挨拶代わりのAlrightから、美しいメロディとジェフ・リンの掠れたファルセットが印象的な名曲Moment in Paradiseに繋がる導入部。ジェフ・リンらしいポップセンスが光るJust for LoveやStranger on a Quiet Street、落ち着いたバラード、空の蒼さへの想いIn My Own Timeやシンプルな黄昏Ordinary Dream、ジョージのスライドも聴ける枯れた魅力のA Long Time Gone、ELO風の懐古的ロックンロールMelting in the Sun、70年代風な音の味付けが心地よいLonesome Lullaby、などなど。
”Zoom”(2001)はギターとシンセサウンドによって構成されるが、同じシンセサウンドを特徴とする80年代初期の重厚な音に比べると、隙間としての「スペース」を意識したミニマルな作りとなっている。特にギターの音と単調なリズムが強調され、やはりこれは00年代の古くて新しい究極の(青の向こう側にある)ELOサウンドと言えるのではないかな。
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by onomichi1969 | 2009-03-08 15:19 | 00年代ロック | Trackback | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 イントゥ・ザ・ワイルド "Into The Wild" semスキン用のアイコン02

  

2009年 03月 04日

a0035172_08856.jpgジョン・クラカワーのノンフィクション・ノベルの映画化。我らがショーン・ペンの4作目の監督作品である。

映画作品は、ノンフィクション・ノベル(以下、原作)に忠実に作られている。そこで描かれる人物描写、クリスをめぐる人々の言動、彼の日記から推察された行動等、原作に描かれる断片は余すことなく映像化されている。特にクリスを含めた登場人物達の外見や言動、行動は原作に忠実で、ショーン・ペンの実話を基にした原作に対する深い敬意と尊重が伺える。

1992年9月、一人のアメリカ人青年がアラスカの荒野に打ち捨てられたバスの中で餓死しているのが発見される。青年の名は、クリストファー・マッカンドレス。その事件が全米中にセンセーショナルなニュースとして報じられたのは、彼が裕福な家庭に育ち、大学を優秀な成績で卒業した前途有望な青年だったからである。多くの人々は彼の行動を無謀で傲慢な愚行と評し、準備不足で原野にふらふらと入り込み命を落としたナルシストであるとみなした。

ジョン・クラカワーはクリスのアラスカ入りまでの2年間の放浪生活を追い、彼が出会った人々を広く取材して、その行動と言動を丹念に拾い集める。また、家族への取材から、彼の生い立ちと共に、彼の思想や行動の背景ともなった家族の歴史についても赤裸々に描写する。このノンフィクション・ノベルは一人の青年のセンセーショナルな死を出発点としているが、クリスという一風変わった、それでいて実に魅力あふれる青年の生き様を様々な角度で描き抜いていることが最大の面白さであると感じる。
クリスの人物像。彼は単なる自分探しを求める夢見がちな若者の一人ではなかった。トルストイとソローをこよなく愛する厳格な理想主義者で、孤独と自然を崇拝し、それでいて真に文学的な青年でもあった。理知の上に立つ無謀さ。心に屈折を抱えながらも、自らの強さを過信するが故に様々なものが赦せなかった青年が2年間の放浪の中で、そして荒野での生活によって徐々に変化し、生きる可能性を掴む。人々とのふれあいの中で心を残す。最終的に彼は死んでしまったけれど、彼の生は、彼と出会った人々の心に確実に生きている。そのことが伝える生の重みを原作であるノンフィクション・ノベルは拾い上げ、そして映画が主題化し、物語として紡がれた。

映画は正にショーン・ペンの作品となっている。原作に忠実ながら、それでいてショーン・ペンらしさを存分に感じる作品なのである。クラカワーの原作はクリスという人格を外側から炙り出すパズルのような構成となっているが、映画はクリスという実体の行動を中心にして話が進められる「物語」としてある。原作によって炙り出されたクリスという人間像をショーン・ペンは自らの思想性によって肉付けし、物語の主人公として見事に再生させた。映画は、70年代ニューシネマ風のロード・ムーヴィーとして観ることができるだろう。ニューシネマの掟通りに主人公は最後に死んでしまうが、そこには明らかに「光」があった。この光こそ、ショーン・ペンの映画的主題である現代的な「赦し」の物語なのだと僕は思う。クリスが真実を求めた先に見えたものは、ふれあいの中で知った人の弱さであり、そして大自然に対した自らの弱さであった。彼は自らの中で家族と対話する。自分が自分であることを認める。そして、全てを赦したのだと僕は思う。そういう物語としてこの物語はある。(それはショーン・ペンのデビュー作から連なっている)

現代に荒野はもう存在しない。彼は地図を放棄することで荒野を創出し、その中で自らの経験によって思想を鍛錬しようとした、とも考えられる。荒野へ。。。理知の上に立つ無謀さ。これこそが失われかけたフロンティア精神の源泉で、現代の想像力を超えた強烈な憧憬なのかもしれない。2007年アメリカ映画
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by onomichi1969 | 2009-03-04 23:56 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 閑話 semスキン用のアイコン02

  

2009年 03月 02日

今週は映画をよく観ました。
『イントゥ・ザ・ワイルド』『おくりびと』『ぐるりのこと』『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』
先週末には『歩いても 歩いても』と『ゆれる』も観たし。

どれもよく出来た作品でした。またレビューしようかなと思います。
最近は日本映画がいいですね。黒沢清のやつも観なきゃ。

ただ、連合赤軍は別にして、どれも主題が似ているなぁと思います。
それはそれで納得しますけど。

あと、出演者の役回りも。
山崎努-柄本明-原田芳雄-伊武雅刀
倍賞美津子-樹木希林-吉行和子

芸達者の取り合いって感じですね。これは。
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by onomichi1969 | 2009-03-02 00:32 | お知らせ | Trackback | Comments(0)

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