Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

onomichi.exblog.jp

ブログトップ

semスキン用のアイコン01 <   2008年 11月 ( 13 )   > この月の画像一覧 semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 小さな泥棒 "La Petite voleuse" semスキン用のアイコン02

  

2008年 11月 25日

a0035172_1765458.jpg若きシャルロット・ゲンズブールの魅力が全開の映画です。
この頃の彼女のブータレた魅力はたまりませんね。確かにストーリーはどこか類型的で中途半端かもしれないけど、彼女が登場するだけである種の痛々しさが画面に迸ります。それは、彼女特有の影のある表情、雰囲気から溢れ出る「自意識」の仄か(ほのか)とでもいいましょうか。
少女から大人へ、まさに「青春」そのものだったのが当時のシャルロットなのです。
彼女は決してジェーンのように派手な顔つきじゃないけど、ナチュラルで純粋な美しさがあります。そんな彼女の魅力が演技を超えて伝わってくる、そんな映画なのです。1988年フランス映画(2003-10-12)
[PR]

by onomichi1969 | 2008-11-25 23:46 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 なまいきシャルロット "L' Effrontée" semスキン用のアイコン02

  

2008年 11月 25日

a0035172_17185899.jpgシャルロットは確かにブータレているけど、これがなかなかいい味を出してるのだ。少女から大人へ。まだ13歳の彼女の瑞々しい魅力がとっても伝わってきて、切なくも爽やかな印象を残します。個人的には、さらにオトナになったシャルロットが堕ちるところまで堕ちてしまう『小さな泥棒』も好きですが。こっちはさらに痛々しい。1985年フランス映画(2003-09-21)
[PR]

by onomichi1969 | 2008-11-25 23:44 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ピアノ・レッスン "The Piano" semスキン用のアイコン02

  

2008年 11月 23日

a0035172_1791755.jpgこれは、あやうく刹那的な恋の感情が心的呪縛の開放とともに愛へと転化した幸福な物語なのだろうか。
こんな始まりを感じさせるハッピーエンディングは、悲愛をベースとした恋物語では古今東西を見回してみても、多少なりとも画期的なことだし、ある意味では確信的な志向であり「願い」なのかもしれない。そこには、"The Piano"の作者の水脈に対する信頼度の問題があるけれど、この物語がとても誠実であり、実際に僕の心をぐぐっと惹きつけてやまないというのは確かなのだ。
主人公にとってのピアノは内面世界の象徴であったと思うんだけど、最後に彼女がピアノを断ち切ることによって何を失い、何を得たのだろうか。ピアノ=内面の象徴=自己の観念化という図式で考えれば、当初、彼女の閉じた内面には、地平としての他者が不在であり、だからこそ、突如現れた他者としての恋感情が強烈にして彼女のピアノの旋律を狂わせたのだと思う。この恋感情が彼女を突き破り、現実をも転覆してしまうのである。
この映画のハッピーエンディングには、彼女が欠損者であることがひとつの大きな要素となっている。欠損からの快復の物語がエンディング以降に語られるのだろうけど、その物語が彼女の恋感情からストレートに移行するように思える、そこに恋と同列の可能性をもつある種の「癒し」であり、広範な「愛」という要素を強く感じることができる。この作品は、終わりが始まりとなるような新しい可能性をもった画期的なラブストーリーなのだといえないだろうか。

最後に、、、この作品の邦題はやっぱり単純に「ピアノ」とすべきだったのではないかなぁ。 1993年オーストラリア・ニュージランド・フランス映画(2002-12-31)
[PR]

by onomichi1969 | 2008-11-23 17:27 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ソフィーの選択 "Sophie's Choice" semスキン用のアイコン02

  

2008年 11月 23日

a0035172_1656383.jpgこの世の中にこれほどの絶望の生があろうか。彼女には狂気という逃げ場さえも奪われているのだ。

生きるということを決定的に引き裂かれ、それでも生きていかなければならない、それほどの地獄があるということに、僕らはただ息をのみ、言葉を失うしかない。彼女はそれでも「不在」の神に祈りを捧げるのだろうか。

「不在」の神とは、常に「沈黙」する神。
『カラマーゾフの兄弟』でイワンが切々と訴える「永久調和の世界が将来達成されたとしても、それが何であるかを理解しえずに涙を流したまま死んでいった子供がいる以上、到底承認することができない」神でもある。

もし、祈り続けられる勇気があったのなら、本当に狂気から目をそらさずにいられるのだろうか。1982年アメリカ・ユーゴスラビア映画(2003-10-18)
[PR]

by onomichi1969 | 2008-11-23 14:07 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 仕立て屋の恋 "Monsieur Hire" semスキン用のアイコン02

  

2008年 11月 23日

a0035172_172981.jpg『髪結いの亭主』に並ぶ、ルコントの偏狂的恋愛映画。
片思いは究極の恋だって言うけど、それはまったくその通りです。だって「恋」とは自己意識そのものなんだから。
「彼は深くそして熱烈に恋している、これは明らかだ。それなのに、彼は最初の日からもう彼の恋愛を追憶する状態にある。つまり、彼の恋愛関係はすでにまったく終わっているのである。」 これはキルケゴールの言葉だけど、まさに恋愛の本質をついているよね。 この映画もそういった恋愛の本質にかなり肉薄しているように思う。
良い作品っていうのは、観終わった後に自分に対して問いかけができるもの。ある批評家が、作品とは社会構造の「結果」というよりも、何かを論じたいという気持ちの「原因」であることが重要だと言っているが、この映画の狂おしさは、方法論的に僕の情念を切迫し、語りえない恋愛の本質について、僕に語らせようとするのだ。。。
と、まぁそこまで強迫的になる必要はないけれど、僕らの情念に響いたことを如何に味わうことができるか、そしてそこからPersonal Issueを超えて、如何に想いを馳せることができるか、本来的な意味において、それこそが作品の価値というものだと思うのである。1989年フランス映画(2003-10-13)
[PR]

by onomichi1969 | 2008-11-23 14:06 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 EUREKA ユリイカ semスキン用のアイコン02

  

2008年 11月 21日

a0035172_0435792.jpg人と人とは基本的に分かり合えないものだという認識を僕らは否定できない。ただ、彼の人が自分と同じような弱い人間であること。そういった妥当によって、僕らは赦しあい、関係を生きていく原理を掴むことができる。

2001年に配給され、多くの賞に輝いた青山真治監督の大作『ユリイカ』である。
この映画から受けた衝撃、その情動の重みを今でも思い出す。僕は映画を観て、そして同じ監督の書いた小説も読んだ。(小説は三島賞を受賞した)

冒頭に起こるバスジャック事件の犯人(利重剛)が発する狂気。その境遇は全く語られないが、サラリーマン風の出で立ちからも彼が何の変哲もない普通の人間であったことが想像される。彼は普通に社会と関わり、彼自身の物語を生きてきたはずである。そして、飛び越えられた一線。日常の中の狂気。彼は妄想と共に軽々とその一線を飛び越えた。狂気は日常という明るさの中に偏在し、顕在している。人と人との断絶と同じように。

日常の中の狂気が導く些細な殺意。まるでウイルスのように伝染する観念である。
それは事件の被害者である沢井(役所広司)達に執拗に纏わりつく。しかし、彼らがそれらを抱えつつ、それでも人と人との関係の回復を求め、その中で生き続けたいと願った時、彼ら自身、生きる原理を掴むことから始めることが必要だった。人と人との繋がり、その関係性を生きる為の再生の旅である。

この作品の中で「何故、殺してはいけないのか」ということが問われる。それは正に日常の狂気とも言うべき観念であり、少年(宮崎将)の心を侵食し行為に駆り立てたものであるが、沢井はその意味も行為も一身に引き受けることで、まるで全てを抱擁するかのように、問いそのものを包み込み無化しようとする。それがこの映画に込められた最大の「願い」であり、「赦し」だったのではないか。自らの死と引き換えに、生の可能性へと繋がる彼自身の全身全霊を込めた「赦し」だったのではないか。それは僕らの心を確実に動かす。

バスが最後に辿り着いた場所。世界は色彩を取り戻し、その声が蘇る。言葉を失った少女(宮崎あおい)は沢井と同じように全てを受け入れ、生きる可能性を得ることによって、言葉(世界)を取り戻す。それが世界の原理だと分かる。(ユリイカ=見つけた)
この映画は「癒し」と「再生」をテーマとしていると言われる。僕にはそれがもっとポジティブな意味において、全てを抱擁し、赦すというイメージとして描かれていると感じる。
断絶された世界、そのことが生み出す狂気や諦念が可視的な様相の中で、この長い物語は、人が人をしてまっとうに生きる原理を丁寧に描き出す。断絶と狂気から始められ、それでも人と人が繋がりを求め、全てを抱擁し、赦しあう物語として。その再生は描かれたのである。2001年日本映画
[PR]

by onomichi1969 | 2008-11-21 01:06 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ラスト、コーション "Lust, Cation" semスキン用のアイコン02

  

2008年 11月 15日

a0035172_23321686.jpg恋愛映画であり、その本質がエロティシズムであることを示した作品である。

その決定的なシーンとは、女スパイのワン(タン・ウェイ)が標的であるイー(トニー・レオン)からダイヤモンドの指輪をプレゼントされた際に、恍惚として思わず「逃げて・・・」と呟いてしまった瞬間である。
この映画の全てのシーンはこの一言のプロローグであり、エピローグとしてあったとも思える。それ程に深く、にも関わらず、なんという衝動的な一言だったろうか。
エロティシズムとは、非連続な存在であり、関係性である人間にとっての連続性への郷愁であり、衝動である。オルガスムこそが(小さな)死という連続性への瞬間的な接近であり、生という可能性の実感であった。それは刹那であるが故に深く、そして衝動的なのだ。

互いの孤独を紡ぐようなセックスシーンと共に、最後の指輪のシーンこそは、存在の孤独を癒す連続性の光、この映画のクライマックスであり、オルガスムの瞬間だったのではないか。

ワンの一言によって、脱兎のごとく店を飛び出したイー。
青酸カリを、そして指輪を見つめながら、最後の可能性を握り締めるワン。

彼女はその瞬間を反芻し、生の充実を得る。
彼女はエロティシズムという自我を超えた外部の力に捉えられ、引き裂かれた。それは結局のところ侵犯の報いとして生の終焉に行き着かざるを得ないのか。恋愛という最上級の幻想を、その美しい瞬間を見事に捉えた傑作。2007年中国・アメリカ・台湾・香港合作映画
[PR]

by onomichi1969 | 2008-11-15 23:58 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 STYX "Cornerstone"(1979) semスキン用のアイコン02

  

2008年 11月 15日

a0035172_125381.jpgプログレ・ハードの流れでもうひとつ、、、と言えば、あとはこのジャンルの本質的な元祖となるSTYXだろう。
そのSTYXの最高傑作と言えば、80年代ロック黎明期の代表作であると共に、70年代ロックの終焉を象徴する金字塔的なアルバム"Paradise Theater"(1981)ということになるか。それについては以前にレビューしたので、今回は、その前章ともいうべき名作"Cornerstone"(1979)を取り上げたい。

STYXは、70年代初頭、プログレ・バンドとしてスタートし、独特の構成力から長大な曲を得意としていたが、徐々にポップ色を取り入れて、シングルヒットを獲得しつつ、いわゆるプログレ・ハード的な音楽を確立する。その達成はボストンやカンサスに先立つと言われている。
STYXのポップ路線はデニス・デ・ヤングの主導によるものであるが、ある意味で転機となったのはトミー・ショウの加入と言われる。トミー・ショウがその存在を印象付けたのは、"Pieces of Eight"(1978)からだろう。このアルバムはプログレ風のコンセプチュアルな要素を取り入れながら、ポップでロックでフォーキーなトミーの曲が出色であった。
そして、その流れもあってか、次作"Cornerstone"(1979)では、いきなりトミーの曲 Lights がトップを飾り、アルバムの中でも彼の曲が4曲を占めることになるのであるが、このアルバムから全米No.1になったのはデニスの超ポップ・バラード Babeであった。前作ではプログレ風な楽曲に拘ったデニスであったが、トミーに対抗するが故に彼自身がすっかりポップ路線に嵌ってしまったわけだ。まさに彼のスペーシーでポップの味わいはこのアルバムにこそ極まっているといっていい。プログレ・ハードという括りでありながら、このアルバムは、デニスとトミーのポップ対決とでも言うべ様相をみせる。デニスはBabeとFirst time。対するトミーにはLightsとLove in the Midnightである。
ここで勝利したのはおそらくデニスである。故に次作として、コンセプチュアル且つポップでスペーシーな傑作"Paradise Theater"(1981)が生まれるに至る。デニスはトミーの影響を最大限に受けながら、その要素を自らに取り込み、彼自身の80年代サウンドを確立したのだ。ちなみにトミーの曲はこのコンセプチュアル・アルバムの中で2曲のみとなる。

STYXは、プログレっぽい構成力をポップに表現できるところが最大の魅力である。ディテールよりもコンセプト。技術よりも構成力である。それは結局のところ、デニス・デ・ヤングという個性に集約されていく。特に"Paradise Theater"は、トミーのポップさやジェームズ・ヤングのハードサウンドが脇を固める中で最も光るのはデニス・デ・ヤングという主旋律で、いわゆる三頭体制が三位一体となった瞬間だったのである。
[PR]

by onomichi1969 | 2008-11-15 01:03 | 70年代ロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 Kansas "Point of Know Return"(1977) semスキン用のアイコン02

  

2008年 11月 10日

a0035172_144244.jpg70年代中期のボストンの登場とほぼ時期を同じくしてアメリカン・プログレ・ハードの隆盛に一役買ったのがカンサスである。カンサスとボストンは同じく地名を冠したバンドということもあって、この2つのバンドは並び評されることが多いが、音楽的言えばカンサスの方がいわゆるイギリス系のプログレッシブ・ロックに近い。ポップでハード一辺倒のボストンと違い、ロックのシンフォニーとでも言うべき壮大さとある種のキャッチーさ共存しており、プログレとハードロックが融合しつつ、微妙にポップな演奏も聴かせる。Dust In The Wind(すべては風の中に)などのミニマルなヒット曲があるのも特徴である。ある意味でアメリカン・プログレ・ハードという名称はカンサスにこそふさわしいかもしれない。

メンバーにバイオリンを含むのもこのバンドならではの構成と言える。それもバイオリンをストリングス的に用いるのではなく、ギターやキーボードと同じようにあくまで主旋律でフューチャーされる。2人のギター、2人のキーボード、そしてバイオリンのアンサンブルである。プログレ風の構成力とアンサンブル。そこにハードロック的な味わいが加わる。

アルバムとしては、"Point of Know Return"(1977)『暗黒への曳航』が代表作となろうか。表題曲はプログレとハードポップを融合したようなキャッチー且つ壮大な名曲。そして大ヒットしたDust In The WindやNobody's Homeがポップな色合いを担う。

カンサスというのはある意味で中途半端なバンドだったかもしれない。故に他のプログレ・ハードと呼ばれるバンド、ジャーニーやSTYX、ボストンのように80年代にブレークする産業ロック的な流れには完全に乗りそこなったといえる。カンサスはある意味で典型的な70年代のバンドであり、そのスタイルに固執するが故に時代を超えることができなかったのだと思う。良くも悪くも。。
[PR]

by onomichi1969 | 2008-11-10 02:24 | 70年代ロック | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 TOTO "TOTO IV"(1982) semスキン用のアイコン02

  

2008年 11月 05日

a0035172_1211289.jpg本エントリーも便宜上、プログレ・ハードに分類しているが、TOTOほどひとつのジャンルに括れないバンドもないだろう。それはTOTOの特徴が拡散する多様な音楽性と高い技術に裏打ちされたディテールにこそあるからだと思う。
TOTOというグループが80年代ロックを最も象徴しているバンドでありながら、他の産業ロック系のバンドと違い80年代という枠に固着化できないのはその特徴所以である。彼らの存在なくして、80年代の音楽的トレンドは語れないが、その作品は高い技術と音楽性故にトレンドを超えた根強い支持を受け続けているのである。
TOTOは、メンバーそれぞれが元々腕っこきのセッションミュージシャンであり(ながら同級生というすごさ!)、ボズ・スキャッグスの名盤『シルク・ディグリーズ』のレコーディング・セッションが母体となって結成されたというのは有名な話である。その影響もあって、彼らの1st"TOTO"(1978)はAOR的な色彩が強いが、彼らの音楽的エントロピーは拡散しており、アルバムは多様な楽曲センスと多彩な音楽的技術を軽々と発揮した傑作といえる。2nd"Hydra"(1979)は一転して当時流行のプログレ・ハードに拘ったコンセプチュアルな内容である。これも彼らの特徴である多様で多彩な音楽性をプログレ的な味付けで達成した作品で、重厚な構成でありながら作品自体を軽々と作り上げてしまったかのような軽快感が印象的である。
3rd"Turn Back"(1981)は前回の肩肘張った構成から、今度は少し力を抜いたバンドサウンドで、これがなんというか無個性でミニマルで、ある意味でTOTOというバンドの80年代的な無臭性を印象付ける作品となっている。
そして、彼らの最高作と言われるのが4th"TOTO IV"(1982)である。この作品は彼らが「いっちょ、ヒットアルバムでも作ってやっか」的な感じで仕上げたであろう、これまで以上にポップなヒットチューンで構成されているのが特徴である。まずは名曲Rosanna、この曲ほど彼らの多様性を印象付ける曲はないだろう。ジェフ・ポーカロの16ビートシャッフルに乗せ、スティーブ・ルカサーの多彩なギターが炸裂、スティーブ・ポーカロのスペーシーなシンセサイザーに、デビッド・ペイチのジャズ・ライクなエレクトリック・ピアノが共存する。ボーカルはルカサーとボビー・キンボールのハイトーンボイスが交互にソロをとり、ペイチのコーラスが被さる。ポップな曲調の中に小宇宙の如き彼らの音楽的多様性を内包しているのが大きな特徴で、高度に統制されたアンサンブルとコーラスは正に絶妙であり、聴けば聴くほど驚きに満ちた楽曲である。
その他、I Won't Hold You BackやAfrica、It's a Feelingなど、このアルバムのひとつひとつの曲にはくっきりとした輪郭があり、多様でポップな彩りがとても豊かである。それぞれ、ルカサー、ペイチ、スティーブ・ポーカロの曲でもあり、その個性は見事に分散している。個人的にはハードさが特徴的なAfraid of Loveも好きな曲である。
"TOTO IV"は1982年度グラミー賞で最優秀アルバム賞など6部門を独占し、その年の象徴的なロックアルバムとなると共に、80年代プログレ・ハードのひとつの到達点として、またAORの傑作アルバムとして燦然と輝く名盤の地位を獲得する。その特徴は繰り返すようだが、拡散する多様な音楽性と高い技術に裏打ちされたディテールにある。構成力よりもアンサンブルであり、主題よりもディテールである。それは80年代という時代の特徴と重なりつつ、定型化した80年代サウンドの典型となっていく。(次作5th"isolation"(1984)も良し)
[PR]

by onomichi1969 | 2008-11-05 01:55 | 80年代ロック | Trackback | Comments(0)

アクセスカウンター