Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 <   2008年 10月 ( 7 )   > この月の画像一覧 semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 R.E.M. "Green"(1988) semスキン用のアイコン02

  

2008年 10月 29日

a0035172_010143.jpg世界で最も重要なロックバンドと言われるR.E.M.の80年代の傑作アルバムである。
彼らの80年代のアルバムでは”Life's Rich Pageant”(1986)も印象深いが、90年代に連なる傑作群の先駆けであり、各雑誌でその年のベストアルバムに選ばれて、R.E.M.の日本での知名度を一気に押し上げた作品”Green”(1988)はやはり彼らの記念碑的なアルバムだといえよう。
ロックが70年代中期から大衆化し、単純化していったのが80年代中期までの流れで、その成果がパンク、ニューウェーブを経たブリティッシュ・ポップであり、また『明日なき暴走』以降のブルース・スプリングスティーンに代表されるストレートでポップなアメリカン・ロックだというのが僕の考えである。
ポップと大衆化の流れの中で肥大していった80年代ロックが90年代初頭に行き詰る。世界が消費文化を謳歌し、ポップという幻想が生き生きとしたイメージで捉えられた80年代のポストモダンがその幻想を剥ぎ取られ、無力さと無根拠さを突きつけられたのが湾岸戦争から始まった90年代の現実だと言われる。ポップと言う幻想の剥奪。これが90年代ロックの出発点であろうか。その先にニルヴァーナやチリペッパーズ、レディオヘッドの音楽が浮かぶ。

90年代はいろんなものが価値を奪われ、その廃墟に佇むかのごとき途方を露わにするのだが、それらの閉塞感、空虚感は僕らの精神を損ない、無自覚に内面化された為に、ある種のジャンクとしての物語とでも言うべき得体の知れない共同幻想(日本ではオウム)を引き寄せる。自覚なき空虚感こそが90年代の精神である。90年代ロックはそのようなタームによって強迫され内面化された。それが80年代とは全く違った色合いのダークでヘヴィーな90年代ロックを生み出したのだと思う。

R.E.M.”Green”(1988)は、80年代のポップさとは違う内面化された空虚さ、仄暗い明るさが特徴的なアルバムである。内面化されるが故に無自覚な空虚感。それが引き寄せる幻想としての地図。その後の90年代ロックの歴史はR.E.M.の道程そのもののように思える。彼らが”Out Of Time”(1991)、”Automatic For The People”(1992)を経て、”Monster”(1994)という世紀末の傑作を生み出す必然が既に本作に垣間見える。80年代から90年代にかけて、R.E.M.ほどロックを直線的に深化させたバンドはいないだろう。それは70年代から80年代にかけて形而上的にロックを止揚させ、最終的に「空無」に辿り着いて解散したロキシー・ミュージックとはまったく逆の道程である。空無から出発し、深化したロックは自らの地図を失い、必然的に解体へ向かうだろう。その先にレディオヘッドの”Kid A”(2000)をイメージできるのであるが、それはまた別の話である。
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by onomichi1969 | 2008-10-29 00:15 | 80年代ロック | Trackback | Comments(1)

semスキン用のアイコン01 ベルベット・ゴールドマイン "Velvet Goldmine" semスキン用のアイコン02

  

2008年 10月 12日

a0035172_9413841.jpgデビッド・ボウイの名曲『ベルベット・ゴールドマイン』がタイトルである。
僕が中学の終わり頃に初めて買った洋楽LPがボウイの『ジギー・スターダスト』で、僕はこのアルバムを聴きながら、ジャケットに描かれたジギー・スターダストがその煌びやかな出で立ちで歌い演奏する姿をよく想像したものである。
コンセプトアルバムの傑作『ジギー・スターダスト』(1972年)は、SF的な要素を盛り込みながら、リアルタイムの音楽ムーブメントの末路を予見する形で、セルフイメージを重ねたロックスターの隆盛と凋落をクールに描ききったグラムロックの記念碑的な作品であるともいえる。オリジナルLPには収められていなかったが『ベルベット・ゴールドマイン』はその頃の彼の代表曲のひとつである。(『スペース・オディティ』のB-side)
さて、映画『ベルベット・ゴールドマイン』は、映画の宣伝写真を観れば一目瞭然、デビッド・ボウイをモデルとしたグラムの世界を再現することを目的としているように感じられる。ロックスターを目指した一人の美しい青年が巨大なショービズにどのような形でまみれていったのか、そこで何を得て何を捨てたのか。幾つかのセルフストーリーを盛り込み、当時のムーブメントのある側面を炙り出そうとしているようにも見える。しかし、この映画のボウイ的な世界は、C.ベール演じるフリークの視点から描かれるが故に類型的にならざるを得ず、僕らが『ジギー・スターダスト』を聴いて描くボウイの意外とクールな自己演出的なイメージが宙に浮いてしまうように感じる。実はこの映画はボウイ的な世界、そのグラムの輝きと空疎さがとても浅はかなイメージで描かれているにすぎない。それはある意味で『ジギー・スターダスト』というアルバム世界をなぞっているからだと言えなくもないが、映画にするならそれはとても中途半端な気がする。ボウイとイギーの絡みやショービズのあり方等、あまりにも想像通りにすぎるのだ。
C.ベールが回顧する地点である(ボウイも歌った)1984年というのは、日本でも洋楽全盛の時代。グラムロックへの印象はだいぶ違うものを感じた。あれはダサかったのか、それともある種の神格へ昇華していたのか?!どうなんだろうか。。。 1998年イギリス映画(2003-12-06)
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by onomichi1969 | 2008-10-12 09:47 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 シティ・オブ・ゴッド "City of God" semスキン用のアイコン02

  

2008年 10月 12日

a0035172_95115.jpgブラジル版の『仁義なき戦い』である。でも、確かに深作やタランティーノのテイストを十分に感じるけど、登場人物の大半が子供だということはかなり異様である。『バトルロワイヤル』のような完全なる虚構性が前提であれば、純粋に娯楽として楽しめるが、この作品のもつリアルな歴史性は、そのスタイリッシュな娯楽的展開から乖離して、僕らの胸をストレートに突き刺すのである。子供たちが殺し合うということの捩れた純粋さが心重く、とても恐ろしいのだ。
しかし、僕はこうも考える。この作品が捩れた純粋さと殺人に対する原初的な麻痺の恐怖を描いているとすれば、一体全体、「バトルロワイヤル」的な(人々が殺しあう物語としての)虚構性とは何なのだろうか、それを描くことの理由とは何なのだろうか、と。それはゲーム的虚構性であるが、その虚構性そのものから滲み出るはずのリアリティがあればこそ、そこに理由があるのだと僕は思う。本来、作品とはそういったリアリティの切実さによって僕らの心を掴むものだろう。それは歴史性とも言い換えられるが、今を生きる僕らの心の有り様を含んだ生であったり、死であったりするものこそが今描くべき歴史性ではないだろうか。今、この瞬間にも歴史は創られているということを僕らは認識すべきである。2002年ブラジル・フランス映画 (2004-06-27)
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by onomichi1969 | 2008-10-12 09:13 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 地獄に堕ちた勇者ども "The Damned" semスキン用のアイコン02

  

2008年 10月 12日

a0035172_847286.jpgドストエフスキーの『悪霊』をモチーフにしたであろうヴィスコンティの傑作。特にマーチンの人物造詣と親衛隊による突撃隊殺戮劇「血の粛清」シーンは白眉だろう。分厚い制服を着た男達が、乱痴気騒ぎのパーティーで酔い潰れた裸同然の同類達を一斉に射殺する。迫りくる映像に僕らは完全に宙吊りにされるしかなかった。同類による同類の粛清という震撼すべき絶対的空疎。それは退廃した様式とイデオロギーという悪霊に一直線に繋がっている。
悪霊とは何か?ここでマーチンよって語られる「スタブローギンの告白」は、ナチスという悪霊に憑かれることの危うくも美しい幸福感を見事に描いている。神の黄昏として表現される巨大な空疎(=退廃)。それは悪霊が取り巻く地獄の入口でもあるのだ。ナチスやソ連が滅んだ今でも、そのモチーフ、現代的意味は全く死んでいない。
この映画を観たのは15年も前であるが、その内容を思い出すに付け、それは麗らかな春の昼間に朧見る悪夢に似ている。ぞっとして跳び起きた瞬間、まるで其処こそが地獄の入口であるかのように感じるのだ。 1969年イタリア・西ドイツ・スイス映画(2004-02-22)
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by onomichi1969 | 2008-10-12 08:50 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 チャイナタウン "Chinatown" semスキン用のアイコン02

  

2008年 10月 12日

a0035172_8363054.jpg30年代のL.A.を再現した舞台設定も私立探偵演じるジャック・ニコルソンもスタイリッシュで素晴らしい。もちろん実際に30年代のLAを知っているわけじゃないけど、あのハードボイルド小説で読むところの雰囲気が十分に出ていたような気がする。
ラストもお約束だ~って感じだけど、的は外してないんだなぁ。ニコルソンの私立探偵役もピタッとはまっていて、とてもGood!最高のはまり役でしょう。フェイ・ダナウェイもいい女だ。これシリーズ化したら面白かったんだろうな。もう1~2作観たかった。。。と思ったら16年後にパート2があったよ。遅すぎる。ジェイクは若くて精悍じゃないとね。1974年アメリカ映画 (2003-09-16)
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by onomichi1969 | 2008-10-12 08:37 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 Nik Kershaw "The Riddle"(1984) semスキン用のアイコン02

  

2008年 10月 11日

a0035172_23153734.jpgつい最近、マイPCのハードディスクがクラッシュして、大事なデータを大量に損失してしまった。ちょっと前までは外付けにバックアップを取っていたのだけど、たまたまPCに全てのデータを集約したとたんにハードディスクが損傷してしまって。。。とても悲しい。

日本データ復旧サービスセンターというところで調査してもらったら、重度以上の障害でデータを保存していたDドライブが丸ごと破損でデータ取り出せず。大体、200MBを救い出すのに18万円もかかるということで、何でそんなに金額が高いのか聞いたら、クリーンルームでハードディスクを分解するからだとか。どんなすごいクリーンルームなんだろうか?僕だったら300万くらいで設計製作してあげるのに。。。

と、そんなことはどうでもいいか。

久々の投稿が愚痴ばかりになってしまいそうだw

今日はニック・カーショウである。ちょっと前にハワード・ジョーンズやFGTHというエレクトリック・ポップを紹介したのでその流れで。僕の中では80年代中期に派生したこの系統の音楽では、その後のティアーズ・フォー・フィアーズや幾多の類似バンドがあって、最終的にペットショップボーイズに繋がる。

まぁニック・カーショウはその幾多のバンドのひとつに数えられるわけだけど、実際のところ、ニック・カーショウ=エレクトリック・ポップというのは後付の知識であって、当時の僕らにとってのニック・カーショウといえば、ずばり『ザ・リドル』だったりするのだ。



僕の記憶では、この曲はまずイギリスでヒットし、それから日本、しばらくしてからアメリカで最終的にヒットする。このパターンは第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの頃によくあったパターンだが、アメリカよりも先に日本でヒットしたという事実にすごく親近感がわいたりする。
まぁそれはそれとして、『ザ・リドル』という曲はメロディがとても親しみやすい一度聴いたら忘れられない名曲である。イギリスではデビュー以来7曲連続トップ20ヒットし、アルバムからもヒットを連発、当時はハワード・ジョーンズやポール・ヤングと並ぶ若手のホープだったと言われているが、日本では『ザ・リドル』があまりに印象的すぎて、他の曲は殆ど聴かれなかった。

ただ、アルバムを通して聴いてみれば、『ドン・キホーテ』とか『ワイルド・ホーセズ』、『ワイド・ボーイ』などなかなかの佳作が揃っている。いかにも80年代中期のエレクトリック・ポップの類型的な楽曲であるけど、もちろん僕はそれが好きなのである。その類型さも含めて80年代中期ならではの味わいとして、僕は好きなのだ。
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by onomichi1969 | 2008-10-11 23:09 | 80年代ロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 思うんですが、、、 semスキン用のアイコン02

  

2008年 10月 11日

大相撲で八百長っていけないことなのでしょうか?
それこそ何十年も前からそんなことは言われ続けていて、いまさら何の問題があるのでしょうか? 昭和30年代の栃・若時代の映像を見れば、それが「魅せる」勝負であったことは一目瞭然でしょう。そういったプロ興行の歴史をいまさら否定してどうしたいのでしょうか? 大相撲というのは興行であり、伝統であり、祭祀であり、文化であり、勝負を魅せるものであるけれど、ガチンコかどうかを僕らが判断して告発しなければならないシロモノでは全くないと思うのです。全てがガチンコだったら、怪我や人間関係の問題であんなに多くの巡業や場所なんてこなせませんよ。(アマチュアレスリングやボクシング、総合格闘技とは違うのです)

協会や力士に八百長していますか?と聞いて「しています」なんて答えられるわけがないでしょう。それは答えられない質問というものです。それを嘘つき呼ばわりするのはどうかと思います。いまにアメリカン・プロレスさえも八百長で嘘つきだから告発すべきなんて本気で言い出す日本人が出てくるのではないかと心配。。。

週刊誌もこういうことを本気でやるようになってしまったら終わりでしょう。何様のつもりでそういうことをするのでしょうか。

昔、アントニオ猪木がソ連時代のアマチュアレスリングの選手をプロレスに出場させる為に現地で彼らを説得したときの話。プロレスラーというのは単にレスリングが強い人ではなく、試合をすることによって人々の怒りや喜び、生きている感情を自由自在に引き出すことができる超人なのだと、ソ連のレスラー達に説明したそうです。人々が生きる勇気や夢を持てるそういった幻想を与えられるのがプロフェッショナルレスラーなのだと。その言葉に感銘を受けてソ連のレスラー達は新日本プロレスに参戦することを決意したということです。(その後、アントニオ猪木の気まぐれのせいでポイ捨てされてしまいますが、、、)それが本当の話にしろ、プロレス的脚色にしろ、僕はこの話が好きです。これはニーチェですよ。
力道山が街頭の人々を勇気づけた時代。あの頃の大らかな時代精神こそがすでに遠い昔の夢のごとき幻想なのかもしれませんね。蒟蒻ゼリーへの理不尽な国家的規制(の検討)や政治家の発言に対するどうでもいいバッシング、マスコミのマスコミに対する自己言及的なやらせ報道への告発などなど、一体全体何をしたいのか、この国をどうしたいのか、殺伐とした世の中になってしまいました。
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by onomichi1969 | 2008-10-11 22:10 | 時事 | Trackback | Comments(0)

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