Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 Cyndi Lauper "She’s So Unusual"『N.Y.ダンステリア』(1983) semスキン用のアイコン02

  

2008年 06月 22日

a0035172_1184167.jpg80年代中期、洋楽界の女性アイドルと言えば、マドンナかシンディ・ローパーだった。
今にして思えば、アイドルというには2人とも年を取り過ぎていたかもしれないけど、その当時は若い女性シンガーというのは殆どいなくて、それなりの下積みの末にようやくデビューした時には結構な年になってしまっていたというのが彼女たちの実際のところだったのだろうと想像する。その後、デビー・ギブソンとかティファニーとか、若くて可愛らしいシンガーもデビューするようにはなるけど、若さを売りにするのってどちらかと言えば日本的な文化で、アメリカっていうのはなんだかんだいってやっぱり実力主義(キャラクター主義も含めて)なんだなぁって思う。

話は戻るけど、やっぱりマドンナ派とかシンディ派とかいう2者択一的な特集が雑誌なんかであったりして、「どっちかかよ!」と思いつつ、僕は実はシンディ・ローパーが好きだった。
僕が初めてベストヒットUSAを観た時の全米チャートNo.1がシンディの”Time After Time”だったというのもあって、彼女にはわりと思い入れがあったのかもしれない。
彼女のデビュー作、”She’s So Unusual”『N.Y.ダンステリア』(1983)は確かによく聴いた。(無理やりな邦題だったけど。。) 1stシングルで全米No.2となった"Girls Just Want To Have Fun"『ハイスクールはダンステリア』でブレークして、2ndシングル、切ないバラード”Time After Time”『過ぎ去りし想い』はシンディ本人が演じるPVも結構印象的で、彼女の人気を決定付けた名曲である。その後、このアルバムからは、"She Bop"『暗闇でSHE・BOP』や"All Through the Night"『魅惑のスルー・ザ・ナイト』が連続してトップ5ヒットとなる。さらに”Money Changes Everything”もスマッシュヒットする。
”She’s So Unusual”がファーストアルバムにして最大のヒットアルバムとなったことは彼女にとってはものすごいプレッシャーとなったに違いない。このアルバムには優れたポップチューンがこれでもかってくらいに並びすぎた。"All Through the Night"だって”Time After Time”に負けないくらいいい曲だし。
2ndアルバム”True Colors”(1986)からもタイトル曲が全米No.1、”Change of Heart”が全米No.3になるなどヒットは続くが、やはり目新しさのない分、勢いだけの感は否めなかった。

その後の彼女の活躍についてはあまり知らない。以降のアルバムもそれなりヒットしたことだろうが、80年代の栄光が再び彼女の上には輝くことはなかったようだ。彼女が自身のキャラクターを意識したようなアカルイポップチューンから、よりアーティスティックな面に比重をおいたアルバムをつくったとしても、それが多くの人(特にアメリカ人)に認められることはなかった。彼女を捉えた1stアルバムの呪縛を彼女がどう処理していったのかは想像もつかないけど、僕らは今でも彼女の1stと2ndアルバムだけを聴いているし、これからも聴いていくだろう。タイム・アフター・タイム・・・

確かに80年代の彼女のアルバム、特に1stアルバムはその時代の、80年代の象徴的サウンドと言っていい。そのキャラクターも含めてうまく時代を捉えたし、それが故に彼女の歌は僕らの心の中にいつまでも残っていく。
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by onomichi1969 | 2008-06-22 08:38 | 80年代ロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 The Jam "The Gift"(1982) semスキン用のアイコン02

  

2008年 06月 21日

a0035172_20405552.jpgジャムは、ロンドンパンクのアイドル的存在で、音楽的にはスピード感溢れるR&B系のビート・サウンド、ファッション的にはモッズという感じで捉えられるのが一般的である。
日本でも70年代パンクのバンドではクラッシュと並び最も人気があり、元々楽曲及び演奏力への評価が高い。ファースト以降も良質なアルバムを発表し続け、パンクからニューウェーブへと移行する時代の流れの中で音楽的な多様性を身に付けることによって、80年代初頭にはUKを代表するバンドに成長する。
そんなバンドの個性は、中心人物のポール・ウェラーの精悍さ、その存在感に結局のところ尽きるのではないか。ジャムにしろ、スタイル・カウンシルにしろ、その音楽から滲み出る「誠実さ」が彼らのサウンドの印象を規定しているとさえ思える。

ジャムの代表作と言えば、3rdアルバム"All Mod Cons"(1978)であろう。力強いベースラインとスピーディなドラミング、激しいカッティングギターと振り絞るようなソウルフルなボーカル。ジャムの特徴的なサウンドにニューウェーブ的なポップセンスが融合し、楽曲的にもアコースティックなバラード"English Rose"の名曲があり、ストレート一辺倒のサウンドからバラエティをみせるようになる。
映画『ハイ・フィデリティ』の中で、当時人気絶頂だったGreen Dayが最も影響を受けたバンドとしてクラッシュとスティッフ・リトル・フィンガーズが挙げられていたが、僕の中ではこの時期のジャムが最もイメージ的に繋がったりもする。今で言うメロコア的なもの。ハードなパンクとメロディアスなポップの要素が最もバランスよく構成されたのがこの時期のアルバムだといえる。

その後、ジャムはポップの割合を徐々に大きくしていき、シングル曲"Going Underground"や"Funeral Pyre"のようなポップソングを次々とUKで大ヒットさせる。さらにR&B的なアレンジやリズムを大胆に取り入れたアルバム"The Gift"(1982)に至り、そのサウンドはひとつの完成形に到達したと言えよう。

僕が一番好きなジャムのアルバムは、やはり"All Mod Cons"(1978)で、高校生の頃に自前で買ったLPとしては、ボウイのジギーやジャニスのパールと共に、アルバムそのものとして最も愛着があった。この3枚を聴くときはつねに厳粛な気持ちで、まるで儀式のようにビニールからレコードを取り出してクリーナーで磨き上げ、ステレオの前で正座して聴いたものだ。そして聴き終わったら厳かにレコードを取り上げ、ビニールに折り目をしっかりと入れてジャケットに戻すのである。(キズなんてつけた日にはもう大変である)

そして、ジャムの中で最も聴いたアルバムとなれば、"The Gift"(1982)になる。
このジャムのラストアルバムは、楽曲的にとても充実していると思う。"Happy Together"、"Ghost"、"Precious"と繋がる導入部のキラーチューンから、中盤の"Running on the Spot"、そして大ヒットした"Town Called Malice"と、とにかく曲が素晴らしい。もちろんブラスを大胆に導入したサウンドアレンジと共に演奏的にもキレの良さを感じる。この時期が人気も最高潮でバンドとしてすごくノリに乗っている状態だったと思うし、だからこそ彼らの解散が如何に衝撃的だったかも想像できる。
このアルバムが彼らにとってのひとつの頂点でありながら、限界でもあったとはよく言われることだ。ポール・ウェラーがスタイル・カウンシルでそのスタイルを180度転換するのも今となってはよく分かるような気がするが、それでも、ジャムとして完成させたギリギリ限界のポップサウンドに僕はすごく惹かれる。それこそが彼らの精一杯の誠実さだと思ったりするのだ。

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by onomichi1969 | 2008-06-21 21:15 | 80年代ロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 砂漠の流れ者 "The Ballad of Cable Hogue" semスキン用のアイコン02

  

2008年 06月 21日

a0035172_1334378.jpg僕にとっては『ビリーザキッド21歳の生涯』や『昼下がりの決斗』に次ぐペキンパー作品。この監督の作品はよく「暴力の美学」という表現をされるけど、それはおそらく2次的なものであって、もっと端的に「生きること(死ぬこと)に対する美学」と言って構わないと思う。そういう意味では、失われつつあるフロンティアの時代に擬え、現代的喪失感の中で誠実であるということはどういうことかを問うニューシネマのハシリであり、実に哀しく、それでいて生命力溢れる映画なのである。 1970年アメリカ映画(2003-01-19)

<追記>先日、久々にこの映画を観た。『ビリー・ザ・キッド21才の生涯』と共にDVDで690円だったので。(安っ!)
ステラ・スティーブンスがとてもキュートなんだなぁ。サム・ペキンパーがここまでヒロインを可愛く撮れるんだって改めて感心した。かなり男目線ですけどw
それで、、、映画の雰囲気そのものがまさにニューシネマなんだな。だけど、主人公のケーブル・ホークだけは結局のところ新しい時代を前にして、古い時代的価値感の中で生きてきた自分を認めるように時代そのものに殉じてしまう。それがいわゆる彼にとっての「生きること(死ぬこと)に対する美学」なんだと思う。上のレビューはもう5年以上前のものだけど、我ながらいいことを書いているよw

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by onomichi1969 | 2008-06-21 01:40 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 EURO2008 semスキン用のアイコン02

  

2008年 06月 20日

EURO2008もいよいよ決勝トーナメントです。
と言っても、実は今回、殆ど試合を観ていないのでいまいち状況が掴めていないのですが、巷の評判では、ポルトガルとオランダが優勝候補のようですね。
ポルトガルはクリスチアーノと凸の活躍で危なげなく予選リーグも突破しました。オランダは死のリーグ(C組)を全勝で勝ち抜いた業績が評価されているようです。

ポルトガルについては、僕も先のワールドカップ@ドイツで優勝間違いなしと予言したにも関わらず、ベスト4止まりだった苦い思い出があります。その頃と比べ、クリスチアーノもかなり成長しており、今回の前評判の高さ、優勝候補の筆頭なのは誰もが納得でしょう。まぁ順当にいけばポルトガルは最も優勝に近いといえるのでしょうね。
そのポルトガルが1回戦で当るのがドイツです。
ドイツ好きの僕としては、とても微妙なのですが、敢えて、この1回戦屈指の好カードこそが事実上の決勝戦だと宣言したいところです。(実は、またまた再来週からドイツに1週間ほど出張します。もし優勝したらすごい騒ぎでしょうね)

あとはオランダとイタリアでしょうか。
スペインはいつものように予選リーグではダントツ、決勝トーナメントではダメというパターンと予想します。イタリアはいつも逆ですからね。となると、準決勝はオランダとイタリアの再戦となります。ここでイタリアが雪辱できるか、今の戦力では難しいかもしれません。

ということで、ポルトガルとドイツの勝者とオランダが決勝を戦うことになれば、相性的に言ってオランダは分が悪いような気がします。やっぱり、ポルトガルとドイツの勝者が優勝ということですね。

では、ポルトガルとドイツはどちらが勝つか、う~んと考えている内に、もうすぐ試合が始まりそうです。。。と思ったら、ドイツが勝ってしまいました。それも少し残念。
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by onomichi1969 | 2008-06-20 08:17 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 クレイマー、クレイマー "Kramer vs. Kramer" semスキン用のアイコン02

  

2008年 06月 15日

a0035172_9574769.jpg凡そ中学生くらいの頃にこの映画を観たときは、シングルファーザーどころか、離婚やら裁判やら失業やら、この物語で描かれるそういった家族や生活のあり方に全く現実感を抱けなかった。もちろん僕自身も若かったし、当時は安定した家族や生活というものに当たり前のような信頼をおいていたから、それはそれでとても自然な感想だったのだと思う。
あれから20年、日本の現実は、この物語さえも普通の、いや過去の物語に変えてしまった。そして僕は大人になり、主人公と同じ運命を辿ることになる。この映画のハッピーエンディングが如何にポジティブな家族愛に満ちていたかをしみじみと感じる今日この頃である。1979年アメリカ映画 (2004-01-24)
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by onomichi1969 | 2008-06-15 09:58 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 普通の人々 "Ordinary People" semスキン用のアイコン02

  

2008年 06月 15日

a0035172_9522742.jpg学生の頃に観て、非常に心揺さぶられた作品です。若さというのは、整理されないいろんな感情の中で刹那的であやういものだということを「普通」の感覚として受け止めました。
絶対的な「信」を失った世界でいかに「誠実」に「真っ当」な道を生きていくことができるか? 普通の人々が「普通」に生きていくことの難しい時代になったことを予見した作品でした。
20年以上経った今、「普通」に生きることの難しささえも無感覚に受け入れられている時代になり、この映画に心揺さぶられること自体が、ある意味ではもう既に時代遅れの感覚になってしまったとも言えるでしょうね。1980年アメリカ映画 (2002-06-02)
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by onomichi1969 | 2008-06-15 09:53 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 グッバイガール "The Goodbye Girl" semスキン用のアイコン02

  

2008年 06月 15日

a0035172_9485048.jpgとても見応えのあるロマンティックコメディでした。バスルームでお互いの気持ちを確かめ合うシーンはとてもロマンティックと呼べるものではなかったけどね;; 
相手をだんだんと好きなっていく過程がちょっとお約束すぎるけど、そこに華やかさがない代わりに恋愛感情に通底するお互いの自信のなさが微妙なリアルさを醸し出しています。
この物語、マーシャ・メイスンの側からみてもかなり切ないお話ですが、ドレイフィスの側からも微妙な味わいがあります。男もいろいろと大変だなぁ、っていうが素直な感想。でも、あのグッバイがこの物語のハッピーエンドであって、彼らの本当のスターティング・オーバーだって思いたいですね。 1977年アメリカ映画(2004-01-25)
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by onomichi1969 | 2008-06-15 09:49 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 ザ・マジックアワー semスキン用のアイコン02

  

2008年 06月 12日

a0035172_23112615.jpg面白かった。特に佐藤浩市が殺し屋「デラ富樫」を演じる場面からは爆笑の連続で、演技が濃すぎて売れない役者が殺し屋に成りきる様相はかなりハマっていた。特に寺島進との勘違いのやりとりは結構ツボだった。。。
三谷幸喜の監督映画では、『ラヂオの時間』以来の面白さ。作品の規模からしても、『ザ・マジックアワー』は彼の作品のひとつの到達点と言えるだろう。

この作品には過去のいくつかの映画がパロディとして取り込まれている。
市川崑の演出シーン、深津絵里が三日月に乗って歌うシーン、本物のデラ富樫が円卓に醤油をこぼすシーン、劇中劇の「暗黒街の用心棒」波止場のシーン、そして、ギャングの親玉への大掛かりな仕掛け。過去の映画に対するオマージュが画面の中に満ち満ちており、それがなかなか楽しいのである。

冒頭、映画のセットのような街の風景から始まる。住人達もまるで映画的な個性、映画的なリアリティを体現する人物達で、ギャングの親玉にその情婦、情婦の恋人、怪しげなバーのウェイター、ホテルのマダムなどなど。彼らは映画の中のフィクション的な存在を実に自然に演じており、そういう意味でまさに非現実的な映画の街の住人なのである。
そこに売れない役者、佐藤浩市が殺し屋役で現れる。彼は現実の人間であるが、その独特の演技によってあっさりと非現実的な映画の街に溶け込む。彼は、妻夫木聡に映画の撮影などと騙されながらも、冴えない現実から飛躍し、映画的な予定調和の世界の中で活き活きとした手応えを得るのである。

そんな状況もラストを前に当然の如く破錠する。佐藤浩市は騙されていたことを知り、ギャングのボスである西田敏行も裏切られていたことを知る。その後、唐突にギャングのボスに対する「仕掛け」というクライマックスを迎えることになる。

ギャングの親玉への仕掛けといえばジョージ・ロイ・ヒルの名作『スティング』である。『ザ・マジックアワー』は、『スティング』をなぞるように最後の仕掛けへと展開していくが、僕等はその展開の行方を知っている。。。故に騙されない。けど、そのあからさまな仕掛けぶりがこれまでの徹底した非現実の中にある種の現実性として僕らに印象づけられる。これまでの映画的な架空性が一気に現実の、身近な感覚としての、映画的な日常性に還元されるのである。

映画的日常とは何か。映画とはフィクションでありながら、そこにはフィクションを越えた可能性の発露がある。叶わない、届かない思いながら、僕らは映画を観ている間だけは作品の世界に入り込み、ある種の可能性を手にすることができる。それが映画的日常、映画を愛するが故のポジティブな日常性で、人が生きる優しさの源泉となる。映画的日常を生き、演じること。そこに見出される生きることのささやかな肯定と、ある種の暖かさこそがこの作品のモチーフであること。僕らはラストシーンに至りそのことにようやく気付く。映画的日常、優しさ。それ故に場面の楽しさの中にも僕らは思いがけず胸がジーンとなるのだ。2008年日本映画
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by onomichi1969 | 2008-06-12 23:31 | 日本の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 サイモン・シン 『フェルマーの最終定理』 semスキン用のアイコン02

  

2008年 06月 08日

a0035172_9123932.jpgサイエンス・ノンフィクション・ノベルの傑作。数年前から読みたいと思っていたのだが、なかなか手が出ず、文庫化してようやく購入。一気に読んだ。
そして、、、評判に違わない面白さだった。内容の緻密さ、構成力、展開のスリリングさ、それらも然ることながら、翻訳本とは思えないほど読みやすく、訳者の力量も感じる。

基本は数論の話である。僕も一応理系の人間なので、数論を大学の頃に習っているが、その論理展開や数式の扱いは僕等凡人にとってとても難しい。(これらを理解できる人が天才なのだなぁと当時も思ったものだ)
しかし、この本にはそういった理解を寄せ付けない原因でもある論理式や数式は一切出てこないにも関わらず、そのエッセンスを理解したかのように思える(思わせる)のがすごいことだ。
実際のところ、フェルマー予想の証明については、そのトバ口さえも理解できないのであるが、僕らはフェルマー予想に至る数論の歴史とその証明に至るストーリーに酔いしれることができる。証明が数理の積み重ねによってのみ達成するのだとすれば、本書は数理を物語に置き換え、その厳密性をトレースしているようにも思える。

xn+yn=zn
この方程式はnが2より大きい場合には整数解をもたない。

これがフェルマーの最終定理と呼ばれるもので、命題が指し示す意味については中学生でも理解できるが、その証明は不可能とされてきた。(故に300年以上も定理化せずに予想と呼ばれてきた)

メインテーマとなる数論の歴史やフェルマー予想に終止符を打ったアンドリュー・ワイルズの半生、問題解決までの道のりは実にスリリングでドラマティックである。それと共に僕が最も印象に残ったのはワイルズの証明、その論理展開に多大な献上をした2人の天才のサブストーリーであった。若くして自らの命を絶った2人。楕円方程式とモジュラー形式を統一する谷山=志村予想を発見した谷山豊と群論の創始者ガロアである。偉大な発見と共に自死を選んだということで共通する2人。自死の理由は語られないが、そこには僕らに到底理解できない深い思いと決定的な飛躍があったと感じざるを得ない。それは彼らを導いたもの、論理のパラドクス、その完全性への信と不完全性という綻び、無限の自己観念と有限の肉体に対する彼らなりの拒絶の意思表示だったのではないか。そういう彼らの生き様を僕らは真に理解することはできないし、批判もできない。にも関わらず、僕らはその物語を読んで心が震えるのは何故だろうか。。。

谷山=志村予想を解くことがフェルマー予想を解くこととイコールであること(フライ・セール予想)が証明され、フェルマー問題解決への道が開かれたのはごく最近(1984-6年)のことであった。少年時代からフェルマー予想に憑かれていたワイルズはその証明に人生を捧げることを決意する。彼は外界から孤立することを選び、8年間の孤独な研究に没頭する。無限への挑戦、論理との孤独な戦いである。その証明には20世紀に進歩した数論のあらゆるテクニック、ガロア群、帰納法、岩澤理論、コリヴァギン=フラッハ法などが駆使され、130ページにも及ぶ緻密な論理展開となった。まさにそれこそ数理の統一理論であり、新しい展開への道筋を示す世紀の証明であった。数理という秩序の美しさと奥深さに思いを馳せるだけで、胸が震えるような、その神秘性、孤高性に驚愕する。古典的な発想かもしれないが、そこには数理の完全性に対する信があり、それこそがフェルマーの最終定理の大きな意義なのだと思う。それはストレートに人間という存在への信に繋がるのだ。

これはまさに「天才」という偶然性に関する本であると同時に「偶然性の理解に対する辛抱強い忍耐(孤独)」と「美しさ、正しさへの直観」が成功への端緒となることを示唆していると思えた。
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by onomichi1969 | 2008-06-08 09:39 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ランボー 最後の戦場 "Rambo" semスキン用のアイコン02

  

2008年 06月 02日

a0035172_2336810.jpg『ロッキー・ザ・ファイナル』(原題” Rocky Balboa”)に続くスタローンの復活作『ランボー 最後の戦場』(原題”Rambo”)を観た。
今回のランボーは前3作と比べて、ランボーたる所以の孤高感に乏しい。それは殺戮シーンそのもののリアリティに注目が集まりすぎるからか、ミャンマーの内戦という政治情勢をクローズアップしているからか。ただ、『プライベート・ライアン』や『サルバドル』のような先行作を思い出させはするものの、その焦点は定まらず、スタローン特有の娯楽大作の様相も相変わらずである。また別の見方をすればこれはラブストーリーだとも思える。ランボーの行動の動機はサラであり、彼は明らかにサラに恋をしているのだから。そういったいくつかの要素がランボーという個性を軸に寄せ集められ、何か得体の知れないものが出来てしまったというのがこの映画に対する僕の印象である。

機関銃を乱射し、狂ったように大量殺戮を行うラストシーンは現代版『ワイルドバンチ』だと言える。確かにその時ばかりはランボーがウォーレン・オーツに見えた。
『ムダに生きるか、何かのために死ぬか、お前が決めろ』
そのセリフもまさにワイルドバンチ達の生き様、死に様そのものだ。しかし、何かが違う。無残かつ美しく散ったワイルドバンチ達と違う、即物的な殺戮、正統な狂気というべき幻想、その空虚さ、それがこの映画が訴える戦争のリアリティなのだろうか?

『ランボー』と言えば、第一作である。
1982年、僕が中学2年生の頃である。ランボーが一人で多数の警官隊に立ち向かう姿には興奮したし、崖から決死のダイブや森の中でのサバイバル生活、全てがエキサイティングだった。そして、ラストの独白。
『何も終わっちゃいねえ!何も!言葉だけじゃ終わらねえんだよ!俺の戦争じゃなかった、あんたにやれって言われたんだ!俺は勝つためにベストを尽くした。だが誰かがそれを邪魔した! シャバに戻ってみると、空港に蛆虫どもがぞろぞろいて抗議しやがるんだ!俺のこと赤ん坊殺したとかなんとか言いたい放題だ。やつらに何が言えるんだ!奴等はなんだ!俺と同じあっちにいてあの思いをして喚いてんのか!俺にはシャバの人生なんか空っぽだ!』
所謂ベトナム帰還兵の悲劇。それがランボーだった。そこには善も悪もなく、ただ戦闘の記憶と呪縛だけがあった。それは決して単純な戦争ヒーローものではなかったのである。その映画自体を14歳の少年達は喝采したのだ。

『ランボー 最後の戦場』の殺戮シーンは確かにリアルである。そこには職人技とも言うべき、リアリティの追求があり、人が破壊されること、その細やかなシミュレートへの偏狂的なこだわりが感じられる。それは『プライベート・ライアン』でスピルバーグが追求したものであり、ある種の偏執狂でなければできない仕事だろう。それはそれで僕は認める。それは本来失われているものを浮かび上がらせ、僕らは殺戮そのもののリアリティを目の当たりにする。しかし、それはそれだけのことである。戦争とはそういった不条理な暴力であり、破壊であるということを訴えるのも重要かもしれないが、それは何処まで行ってもただそれだけのことなのである。より本来的なのは言うまでもなくその由来である。もちろん、そんなものはこの映画に一切描かれない。

ランボーも第一作から26年経ち、すっかり中年になった。
ベトナム帰還兵の空虚、その自覚的な敗北感は既にない。決死の大量殺戮の後、故郷の牧場に帰るランボー。その牧歌的な風景。
この映画が真っ当な感じがしない、何とも言えない違和を感じさせるのは、いくつかの寄せ集めの要素があまりにも無自覚的に組み合わされているからだと思う。それはまさに、ゲーム的リアリティとでも言うべきフラットな現代性ではないか。それがこの映画の得体の知れなさの最大の要因であると僕は思う。結局のところ、殺戮のリアリティもデータベース化されたパーツでしかないと感じざるを得ないのだ。2008年アメリカ映画
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by onomichi1969 | 2008-06-02 23:51 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

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