Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 青春の殺人者 semスキン用のアイコン02

  

2007年 09月 24日

a0035172_12334635.jpg冒頭から中盤にかけてはとても神話的である。「青春の殺人者」というわりには現代<近代>的な自己疎外感からくる青年の孤独や苦悩が感じられず、父子、母子のオイディプス的三角関係を軸とした普遍的な物語でありながら、妙に噛み合わない心理劇にただ座りの悪さだけが残った。
しかし、中盤以降、物語は見事にひっくり返る。「青春の殺人者」とは、青春が殺人者ではなく、青春を殺人する、つまり青春こそが殺戮され終焉したことを描いた物語だったのだ。
主人公は青年たる資格を十分に備えた人格でありながら、あまりにも無邪気に両親を殺害してしまう。その動機の弱さはまず確信的である。そして、両親を殺した主人公のその後の苦悩と行動のアンバランスさ、その薄っぺらさは、そのまま自己の希薄さに繋がっている。主人公の行動の破綻性は、作品そのものの破綻を綱渡りしながら、その破綻性こそがこの物語のモチーフだと思わざるを得ないのである。ヒロイン原田美枝子は、まさにその補助装置たる存在だ。彼女がどういう役割なのか、実は僕にもうまく捉えられなかったのだが、その訳の分からなさこそが彼女の重要な役割なのかもしれない。<原田美枝子はとても魅力的でしたね。あのイチジクを食べるシーンなどはかなりドキドキしました> 
この作品は、もう30年近く前のものだし、感覚的にはもう古典的作品であることは否めない。しかし、この作品が意識的に描いた「青春の殺人」という水脈は、今もずっと繋がっている。もっとドライに、もっと軽やかにではあるが。そして、今や「青春」は全くの死語と化している。 (2004-06-27)

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キネマ旬報DB解説 『青春の殺人者』
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by onomichi1969 | 2007-09-24 12:48 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 横溝正史 『悪魔が来りて笛を吹く』 semスキン用のアイコン02

  

2007年 09月 24日

a0035172_23171423.jpgその昔、横溝正史の映画作品は年に数回ほどテレビのロードショーで上映していたし、夏になれば、古谷一行演じる金田一耕助のテレビドラマシリーズが再放送されていた。だから、横溝正史の金田一シリーズは小説として読んだことがなくても、主要作品に関しては大体の筋を知っていたし、トリックや犯人も最初から分かっていたものが多かったけれど、ストーリーのおどろおどろしさとか、ホラー仕立ての雰囲気が魅力で、テレビでやっているとついつい観てしまうのが当時の常だった。たぶん、これは僕らの世代の共有体験ではないかと思う。
リアルタイムの映画としては、『悪霊島』が小学校6年生の時で、そのころテレビでも盛んに金田一シリーズが上映され、横溝正史の小説が再版ブームとなったと記憶する。僕の友達も金田一シリーズの小説をよく読んでいたが、その頃の僕は漫画と時代小説しか興味がなかったし、後年、海外ミステリーや新本格物を読み出したころも、トリックや犯人をあらかじめ知っているような探偵小説に改めて興味が沸くこともなかったのである。

というわけで、この年になるまで、横溝正史の小説作品は、日本ミステリー史上ベストワンの呼び声が高い名作『獄門島』や歴史的作品である『本陣殺人事件』、『夜歩く』以外は読んだことがなかった。(元来僕はそういったキャッチフレーズに弱いので、その辺は外さず読んでいる)
先週始め、金田一シリーズを読みたい!と急に思い立ち、『悪魔が来りて笛を吹く』『八つ墓村』『悪魔の手毬唄』という彼の代表作の文庫本をまとめ買いし、週末をかけて今ようやく読み終わったところである。もちろん、それぞれの作品は映画で観ているのでストーリーも犯人も了解済みであったが、とにかくそんなことがハンデにならないくらい夢中に読んだし、そのなんともいえない哀しく切ない文章には完全に魅了されてしまった。この調子だと、このシリーズを続けて数作品読んでしまいそうな勢いである。

僕は和洋問わずミステリーの名作を結構読んできた方だと思うけど、横溝作品については、上記の理由もあってこれまで読むことを敬遠していた。元々、ミステリーはフーダニットやハウダニットのような犯人探し、トリックの解明が全てであり、それを最初から知っていて読むようなことはナンセンスだと思っていた。アンチ・ミステリーや近年の謎解き以外の要素を含んだ文学性の強い作品と違い、戦後初期の日本のミステリーはやはりプロットの精巧さと意外性、それが解き明かされる際のカタルシスがあってこその作品だと思っていたのである。

しかし、そうではなかった。犯人やトリックを知りつつ読んだことが作品から別の何物かを浮かび上がらせることになったのかもしれないが、横溝作品はシンプルに「小説としてすごぶる面白い」のだ。
特に『悪魔が来りて笛を吹く』や『悪魔の手毬唄』などは、大岡昇平の心理小説のようでいて、その観念性は中井英夫の『虚無への供物』に比する。簡潔でいて独創的な描写も、ここでは精巧なプロットとその構築に苦心する犯人のホワイダニットの切実さによって表現力を増している。ある意味で大いに観念的ながら、その切実さがとても奥深い。それは、おそらく日本の前近代的な因習や怨念といったような土俗的価値感がミステリーというモダニズムと習合することによって得られる時代的にもギリギリのリアリズムであったと思う。もちろん、それは非現実的であり、一面には卑俗的でメロドラマ風でもあるけど、村落共同体の中で劇的に価値感が変遷していく戦後という時代的側面と新しく登場したミステリーという意匠によって、事件はそのベースとなる土俗的因習を確実に壊しながら、逆にその土俗的因習の切実感を確実に捉えたのである。これらは横溝作品の大きな魅力であり、独特の文学性だと僕は思う。

確かに『悪魔の手毬唄』は映画も素晴らしいけど、小説も一読の価値がある。そして、『悪魔が来りて笛を吹く』は映画がいまいちだっただけに、小説は必読と言っても過言ではない。近年、金田一シリーズはテレビの2時間スペシャルや劇場用に新しくリメイクされることが多いが、厳密に言えば、それらのドラマは原作のもつ時代的な緊張感、その色合いと匂いを確実に失っているような気がする。それも時代的に仕方のないことかもしれないけれど。

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by onomichi1969 | 2007-09-24 00:13 | | Trackback(1) | Comments(8)

semスキン用のアイコン01 Linda Ronstadt "Hasten Down The Wind" 『風にさらわれた恋』(1976) semスキン用のアイコン02

  

2007年 09月 15日

70年代の歌姫、ウエストコーストの女王と言えば、リンダ・ロンシュタットである。(あと、オリビアとスティーヴィーとで当時のかしまし3人娘!)
そのリンダの代表作と言えば、“Don't Cry Now”(1973)、“Heart Like A Wheel”『悪いあなた』(1974)、“Prisoner In Disguise”『悲しみのプリズナー』(1975)、“Hasten Down The Wind”『風にさらわれた恋』(1976)、“Simple Dreams”『夢はひとつだけ』 (1977)、 “Living In The U.S.A.”『ミス・アメリカ』(1978)あたりになろうか。(この中では“Don't Cry Now”(1973)は聴いたことがなく、Greatest Hits 1のみ所有) この時代のリンダのアルバムはどれをとっても外れがない、というか、どれが突出しているということもなく、平均的に優れた作品であると言える。アルバムの構成として、ひとつの型が出来上がっており、あとは曲勝負というところだろう。

ということで、リンダの代表曲と言えば何か?
Long, Long Time、Desperado、You're No Good、The Dark End Of The Street、Heart Is Like A Wheel、Willing、Tracks Of My Tears、Heat Wave、Many Rivers To Cross、I Will Always Love You、Lose Again、The Tattler、Hasten Down The Wind、It's So Easy、Simple Man, Simple Dream、Tumbling Dice、When I Grow Too Old to Dream、Alison、Mohammed's Radio

なんとなくパターンが見えたような気がする。
オリジナル・ナンバーの他、クラッシック・ロックン・ロールのカバー、カントリー風バラード、同時代ロックのカバーなど、これらの組み合わせをアルバム毎に構築しているわけだ。同時代のロックのカバーもリンダが歌うとたちまちスタンダード・ナンバーとなる。

リンダのアルバムは雑誌の名盤特集では常連であるが、我がデータによると、

FMステーション 歴史に残る100枚のレコード(1985年 No.9 4/22-5/5)選出
“Living In The U.S.A.”『ミス・アメリカ』(1978)

週間FM 名曲名盤200(1986年 No.4 2/10~2/23号)選出
“Prisoner In Disguise”『悲しみのプリズナー』(1975)

FM fan AMERICAN ROCK ベスト・アルバム100(1986年 No.17 8/11~8/24号)選出
“Don't Cry Now”(1973)

ワッツイン特選 ロックCD名盤コレクション(1990年1月号)選出
“Heart Like A Wheel”『悪いあなた』(1974)

となっている。各人の好みによってその代表作も分散していると言えよう。

ただ、ジャケットで選ぶなら、断然、“Hasten Down The Wind”『風にさらわれた恋』(1976)である。これには誰もが異論ないはずだ。。。ということで、いつもより大きく、、、

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彼女の魅力はそのよく伸びる歌声と情感溢れる節回しにあると思う。作品はどれが一番とは言いがたいけど、どの作品もリンダの魅力が程よく分散しつつ凝集している。正に70年代ロックのエッセンスが詰まった作品ばかりで、この時代の歌姫の称号はやっぱりリンダにこそ相応しい。
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by onomichi1969 | 2007-09-15 11:52 | 70年代ロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 安部政権崩壊と『50年前の憲法大論争』 semスキン用のアイコン02

  

2007年 09月 15日

安部さんが首相を辞任し、世間では「無責任だ」「国会軽視だ」「空気が読めない」「幼稚だ」などとまたしても個人批判が続出していたが(大体そういうことを言う人こそ責任をとらない人達だと思うが)、僕にはなんとなく政局くさい感じがしていて、どう展開するのかなと思っていたら、あれよという間に福田さんが次期首相当確という、あまりにもスムーズな流れが出来ていた。

「安部首相になって、結局のところ改革が進まなかった」「次期首相には構造改革路線の継承と強いリーダーシップを期待する」というような話が聞かれるが、実際、安部さんが辞めることによって、というよりも前回の参議院選挙の結果により、改革路線は事実上頓挫しているので、次期首相にそのような改革を期待するのは無理というものだろう。
安部さんがやろうとしていたのは、「戦後レジームの脱却」ということで、その骨子は教育制度の改革、公務員制度の改革、そして憲法改正だった。最初にそういった話を聞いたとき、これはすごいことを言うけど、簡単にできないだろうなぁと思っていた。案の定、最も取り掛かりやすかった教育基本法の改正法案を通したところで安部さんは引きずり降ろされたわけだが、実際、公務員制度改革も憲法改正も勢いだけで出来る話ではない。これに反対する勢力は日本にもたくさんいるわけで、その集合体は、主に官僚であり、それとつるんだ政治家やマスコミであり、それに踊らされる世間である。結局のところ、安部さんは本筋と関係のないところで有象無象の幾多の手によって足を引っ張られ、引きずり降ろされたわけである。
首相就任以前より、安部さんはその若さ故に経験不足や人脈不足、政治的駆け引きができないことやはっきりものを言い過ぎることを懸念されてきたし、その政治思想も自民党の中にあっては反主流であった。それでも彼を選んだのは国民的人気があったからだろうが、では、僕らは彼に何を期待し、何を裏切られたのだろうか?

彼の政策である改革路線には僕自身当時も今も完全には了承できないのだが、ここ数年の政局の中で、この国はもうこのような改革、「小さな政府」的な流れでいくしかないのだろうかと懸念したものである。しかし、元々、この国はこういった性急な個人主義的、合理主義的な流れを容認しえないのである。(ライブドアや村上ファンドの挫折にしても同様であろう)

日本という国は中空構造である、ということを故河合隼雄さんが言っていた。要は中心がない円環構造であるということで、それは専制や突出を許さない、全体の流れやその場の空気といったものが最大の基準となって集団としての意思決定がなされるということである。確かに日本は昔から「和を以って尊し」と為し、大名の時代においても、大名自らの意思よりも家老らの合議による決定の方が優先されたのである。天皇制しかり。
合議とは元来、車座で行われるのを理想とされた。その中心は空であり、誰も突出できない。代表は輪番であり、連座制であった。それは輪であり、和である。(そして倭である) 
空気の読めない人間には政治ができない。正に日本的な発想であり、山本七平氏の名著『空気の研究』を読むまでもなく、それは古来より変わらぬ日本的イデーなのである。出る杭は打たれるし、個人は集団による「個人攻撃」によって、常に引きずり落とされてきたのである。(まるで今村映画『楢山節考』における村八分の生き埋めシーンを連想させる)
小泉純一郎が如何に特異な存在であったかと思い至る。(歴史的には織田信長や足利義満という名前も挙げられるが、彼らが絶頂期に同じように抹殺されていることを考えれば、ある意味で小泉さんの引き際は見事というほかない)

日本における「小さな政府」的な流れは確実に停滞するだろうけど、それも世の空気ならば仕方がない。(僕は今でも参議院選挙の結果よりそう思っている) それも日本風土に合わないことならば。
僕自身もアメリカン・スタンダードな合理主義が本当にこの国にとってよいとは全く思っていないし、昨今の希望格差の拡大こそは現代日本の最大の政治問題であり経済問題だと感じている。小泉・安部路線がこの格差を拡大していくことに間違いないのであれば、それは正しいことではないだろう。

それでも僕は安部さんを人間的にそれほど問題のある人間だとは思えず、どうしても親近の情を拭えないのは、僕も彼と同類だからだろうか。ホリエモンもそうかもしれない。駆け引きができず、正直すぎるのは時として生きていくのに難しい。特に政治や経営、そのトップの世界では、それは致命傷とでもいうべき欠陥なのだろうな。

a0035172_115536.jpgところで、、、ちょうど保阪正康編『50年前の憲法大論争』を読んだところだったので、昨今の憲法改正ブームも50年前と同じように盛り上がりを失い、憲法における現状の記述のあいまいさを尊重する(というか、国としてどっちを選択するとも結局のところ決定できないというどっちつかずの)形で落ち着くのだろうなと感じている。日本人は、個人として、日本人として、日本の国の責任を取りたがらないし、これまでもとってこなかった。個人として日本という国を代表するという感覚は殆どなく、先の戦争にしても、戦争責任は戦犯達のみにあって、日本国民としては責任を一切負わなかったわけだ。
まぁそれはともかくとして、改憲・護憲論争は日本国憲法制定から10年後でも現代でも全く同じ形で行われていることがある意味でとても新鮮であり、日本という国がここまで何も変わらずに至っているこということに驚き、そしてその普遍の不変性に改めて敬虔な思いにもさせられるのである。

ただ、この本の出版も少し「間」が悪かったかもしれない。。。
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by onomichi1969 | 2007-09-15 11:15 | | Trackback | Comments(5)

semスキン用のアイコン01 ブログ人格 semスキン用のアイコン02

  

2007年 09月 08日

HN
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本当の名前
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かなり遅ればせながら試してみましたが、偶然とはいえ、なかなか興味深い結果かも。。
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by onomichi1969 | 2007-09-08 15:09 | プロフィール | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 INXS "Kick"(1987) semスキン用のアイコン02

  

2007年 09月 08日

a0035172_10758100.jpgINXS(インエクセス)と言えば、いまだに”What You Need”のPVの印象が強い。ベストヒットUSA、80’s 洋楽ロック 華やかりし1986年のこと。
以前より、オージー・バンドの代表格として、メン・アット・ワークやエア・サプライと共にINXSの名前は知っていたが、アルバムを通して彼らの音楽を聴いたことはなく、オーストラリア出身というだけでどことなく田舎臭い、垢抜けないビジュアル系のロック・バンドというイメージがしていた。オーストラリア版のデュラン・デュランといったところか。確かにボーカルのマイケル・ハッチェンスの格好良さだけは目立っていた。

”What You Need”のPVは斬新だった。楽曲としても、これまでのユーロ系のダンスビートとは一線を画した彼ら独自の空間的なビートが印象に残った。この曲は全米でもNo.5ヒットとなり、彼らのステータスを一気に押し上げることになったのであるが、それは単なる一発屋的な楽曲の良さや奇抜さへの評価とは違う、バンドとしての可能性をひしひしと感じさせるような、そういった期待感を伴ったスマッシュヒットであったと思う。

そして、”Kick”(1987)の登場となる。
まず、”Need You Tonight”が全米でNo.1ヒットとなる。これは”What You Need”で表現された彼らのスタイルを一歩押し進め、そのエッセンスを見事に結実させた名曲である。緩く、乾いたリズムとエッジの効いたギター、茫洋としたサックス、それに被さるのはマイケル・ハッチェンスの抑えに抑えたボーカル。まるでフリー時代のポール・ロジャースのような寸止め唱法である。全体として静かな中にも抑え込まれた激しさと陰陽のあるサウンドが大きな魅力であろうか。
マイケル・ハッチェンスはそのセクシーな容貌と声からドアーズのジム・モリソンに比されることもあったが、確かにある種のカリスマ性を備えた雰囲気はINXSをスーパーバンドに押し上げるのに十分な魅力溢れるタレントだったと思う。声もよく響く。
続く”New Sensation”、” Devil Inside”も同じような色合いをもった曲で、やはりこの時期の彼らにしかないオリジナリティ溢れる名曲である。
結果的に”Kick”(1987)は全世界で500万枚を超える大ヒットとなり、INXSは名実共に一線級のバンドとなったわけだが、これが彼らのキャリア最大のヒットでもあった。

次作”X”(1990)も2曲のシングルヒットを放ち、サウンド的にも、アルバムを通して、彼らなりの成長を遂げているように思える。また、”Welcome To Wherever You Are”(1992)に至っては彼ら独自のダンスビートの集大成であり、当時の最先端のサウンドでもあったはず。しかし、彼らのオリジナリティであった「緩さ」であり、絶妙に強弱のあるサウンドが、絶対的なオリジナリティとして認められなくなってしまった。故にそのサウンドは他のバンドによって軽々と乗り越えられ、バンドとしての可能性も失われていくことになる。実際のところ、90年代の彼らの音楽は典型的な90年代風ダンスビートであり、それ以上でも以下でもなかったと言える。それは当時復活したデュラン・デュランのサウンドと殆ど同型であり、80年代に創生したダンスビートは、90年代になり、スピードと音と空間の厚みを増したひとつの完成形として各バンドに共有化され、画一化される。そういう意味で90年代はジャンル統合と新しい分散という流れの中でバンドのオリジナリティを喪失していく時代だったと言えるのではないか。INXSが彼らのオリジナリティによって一度は頂点に立ちながら、そういったロックの流れの中に易々と飲み込まれてしまったのは悲劇という他ない。

その後、2枚のアルバムを発表したのち、1997年11月22日、マイケル・ハッチェンスが自殺し、INXSはその象徴を永遠に失うのである。
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by onomichi1969 | 2007-09-08 10:35 | 80年代ロック | Trackback | Comments(0)

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