Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 <   2007年 08月 ( 13 )   > この月の画像一覧 semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 戦争のはらわた "Cross of Iron" semスキン用のアイコン02

  

2007年 08月 25日

a0035172_2365850.jpg男の生き様死に様を描かせたら比類なき映画作家であるペキンパーの第2次世界大戦を舞台とした戦場映画。実際のところ『プラトーン』も戦場映画なら、『ワイルドバンチ』も戦場映画なのだ。戦場映画とは、戦場という状況そのものを描くものではなく、戦場という<不条理な>状況の中で人がどう生き死んでいったかを描くべきものであり、そこに描かれるリアリティとは、狂気のリアリティとでもいうべきものである。そういう意味において、『戦争のはらわた』は、凡百の大戦映画とは一線を画す、まさにペキンパー色に染められた大戦時のワイルドバンチなのである。戦闘の達人たるコバーンに影を落とす自らの生き様への冷徹な透視。そして彼は静かに狂気と正気の狭間へ足を踏み入れる。凡そ近代戦の似合わぬ個性を持ちながら、自ら狂わんばかりに進まざるをえないのは、己の性(さが)なんだと。戦場に真実などありはしない。ただ己の生き様への信があるのみ。頑強たる男を描きながらも、つねに時代遅れの哀しさを漂わせるその節回しにはいつもながら胸を打たれる。1976年西ドイツ・イギリス映画(2003-10-17)
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by onomichi1969 | 2007-08-25 22:58 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ワイルドバンチ "The Wild Bunch" semスキン用のアイコン02

  

2007年 08月 25日

a0035172_2353615.jpg今や伝説となったラストの殺戮シーン。数年ぶりにこの映画を観て、改めてここに描かれる男達の生き様死に様の美しさに感嘆の念を禁じえなかった。男達の自死を賭した大量殺戮は、如何なる理由で描かれなければならなかったのか。彼らは仲間への友情の為に殺すのか。それとも自らのプライドの為か。ゴモラの火の如く、ラプラスの悪魔の如く、一切の妥協も躊躇いも排したあの殺戮シーンの美しさは一体何であろうか。僕はこの映画に失われた予定調和を見る。強烈なメランコリーの発露として、男達のちっぽけな信念に裏打ちされた運命そのものを見るのである。行き場のない狂気は、ただ生死の意味のみに執着し、その行為は、神の裁きの如き美しさを放ち、瞬時に一切を無に帰す。刹那に放たれた至上の輝き。その美しさ、その哀しみ。その根源性は、僕らの胸を強烈に打ち奮わせるのである。 1969年アメリカ映画(2004-01-24)
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by onomichi1969 | 2007-08-25 22:51 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 竹内まりや 『Impressions』(1994) semスキン用のアイコン02

  

2007年 08月 24日

a0035172_0591582.jpg久々に竹内まりやの『Impressions』(1994)を聴いて、こういう本来泥臭い(辛気臭い)はずの歌がとてもポップに聴けて、いまや多くの女性たちの共感を得ているということに改めて感心した。
13年前のこのアルバムで歌われたのは二股であり、不倫であり、冷めた夫婦関係であり、シングル・アゲインである。同時代の男性シンガー達が浮かれた恋の始まりや感傷的な終わり、そのまぼろしを繰り返し追っていたとき、彼女は現実的な恋の行方とそのラディカルでリアルな心情を朗々と歌っていたのである。(もちろん、歌は現実ではない。これが現実であれば山下達郎もおちおちコーラスなどつけてられないだろう。。。)
ただ、彼女の歌のそのあまりに衒いのないリアルな心情は、ラディカルであると共にとても凡庸である。正に昼メロかドレンディドラマか、あからさまで凡庸な本音だからこそ、多くの女性達の共感を得たともいえるだろう。
アルバムの代表曲でもある『純愛ラプソティ』は平凡なOLが不倫愛を経験することで、目の前に開けたドラマ性に自足してしまうと共に、その不倫を純愛として捉える不遜さと無邪気さを見事に表明している。70年代少女マンガの乙女チックな恋の幻想が実はまだここに生きていたのである。泥臭い現実から垣間見えるロマン主義の残渣が彼女の歌に対する女性達の共感を支えている。昔、「不倫は文化だ!」って言って批判された人がいたけど、いまや女性の多くがそれを真っ向から否定し得ないのではないか。そういった心情は、実際にドラマが現実に起こるかどうかは別にして、今ではとても普通の(女々しい)感覚になっているように思える。そして、それ(二股や不倫やシングル・アゲイン)は、期待であり、希望であるという、ある種の可能性であり、また、それは恋愛の本質とイコールでもあるのだ。
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by onomichi1969 | 2007-08-24 01:13 | 日本のロック | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 ニッポン無責任時代 semスキン用のアイコン02

  

2007年 08月 22日

a0035172_044946.jpg「サラリーマンは~♪気楽な稼業ときたも~んだ♪」
これはドント節だったかな? 
いまや懐かしき年功序列、サラリーマンの黄金時代。昭和30年代、日本は、戦後民主主義という名のもとに経済の高度成長へまっしぐらの時代だった。「無責任」というキーワードは、逆説的にサラリーマンという経済の担い手の職業意識を高らかに鼓舞するものであったといえるのではないか。つまり、そのココロは、戦前的なモラルの失墜と経済中心主義、そして消費文化のさきがけ。
この映画はある意味で確信的な勤労サラリーマン鼓舞キャンペーンだったのだと思う。本来的な意味で戦後民主主義が大々的に花開き、国民全体が消費文化<による自己実現という虚妄>に浮かれまくるのは、それから20年以上後のバブル時代ということになる。実は僕が『ニッポン無責任時代』を観たのもそんなバブルの時代。
「わかっちゃいるけど、やめられない!」なんて歌いながら仕事をスイスイとこなし、口八丁で出世して、女性にモテまくる平均(たいらひとし)こと植木等は、時代の先駆者のように捉えられていたのではなかったか。確かに植木等ブームが再燃したのもあの時代ならではのこと。まぁその反動は90年代以降にくるわけだけれども、ほんの10数年の間で、この映画もすっかり省みられることがなくなったような気がする。そんな「歴史」を意識しながら見れば、この映画もまた別の意味で面白く思える。 (2004-05-15)
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by onomichi1969 | 2007-08-22 00:49 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 オーロラの夜 semスキン用のアイコン02

  

2007年 08月 17日

21歳の春だった。オーロラの夜だった!
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今夜、川のそばで会おうよ 
街のざわめき遠くはなれて 
涼しい風も吹いているし 
夏の匂いもしているよ 

うなる長距離トラックには 
若い顔したポール・ニューマン 
サルバドール・ダリの絵みたいに 
夜がパラシュートを開く 

潤んでいたのは虹色の瞳 
七色の涙が零れ落ちる 

オーロラのように オーロラのように 
消えてしまう前に 
オーロラのように オーロラのように 
消えてしまう前に
 
今夜、川のそばで会おうよ 
痛みを隠すウソをついたのは 
まるで10年も前のよう 
時は透き通る水だ 

片道切符を手に入れたら 
君をさらって二度と戻らない 
朝露みたいな汽車に乗って 
明日という名のお茶を飲む 

潤んでいたのは虹色の瞳 
七色の涙が零れ落ちる 

オーロラのように オーロラのように 
消えてしまう前に 
オーロラのように オーロラのように 
消えてしまう前に 
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by onomichi1969 | 2007-08-17 23:20 | 真島昌利 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 JANIS semスキン用のアイコン02

  

2007年 08月 15日

a0035172_23292560.jpgようやくDVD化した『JANIS』を購入。
ロック映像・ドキュメンタリーとしては、BBS "An American Band"、The Who "The Kids are Alright"、The Band "Last Waltz"、John Lennon "Imagine"、Elvis "That's the Way It Is"と共に時代を代表する作品と言えよう。

ジャニスを一躍スターダムに押し上げた1967年のMonterey POP Festivalでの名唱"Ball and Chain"、BB&HCとの"Summertime"のレコーディング風景、そして、Kozmic Blues Bandとの共演によるヨーロッパツアー、フランクフルトでの演奏などを収録している。
圧巻なのは、やはり、Full Tilt BoogieとのFestival Express(カナダ)での演奏であろうか。"Tell Mama"、"Kozmic Blues"、"Cry Baby"と素晴らしいステージングが続くが、正に鬼気迫る熱唱と言う他ない。(彼女の夭折はその3ヶ月後である)
ジャニスのステージというと夜のイメージが僕にはある。ウッドストックでの"Work Me, Lord"もナイターの煌びやかさが映えた印象に残るステージだった。

本作『JANIS』には彼女の代表的なステージ映像の他に貴重なインタビューも収録されている。実は、このインタビューがジャニスの本性とでも言うべき彼女の誠実さをよく伝えていて、演奏シーン以上に感動的なのである。それは上記のロック映像作品の全てに共通するが、彼らの生き様そのものを垣間見せ、そのステージの印象をより彫り深いものとさせてくれる。

ロックが最も幸せだった時代、彼女は自由を心から信じ、そして歌った。夢見がちで傷つきやすい少女、世間から孤立し、笑いものでしかなかった少女は歌によって救われ、その彼女の歌が今度は多くの人々の胸を奮わせるのだ。彼女の存在の偉大さを改めて感じさせてくれる。彼女ほどロックの本質、その強さであり、弱さである「誠実さ」を体現するボーカリスト、ミュージシャンは他にいないと僕は思う。
改めて思うけど、ロックとは天性であるとともに、より人間的なもの、ブルージーでソウルフルな、その根源的な哀しみと密やかな喜びから発せられるものなのだ。彼女の歌はそのことをよく教えてくれる。

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by onomichi1969 | 2007-08-15 23:57 | 音楽の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 悲情城市 "A City of Sadness" semスキン用のアイコン02

  

2007年 08月 12日

a0035172_20314826.jpg侯孝賢監督映画。
80年代終わり頃に流行りました。『冬冬の夏休み』とか『恋恋風塵』とかね。で、この2作を太刀持ちとして、どーんと構えるのはやっぱり歴史大作『悲情城市』でしょう。あの頃、ようやく中国映画なんかが国際的に評価されてきて、陳凱歌とか張芸謀の映画が次々と公開されていました。彼らの初期の作品というのは、中国の広大な大地に根ざした裸の人間たちを描くかなり骨太で大味な印象を与えるものでしたが、台湾出身の侯孝賢というのはどちらかといえば繊細で暖かな味わいを作風とする為、彼の作品の方が、僕らには受け入れやすかったように思います。

小品を得意としてきた彼が初めて祖国の歴史大作として世に問うたのがこの『悲情城市』です。<それまではこういった歴史を公然と語ることができなかったそうな> 大戦後の日本軍の台湾撤退から、蒋介石による台北制圧までの4年間の内乱を、ある家族の悲劇を通して描いていきます。戦後の台湾の歴史を知らないとなかなか理解できないところもあるかもしれませんが、実際、そこに僕たち日本人が深く暗い影を落としていることが事実としてある以上、それを知らないのは本当は失礼なことなのかもしれません。それはともかく、トニーレオン扮する聾唖の写真屋と少女の静謐な愛情のやりとりが秀逸です。歴史のうねりに翻弄されながらも家族の愛を拠り所とする生き様<そう最後の家族写真のシーンです>には、静かな感動と言い知れぬ哀しさを感じずにはいられませんでした。1989年台湾・香港映画(2003-10-16)
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by onomichi1969 | 2007-08-12 20:33 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 Janis Joplin "I Got Dem Ol' Kozmic Blues Again Mama!"(1969) semスキン用のアイコン02

  

2007年 08月 11日

a0035172_1152516.jpg僕が初めて聴いたジャニス・ジョプリンの曲は、”Maybe” と ”Kozmic Blues”だったと思う。
それらは、中学か高校生の頃、家に同居していた叔父が持っていたカセットに入っていた曲である。これまで多くのロック・ミュージックを聴いて、様々な衝撃を受けたが、その時、カセットから聴こえてきたジャニスの声は、その中でも最大級のものであった。

声というものがここまで「響く」ものなのか、心に染み入るものなのか、そのシンプルで原始的な現象に僕はまさに感動したのである。それ以来、僕はジャニスの曲を繰り返し聴くようになり、アルバム(当時のLP)も購入した。

ジャニスのアルバムと言えば、Big Brother & the Holding Company名義の”Cheap Thrills”(1968)、”I Got Dem Ol' Kozmic Blues Again Mama!”(1969)、”Pearl”(1971)の3枚のオリジナルが有名である。その他、BB&HCのファーストや未発表曲集などもあるが、やはり聴き所満載なのはオリジナルの3枚であろう。
この3枚は、どれも名盤であり、もはやどれが1番とは言えない。それぞれにアルバムの色合いが違うので、その特色を楽しむことができるだろう。ライブ感があり、BB&HC特有の荒々しさを感じることができる”Cheap Thrills”、ソウルテイストに溢れる”I Got Dem Ol' Kozmic Blues Again Mama!”、ロック色に彩られたバンドサウンド”Pearl” どれも素晴らしい作品であり、どのアルバム、どの曲にもジャニスの声が圧倒的に響くのだ。

ジャニスは僕が1番好きなボーカリストである。(その他、スティーブ・マリオットやポール・ロジャースも好きだけど、やはり筆頭は、、、ジャニス!) 僕はこれまで、彼女の魅力について、このブログで何度か語ろうとしたが、それが出来なかった。それが如何に難しいことかということのみを実感してきたのである。そして、ようやく、それが「語りえないもの」であるということに気がついた。

「語りえないもの」、それがロックの本質でもある。それが如何に素晴らしいものであるかを語りたいが為に僕はその周辺を迂回するように、これまでいくつかのロックに纏わる話を書いてきたが、やはり、その本質は「語りえない」のである。だから、僕らはごくナチュラルに意味のない叫びを発することになるのだ。Yeah! Noooo!

ジャニスと言う存在は、明らかにそのコアの部分そのもの、ロックの本質そのものである。

彼女の歌を聴きながら、今日も僕は心を響かせる。胸が打たれ、魂が締め付けられる。そして、コアの部分から叫びが搾り出される。Baby Baby Baby!

。。。あと、ついに映画『Janis』がDVD化したんだね。早速購入。Hi Hoooo!
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by onomichi1969 | 2007-08-11 12:09 | 60年代ロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ショート・カッツ "Short Cuts" semスキン用のアイコン02

  

2007年 08月 11日

a0035172_13385240.jpg傑作である。
レイモンド・カーヴァーの小説作品といえば、日本では、村上春樹訳としてよく知られている。その村上春樹がカーヴァー作品について、「人間存在の有する本質的な孤独と、それが他者と関わりあおうとする際(あるいは他者とかかわりあうまいとする際)に生じる暴力性が重要なモチーフ」と解説しているように、カーヴァーは、その原初的な孤独と暴力性に常に囚われる下層労働者たちの荒涼とした悲哀を描く作家である。
しかし、村上訳でカーヴァーに接する僕たちにその辺りのニュアンスを掴むのはなかなか難しい。村上訳から漂う軽妙な風がまさに都市的な悲哀を僕らに吹き込んでくるからである。個人的には、その悲哀の本質<弱さ>は変わらないと思うが、カーヴァー作品で描かれる下層労働者たちの絶対的な「どうしようもなさ」が圧倒的な存在感をもって僕らに伝わっているかと言えば、なかなかそうは捉えられないところがあるだろう。
それに比べればアルトマンの描く『ショートカッツ』は実にカーヴァー的<原カーヴァー的>であると僕には感じられた。画面に漂うあまりにも明瞭な寒々しさ、絶対的な孤独を自明とした人々の生活とその荒涼感。映画としては、カーヴァーのいくつかの短編を繋ぎ合わせた構成となっていながら、そのエッセンスをうまく統合することにより、カーヴァー的世界を忠実に表現していたように思える。著名な役者たちも各々の無意識的な「ボロボロさ」加減をうまく演じていた。上空を旋回するヘリコプターが煽る硬質な不安感の中、最後の地震のシーンは人間の根源的な衝動、漠とした悪夢を見事に映し出す。
僕は映画を観終わったあと、しばらく間、悪夢の続きの中をくらくらしたものだ。 1993年アメリカ映画(2004-06-10)
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by onomichi1969 | 2007-08-11 09:06 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 TOMORROW 明日 semスキン用のアイコン02

  

2007年 08月 11日

a0035172_91327.jpgこの映画は、長崎へ原爆が落ちる前日からその瞬間までの人々のありふれた日常を描いている。
凡庸な人々の凡庸な日常が説得力を持って僕らの心に響いてくるのは、その背後で着々と進む原爆投下という非日常性との対比においてであろう。悪夢の瞬間によって、彼らの確固たる日常は脆くも破壊されることが暗示されているが、その救われなさこそが、僕にとって、胸が奮えるほどの救いだと感じられたのは何故だろうか。
この物語は、僕らにとって全く失われた物語として、決して語り継がれない物語としてある。彼らは、原爆の何たるか<破滅という不安>を全く知らずにそれを受け入れる立場になってしまったが、だからこそ、逆に彼らの日常が確固たる足場の上に成り立ちえたという幸福をみるのである。彼らは原爆という意味を知らずに死んでいったが、僕らはその意味を既に知っている。そのことがもたらす無意味な生という観念は、僕らを終末感というメランコリーの淵へ誘う。
しかし、この映画が描く日常という確固たるリアリティは、そういう観念をフィクションとして無化し、浄化しているように思えた。この作品は単に戦争という、原爆という悲惨を描く物語としても読めるが、僕にはそれ以上に現代の僕らに向けた(日常への信という)逆説的な「救い」の物語であると感じられたのである。(2004-06-25)
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by onomichi1969 | 2007-08-11 09:03 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

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