Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 <   2007年 03月 ( 9 )   > この月の画像一覧 semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 21グラム "21 Grams" semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 24日

a0035172_11364499.jpg交通事故の被害者と加害者という状況設定は、ショーン・ペン監督作品『クロッシング・ガード』を思わせる。この映画のテーマこそ、「絶望的な立場を超えて、人と人はどうコミットし得るのか」というものだったが、そこにはっきりとした答えへの道筋が示されたとは言いがたかった。

『21グラム』では、クリスティーナ(ナオミ・ワッツ)とジャック(ベニチオ・デル・トロ)がそれぞれ被害者と加害者という立場となる。ここで主人公達は交通事故という外圧的な出来事によって、自らの運命を大きく狂わせて行くことになるわけだ。彼らはそれまで意識せずに(或いは意識を忘却させて)過ごしていたことであるが、ある日突然に自らのゼロ地点、道筋の全く見えてこない場所へ暴力的に貶められることになる。(クリスティーナ、ジャックともに事故前の幸福が彼らの負の過去の清算によって成り立っていたことも示唆的である) その地点において、クリスティーナとジャックは自身の関係性が完全に断絶したかの如き思いを抱くのと同時に、お互いが負の関係性によって維持されるという事態に追い込まれている。

では、この物語のポール(ショーン・ペン)の役割とはいったい何だろうか? ポールはジャックによって死に至らされるクリスティーナの夫の心臓を受け継ぐ者である。ポールはクリスティーナを救い、そして、クリスティーナとジャックの負の関係性を関係そのものに導きながら、最後には自らの身を挺することによって、ジャックをも救うことになる。そして、クリスティーナとジャックが2人して窓辺に佇むシーンで物語は終わる。

この物語は、言うまでもなく、クリスティーナとジャックの物語である。そして、そこに中間項として付け加えられたポールこそ、ショーン・ペンが『クロッシング・ガード』の最後に躓かざるを得なかった広義な「愛情」というタームを一身に背負った存在ではなかったか。2人の主人公がその関係性を快復する物語に失われた命を受け継いだ者として選ばれ、立ち回った存在ではなかったか。そういう意図を僕は感じたが、もしそうであったならば、これをそのままこの物語の結末と結びつけるにはやはり少し弱い。問題の真摯さを突き詰めるにしては、あまりにも都合がよく、偶発的すぎるからだ。まぁこれを可能性のひとつの道筋と捉えて僕は納得しているが。。(その偶発性を可能性として捉える姿勢こそが重要で、それこそが「愛情」なのだとも感じる。今では。<後記>)

最後にこの映画の方法論的な「時間軸のずれ」だが、このことに対するはっきりとした答えを僕は持っていない。悪しからず。 2003年アメリカ映画(2005-01-23)
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by onomichi1969 | 2007-03-24 11:50 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 フットルース "Footloose" semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 21日

a0035172_1835186.jpgちなみに僕の中ではケビン・ベーコンといえば、いまだに「フットルース」です。
それで「フットルース」といえば、やっぱりケニー・ロギンスになる。ちなみにケニー・ロギンスといえばジム・メッシーナ。ジム・メッシーナといえばバッファロー・スプリングフィールド。バッファロー・スプリングフィールドといえばニール・ヤング。ニール・ヤングといえば「ヘルプレス」。「ヘルプレス」といえば「いちご白書」。「いちご白書」といえばバンバン。バンバンといえばスズキのバイク。スズキのバイクといえば仮面ライダー。仮面ライダーといえば藤岡弘。藤岡弘といえばアメリカのサムライ映画。アメリカのサムライ映画といえば「ラストサムライ」。「ラストサムライ」といえばトム・クルーズ。トム・クルーズといえば「トップガン」。「トップガン」といえば「デンジャーゾーン」。「デンジャーゾーン」といえばケニー・ロギンス!ケニー・ロギンスといえば「フットルース」!!「フットルース」といえばやっぱりケビン・ベーコンだぁ!!!1984年アメリカ映画(2003-10-19)
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by onomichi1969 | 2007-03-21 18:12 | 海外の映画 | Trackback(3) | Comments(6)

semスキン用のアイコン01 ハンニバル "Hannibal" semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 21日

a0035172_17572647.jpg 『ブレードランナー』のラストシーンは原作を超えていた。
リドリー・スコットは、ラストシーンでルトガー・ハウアーの美しき死に様を見事なまでに演出してみせたが、本作での新たな解釈を持ち込んだラストシーンは、果たしてどうであったか? 
僕は、はっきり言って納得できない。『ブレードランナー』が原作のモチーフを十分に理解した上
で、レプリカントの悲哀と自尊心という「人間らしさ」を新たな軸に加えて作品を原作から悠々と昇華させてみせたのに対し、『ハンニバル』の原作ぶち壊しの甘ちゃんラストは、、、ま、まったくなんてことだ!
ハンニバル・レクターこそ、意識を自由自在に操る「超人」であり、「人間らしさ」を超えてしまったが故に、ある意味で悲哀を備えたレプリカント以上にレプリカント的人物として捉えられるべきではなかったか。それこそリドリー・スコットお得意の分野のはずだ。なのに。。。

『ハンニバル』は言うまでもなくレクター博士の物語である。原作では、レクター登場から3作目にして、レクター自身の独白や過去の物語がようやくと語られる。特に彼自身が経験したトンでもなく残酷な出来事を通じて、彼が既に人間という枠を見事に超えてしまったことが僕らに伝えられるのである。それは映画では語られない。そのことは別にいい。原作は長いし、映画に原作そのものをすべて詰め込むことはできない。ただ、レクター自身が、映画で見られるようなあんなラストシーンに掴まされるような人格では決してないということを分かっているのだろうか。(あの手錠のシーンです。。。) そして、クラリスもレクターと同種であるのなら、あんなラストを導くようなことはしないはずなのではないのか。原作のあの2人して人間界から飛翔する驚愕のラストシーンは何だったのか。

凡百のサスペンスドラマのような結末は、途中までが良かっただけにかなり興ざめである。やっぱり、ここでもハリウッドスタイルの万人向けの座りの良い結末志向が顔を見せているのだろうか。小説『ハンニバル』が哲人ニーチェの思想をベースにした「超人」物語であることをリドリー・スコットが理解していないはずはないのだが。まったく不可解である。 2001年アメリカ映画(2003-11-08 )
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by onomichi1969 | 2007-03-21 17:59 | 海外の映画 | Trackback(3) | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 Ozzy Osbourne "Blizzard Of Ozz"(1980) semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 21日

a0035172_12202365.jpgボーカルに喩えるならば、ランディ・ローズのギターは美しく情熱的な歌声であると言えようか。

僕は80年代のハードロック/へヴィメタルシーンについてあまり詳しくない。AC/DCやデフ・レパード、ヴァン・ヘイレン、スコーピオンズ、ナイト・レンジャー等の主要バンドの代表作は聴いているが、当時、雨後のタケノコのように多数出現したメタル・メイニア系のバンド(特にLA系)にはあまり魅力を感じなかったので、その様式うんぬんについてはあまり言及できない。(最近になって、アイアン・メイデンやジューダス、ホワイト・スネイク、メタリカも聴くようになったが。。。これも主要バンドか)

そんな中でもオジー・オズボーンのファースト・アルバム” Blizzard Of Ozz”(1980)は、ハードロックを超えた質の良さに感心したアルバムということで僕には昔から印象が深い。もちろん2ndやランディ・ローズ・トリビュートも素晴らしいアルバムだと思う。
この頃のオジーはあまりへヴィ・メタルというかLA系のハードロック的様式に固執していないようにみえる。02 Crazy Trainはシンプルなロックンロールだし、03 Goodbye To Romanceはバッドフィンガー風の爽やかなナンバーで、06 Mr. CrowleyはELOのプロローグ風のクラシカルでドラマチックなメロディと展開が印象的だ。
当時、(と言っても85年頃)僕の廻りではヘヴィ・メタルが流行っていて、皆がエレキ・ギターを手にとった。(僕はとらなかったが) ギターキッズ達は憧れのギタリストについて語り合い、そのフレーズを必死でコピーした。その中でランディ・ローズは、ジミヘンやリッチー・ブラックモア、エディ・ヴァン・ヘイレンと同列に語られ、既に神格化されていたように思う。(僕の友達も信者の一人だった) その早すぎる死や少年のように清々しい容姿は彼を神格化するには十分な要素だったし、何よりもそのギターの美しさと激しさはギターキッズを熱狂させたのだ。クラッシックを素養とした実直さを伝えるエピソードは神話化し、彼は天才であると共に努力家であり、オジーからの尊敬を一身に受けた最高のギタリストであるということが通説となった。

彼のギターは美しく情熱的に歌う。オジーの声はまるでランディのギターにコーラスを付けるように響く、その絶妙な取り合わせがこの頃のオジーの作品を傑作としているのだろう。(その後に続く素晴らしいギタリスト達の存在感を思うと、このスタイルこそがオジー独特の味わいなのかもしれないが)

Randy Rhoads Tribute を多くの人が涙をもって聴いた。それが事実であることは僕もよく知っている。
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by onomichi1969 | 2007-03-21 12:46 | 80年代ロック | Trackback(2) | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 内田樹 『下流志向』 semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 21日

a0035172_11265388.jpg内田樹の『下流志向』を読む。最近、「希望格差社会」だとか「下流社会」などというタームをよく聞く。要は、富める者は益々富み、貧しい者は益々貧しくなる、そういう社会構造的な循環の中で2極化した下流側の人々は必然的に社会に対する希望を喪失せざるを得なくなり、悪いことにその報われなさ自体が無自覚的であるが故にそういった風潮は不可逆的、加速度的に蔓延してしまっている、、、というなんとも恐ろしい話である。
とは言っても、実は僕自身、そういった社会構造的なストーリーをどこか遠い国のおとぎ話のような感覚で読み飛ばしてきた(「嘘でしょ?って感じ、、、」)方なのだが、今回、内田“先生“の『下流志向』という本を読み、「いやいや、そんな他人事のようにこの問題を思ってられないナ、我々の子供の将来は暗澹やもしれぬぅ、、」、と反省を促され、少しばかり考えさせられたのであった。

今の若者達は、「学力低下」と「ニート」という将来の社会に不安感を与える大きな問題を抱えている(学力については2極化が顕著で、さらに年々平均点数は低下している、同レベルの試験に対し、1年で1点づつ平均点が低下しているという実態、、、驚き!)が、そこにはそれぞれ「学び」と「労働」からの逃走、それも自発的な逃走という彼らの行動規範ともなっている社会意識(彼ら特有の信憑)上の問題がある。それは、経済や自治におけるリスク社会という流れや「ゆとり教育」などという教育政策上の弊害以上に現実的な格差社会の不可逆性を決定付けていると考えられる。それは何か?今の若者とは一体どんな行動規範に縛られているのか?

彼らは無知のままでいることに生きる不安を感じない。(それはある種の不安に全く無自覚、つまり「鈍感であること」と同義である・・・今、また「鈍感力」などという造語が流行りだしているようであるが、これはとんでもない風潮、、、余談) それは何故かというと、彼らは子供の頃から自らを「消費主体」として自己確立してしまっており、常に「等価交換」であることを価値判断の基準としてきた。本来、「学び」や「労働」は「労働主体」であることが求められ、等価交換が成立しない種類のもの、つまり見返りを求めるものではない。彼らは「学び」の効果に対する経験もなく、予めその価値判断ができないにも関わらず、その価値を知っているものとして行動し(或いはその価値の等価性を要求し)、それから実際に受け取る「不快」を自らの行動に対する等価のものとして、「学び」や「労働」を自発的に拒否するのである。(勉強や仕事自体にどんな価値<賃金以外>があるの?そんなものは無いに違いない!ということか)

実は「学び」や「労働」その過程にこそ価値があり、それらに時間を費やすことはある種の「投企」であり「自己の跳躍」であると考えられるのだが、即物的な(無時間的な)価値を信憑する若者はそこに「不快」という「耐え難さ」しか見出せず、「努力」という時間経過を認めて、自ら「跳躍」することができない。さらに悪いことに、自発的に「学び」や「労働」から逃走する若者達はその自発性故に、その逃走自体に充足してしまっており、そのことがこの問題を根深いものとしているのだという。自発性、自立、自分探しという幻想。それらが本来的に持つリスクを知らず知らずに引き受けてしまうのがそれを無自覚的に選択せざるを得ない下流社会の若者の実態なのである。

そもそも等価交換的な考え方(本書では無時間モデルとも言っている)というのは、ギブ・アンド・テイクや自立することが人間の当然の責務であり、喜びであると考えるアメリカン・モデルから導入されているものであるが、そういった考え方自体が日本には馴染まないのであり、アメリカ型の即物的な合理主義はそろそろ見直す時期にあるに違いない、というのが内田”先生”の考え方のようである。

「自分の理解の枠組みをいったんカッコに入れて、自分にはまだ理解できないけれど、注意深く聴いているうちに理解できるようになるかもしれないメッセージに対して、敬意と忍耐をもって応接する」
「さまざまな目に見えない人間的努力があるわけで、そちらの方が実は経済活動の本来的目的だということを忘れてはならない」
「無時間モデルでは音楽は聴こえない。聴こえるはずもない。どんな素晴らしい音楽も(・・・)単独の音では何の意味もないし、美的価値もないから」

音楽の話、、、なるほど、その通りである。(僕らは名作と呼ばれるアルバムを繰り返し聴くことによって、それを理解しようとする。確かに)

現代の自己決定・自己実現という考え方は、自分にとって価値があると理解できないものについては、これを拒否できる。学ばないことから生じるリスクを自分で引き受ける考え方は、人間を孤立化させることを是とするのである。

数年前、大ヒットした歌がある。それはこんな歌詞だ。

世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
NO.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one

SMAP 『世界で一つだけの花』

今にして思えば、これは人々の孤立化を高らかに賞賛し称揚する歌なのだと言える。世の中から相互扶助や集団主義といった日本的な共同性が徐々に失われ、内面の喪失や無根拠といった風潮の中で迎えた個闘の90年代を経て、人々は無自覚に自らの孤立を生き方の美点として叫ぶようになったのだ。

Only oneを目指すことが如何にリスキーで不条理なことか。しかし、多くの人々がこの歌詞に共感したのは紛れも無い事実だろう。この歌が好きだ、「NO.1にならなくてもいい、自分は特別なOnly oneなんだ」という感覚は今の下流志向を確実に担保していると考えられる。
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by onomichi1969 | 2007-03-21 12:08 | | Trackback(3) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 レイモンド・チャンドラー著 村上春樹訳 『ロング・グッドバイ』 semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 18日

a0035172_10481796.jpg『長いお別れ』を読んだのは15年以上前のことである。チャンドラー作品で僕が初めて手にとった本で、以降、マーロウものの長編作品は全て読むことになった。
そして、今回、『長いお別れ』は、『ロング・グッドバイ』と名前を変え、村上春樹翻訳本として生まれかわった。村上春樹が『長いお別れ』の新訳本を出すという話は、以前から本人も公言していたし、彼がチャンドラーを敬愛しているということもよく知られている話であるが、僕らにとって、清水俊二訳に親しんだチャンドラーが一体どういうことになるのか、あの硬質かつロマンチシズム溢れた文体が村上訳ではどのように変化するのか、といったことは言ってみれば、ある種の違和感というか不安感として捉えられたことも事実であろう。
しかし、それも杞憂であったといわざるを得ない、というか、『ロング・グッドバイ』は村上春樹のこれまでの翻訳シリーズの中でもベストの部類に入る作品だと僕は思う。また、別の言い方をすれば、『ロング・グッドバイ』は、村上春樹の翻訳を経ることによって、彼の小説世界と必然的にオーバーラップし、旧訳版とは別の深化を遂げたという風に感じた。

村上春樹が原文に忠実に、そしていくつかの遊びを加えながら訳したというその内容は、ハードボイルド的な雰囲気に彩られたこれまでの作品世界から、レノックスをめぐる物語とマーロウの冒険を、その文学的輪郭をくっきりと際立たせている。ある意味で村上春樹の文体こそが、『ロング・グッドバイ』の世界を最もよく表現するものであり、それは、文章のリズム、表現の仕方、比喩やアフォリズムの挟み方のようなディテール部分もそうであるが、何と言っても、マーロウやレノックスの人物造形そのものが村上春樹の文学的核心を体現している(相似である)と感じるのだ。

これは、あとがきで村上春樹自ら分析している『ロング・グッドバイ』の構造が、実は村上春樹の小説世界、その文体表現そのものを言い当てていることに呼応する。彼はあとがきでヘミングウェイやハメット、フィッツジェラルドを引き合いに出しながら、チャンドラーの文体、マーロウやレノックスの人物造形について解説を加えているが、それは村上春樹の初期小説での「僕」や「鼠」、「五反田君」の人物造形にそのまま当てはまる。僕にはこの村上春樹による解説こそはそういうことの(自らとチャンドラーの相似に関する)確信的な言及であると感じた。

加藤典洋は、昔、村上春樹の『ノルウェイの森』をレティセンスの小説と例えた。レティセンスとは、「言わずにおくこと」という意味であり、それは自らの心を意識的に閉ざすことである。
また彼は、ダシール・ハメットのサム・スペードの造形(本書でも村上春樹が自我を排除した人物として評している)こそが、村上春樹の描く「僕」に近いということを示し、そういう精神は無根拠で「恥知らず」であると共に、現代的な喪失感を生き抜くための確信犯的な処世であると評したが、今にして思えば、村上作品の「僕」は「恥知らず」というよりも、世の中の全ての2項対立(例えば、正しいこととそうでないことと思われていること)から必然的に「引き裂かれ」、その「ねじれ」を抱えるが故に決定を常に「ためらう」存在として在る人物なのだといえる。

それは、村上春樹の初期作品を現在という地点、あまりにも上から眺めすぎた視点かもしれない。やはりチャンドラーではなく、ハメットのスペードこそが「僕」なのかもしれない。が、まぁそんなことはどうでもいいか。
村上春樹がチャンドラーを敬愛し、その彼が『ロング・グッドバイ』を完訳した。その中で描かれたマーロウやレノックスの造形は、明らかに村上春樹的であった。それは村上春樹が訳したことの単なる帰結というよりも、村上春樹とチャンドラーこそが相似的な(相性がいい)存在なのだということを演繹的に僕らに指し示すのではないだろうか。彼らの主人公たちは決してロマンチシズムを捨てない。その源泉としての可能性を固持し、自らの格率(マキシム)を生きるのである。(だから彼らはタフ(ハード)であると同時にやさしい)

こうなると、『さらば愛しき女よ』なども村上訳で読んでみたい気がしてくる。その際の邦題はやはり『フェアウェル、マイ・ラブリー』になるのだろうか。。。個人的には『プレイバック』もお願いしたいところかも。
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by onomichi1969 | 2007-03-18 11:27 | | Trackback(3) | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 ドリーム・ガールズ "Dreamgirls" semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 10日

a0035172_2140428.jpgジェニファー・ハドソンがとにかく素晴らしい。最初はモータウン風のフランクリン・シスターズって感じで、すごく楽しめたし、彼女の抜けた後の現代風シュプリームスもよかった。ジェニファー・ハドソンの歌はまさにアレサ・フランクリンのゴスペル調のボーカルスタイルを彷彿とさせ、さすがにシュプリームスの中には入れられないかなと思うが、ジェニファーがリードをとった場合の違和感のあるガールズポップも映画ならではのフィクションとして十分楽しめる。それよりも何よりも、ステージシーンにも増して、ミュージカル仕立ての部分での彼女の「うた」がとにかく響きまくっていて、その響きの倍音が僕らの肌を粟立たせ、胸をぐいっと掴んでくる。彼女の状況語り、心理語りの「うた」が伝える響きこそが、実はこの映画が描きたかったことそのものではないだろうか、とさえ僕には思えた。

この映画に関して、音楽及び音楽史的な事実と違うだの、ストーリーが陳腐で残念だなどという意見は全くの的外れ(で残念)な観方だと言わざるを得ない。そういう画一的な観方でこの映画は捉えられないと僕は思う。全編に響き渡る「うた」は、その浅薄なシチュエーションを越えて、僕らにある種の「身体的な意味性」とも言うべき感動(それはジャッキー・チェンのアクション映画から受ける感動にも似たもの)を訴えかける。それは従来の映画における分かりやすく意味の通った(そうであることを求められる)セリフ回しという映画的常識、その不自然なリアリティを方法論的に(自覚的に)変容してみせるのだ。(例えば、市川準『東京夜曲』で描かれる人々の会話が、その聞き取り難さ故に、各人の「ためらい」という身体性をリアルに表現するのと呼応する) 改めて言えば、『ドリーム・ガールズ』こそは、今、僕らの物語に求められる「身体的な意味性」を、映画的なコミュニケーションを、「うた」の響きによって体現している方法論的に革新的な映画なのではないかと思うのだ。(これこそがロックやソウルの感動であり、物語との融合である)
それには、言うまでもなく、ジェニファー・ハドソン抜きにはこの映画を語れない。これは彼女の映画なのである。。。と、ビヨンセとエディ・マーフィーを忘れてはいけないか。もちろん、ビヨンセのとことんまでダイアナを表現してみせたポップセンス(これも身体性か)も素晴らしい。エディ・マーフィーも頑張った。JBというか、ピケット風なシャウトあり、マーヴィン風のメロウ・サウンド、且つポリティカル・ソングもあり、マーヴィン&タミー風なデュエットあり、いろんなスタイルが楽しめて、MTV時代の"Party All The Time" の軽いノリとは全然違う、彼の奥深さを感じた。

これだけ感動できて、楽しめるんだから、この映画は傑作でしょう。やっぱり。

あと、観終わってから、この映画の監督が『シカゴ』の脚本家だということを知って、すごーく納得したナ。2006年アメリカ映画
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by onomichi1969 | 2007-03-10 22:03 | 海外の映画 | Trackback(4) | Comments(6)

semスキン用のアイコン01 原田正治 『弟を殺した彼と、僕』 semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 07日

a0035172_2234.jpg森達也の書評を読んで以来、とても気になっていた。森曰く、「凄まじい本」
ようやく手にとってみるが、確かにそのプロローグの1ページ目から、衝撃的な内容で、僕らに切実なる違和を投げつける。それはこのように始まる。

長谷川敏彦君は、僕の弟を殺害した男です。
「大切な肉親を殺した相手を、なぜ、君付けで呼ぶのですか」
ときどき質問されます。質問する人に僕は、聞き返したい気持ちです。
「では、あなたはどうして呼び捨てにするのですか」
彼が弟を殺したことを知る前から、僕は、彼を君付けで呼んでいました。弟を殺したと知り、彼をどれほど憎んだでしょう。
「あなたは僕が彼を憎んだほどに、人を憎んだ経験がありますか」
質問者には、こうも聞いてみたいものです。それともこう聞きましょうか。
「あなたは、僕以上に、長谷川君を憎んでいるのですか」
彼を憎む気持ちと、彼を呼び捨てにすることとは違います。長谷川君のしたことを知って、呼び捨てにしてすむ程度の気持ちを抱く人を、僕は羨ましく思います。彼をやさしく信頼できる人だと思っていた僕も、彼を憎んで憎んで憎みきっていた僕も、彼を赦せないと思いつつも彼との面会を求めた僕も、彼の死刑を待ってくれと言った僕も、彼が死刑となって取り残された僕も、いつも僕は彼を「長谷川君」と呼びました。どれも、彼は彼であり、呼んでいたのは僕なのです。
被害者遺族が家族を殺した人物を呼び捨てにする、と思い込んでいる人は、世間に多いと思います。被害者遺族は、世間が求める姿でなければならないのでしょうか。仮に大部分の被害者遺族が呼び捨てにしたとしても、すべての被害者遺族が、そうする必要はないはずです。被害者遺族といっても、一人ひとり人格があります。それぞれが違う人間なのです。それぞれが自分のやり方で、迷ったり、つまずきながら、事件から受けた様々な深い深い傷から立ち直ろうとしているのです。どうか僕たち被害者遺族を型にはめないで、各々が実際には何を感じ、何を求めているのか、本当のところに目を向けてください。耳を傾けてください。
(原田正治『弟を殺した彼と、僕』)
原田さんは自らの弟を保険金目的で撲殺した犯人の一人、長谷川君のことを憎む。彼を憎みながらも、彼と直に向き合うこと(元々は長谷川君と一対一で対峙し、彼を殴り倒したいという思いから始まる)を自ら望み、手紙のやりとりを通じて、事件に対する理解を少しずつ変えていく。決して、長谷川君のことを赦すことはできないが、それでも、彼が国家の手によって死刑に処せられることや死刑が確定した後には彼に面会もできないことに疑問を抱く。長谷川君の姉は新聞の誤報が元で世間の糾弾にあって自殺し、幼かった子供も成人後に人間関係が原因で自殺する。加害者の家族というその悲惨さに原田さんは同情する。社会は法の名の下に人を裁き、世間は制裁の名の下に人を貶める。それは被害者に何ももたらさないと彼は考える。マスコミはただひたすらに彼を傷つけ、社会は被害者という型からはみ出すような行動をとる彼を疎外する。
もちろん原田さんの例は一般化され得ない。しかし、そういう例もあるのだということを僕らは知っておくべきだろう。物事を単純化し、一般化して理解することは容易いが、それは人から「思考」を奪うのである。

以前、ショーン・ペン監督作品『クロッシング・ガード』のレビューの中で僕はこう書いた。
「人が理由なく分り合えないという切実さを描いたのが『インディアン・ランナー』であれば、『クロッシング・ガード』はその地平をさらに一歩進め、そして反転させ、そこからポジティブな回路を模索しているように思える。追う者と追われる者という図式は同じだが、双方にはそれぞれ、そうするための理由が存在する、加害者と被害者という明確な理由があり、それは、お互いが分かり合える足場を既に失っていることを意味するのだ。にもかかわらず、お互いがその『分かり合えなさ』に対する信憑すら持てず、失った足場の上空でもがきながらも理解への希望を捨てていないようにみえる。絶望的な立場を超えて、人と人はどうコミットし得るのか。いや、絶望的だからこそ、意味を求めてコミットする、その向こうに何があるのか」

ただ理解するというところから物事を理解していく、そういうやり方もあるのだ。
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by onomichi1969 | 2007-03-07 02:20 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 内田樹 『ためらいの倫理学』 semスキン用のアイコン02

  

2007年 03月 03日

a0035172_052276.jpg内田樹の『ためらいの倫理学』を面白く読んだ。この手の評論集としては久々に納得しながら読むことができ、特に表題のカミュ論は秀逸で感動的ですらあった。これまで「不条理」という過度に文学的な言葉にひきずられてきたムルソーの行動もテロルの論理としての一対一という平等性(お互いに死を賭すことにより正当化される暴力)とそのお互いが「顔」を見合わせることにより生じる「ためらい」により解釈される。(ムルソーは「灼けた大気」と「影」によって盲目となり、相手の「顔」を拒絶することにより殺人が可能となったという。それは決して不条理でも不可解でもない、れっきとした理由を有した、彼の厳格な行動規範からの必然的な帰結なのだ) 太陽が出ていなければ彼は殺さなかった。その一対一の闘いにおいて、相手の「顔」さえ見えていれば、彼は「ためらい」、引き金を引けなかったはずなのである。個人は本質的に差異化されない主体を引き裂かれ得る存在であり、事実、カミュ自身がそのことにより第二次世界大戦後にレジスタンス時代の敵の「顔」を知ってしまったことにより、自らの分裂を生きざるを得なかった。そのあたりの詳細についてはぜひ本書を読んでいただきたいところであるが、僕自身、内田樹のカミュ読解には大変納得させられた。

本書のもうひとつの白眉、加藤典洋の『敗戦後論』をめぐる論説についても、加藤独特の廻りくどい表現を簡潔に要約しており、その骨子が大変分かりやすく解説されている。改めて日本という国が抱える「無自覚なねじれ」について考えさせられた。

その「ねじれ」が日本では、「ねじれ」としてすら受け止められていないままに便々として半世紀が流れた。「ねじれ」を感じていないということは、主観的にはすっきりしているということである。「ねじれ」は一人の人間が矛盾を抱え込むから「ねじれる」のであって、矛盾や対立が二人の人間に分割されていれば、そこにはすっきりと対峙する二人の人間がいることになり、内的な「ねじれ」は消滅する。簡単な算術だ。
これが戦後日本が採用した「ねじれ」の処理方法である。対立するふたつのイデオロギー、ふたつの党派の矛盾のうちにすべてを流し込んでしまえばよいのである。アメリカに対する感情がアンビヴァレントであるなら、「親米派」と「反米派」と二つの立場を用意して、その間で争わせる。憲法に対するスタンスが決まらないのなら、「護憲派」と「改憲派」に議論をさせておく。侵略行為への責任をどうすればよいか分からなければ、「アジアの人民への謝罪」を呼号する「知識人」と「失言」を繰り返す「大臣」に終わりのない二人芝居をやってもらう。。。これらの対立劇における二人の登場人物は、それぞれ主観的にはすこしも「ねじれて」いない。無垢で、倫理的で、論理的なのである。
この二党派の絶妙な「分業」によって、日本は自己矛盾からの罪責感からも自己免罪を果たし、かつ主体的に判断することも行動することもできないまま、何もしないで半世紀をやり過ごしてきた。その結果、加藤に言わせれば、日本人は一種の「低能」になってしまったのである。 内田樹 『ためらいの倫理学』

「善」と「悪」、「むこう側」と「こちら側」。。。これは村上春樹の『アンダーグラウンド』で用いられたタームであるが、それも全く同じことであろう。二者に現れる顔、ひとりひとりの具体的な交換不可能なあり方を描き出すことで村上春樹が救い出そうとしたものは何だろうか?ここにカミュ、加藤典洋、村上春樹(そして森達也)と連なる系譜がある。個の中の2項対立によって引き裂かれ、発見される「ねじれ」。それこそが彼らを切実に捉えた文学の系譜そのものなのだろう。

今見えない「ねじれ」がある。無自覚な「ねじれ」は既に解消不可能なのだろうか。現代の新しい小説家達も(阿部和重にしても、青山真治にしても、保坂和志にしても)、結局のところ、その現代的なあり方をどう言語化するのかを主題にしている。その切実さが真に切実なものとして捉えられる限り、文学は世の中に対して有効なのだろうと思いたい。
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by onomichi1969 | 2007-03-03 01:16 | | Trackback | Comments(0)

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