Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 別役実 『満ち足りた人生』 semスキン用のアイコン02

  

2006年 11月 18日

a0035172_12275733.jpg「かつて、一度も結婚したことのない人間は、どこかおかしいのではないかと思われた。最近では、一度も離婚したことのない人間が、どこかおかしいのではないかと思われることになっている。「えっ、あいつ、まだ最初の奥さんのまんまかい」と、あからさまにあきれられ、「一体どういうことなんだ」と、金があるのに借金を返さない人間を見るような目で見られるのである」 別役実 『満ち足りた人生』

僕自身は結婚も離婚も経験しているので、上記の文章に特に違和感はないし、とても納得する。また、禁煙1年半継続中の身でもあるので、以下の文章には我が意を得たりというか、なるほどと同意する。

「煙草を喫うことは、嫌われているが禁止されてはいない。従ってそれは、周囲のものに対する「いやがらせ」にはなるが、国法に対する「反逆」にはならない。新たに煙草を喫おうとする場合、今ひとつそこにはずみがつかないのは、このせいであろう。周囲のものに「いやがらせ」をすることも、時と場合によっては楽しいものであるが、「喫いはじめるぞ」と決意させるための動機としては、こころざしが低すぎる。(中略)やはりこの動機には、天下国家に相渉る雄大さが、求められてしかるべきであろう。もちろん未成年の場合は、喫煙行為は禁止されているから、その年齢でこれをはじめることになれば「国禁を犯す」ことになるのだが、実際にはさほどのことはない。教師か親父に見つかって、「おい、よせ」と言われるくらいなものだ」 別役実 『満ち足りた人生』

恋愛についてもこんな感じである。

「不倫とは、人道にそむくことであるが、一般には、男女の仲において人道にそむくことを言う。つまり、既婚者と性的な関係を持つことなどをこう言うのだが、この場合「人道にそむく」という意味が少しばかり違って聞こえる。「えっ、この程度のことでも人道にそむくことになるのかい」といった感じなのだ。そして、この点が更に奇妙なのであるが、そのことによって意気消沈するのではなく、むしろそのことによって鼓舞奨励されたりする」 別役実 『満ち足りた人生』

もうひとつおまけに、、、

「たとえば履歴書を書いてみて、何かしら物足りなく思った時には、そこに自殺の経験をつけ加えることをお勧めする。自殺の経験は、その人間にある種の陰影を与え、「ただものではない」と思わせ、廊下ですれ違った時には思わずよけたくなるような、底ふかいニュアンスを感じさせる。これが、社会的なすべての場面で有効に作用するとは限らないものの、「おい、君、これを捨てといてくれ」とか、かんだ鼻紙を捨てさせられるような、軽い扱いをされなくなるのは間違いのないところと言えよう。「おい、君」と言われたところで、「何でしょう」とそれらしく振り返れば、「いや、いい、自分でやるよ」ということになるのだ」 別役実 『満ち足りた人生』

但し、いまや「漠然とした不安」といったような奥深い理由で自殺する人が多くいるとは到底思えないのであるが。。。

別役実の本としては、「犯罪症候群」とか、「日々の暮し方」とか、「当世病気道楽」などの同種のエッセイがなかなか面白い。僕の座右の書、幸福な時代の幸福な書である。(それに対して、近著『母性の叛乱』は幸福な時代の終わりを告げる書であろうか)
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by onomichi1969 | 2006-11-18 12:40 | | Trackback(1) | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 阿部和重 『無情の世界』 semスキン用のアイコン02

  

2006年 11月 18日

a0035172_3152987.jpgそもそも文学とは「心の闇」を描くものである。「心の闇」などと言うと、近年、ワイドショーでお馴染みのタームであり、普通の少年や主婦らによる不可解な殺人事件の動機などに安直に当てはめられ、「心の闇」を持ち出せばそこで事件の奇怪さが了解されてしまうという都合のよいフレーズと化している。「心の闇」が人間にとっての尋常ならぬ行動の源泉であり、それを抱えていること自体があたかも問題であるような印象を与えるのである。

しかし、それは間違いである。人間に「心の闇」があるのは当然であり、僕らは当然のようにトラウマを抱えているし、コンプレックスを持っている。そんなのは人間として当たり前のことではないだろうか。物語はそこから生まれるのであって、「心の闇」は物語の断絶ではなく、源泉なのである。それが文学の領域であるからこそ、彼らはそこに足を踏み入れることができないだけなのである。

さて、阿部和重の小説には「心の闇」というものが存在しない、平板的でポップでアメリカ万歳的な小説と言われる。「心の闇」が文学の源泉であるとすれば、彼の小説はその前提において文学という立場から最も遠い位置にあるということになる。加藤典洋は『無情の世界』の文庫本解説の中で、阿部の小説を3DのCG映像のように影のない、明るすぎる描写/小説であると例えた。加藤が80年代後半以来追求してきた「内面の喪失」という現代的な事象を今、最も体現しているのが阿部の小説なのであり、その小説は登場人物たちの独白で綴られる従来の私小説的な自意識劇でありながら、人間的な陰影や奥行きが全くといっていいほど乏しく、その文学的な味わいは極めて希薄であると言える。

その文学から最も離れた地平にある阿部の小説がその平板すぎる独白と明るすぎる心理描写によって読み手に強烈な違和を投げかけると同時に、狂おしいほどの共感をも生み出す。しかもそれが不思議に文学的な、「心の闇」にも届く真摯な共感なのである。それは何故だろうか?

冒頭で、昨今頻発する殺人事件の動機は「心の闇」などという問題ではないと述べた。阿部の小説を読んでいると、その認識は実は全く逆で、「心の闇」のなさこそが我々現代を生きる人間の荒んだ心情の由来ではないかと感じてしまう。真空にも物質的な密度があるように、平板さと明るさの中にこそ現代的な「心の闇」が裏返しに潜んでいて、それが瞬間的に漏れ出てくるのではないか。それこそが現代の心情の根源であるのだと。その境界の「薄っぺらさ」がある種の得体の知れなさ=息苦しさとして、僕らの胸に文学的に響いてくるのである。

大江健三郎が希求してなかなか手の届かなかった「最後の小説」、文学の終焉は時代の必須ながら、その文学の終焉を文学的に表現しえたのはノーベル賞作家の大江ではなく、阿部和重の小説『無情の世界』であり、『シンセミア』であった。そういう意味で、阿部和重の小説は文学の終焉という位置を確信的に固持する最後の小説であり、今、最も現代の心情の問題を文学的、方法論的に内包することに成功している良質な「文学」なのである。
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by onomichi1969 | 2006-11-18 03:17 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ドラム対決! semスキン用のアイコン02

  

2006年 11月 15日




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by onomichi1969 | 2006-11-15 22:07 | おまけ | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 父親たちの星条旗 "Flags of Our Fathers" semスキン用のアイコン02

  

2006年 11月 12日

a0035172_2338346.jpg素晴らしい作品だった。ひとつの戦争を敵味方の双方の視点から描くというプロジェクト。まだ観ぬ『硫黄島からの手紙』の内容を想起しつつ、この硫黄島2部作がイーストウッドの最高傑作であり、且つ映画史上の大傑作であることはもう疑いようもない。もし、欠点のようなものがあるとすれば、この映画があまりに完璧すぎることくらいか。

戦争は神話を生む。それは常にある意図をもった物語として、その一面性、その共振性のみがクローズアップされ、形式化される。本来、物語とは多面的であり、ある種のイデオロギーに容易に集約されるべきものではないが、物語をその純粋たる物語として描ききることはとても難しい。『父親たちの星条旗』は3人の硫黄島戦の英雄という個人に焦点を当てることにより、そこから戦争と生死、国家と個人などのタームをその絶対的感情として取り出してみせる。個人という矮小な物語から戦争という壮大な物語を描いてみせようとする。

戦争とは戦闘のみではない。しかし、戦闘は戦場における最も明白な現実であり、それが戦争の狂気そのもの、その由来でもある。戦争という現実は、実際に体験したものしか分かりえないだろう。いくらそれを映像としてリアルに再構築したとしても、戦争の恐怖と高揚、狂気はその場にいたものしか分からない絶対主観的な体験なのである。硫黄島戦は太平洋戦争史上で米軍にとっては多大な犠牲者を出した最も過酷な戦場であり、海兵隊神話にもなった象徴的な戦闘である。その物語を個人の側から再構築し直す。それがイーストウッドがこの作品で行った映画的試みであると僕は思う。

この物語の主人公は3人の硫黄島の英雄たちである。その中でも原作者の父親でもあるジョン・ブラッドリーは英雄という称号を不平なく受入れて政府に協力し、そして、その立場に自らを規定されることなく静かに生活を続けて年を重ね、死の間際に至る。彼は戦争について語らず、その語り得なさを心に保ち続ける。衛生兵として多くの兵士達の死を看取り、自らも過酷な戦場で生存の危機に晒される。しかし、彼が執拗に捉えられたのは彼がコンビを組んでいたイギーの死(その悲惨な死は僕らにも隠される)であった。その一人の兵士の死が一人の兵士の生の、その生きる手綱を握り続ける。そのことの重みを僕らは見せ付けられる。2006年アメリカ映画

彼は最後に息子に対して赦しを乞う。赦しとは、「人は誰もが自分と同じように弱い」という人間にとって最も根本的な地平から生まれるものであり、「自分が存在することの原理」への気付きでもある。最後に映画がこのことを描いたとき、僕の心は確実に震えた。
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by onomichi1969 | 2006-11-12 23:49 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 Electric Light Orchestra / Olivia Newton-John "Xanadu"(1980) semスキン用のアイコン02

  

2006年 11月 08日

a0035172_0243095.jpg映画は観たことも聞いたこともないのだが、サントラは最高に素晴らしい。オリジナルアルバムに勝るとも劣らない傑作だと思う。
アルバム構成はオリビア・サイドとELOサイドに分かれており、お互いがノリにノッていた時期だけあって、それぞれの楽曲がとても充実している。とはいえ、僕はELOのファンなので、やはり"I'm Alive"や"Don't Walk Away"、"All over the World"のいかにもELOって感じのポップチューンに痺れてしまう。
そして極めつけはオリビアをボーカルにフィーチャーしたELOサイドの表題曲"Xanadu"だろう。1980年という年を象徴するような爽やかでカラフルでドライな味わいのある曲だと思う。

大好きだな、このアルバムも!
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by onomichi1969 | 2006-11-08 00:29 | 80年代ロック | Trackback | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 博士の愛した数式 semスキン用のアイコン02

  

2006年 11月 04日

a0035172_15203789.jpg原作は発売当初に読んで感動した。しかし、その感動の由来がなかなか掴めない、不思議な読後感のある作品だった。小川洋子の作品は、それまで『妊娠カレンダー』とか『ホテル・アイリス』などを読んでいたが、印象としてはとても静かな文体の中に、淫らな妖しさが滲み出るような、そういった瑣末な狂気、エロスを容易に受け入れる、そんな少女的魅力が特徴であったように思う。
『博士の愛した数式』にそんな特徴を見出すことは難しいだろう。確かに一見、この物語は少し変わった人物(80分間しか記憶がもたない数学者)である博士と平凡な家政婦親子との交流を軸にした心温まる人情物語、少年の心の成長物語にも見える。博士と義姉との過去の不倫関係が匂わされる程度で、これといった恋愛劇もなく、穏やかな愛情、心の交流とでも言うべきものを描いたストーリーだと捉えられる。
この物語のメイントピックを支えるのは数学であろう。物語の日常や記憶の中に数学という論理性や完全性という意匠をちりばめながら、その純粋さや単純な美しさを説く。そういった崇高性を帯びた雰囲気の中で、博士は日常という記憶を失った人物、まさに数学的な論理と純粋さのみを纏った人物として描かれるのである。
一昔前ならば、こういった人物像は、ある種の探偵小説やミステリーで描かれる独我論的な犯罪者に見出される妄想的な観念の根拠となったものである。
そういった観念の崇高性は、数学的論理そのものが破綻すべきものであることが証明され、思想化された70年代後半以降、失われた熱情となったはずである。この物語の主人公である博士は、そういったある種の微温的なラディカリズムを内に秘める人物として設定可能でありながら、それは80分間しか続かない記憶のように、永久に失われるべきものとしてこの小説には一切表には出てこない。
完全性を失った数学に対し、完全性への美しさを希求するが故に、記憶を永遠に失い続ける数学者。そして日常への信と不信を生きるよるべとしながら、その原理に否応なしに惹かれ始める家政婦。数学を媒介としながら、そのお互いの心理は巧妙に隠されていると僕には感じられた。それはお互いの可能性を実に巧妙に回収しつつ、その微細な亀裂にエロスを仄かに立ち上らせる。それはとても感動的な光景だ。その巧妙さがとても感動的なのである。それがこの小説の新しさであり、僕らを動かす違和なのだ。

『博士の愛した数式』を僕はこのように感じたわけだが、それは僕が『ホテル・アイリス』を読んでおり、その後にも『薬指の標本』等の小川洋子作品に接したからだとも思える。もし、『博士の愛した数式』をその作品のみで論じたならば、もっと違う感想を抱いたかもしれない。

さて、映画である。最近、この映画化作品をようやく鑑賞した。この映画が原作のもつ高い水準のメタレベルを映像的に継承している、とはとても言いがたい。残念ながら、映像がその本質を全く捉えていないし、映像が映像足りえていない映画作品としか言いようがない。原作の素晴らしさを知ってしまった以上、その欠落はあまりにも目に余る。残念ではあるが、この小説がいくつかの賞をとり、ベストセラーとして映画化されてしまったことにこの悲劇の原因があるのかもしれない。そう考えるとある意味で致し方ないとも思える。2005年日本映画
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by onomichi1969 | 2006-11-04 15:34 | 日本の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ブロークバック・マウンテン "Brokeback Mountain" semスキン用のアイコン02

  

2006年 11月 04日

a0035172_159324.jpg「恋愛が自意識の劇であり、鏡であること、そしてその究極には不可能性という可能性への期待があり、それが刹那に超越され、持続しない。『春の雪』はそういった恋愛の本質をよく捉えた小説であると共に、自意識が恋愛という観念に結実した美しくも悲しい、と同時に奇跡的に幸福な作品である」
以前、『春の雪』のレビューで僕はこのように書いた。この言葉は映画『ブロークバック・マウンテン』にもそのまま当てはまる。

この映画の優れている点は、やはりその映像にある。セリフが少ない映画ではあるが、映像は僕らに様々な言葉を伝える。それは言葉にならない言葉であるとともに、僕らに明確な言葉を喚起させるのだ。恋愛は言葉である。それは理性の森を通してしか発現しえない人間の特権である。映像が言葉を伝える。とてもシンプルかつ緻密な繊細さを要求する作業を見事に表現できたこの映画は素晴らしいと思う。表現は意思より発現し、そして意思に帰る。それはテクストや作者の背景を含めたあらゆる個人の歴史を巻き込み、作品の絶対性を生むのである。作品とは常に読者と一対一の関係にある。それは凡百のテクスト論を超えて、僕らが僕らであるが故の様々な感動をもたらすと僕は信じている。

『ブロークバック・マウンテン』は素晴らしい作品であり、珠玉の恋愛映画であった。その哀しさに心を震わすと同時に久々に幸福感を味わった。2005年アメリカ映画
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by onomichi1969 | 2006-11-04 15:17 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(2)

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