Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

onomichi.exblog.jp

ブログトップ

semスキン用のアイコン01 <   2006年 05月 ( 15 )   > この月の画像一覧 semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 最後の誘惑 "The Last Temptaion of Christ" semスキン用のアイコン02

  

2006年 05月 27日

a0035172_2026942.jpg『ダ・ヴィンチ・コード』からの流れでひとつ。

イエスの人間的な側面を描いた映画と言えば、僕はマーチン・スコシージ監督の『最後の誘惑』を思い出す。十字架から逃れたイエスがマグダラのマリアと交わり、ラザロの妹マリアやマルタと生活を共にして多くの子供をもうける。人間的な生活に幸福を見出すイエス。イエスを神と崇めるパウロの演説を罵倒する人間イエス。老いたイエス。この映画は、途中まで、聖書という幻想をリアルに表現するという意味合いにおいて、イエスの人物造詣に多くの人間臭さを滲ませながらも、それでもあくまで聖書の記述を忠実になぞるようにストーリーは進んでいく。しかし、ゴルゴダの丘から場面は急展開し、上記のような新しい解釈、新しいイエスの物語を僕らに提示する。これらのシーンを初めて観たとき、僕は喝采した。僕はキリスト教徒ではないので普段から聖書に接しているわけではないが、学生の頃、ひとつの文学小説として聖書を読んだことがある。ちょうどその頃、三浦綾子の聖書本や遠藤周作の『イエスの生涯』などを読んでいたから、イエスの物語には多少なりとも親しみがあったけど、文学として読む聖書ははっきり言って退屈であった。何度か投げ出しそうになりながら新約の全ての福音書を読んだものである。退屈な聖書をなぞるだけなら、それは退屈な映像的補完にしかならないであろう。それが十字架のシーンから急展開し、人間イエスが神の子イエスを否定するなどという前代未聞のシーンがあるのだから、さすがに『タクシー・ドライバー』や『キング・オブ・コメディ』の監督はすごいことをしてくれる。それらの映画の過激さに痺れていた僕が喝采したのも当然なのである。しかし、最終的に人間イエスは裏切りを装ったイスカリオテのユダによって逆に裏切り者扱いされ、彼を十字架の上から生活という土壌に導いたと思われた天使は悪魔に変わり、イエスが必死に父たる神に許しを請うシーンに至る。長い長い妄想は「最後の誘惑」という悪魔的思念として閉じられ、彼はそれに打ち克つことにより旧来の聖書、そのイエス像は守られるのである。生活という、日常という悪魔。それは結局のところ否定され、作品は閉じられる。。。
このラストシーンに至り、当時の僕は落胆した。この映画は結局のところ、イエスを神の子として担保する以外の何物でもない、そこに大胆な「イエスの生涯」に対する現代的解釈、よりリアルで厳しい宗教感覚というものはなかったのである。しかし、実のところ、当時はそこまでこの映画に対する批判はなく、ポップでロックな映像感覚に僕は作品を充分楽しんだ記憶がある。結構、面白かったのだ。そして時が過ぎ、、、

最近になって、『ダ・ヴィンチ・コード』を読み、その他、歴史ミステリー小説に出てくるような異端審問やその受難の物語などなど、そのことに思いを馳せればこの『最後の誘惑』という作品もまた別の角度から観ることができる。スコシージ監督が、或いはこの作品の原作者が描きたかった新しいイエス像というものは正にあの妄想としての「最後の誘惑」の物語にこそあったのではないかと。確かに最後にそれは否定されるのであるが、それはあくまで隠れ蓑であり、やはり彼らが最も描きたかったのは神の子イエスを批判する人間イエスの物語であって、宗教というものが必ず躓かざるを得ない生活というもの、その悪魔を生み出す欲望への飽くなき信、それが人間として肯定すべき現実である以上に、人間を人間たらしめるココロそのものである、そういうことではなかったか。
『最後の誘惑』から15年以上が過ぎ、『ダ・ヴィンチ・コード』が全世界の4000万人に読まれる現代になって初めて、この作品の本当の意義が眩い朝の光のようにベールの隙間からこぼれ出ているような気がする。マグダラのマリアがイエスの子供を宿しながら、神によって死へと召される、あの短いシーンの中にこの作品を別の解釈へ導く象徴的な意図が隠されていたのかもしれない。。。1988年アメリカ映画

みんなのシネマレビュー 『最後の誘惑』
[PR]

by onomichi1969 | 2006-05-27 20:27 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ダ・ヴィンチ・コード "The Da Vinci Code" semスキン用のアイコン02

  

2006年 05月 22日

a0035172_152764.gif原作は夢中になって読んだ。その謎は僕らのイマジネーションを刺激するのに充分衝撃的だったし、尚且つそれなりのリアリティがあった。しかし、ミステリーとしては一流だけど、サスペンスとしては三流だったかもしれない。正直言って、この題材自体はダン・ブラウンのオリジナルではないし、それを小説化し得たことに意義があると言えるけど、僕にとってそのサスペンス部分はあまり興味の対象とはならなかった。スリリングなオープニングの展開がサスペンスとして持続していないのは、やはり拍子抜けの感が否めない。それは著者がサスペンスよりも歴史ミステリーを優先させたからなのか、単なるプロットとストーリテリングの能力の問題なのかよくわからないけど、なかなかこの2つを兼ね備えた作品というのはないようである。(僕には哲学を探偵小説として表現しようとした笠井潔を思い出させるが。。。) だけど単純に言えば、僕はこの作品が好きである。それは、この作品のミステリー部分が僕の歴史的記憶にとてもマッチしたからだ。(すごく単純な理由。。)

映画にしろ、小説にしろ、音楽にしろ、作品とはそれ自体がイマジネーションであると同時にそれは僕らのイマジネーションを補完するものである。作品の技術的な良し悪しがあるのと共に、作品が僕個人のイマジネーションに共振し、僕個人の物語を補完する。それがどのように僕を掴み、震わすのか?そういった評価軸は絶対個人的にのみ存在し、それこそが作品に対する絶対的評価になり得る。(評価とはそもそも絶対的でしかありえない) だから敢えて言うけど、この『ダ・ヴィンチ・コード』という映画は、『ダ・ヴィンチ・コード』という小説世界を映像として補足しているだけのものであるにもかかわらず(というかだからこそ)、小説を読んだものにとって、この映画は小説の映像的な補完として違和感なく受け入れられる。『2001年宇宙の旅』が映画とノベライゼーションでワンセットの作品であった、、、のとは意味合いがちょっと違うかもしれないけど、映画がその映画だけで評価されなければならないという決まりは全くないのである。
つまり、僕の映画『ダ・ヴィンチ・コード』の評価は、映画単独での評価というよりも作品として小説とワンセットとなっていることが前提なのである。

あと、、、実在するオプスデイやバチカンをあからさまに非難する姿勢はなかなかすごい。オチのつけられなさはこの作品の性質上自明であるとも言えるが、そこに明確な思想というかイデオロギーが全くないところも現代的でこれまたすごい。なんというか、如何にもアメリカ的な「能天気な合理的過激さ」とでも言うべきものがある。。。

もうひとつ、僕はこの『ダ・ヴィンチ・コード』によって『最後の誘惑』という映画を再評価することになったが、それはまた別の話である。。。2006年アメリカ映画
[PR]

by onomichi1969 | 2006-05-22 01:10 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 梅田望夫 『ウェブ進化論』 semスキン用のアイコン02

  

2006年 05月 17日

a0035172_1191972.jpg『ウェブ進化論』を読んだ。巷で話題のGoogleの革新性について、確かにこの会社の存在が如何に先進的で、ある意味、革命的かがよく分かる。そのオープンソースという考え方が彼らのビジネスモデルというだけではなく、進歩思想であり、それが人々のビジネススタイルそのものを劇的に変化させうるものであること、それは正にネットの(人類の)未来を見据えた強固な確信によって支えられているのである。
Web社会を「あちら側」と「こちら側」に分ける表現方法は多分に文学的な感じもするけど、なかなか面白くて分かりやすい。Googleは「あちら側」でyahooや楽天は「こちら側」、マイクロソフトも「こちら側」なのである。これからの時代、「こちら側」の企業は完全に「あちら側」の企業に太刀打ちできなくなるという。ネット第Ⅱ世代、Web2.0の世界ではオープンソースというビジョン、あるいはシミュラークル的な自己規定と対象認識、もっと言えばGoogleというシステムの圧倒性を認めるかどうかによってフロントに立てるかどうかが決まるのだ。
GoogleとYahooの違いについて、Yahooが検索システムに対する人の介在を是とするのに対し、Googleは明確に否とする。そう、Googleはシステムを全てオートメーション化することを目標としているという。そのことから僕などはついついSFチックな自動化システム社会なるものを想像してしまう。日本のSF小説では竹本健治の『腐食』やテレビアニメのデジモン・アドベンチャー、映画でいうマトリックスの世界。80年代のポストモダン、ジル・ドゥルーズの描いた欲望を動力として自己増殖するシステム社会モデルなどなど。こういった自動システムに支配される人間社会という図式は未来像としても近年ありふれた物語となっている。しかし、それはあくまで想像とイメージの世界だったはず。。。

a0035172_0544422.jpg先週のアエラにもこんな記事が、、、
検索が支配する民主主義――「検索結果の表示順位を決める最も重要な要素は、サイトがどれほど他のサイトからリンクされているかだ。人気のサイトから多くリンクが張られると、そのサイトも人気があるとみなされる。言ってしまえば、これはグーグル流の民主主義だ。検索エンジンを使った際、注目されるのは上位5つくらいまでの情報である。そのためサイトを運営している側はどういうしくみで順位を決めているかを解析し、少しでも順位を上げようとする。逆にエンジン側は意図的に順位を上げようとするものに対して敏感になり、排除しようとする。ネット上では検索エンジンの影響力が大きく、すでに一種の権力装置となっている」

Googleの「もし世界政府というものがあるとしたら、そのシステムはすべてGoogleがつくる」という姿勢。その完全なる性善説に立つオプティミズムはとても危険のように思える。それでも人類はオートマティカルに社会の進歩へと向かわざるを得ないのだろうか。そういう運命にあるのだろうか。
とにかく、Googleがこれからどのようなアクションをしていくのかは僕らも注目せざるを得ない。彼らが現代のリアルなビッグ・ブラザーなのかもしれないので。。
[PR]

by onomichi1969 | 2006-05-17 01:24 | | Trackback(2) | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 ロスト・ハイウェイ "Lost Highway" semスキン用のアイコン02

  

2006年 05月 13日

a0035172_13313741.jpg内面と現実の境界、それは人と世界の境界でもある。
人は世界を構築する毎に必然的に人と世界の境界たる壁をも同時に構築してきた。しかし、今の時代<無精神の時代>、気がつけば壁は消失し、人は世界という波に無防備に侵食されつつある。つまり、内面と現実の境界が消失して侵食されたのは人の心的世界であり、これが内面の喪失と呼ばれる現代的な主体の変容なのである。
侵食された人の心はその少ない領域の中で末期の悲鳴を上げるだろう。そこに立ちのぼるのが現代的な妄想であるのだ。リンチは映画がそんな人(作家)の妄想そのものが作り上げる世界であること、そのことを明確に主張しているように思える。妄想から浮かび上がる人間的なリアリティという面においては、最新作の『マルホランド・ドライブ』に譲るが、本作『ロスト・ハイウェイ』は、ひたすら人間理性の森の中で道を見失った主人公の姿を追うことにより、追い詰められた狂気の静謐さを見事に描いていく。
『ロスト・ハイウェイ』という場所、そこが妄想の源泉であり、同時にそれは現実/世界を超え出でる「力への意志」という失われた原初的思念の新たな発現なのかもしれない。1996年アメリカ映画(2004-08-21)

みんなのシネマレビュー 『ロスト・ハイウェイ』
[PR]

by onomichi1969 | 2006-05-13 13:36 | 海外の映画 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 プレッジ "The Pledge" semスキン用のアイコン02

  

2006年 05月 13日

a0035172_1256297.jpgとても怖い映画だった。この映画のニコルソンをどう捉えたらいいだろうか。彼にとってのプレッジとは一体何だったのだろうか。
ショーン・ペンの前2作品を認めている身としては、彼が単なる凡庸なサスペンスを撮るような人間ではないという確信はあったし、実際そういうサスペンスのみの視点でこの作品を観るべきではないのだと思う。

この作品に通底する孤独な男の信念が徐々にその箍(たが)を狂わされていく様子は正直言って恐ろしく、それが事件と素直に繋がっていかないところが逆に評価できると僕は思っている。それを「長いネタふりのコント」だと言う辛辣な意見も見かけたが、そもそも人生とはオチのつかない枝葉なエピソードのつづきであって、傍目には全く面白みのない孤独な一人芝居を知らず知らずに演じているものなのだ。まぁそれはもう自明なことであって、僕らがそこに求めるのはその中で失われつつあるものをどう汲み取っていくかということなのだろう。

この作品は、冒頭から刑事を引退した後のニコルソンの一挙一動を克明に記していく。彼は、刑事としての本能と執念によって事件を執拗に追いかけているように見える。そして僕も映画中盤までは、その信念こそ彼が少女のイノセンスを守る孤独なキャッチャーであるというところから来ている、そういう物語なのだと思っていたのだ。<彼の語られない境遇は重要だ> ところが、、、徐々に何かが狂っていくのである。それは体の中に巣食う癌のように確実に何かを蝕んでいくのである。そんなニコルソンの微細な変化と抑えきれない狂気が垣間見える場面の恐ろしさ。彼の「イノセンスのキャッチャー」という立場は、その絶対的不可能性の罠に確実に閉じ込められていくのである。この作品のテーマはずばり「イノセンスのキャッチャー」の行く末だと思う。ニコルソンは年老いて歪んだホールデン少年の行く末なのだ。彼がプレッジとして信奉したもの、全てのイノセンスを守ることの不可能性は、容易に自らを矛盾の孤独に押し込め、どこでもない場所へ導く。なんというリアリティだろうか。
この作品のエピローグは冒頭のシーンへと繋がっているが、そこにはウロボロスの如き出口のない絶望が横たわるのみである。前作で描いた希望の光のようなものはそこには見出せない。この地平からショーン・ペンが如何にして物語を紡いでいくのか、それは次作に期待するとしよう。2001年アメリカ映画(2004-05-02)

みんなのシネマレビュー 『プレッジ』
[PR]

by onomichi1969 | 2006-05-13 12:58 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 マトリックス "The Matrix" semスキン用のアイコン02

  

2006年 05月 13日

a0035172_1226193.jpg20世紀の哲学者ボードリヤールは、世紀後半の世界をオリジナルとコピーの区別が付かない、また、付き得ない世界になるだろうと予言した。<それをオリジナルとコピーの中間形態であるシミュラークルの世界と呼んだ> インターネットの普及はまさにその予言の具現化に大きな役割を果たしたといえる。
コンピューターの俗語で「コピペ」という言葉があり、これはオリジナルをコピーしてペーストするという意味であるが、インターネット環境で何度も「コピペ」を繰り返す内に、そのオリジナルと思っていたものが、実は元のオリジナルの巧みなコピーであり、それがその又元のオリジナルのコピーのコピーであったかもしれないという事態が容易に起こるのである。つまり、インターネットの世界に関していえば、既に厳密な意味でのオリジナルは存在しないといってよく、引用に対する制限はもはや制御不可能な状態にある。
インターネット世界が現代社会を写すイメージそのものというのであれば、現代は「コピペ」の時代といってかまわないが、それはまさにシミュラークルの世界そのものでもある。シミュラークルの世界には、絶対的価値観など有り得ない。すべてが相対化され、データベース化され、その中で差異を表出することに価値を見出すのみである。映画の世界ですら、この世界観から逃れられない。それが「マトリックス」である。1999年アメリカ映画(2003-11-09)

みんなのシネマレビュー 『マトリックス』
[PR]

by onomichi1969 | 2006-05-13 12:28 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 Electric Light Orchestra "LIVE AT WEMBLEY '78" semスキン用のアイコン02

  

2006年 05月 07日

現在、GyaOでやってます。⇒終了しました!

いいですねぇ。

多少音質は悪いけど、ELOのサウンドがちゃんと再現されてます。(これはすごい!) 映像もポップで楽しい。

なんといっても、バイオリンと2台のチェロが大活躍です。走り回ってます。ジミヘン真っ青のチェロ背面弾きも見れます!
[PR]

by onomichi1969 | 2006-05-07 11:09 | お知らせ | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 ジャケットはアート semスキン用のアイコン02

  

2006年 05月 05日

むつみさんの記事に感銘を受け、やっぱりLPジャケットはアートそのものなのだなということを再認識。そういえば、昔、学生の頃にジャケットを並べて壁に立て掛けたりしたっけ。そういうのって決まって部屋の掃除した時にやるんだよなぁ、でもいつも暫くしたら片付けているのは、レコードを出しっぱなしにしているのが妙に落ち着かなくて、何となく気が引けるからなんだよなぁ。。。ジャケットはアートであると同時に大事なレコードの保管パッケージでもあるのだ。
なんて思っていたら、blues1974さんの写真を発見。そうそう、これこれ。今、休暇で実家にいるので昔のLPが押し入れの奥深くに眠っているはずだ。久々にそれを引っ張りだして、、、

a0035172_21552224.jpg


う~む。。。なかなかblues1974さんのようにオサレにディスプレイとはいかないものだ。これじゃ並べただけだし。(邪魔だからすぐ片付けなきゃ、、、怒られる前に。。)

lonehawkさんとか、紙ジャケットを丁重に写真で撮って公開している人の気持ちも分からないでもない。やっぱり、アートなのですから。。

とりあえず、、、
さっそく、壁紙もブログのスキンもアートにしました。。。
[PR]

by onomichi1969 | 2006-05-05 10:52 | おまけ | Trackback(2) | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 ホテル・ニューハンプシャー "The Hotel New Hampshire" semスキン用のアイコン02

  

2006年 05月 04日

a0035172_22574140.gif『ホテル・ニューハンプシャー』とは喪失の物語である。

家族、或いは父親が真っ当な存在としてのあり方を模索しながらも、結局はそれが永遠に失われてしまったことが語られているのだ。熊とは正にその真っ当さの象徴だったのではないか。この物語の中で、本物の熊が冒頭で殺されてしまうのは、家族としての真っ当さの死を象徴しているのだろう。そして、擬似の熊はその喪失の代替的な役割を担っており、彼らが常に失われたものへの快復を切実に求めていることの証しなのである。

父親はその失われたものを快復しようとホテルニューハンプシャーの経営を始めるが、家族はそれぞれに不具を抱えており、さらに新たな喪失にも見舞われてしまう。彼らは、それでも家族としての或いは生きていくことの真っ当さを求めることを諦めず、喪失感の中で彷徨<その象徴がウィーンであろう>し続けるが、結局のところ、彼らは何処に辿りついたのだろうか。もちろん何処にも辿りつかない。

村上春樹の小説『回転木馬のデッドヒート』の有名なプロローグは、その現代的な喪失感を的確に表現している。

「我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われてしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ」 

この映画<或いは小説>は、僕らにこう考えることを教えてくれる。それは一種の方法論として。

「それでも、僕らは意志し、生きていく。それしかないのだと、、」1984年アメリカ映画(2004-02-28)

みんなのシネマレビュー 『ホテル・ニューハンプシャー』
[PR]

by onomichi1969 | 2006-05-04 22:58 | 海外の映画 | Trackback | Comments(4)

semスキン用のアイコン01 戦場のピアニスト "The Pianist" semスキン用のアイコン02

  

2006年 05月 04日

a0035172_2246318.jpg不条理下における芸術性のあり方については、これまで否定的な考え方を幾つも目にしてきた。戦争による芸術の無力化。芸術的抵抗の挫折。しかし、そもそも芸術とは抵抗する力をもつものなのだろうか。戦争が個人のもつあらゆる社会性を崩壊させた時、己を生かしめているものは狂気より他ない。闘争は正義をも崩壊させるのだ。

この映画は、主人公のピアニストが戦争によって社会的自我や人道的正義を喪失していく様を克明に描いていく。では彼の芸術的内面はどうだったのだろうか。絶望的飢餓状態の中で狂気を彷徨う主人公にピアノの旋律は聴こえていたのだろうか。その答えが瓦礫の廃屋でピアノを弾く主人公の姿なのである。実はポランスキーがこの映画に込めたメッセージとは、この一点に集約されているのではないか。間違ってはならないのは、芸術的内面というのが決してヒューマンなものではないということだ。それは人が全てを失った地平においても、生きていく狂気とともにあり続けるものであり、誰からも(己からも)アンタッチャブルなものとして個人を吸い込んでいく領域なのである。そもそも芸術的内面とは、哀しみによって熟成していくものではなく、哀しみそのもの(をのみ込んだもの)なのだ。

瓦礫の廃屋で主人公を助けるドイツ軍将校は、自らの持つ民族的国家的正義に支えられながらも芸術への理解を示す人物像として描かれている。彼にとって芸術への理解とは、一人の優秀なピアニストを守るということによって自らの正義へと直結している。その彼が捕虜となり、逆に主人公に助けを求める姿は、その個人的な正義すら、狂気により脆くも崩壊してしまうという現実を見事に描いていると言えよう。

戦争と芸術、この映画は、二つの喪失の狂気を対比させながら、正義なき、神なき時代の絶対的根源的な魂のあり方を描いている。それは芸術的内面の崇高性を描いていると言えるかもしれないが、ある意味でそれは絶望に変わりない。そして、芸術的内面という喪失感すら喪失している僕らにとってそれは悲劇の極致なのである。2002年仏・独・英・ポーランド映画(2004-03-27)

みんなのシネマレビュー 『戦場のピアニスト』
[PR]

by onomichi1969 | 2006-05-04 22:48 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

アクセスカウンター