Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 <   2005年 10月 ( 10 )   > この月の画像一覧 semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 Corey Hart "The Singles"(1992) semスキン用のアイコン02

  

2005年 10月 29日

a0035172_2129343.jpg80年代中期の洋楽シーンにおいて最も印象深いアーチストといえば、僕らの年代にとっては、ジョン・パーであり、ニック・カーショウあり、コリー・ハートであったりするわけだが、コリー・ハートといえば、やっぱり"Never Surrender"なのである。(それはニック・カーショウが"The Riddle"であることと同じように決定的なのではないだろうか。。。ちなみにジョン・パーといえば記憶喪失の男。。。それはキャッチフレーズか!Naughty Naughty♪)
というか、コリー・ハートの曲は今の今まで"Never Surrender"しか知らなかったというのが僕の場合正しい。
この曲は確か、全米で大ヒットしたけど、結局1位にはなれなかったはずだ。人々に中途半端に記憶されざるを得ない佳曲の代表的存在、と同時に80年代サウンドの典型であり、バラードの名曲。それが僕らにもたらされるこの曲の印象ではないだろうか。

改めて聴くまでもなく、この曲はいい。
なんとなく、コリーの出演する芝居じみたPVを思い出してしまうところも、、また、いい。

この曲聴きたさにベスト盤を買ってみた。Corey Hart "The Singles"(1992)

もう解説はどうでもいいや。。

今日も車の中で歌うぞ、Never Surrender ♪ ネバ サヘンダアァ~♪

<Never Surrender のPV!> ←クリックすると始まるので音量注意!!
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by onomichi1969 | 2005-10-29 21:36 | 80年代ロック | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 シン・シティ "sin city" semスキン用のアイコン02

  

2005年 10月 23日

a0035172_19185679.jpgこれはマンガそのもの。それも手塚治虫が提唱していたデフォルメーション的マンガ表現。劇画ではない、これはマンガそのものだ。

原作については知らない。

映画がマンガに向かうというのは、現実がマンガ的破錠性を違和感なく受け入れつつあるという現象なのだろうか。いや、もうそんな段階は飛び越えて、現実が永遠にコピー&ペーストを繰り返すシミュラークル的なマンガ世界そのものになったのか。

この映画が思いのほか違和感なく僕らに受け入れられるのは、昨今の映画的傾向、『マトリックス』や『スパイダーマン』(もちろん『フロム・ダスク・ティル・ドーン』も含む)などの流れから当然のことなのであろう。
映画がなんでも出来るようになった時、そこで失われる映画的なものとは一体何だろう?
果たしてそんなものがあるのだろうか?

そして、僕の答えは、、、
この映画は、そんな疑問を吹っ飛ばすくらいに面白かった。。。ということだ!
映画的なもの、そのオリジナリティは虚妄に過ぎない。
僕らはいろいろなツールから様々な意味を汲み取ることが出来るのだ。本当に大事なことは、僕ら自身の個人的な、文学的な心情であって、それこそが解釈の源なのだと思う。それが失われたら、世界は終わる。全ての意味は零れ落ち、僕らは何も「観る」ことができなくなるのだ。

僕らの文学性は既にその次元を変えている。
それは変成され、解体され、複合され、差異化されて、その表面的な深度は確実に失われつつある。しかし、その現実を観る視線からこそ、世界は始まるのだ。それは偏在化しつつあるが確実に内在する。僕らはよく目を凝らさないといけない。そして、、、

世界は始まるのだ。2005年アメリカ映画

みんなのシネマレビュー 『シン・シティ』
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by onomichi1969 | 2005-10-23 19:56 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 リリイ・シュシュのすべて semスキン用のアイコン02

  

2005年 10月 10日

a0035172_23283317.jpg正直いってとても怖い映画でした。僕はこれほどまでに悪意に満ちた映画を知らない。世界を共有できないという苦痛が全編を覆っているのだから。しかし、、、この映画に心を震わしたとすれば、あなたは正しい。間違ってはいない。僕らは心を失って久しいし、本当に共有できる世界観をもっていないのは既に自明のこと。リリィという虚構の上に空虚な言葉を紡ぐことのリアルさなんて最初からないよ。そんな悪意に満ちた映像の中でも、僕らはこの映画にある種のイノセンスを感じたんじゃないのかな。その可能性にこそ、この作品の「救い」があるのだと思う。

この映画の中に心理描写が皆無ですよね。ただ、田園に佇む少年たちと音楽があるのみで。そして画面を覆うワープロ文字の羅列。僕らは「痛み」を感じ、イノセンスへの「信」を握り締める。この世界の「ほんとう」をいかにして表現するか、もし、映画の目指すところがそこにあるのなら、この映画の手法はひとつのメルクマールとなるのではないか。岩井俊二は断続する「現在」を捉えているからこそ、一級の監督なのだと僕は思う。

リアルとは何か?現代社会は成熟という過程を永遠に放棄しており、生きていくことの確固たるリアリティなどというもの、そのものにリアルな実感など既にない。キルケゴールは死に至る病として、絶望していることに気がつかないが故の絶望といったようなことを述べているが、今の世の中はそういう意味で多くの人が絶望的である。そういった認識がないとこの映画は「分からない」だろう。薄っぺらい世の中だからこそ、その薄っぺらさの上で足掻くことの空虚さ、その見えない痛みを痛いほど感じる、この映画はそういう表層のヒビを鮮やかに描いているのだ。<この映画は単なる中学生日記ではないのだ> 
実は邦画の名作は昔からそういう地平でつくられていると僕は思っている。ただ、その自明性がここ10年ほどで加速度的に失われており、そんな閉塞感の無意識化を漠然とした表層の「らしさ」感覚とその亀裂の対比で描いてみせているのがこの作品の白眉なところだ、といえないだろうか。
敢えて言えば、リアルさの喪失感に対するリアリティのなさをリアルに描いている、ということか。2001年日本映画(2003-05-11)

goo映画紹介 『リリイ・シュシュのすべて』
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by onomichi1969 | 2005-10-10 23:22 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 A2 semスキン用のアイコン02

  

2005年 10月 10日

a0035172_2342341.jpg「A」と比べて「A2」がそのテーマを明確にしたことによって、出色のドキュメンタリーとなっているということに全く異論はない。そして、そのテーマとは、「オウムと世間との共存の可能性」である。オウムが日本各地に移転するたびに地域住民から排斥運動を受けて、結局追い出されてしまう、こういった構図は僕らも新聞報道等でよく見かける。しかし、映画の中では、オウムを監視していた地域住民ボランティアが監視を続けるうちにオウム信者達と仲良くなり、逆に地域内での一般住民たちの軋轢こそが浮き彫りになる、というケースを克明に描いてみせる。確かにそこで描かれるオウム信者はあまりにも普通の好青年であり、オウムでありながら地域社会に見事に溶け込んでいるように見える。彼らがその地域から引っ越す際には多くの地域住民たちに涙をもって見送られるのである。もちろん、このような例は数少ないに違いない。多くはオウムと地域住民たちとの滑稽なすれ違いの繰り返しなのだろうと思う。しかし、一部ではありながらこういった例が存在し、そんな現実をひとつの可能性として提示し得たことにこの作品の重要なテーマをみるのである。

基本的に未だオウムというのが麻原への信仰を捨て切れない、世間から閉鎖した危険な思想団体であることに間違いはないだろう。それは彼らが世間から閉鎖された出家団体であり、世間とは根本的に対立する考えを持った人々の集団であることから既に自明なことである。一見するとそこに出口はないように思えるが、彼らが共存を求めており、僕らが社会としてそれを受け入れることを選択した以上、それが全く不可能ではないことをこの映画が指し示していることは重要である。人には信仰の自由があり、各人が別々の信仰を有しながらも共存共栄していくというのが正しい社会のあり方である。そんな当たり前の社会を不可能にしているとすれば、それは人と人との関係を強烈に捻じ曲げる偏見という名の人格無視だろうと僕は思う。お互いが分かり合える足場を失った状態でも人が人を理解する希望を失わないこと、そのためのシステムを作り上げること、それがこれからの社会の中で重要になっていくに違いない。無条件な憎しみの連鎖にだけは陥ってはいけないのだと僕は思う。

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by onomichi1969 | 2005-10-10 23:04 | ドキュメンタリー | Trackback | Comments(5)

semスキン用のアイコン01 A semスキン用のアイコン02

  

2005年 10月 10日

a0035172_2258823.jpg「A」と「A2」を連続して鑑賞した為に「A」の印象というのは若干薄い。これは「A2」の方がより考えさせられる内容だったことにもよるかもしれないが、かといって「A」に見るべきものがなかったかというとそれも全く間違いである。「A」があくまで荒木広報副部長を中心とした物語であるとすれば、オウムという日本を震撼させた犯罪者集団、狂信的宗教団体の中で、あまりにも普通に苦闘し煩悶する彼の姿を浮き彫りにしていることにこの映画の重要な意義を感じるからである。

僕は、ある意味で同世代の彼に安堵と共感の念を禁じえなかった。僕らが忘れかけていた青春的な葛藤劇をこんなところで見せられるとは思ってもみなかったけれど。<これを青春映画と呼ぶことに全く異論なしです> 
もちろんオウムの犯罪は今でも許しがたいものであり、僕らは安易に彼らの信教を犯罪から切り離して認めることはできない。矛盾を抱えた世の中と自分自身との関係に苦しみ、人生に対する絶対的な回答を得たいという彼らの真摯な願望は分からないでもないが、その終着が今でも麻原に行き着くところに捩れた純粋さを感じる。しかし、この映画はその辺りのところは脇に置いておいて、オウムという鬼っ子を完全に排除したいという公安機構や犯罪者集団というレッテルでとにかく押し通したいマスコミや世間の醜悪さを見事に描いており、どちらかというと僕らの側にあり、僕らが意識することなく認めている体制というものに様々な理不尽さが存在することを見せ付けるのである。
とにかく偏見というのは恐ろしいものだ。オウムは信者をマインドコントロールするために多くのビデオやマンガを用いたそうだが、今、思考停止状態にある世間をメディアが煽動することほど簡単なことはない。中立であるはずの報道が偏見の為に誤った情報を流し続ける、そういう恐ろしさを感じざるを得ないのである。この映画は誠実な人、荒木氏の廻りの不誠実な公安権力やメディアをかなり決定的に映像化しえたことでドキュメンタリーとして成功したとも言えるのではないだろうか。

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by onomichi1969 | 2005-10-10 23:01 | ドキュメンタリー | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 KISS "Destroyer" 『地獄の軍団』(1976) semスキン用のアイコン02

  

2005年 10月 10日

a0035172_143467.jpgエアロスミス、キッス、クイーン。どれも好きなバンドだが、僕の場合、一番はやっぱりエアロで、次は、、、キッス。そしてクイーンという順番になるだろうか。。。
キッスと言えば、ライブアルバムの最高峰"Alive!"(1975)とオリジナルアルバムの"Destroyer"(1976)が出色である。
そして、、、今回取り上げるのはオリジナルアルバムの方であり、彼らの地獄シリーズ4作目で、エンターテイメント・ハード・ロックの原点とも言うべき傑作である。

1.Detroit Rock City
2.King Of The Night Time World
3.God Of Thunder
4.Great Expectations
5.Flaming Youth
6.Sweet Pain
7.Shout It Out Loud
8.Beth
9.Do You Love Me?

やはり、1から4に繋がるAサイドの流れが最高だろう。特に1では雑踏や喧騒の音、車の発進音、そして爆発音を効果的に使い、3では子供の台詞をジーン・シモンズの悪魔的歌声に挿入し対比的ビジュアルイメージを喚起させながら曲を盛り上げる。基本的にはノリノリの楽曲の連続で、ポールとジーン・シモンズのボーカルのバランスもよい。ポールとエースのツイン・リードも最高で、正にエンターテイメントとしてのロックの楽しさを見事に体現していると言えよう。
Bサイドの肝はやはり8である。ドラムのピーター・クリスが切なく歌う本曲は、KISSの、そして引いてはハードロック・バラードの傑作でもある。

本作は、キッスのアルバムの中でも楽曲、構成アレンジが最も充実しており、彼らがノリに乗っていた時期に製作された最高傑作である。正に栄光の輝きに満ちた1枚ということになるだろう。
エンターテイメント・ハード・ロックという意味では、LIVE盤と共にこのアルバムこそが彼らの原点といえるのだ。

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KISS "Alive!"(1975)のレビューはこちら!
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by onomichi1969 | 2005-10-10 01:37 | 70年代ロック | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 CHARA 『Junior Sweet』(1997) semスキン用のアイコン02

  

2005年 10月 09日

a0035172_1465892.jpg彼女のことを知ったのは僕が社会人に成り立ての頃。当時、女の子特有の自意識、その猥雑な世界観を歌い上げるちょっと変った女性シンガーとして、CHARAは人気が出始めていたと思う。年下の新進若手俳優の浅野忠信と結婚し、ある雑誌に2人の写真とロング・インタビューが載ったのもこの頃だ。僕自身も2人のことをよく知っていたわけではなかったが、その記事をとても面白く読んだ記憶がある。結婚することによって、そのアイドル性をカリスマ性へと鮮やかに変化させ、ファッショナブルでスタイリッシュなライフスタイルも当時としてはとても新しく映った。もちろん、そこには岩井俊二のテレビ映画『PiCNiC』でのイメージが確実に重なっていたし、多少戦略めいたところがあったのも事実だろう。

その後、CHARAは岩井俊二の大作映画『スワロウテイル』に主演し、映画の挿入歌をYen Town Bandのボーカルとして歌って大ヒットさせる。サントラもヒットし、彼女自身のベスト盤も発売、いよいよ彼女自身のブレークも間近、オリジナル・ソロ発売への期待が膨らんだものだ。
そこへ満を持して登場したのが、本作"Junior Sweet"(1997)ということになる。

先行シングル「やさしい気持ち」はCMとタイアップして売れるべくして売れ、その余勢を駆ってのアルバム発売であった。全ての条件が揃い、最高の状況でアルバムが発売される。アーチストにとっての最高作というのは往々にしてそういった時の勢いの中で生まれるものなのだろう。

彼女にとっての最高の時の最高のアルバムはそれを正当化するだけの充実した内容となっている。

1.ミルク
2.やさしい気持ち(しあわせ・ヴァージョン)
3.しましまのバンビ
4.私の名前はおバカさん
5.タイムマシーン
6.勝手にきた
7.どこに行ったんだろう?あのバカは
8.私はかわいい人といわれたい(オリジナル・ヴァージョン)
9.ジュニア・スウィート
10.花の夢
11.愛の絆
12.せつないもの

楽曲は佳曲揃いで、構成的なバランスも良い。

僕はこのアルバム以外では、BestとYen town bandしか持っていないのだが、以前のアルバムに比べて色合いがバラエティに富んでいるし、とにかく曲がいいと思う。1,2,9が特に秀逸か。。

CHARAの魅力とは、その独特の歌声にある。決して上手いとはいえないけれど、確実に僕らの心に届く響きがある。それはたぶん彼女が心を振り絞って歌う、その魂(ソウル)から届けられる歌声であり、それが正にオンリーワンの、彼女にしかない表現力なんだと思う。そういうオンリーワンの魅力があるからこそ、彼女こそが日本一の女性ボーカリストだといっても過言でないとさえ僕は思うのだ。

とにかく"Junior Sweet"は、彼女の一番輝いていた時期が見事にパッケージングされたアルバムなのだと思う。そもそも輝きというのは永遠ではない。それは言ってみればバトンリレーのようなものだ。アーチストからアーチストへ伝えられるバトン。だからこそ僕らはそんな輝きの連鎖を愛すべきロックの名盤として聴き連ねていくのだ。
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by onomichi1969 | 2005-10-09 23:22 | 日本のロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 村上春樹 『東京奇譚集~品川猿~』 semスキン用のアイコン02

  

2005年 10月 08日

a0035172_19294661.jpg村上春樹の小説では、『ダンス・ダンス・ダンス』が好きで、特に印象に残っているのは五反田君を巡る物語である。僕は、それ以降の作品でも知らず知らずのうちに五反田君の行方を追うようになった。
五反田君が初登場したのは、『ダンス・ダンス・ダンス』よりも前の『納屋を焼く』という短編である。(正確には五反田君的人物であるが、、) 『納屋を焼く』は、近所の納屋を放火してまわる人物の独白が描かれるのであるが、無用の納屋の放火という牧歌的犯罪とは全く対照的に、この物語が僕らに不気味な底知れなさを与えるのは、「納屋を焼く」ことが「女の子をレイプして殺害する」という不条理で性的な殺人行為を暗示するからだと言われる。確かにこの人物と付き合っていた女の子が最後に音信不通となることがそのことを僕らに想起させる。
このメタファーは既によく知られており、その衝動的且つ計画的な犯罪行為のひとつの可能性として納得できるものである。その辺りは解釈の問題であるが、重要なのは、『納屋を焼く』という短編が「人間の底知れなさ」を暗示的に示すことによって、その恐怖感をよく描いているということである。
「心の闇」を背負い、常にそれと葛藤しながら、悪に引き摺られる人物が五反田君の原型であり、それは善良なもう一つの顔、エリートで仕事ができ、誰からも好感を持たれるポジとしての面、傍からはその正体が全く分からないという恐ろしさが大きな特徴なのである。

『納屋を焼く』は、「女の子をレイプして殺害する」ことを暗示させて、読み手に受動的な恐怖感を与えるのと同時に、自分も五反田君の側に立つ人間なのかもしれないという主体的恐怖をも感じさせる。だからこそ、『ダンス・ダンス・ダンス』以降の五反田君の行方が僕は気になるのだ。

五反田君は、『ねじまき鳥クロニクル』で綿谷ノボルになり、『海辺のカフカ』ではジョニー・ウォーカーに変遷していく。実は五反田君的人物はいつの間にか綿谷的人物に変節しており、その性質は既に完全に変化しているのである。つまり、五反田君的悪は、その葛藤を失い、着実に純化している。五反田君的葛藤はもう小説として、時代的な説得力がないのであろうか?

村上春樹の新作『東京奇譚集』の最後の書き下ろし作「品川猿」には久々に五反田君的人物、松中優子が描かれる。しかし、松中優子の葛藤、その「心の闇」はこの短編のメインテーマから確実に外れている。言うまでもなく、この短編の主旋律は、主人公、安藤みずきの心のデタッチメントの気付きであり、その快復である。愛されない子供が如何にして人を赦し、自らを快復できるのか、これは『海辺のカフカ』のテーマを引き継いだ形となっており、引いてはこれまでの一人称小説の主人公が持っていた虚無感という無根拠の根拠を明らかにしようという試みでもある。それはとても大切なことだし、その心の由来もよく分かる。
しかし、それでも僕はこの短編の松中優子の存在、森の中で自らの手首を切り刻み血まみれで死んだ彼女の葛藤の行方を知りたいと思う。それはこの小説でもやはり描かれない。

僕は村上春樹の次作には改めて五反田君の行く末を期待したいと思う。そうでなければ、象は永遠に草原に還ることができないのだ。。。五反田君的煩悶と葛藤は今でもリアリティがあるし、そのリアルさを投げ捨ててはいけないと僕は思う。
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by onomichi1969 | 2005-10-08 01:38 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 父、帰る "VOZVRASHCHENIYE" semスキン用のアイコン02

  

2005年 10月 02日

a0035172_9503452.jpg解かれざる問いがあっさりと解かれてしまう。これこそが出来損ないのミステリーと言えるのではないか。現代のミステリーとは、謎が問いかけられ、そして解かれないこと、世界と人間という大いなる謎の前で解かれるべき謎のちっぽけさに愕然とし、そこから新たに謎が連鎖すること、事件の解決が読者を宙吊りにすること等々、一筋縄ではいかないのが特徴であり、ミステリーとして、作者や登場人物、そして読者たる僕らが謎に対峙する姿勢には実に現代的有り様が反映されているのだ。
確信犯的に謎を残す映画『父、帰る』は、まさにそんな現代的な謎に満ちたミステリーだといえようか。しかし、この映画で問われて解かれない謎については、それが解かれ得ない状況に追い込まれてしまうという、その状況設定こそがこの映画の肝ではないかと僕は感じる。つまり謎の解決が知らしめる真相とか真実そのものには大した意味はないはずなのだ。
この映画はもっと素直に観られるべきだと思う。父と子、母と子、兄弟、そして家族。その根源的な関係性から立ち上る感情というもの、そして生きる原理としての赦しの視線をもってこの作品を観てみれば、そこで描かれるドラマに最初から謎などない。この映画はロードムーヴィー的な平板な物語に内包される人間同士の言葉を超えた感情劇なのであり、僕らはその微妙さこそを感じ取るべきなのだ。2003年ロシア映画(2005-10-02)

Yahoo! movies 『父、帰る』
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by onomichi1969 | 2005-10-02 09:58 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 Roxy Music "Avalon"(1982) semスキン用のアイコン02

  

2005年 10月 01日

a0035172_23131724.jpg"Avalon"(1982)こそがロキシーの音楽的終焉であり、最高傑作であることに誰も異論はないだろう。
彼らがバンドの音楽的歴史の極みとして、これまで築いてきた方向性の彼方、その頂点を目指してこの作品をつくりあげたことは想像に難くない。そう考えれば、彼らが"Avalon"によって音楽的終焉という達成感を得て、それを最後に解散したことは至極当然のことであったと思える。作品の達成感は彼らに先行きの放棄、もうこれ以上は進むことができないという音楽的無力感をもたらしたはずだ。達成感から無力感へ。人が「終わり」を宣言する時に現われる地平、それは"Avalon"という達成感の中に「不安」というイメージ的要素として見出すことができるかもしれない。

僕はロキシーの行き方、そして"Avalon"という作品への到達にこそ音楽的形而上性の顕現を見る。しかし、敢えてこうも言ってみたいと思う。僕らはもう進歩の終焉こそが究極であるという考え方に肯くことはできないのだと。そこに一直線に繋がる理性の道、それに向かって疑いなく進んだ先に見出したものは、それを掴んだ瞬間に零れ落ちるべきものなのだ。到達の極みにあるのは煌びやかな評価や解釈のみであって、そこに究極の何かがあるというようなロマンティシズムは幻想なのである。それはヨーロッパの形而上学が崩壊した今となっては既に自明のことだと言わざるを得ない。

ロキシーが"Avalon"を完成させた後に得た達成感は、その作品の質に比例してかなり充実したものであったろう。しかし、それは時間と共に無力化していくのだ。それは時代精神が無化したのと同じように、作品の質とは全く別のところで彼らを絡め取る無精神の罠となり得るのである。

さて、"Avalon"というアルバムの素晴らしさ、ロキシーが目指した絶妙なる非線形の美については、これまで何度か言及してきたので改めてここで語るべくもない。前作"Flesh + Blood"(1980)の流れを着実に受け継ぎ、さらに彼らの音楽性を最高点まで昇華したアルバム、それが"Avalon"(1982)なのである。
アルバムの冒頭01 More Than Thisからラスト10 Taraまで、その構成、楽曲の質、フェリーのボーカル、演奏、アレンジと統一感、どれをとっても完璧を目指された究極のアルバムである。
上で書いたように、それは確かに幻想にすぎない。そもそもロマンとは幻想そのものなのだ。僕はこのアルバムを幻想として、それも最上級の幻想として聴くことができる。その高揚と恍惚、そして無力感を漂わせる不安。それはこのアルバムから必然的に流れるメロディなのかもしれない。完璧なロマンチシズムは脆く、それ故に美しい。

今、僕らはRoxy Musicの "Avalon"がそのジャケット写真のオブジェと同様に切りたった崖の上に聳え立つのを見る。その立ち姿から漂う孤高性と不安感。着実に上ってきた道程とは対照的に、その先にもう道はない。その後のフェリーの歩み。フェリーと同様に、実は僕らもこの時代から先の道を失っている。しかし、彼らのように自覚的でないからこそ、僕らはただ"Avalon"というアルバムに「究極性」というノスタルジーを見出さずにはいられないのだ。

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Roxy Music "Roxy Music"(1972)のレビューはこちら!
Roxy Music "Siren"(1975)のレビューはこちら!
Roxy Music "Manifesto"(1979)のレビューはこちら!
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by onomichi1969 | 2005-10-01 23:30 | 80年代ロック | Trackback | Comments(6)

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