Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

onomichi.exblog.jp

ブログトップ

semスキン用のアイコン01 <   2004年 09月 ( 4 )   > この月の画像一覧 semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 Robert Palmer "Sneakin' Sally Through the Alley"(1974) semスキン用のアイコン02

  

2004年 09月 25日

a0035172_1362847.jpg「Sneakin' Sally Through the Alley」(1974)は、Robert Palmerのデビューアルバムにして最高傑作である。僕はこのアルバムを高校生の頃にカセットでよく聴いていたが、つい最近までCDを手に入れられずにいた。しかし、今ではAmazon等で簡単にCDを購入できる。こういう傑作が時代に埋もれずに簡単に検索できるようになったのは実に喜ばしいことだ。但し、これは彼が昨年死去したことによるものであろうか? その辺りはよく分からない。
とにかく、改めて言うが、このアルバムは素晴らしい
Lowell Georgeとのコラボレーションによるブルーアイド、ニューオーリアンズサウンド。まず1曲目のSailin' Shoesは、Little Feet版よりもやはりこちらがいい。躍動感と情感溢れるボーカルがテンポのよいサウンドに映える。さらには彼独特の都会的センスが軽快で心地よい。
そして、Hey Julia, Sneakin' Sally Through the Alley, Get Outside, BlackmailとAサイドはいわゆるスワンプロックのオンパレードで、すべてはこのノリで押し切っている。僕にとって、彼のこのノリの「押し切り」はかなり新鮮なものであった。それはLittle Feetや初期のBoz Scaggsとも違い、ある意味でバラエティに富んでいないが故のシンプルな潔さを感じる。
このアルバムのAサイドはトータルで1曲のような潔い統一感があり、それが魅惑的なのである。<そうは言っても、いまやAサイドやBサイドという概念自体が無意味なのであるが。>
まぁ、とにかく僕にとってはRobert Palmerと言えば、これ。「Sneakin' Sally Through the Alley」なのだ。
[PR]

by onomichi1969 | 2004-09-25 13:04 | 70年代ロック | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 onomichi1969 「自由」について語る semスキン用のアイコン02

  

2004年 09月 21日

昨今、「自由」というのは重要なタームであるようだ。東浩紀(批評家)は、動物化とも言うべきカリカチュア的な人間の在り様が環境管理型権力<身体化を無自覚的に促す非哲学的なセキュリティ強化、或いはマクドナルド的画一化>によって知らず知らずの内に統制された世界における人間の自由について語っている。また、竹田青嗣(哲学者)は、ヘーゲル哲学或いはルソーの社会契約論に立ちかえり、社会の前提となるべき精神の本質としての自由、自己意識の原理としての自由について語る。
そして、僕(単なるエンジニア)も「自由」について語ろうと思う。
日本において、「自由」は正当に評価されていないようだ。そして、その歌い手も実力に見合った評価を受けていない。比類なきソウルとガッツに溢れた歌声の持ち主であり、若くしてブルース・ロックスタイルの頂点を極めたにも関わらず、彼のこの人気のなさは一体何故だろうか。確かにライバルであるロバート・プラントのような華々しさはない。スティーブ・マリオットのようなカリスマ性にも欠ける。ロッド・スチュアートのようなスター性には全く程遠い。終いには、おっさんの演歌ロックなどという陰口さえ叩かれる。当時はまだ20代も前半なのに、それはちょっと可哀相じゃあないか。やっぱり最大の原因は、バッド・カンパニーの頃の鉢巻にハッピ姿の<日本大好きの変なおっさんガイジンの如き>ジャケット写真なのだろうか。確かにあれは寒い。。。捨てられた老犬のような惨めな笑顔も明らかに損している。でもまぁ、そんなことはどうでもいいじゃあないか。確かに容姿はいまいちかもしれない。でも、彼らの音楽性はZEPにも比するオリジナリティに溢れているのだ。彼とポール・コゾフ、アンディ・フレーザー、サイモン・カークが繰り出す重厚なアンサンブル、泣きまくるギターと弾きまくるベース、タイトなドラミングに唸るシャウト。素晴らしい。3作目「Fire & Water」に至っては楽曲も冴え、彼らの最高傑作とも言うべき不朽の名作である。「自由」。僕は何と言われても「自由」の味方である。

a0035172_23471291.jpg


[PR]

by onomichi1969 | 2004-09-21 23:41 | ロック全般 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 別役実 『日々の暮し方』 semスキン用のアイコン02

  

2004年 09月 20日

a0035172_1246404.jpg誰でも人生におけるバイブルというべき座右の書を持っているはずだというけれども、かく言う僕の場合、それは別役実の『日々の暮し方』になるのだと思う。とはいえ、数年前に会社の同期の者にその座右の書を貸したまま、彼が会社を辞め、会う機会もないのに、いまさら返せと言うのは酷いと思い、なんとなくそのままになっていた。このところ日々の過ごし方に迷いが生じることが多くなった為、改めて教示を得むと欲し、「日々の暮し方」2冊目を購入。日々読み返しては正しき作法に対する感慨を深くしている。「正しい黙り方」「正しい小指の曲げ方」「正しい電信柱の登り方」「正しい禿げ方」「正しいつねり方」などなど。。。う~む、何事にも正しき作法というものは存在し、そして奥が深い。
[PR]

by onomichi1969 | 2004-09-20 23:42 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 尾崎豊について 2000年3月5日13時24分onomichi semスキン用のアイコン02

  

2004年 09月 20日

a0035172_2223773.jpg尾崎豊が死ぬ少し前のことだったと思う。CDショップに偶然に流れていた尾崎豊の新曲に胸を揺さぶられたことがあった。僕は足を止め、その曲に聞き入る。それは「誕生」という曲だった。そして、それは紛れもなく尾崎豊の現在形であり、高校時代以来、まともに尾崎豊の曲など聴いていなかった僕にとって、微かな衝撃でもあった。

尾崎豊といえば、「17歳の地図」や「回帰線」が有名であり、若者のもつ鬱屈した感情をストレートに歌い上げることで、多くの共感を得た。その当時、洋楽一筋の高校生だった僕にとっても、それは今までの歌謡ロックとは違った新しさとして受け止められるものだった。そしてその歌詞。「大人との戦い」「支配からの卒業」…。僕らは自由を奪われているけど飢えた狼なんだ、夢をあきらめちゃいけない、でもいつになったら辿りつけるのだろう…。多分にナイーブな感性をもちつつ、現状からの飛躍を願うという尾崎豊の歌は、僕らのある思いを代弁していたことは間違いない。でも、それは一種の熱病のようなものでもある。僕らはうなされ、そして醒める。社会というものの中で生きている以上、いつしかそこから抜け出れないことを自覚し、なんとか居場所を探そうとすることだけに懸命になる。それが生きていく術(すべ)に違いないのだから。
僕らにとって尾崎豊とは、若者のもつある種のイメージを広く共有させ、共感させてくれる一種の装置として機能したのだろう。それは、時代的な要請でもあった。80年代のあの時代だったからこそ、僕らの自覚的な「生き難さ」に触れえたのだろうと思う。
僕は「壊れた扉から」を境に尾崎豊の曲から遠ざかることになる。もちろん、彼自身の活動休止時期もあり、気が付くと尾崎豊の曲を自らの青春の1ページを飾るBGMとしてしか捉えられなくなっていた。「街の風景」や「卒業」も、今の僕らにとって甘いセンチメンタリズムとともに思い起こされる。「そういう時期もあったなぁ」って。

では、尾崎豊はどういう風に年を重ねたのだろう。
尾崎豊を一個の人間として捉えた時、そういう疑問が湧いてくる。彼もいつまでも子供ではいられなかったはずだ。いつまでも同じ歌を歌ってはいられない。辿りつけないことを歌い続けるわけにはいかないのだ。
尾崎豊の「誕生」は、彼のこれまでの道程を赤裸々に歌い上げた告白の歌である。彼は歌う。
「生きる速さに追いたてられ、愛求め、裏切られ、でも自分の弱さに負けないように立ち向かうんだ、さぁ走りつづけよう、叫びつづけよう、求めつづけよう、この果てしない生きる輝きを…。生まれてくるものよ、お前は間違ってはいない、誰も一人にはなりたくないんだ、それが人生だ、分かるか…。」
まともにいったら彼は、挫折によって袋小路に追い詰められ、孤独とともにすべての可能性は閉ざされていたはずだろう。彼は確かに愛の消えた街を飛び出し、自由と夢を追い求め、そして戦いに敗れ、挫折したのだ。でも、彼はまだ「走りつづけよう」としていた。彼が走りつづけようとしたその視線の先に何を見ていたのか?それは分からない。
しかし、問いを失いながら生きつづけている僕らの視線とは明らかに違う、それは、ある可能性を根拠として見すえられている視線ではないか。そう思えないこともない。
「誕生」を聴いて、僕にはそう感じられた。

村上春樹に「ダンスダンスダンス」という小説がある。この小説のモチーフをこう捉えることができる。「すべてを失った主人公が、根拠のないこの世界で、どのような生きる正しい道筋を辿ることができるのか?」
この小説において、主人公は最後に生そのものの狂気を理解しつつも現実的な生活を選ぶ。その着地点が現代に生きる僕たちにとって、今では凡庸に思えてしまうのは仕方のないことだ。でも、村上春樹が志向しようとしたそのモチーフは今でも生きているだろう。僕らはいまでも根拠を失っているのだ。

僕は、「誕生」から彼の使う「愛」というタームがこれまでとは違うニュアンスで捉えられており、そこにある種の可能性を見出していたのではないか、というように思える。
世界は閉ざされ、僕らは昔のように自由や夢という言葉が作り出す「世界を跳躍する」というイメージを信じられなくなっている。それでも、僕らの可能性が全く失われてしまったわけじゃない。「愛」という可能性を求めつづけることができる。「愛」とは、逆に自らの思いの可能性そのものだと。それは相手に届かない思いとしてでさえも、その可能性は失われない。思いの可能性が失われるなんて永遠にあり得ないじゃないか。
「だって、だれも一人にはなりたくないから」
「ただ、これからは別々にさがすだろうか、ロザーナ」
彼は、共闘をやめた。「ロザーナ」「汚れた絆」は、ある意味で僕らに向けた別離のメッセージだったのだろう。僕らはもう一緒にはなれないだろう、だけど生きていく可能性はあるんだ。そういうことを僕らに信じさせる、そういう歌を歌いつづけたかったのだ。

尾崎豊が死んで何年経つか?
彼が生きていたら、この時代にどんな歌を唄っていただろうか。僕らは心を振るわせつづけることができただろうか。でも、今、それは時代遅れな感覚になりつつある。哀しいことだけど。

彼のラブバラード「ふたつの心」や「For-get-me-not」の詩は、シンプルに素晴らしい。悲しみも彼自身の思いの現れを想起させるから。
「分け合うものなど始めからないけど、心さえあれば、いつでも、ふたりはあるがまま…」
[PR]

by onomichi1969 | 2004-09-20 22:21 | 日本のロック | Trackback(2) | Comments(0)

アクセスカウンター