Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 ゴッドファーザー・サガ "THE GODFATHER: THE COMPLETE NOVEL FOR TELEVISION" semスキン用のアイコン02

  

2004年 08月 07日

a0035172_1253323.jpg「ゴッドファーザー・PART1」と「PART2」を年代順に並べなおした「ゴッドファーザー・サガ」。
テレビの深夜劇場で4週連続2時間づつ放映していたのを眠い目をこすって観続けたのは、僕が高校生の頃である。

少年ビドーがコルレオーネ島から逃げるところに始まって、アメリカのイタリア移民社会での貧しい暮らしぶりやその中で暴力によりのし上がっていくところの淡々としていながらも叙情的な映像、ドラマティックで緊張感溢れる殺戮シーンと若きデニーロの哀愁と野望を秘めた表情、その精悍な立ち回り、時折発っするセリフから漂う掠れた雰囲気などなど、初回にしてぐぐぐいっと惹き込まれたものだ。
その後のブランドやパチーノの登場、とくにパチーノの挫折や成功の具現者としての憎悪と苦悩の歴史から、忘れがたい胸を締め付けられるようなラストシーンに至るまで、全てに通底した「呪縛の歴史」には圧倒されたと言う以外に言葉がない。でも、このコッポラ作品には、<その後の大傑作「地獄の黙示録」にも通じるが>歴史大作であるとともに、ニューシネマ的な青さ、もどかしさが僕にとって大きな魅力なのである。
デニーロやパチーノのようなニューヒーロー達の若々しい存在感は、その「もどかしさ」の体現者として、僕らの胸をしめつける。

この物語は、ファミリーの血の結束をテーマとしながらも、魂の孤独へのアンビバレンツな感情、呪うが故に救われる、その絶対的な孤独への呪縛を描いていると言えないだろうか。

「この世界は永遠に家庭とは相容れぬ。破滅か、しからずんば。。。世に孤独ほど憎むべき悪魔はいないけれども、かくのごとく絶対にして、かくのごとく厳たる存在もまたすくない」-坂口安吾の青春論より- 1977年アメリカTVドラマ(2002-12-26)
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by onomichi1969 | 2004-08-07 01:26 | 海外の映画 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 華氏451 "Fahrenheit 451" semスキン用のアイコン02

  

2004年 08月 07日

a0035172_225204.jpgブラッドベリの名作SF小説の映画化。小説の冒頭に物語のイメージを決定付ける挿絵がある。
火焔に包まれた家とその中で本を片手に叫ぶ女性。取り囲む群衆と無残に踏み捨てられた本の数々。一人の焚書官の背中が大写しとなっている。ファッショナブルな防護服とモヒカン様のヘルメット。背中には何やら火炎発生器のような四角い装置を背負って、そこから伸びるトカゲの尻尾のようなホースを手に持っている。小説の内容以上に印象に残る絵だ。
トリュフォーがこの近未来小説のビジュアルイメージ化を焦点にしてこの映画を製作したことは想像に難くない。焚書官の制服は挿絵や小説の記述イメージそのままだし、部屋の一面を使った巨大なテレビや自動扉付の家もこの近未来小説に沿って造形されている。
しかし、小説で描かれるその他の自動機械の映像化は全く無視されており、現代の僕らから観て、あまりにも牧歌的な装置の数々にはちょっと落胆するものがある。大体がブラッドベリ自身、4,5世紀先として描いた自動化イメージが今現在あっさりと凌駕されてしまっているというのも二重の悲劇だ。この映画をSFと呼ぶのが躊躇われるのも致し方ないかもしれない。
にもかかわらず、この映画に僕らを惹きつける魅力があると感じるのは何故だろう。

小説の中にこういう記述がある。
「二十世紀の初期になって、映画が出現した。つづいてラジオ、テレビ、こういった新発明が大衆の心をつかんだ。そして大衆の心をつかむことは、必然的に単純化につながざるをえない」

元々、ブラッドベリは本と対立するものとしてイメージを規定する装置である映画やテレビを想定しているのだ。トリュフォーはそれにどう答えたか。それがこの映画の中にある。徹底的に簡素化された登場人物たちの演技や印象的な音楽、想像力を喚起するイメージ映像。トリュフォーが敢えてこの小説を映画化した意味を強く感じるのだ。1966年フランス・イギリス映画(2004-03-01)

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by onomichi1969 | 2004-08-07 01:17 | 海外の映画 | Trackback(2) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ニューシネマパラダイス "Nuovo cinema Paradiso" ~あの兵士は誰なのか?~ semスキン用のアイコン02

  

2004年 08月 07日

a0035172_1111178.jpg兵士はなぜ99日待ちつづけて100日目に現れなかったか?
それは100日目には王女様が現れてしまうことが約束されていたからではないでしょうか。99日目までに王女が現れることへの期待と待つことによって募っていく憧れそのものが彼にとっての恋愛だったと僕は思います。

可能性としての恋愛。憧れ。叶わない、手の届かないことの中に可能性としての恋愛がある。それは、挫折を恐れるナイーブな感性をもつアルフレドの人生観そのものじゃないかな。あの兵士はアルフレドそのものでしょう。

逸話の中の王女とスクリーンの中の女優たち。
アルフレドの憧れとトトの挫折。

この映画の忘れられないラストシーンもそう考えるとよりいっそう印象深いものになるんじゃないかな。1989年イタリア・フランス映画(2002-04-11)

完全版のレビューはこっち!
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by onomichi1969 | 2004-08-07 01:13 | 海外の映画 | Trackback(2) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 クロッシング・ガード "The Crossing Guard" ~見えない出口を求めて~ semスキン用のアイコン02

  

2004年 08月 07日

a0035172_117240.jpgショーンペン監督2作目は、彼の前作<傑作でもある>「インディアン・ランナー」と同一線上にある作品といえる。

「兄は弟を追いながらそのことの意味を理解できない。弟は兄に追われながらその理由を失っている。」
「インディアン~」のレビューで僕はこのように書いた。人が理由なく分り合えないという切実さを描いたのが「インディアン~」であれば、「クロッシング~」はその地平をさらに一歩進め、そして反転させ、そこからポジティブな回路を模索しているように思える。追う者と追われる者という図式は同じだが、双方にはそれぞれ、そうするための理由が存在する、加害者と被害者という明確な理由があり、それは、お互いが分かり合える足場を既に失っていることを意味するのだ。

にもかかわらず、お互いがその「分かり合えなさ」に対する信憑すら持てず、失った足場の上空でもがきながらも理解への希望を捨てていないようにみえる。絶望的な立場を超えて、人と人はどうコミットし得るのか。いや、絶望的だからこそ、意味を求めてコミットする、その向こうに何があるのか。それは非常に難しいモチーフだ。この作品ではっきりとその答えが示されているとは言えないし、作品自体も1作目に比べて散漫な印象がある。ただ、目指すべきところには大いに共感できるし、正直、ぐっときたんだなぁ。
この監督、やっぱり只者ではない。ショーンペンは今後も注目すべき監督であることは間違いないだろうね。1995年アメリカ映画(2003-10-09)
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by onomichi1969 | 2004-08-07 01:04 | 海外の映画 | Trackback | Comments(2)

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