Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 カテゴリ:ドキュメンタリー( 8 ) semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 ゆきゆきて、神軍 semスキン用のアイコン02

  

2012年 04月 22日

a0035172_1115344.jpg高校3年生の頃、当時の国語の先生が「戦争」を知ることのできる幾つかの文芸作品を紹介した。その中で僕が覚えているのがヴェルコール『海の沈黙』、遠藤周作『海と毒薬』、大岡昇平『野火』。そして、それら小説群と共に、先生は、映画『ゆきゆきて、神軍』の衝撃について僕らに語って聞かせた。それからすぐに映画を見に行ったか、それとも暫くしてからビデオで観たのか、実はあまり覚えていないが、当然のことながら、この映画から受けたある種の衝撃は、いまだに深く僕の心に刻まれている。何せまだ純真な高校生だったのだから。。。

戦争従軍体験者の方々の多くが戦後、黙して語らないこと、これは何を意味しているのだろうか。彼らにとって戦争というのは、目の前の現実としてあったはずであるが、山本七平が戦場というものを「何が起こったのかなんて全く分からないまま、気がつくと周りが死体だらけだった」という現実として捉えていたように、体験していながら語りえないもの、事実としてそういうこともあったのだろう。しかし、別の意味で語りえない、語りたくない現実というものもあったはずである。戦場を生きるということは日常の倫理を超えて、人間を残虐にする。それは強さへの過信と共に誰もが持っている弱さから膿出るものであり、戦争という不条理下での否応ない現実なのだ。戦場帰還者に対して、僕らがそのことを論うことはできない。逆にそういう弱さを認識すること、そしてお互いをそういう弱さを持った人間として赦し合うことこそが人間という関係性にとって最も大事な認識<優しさ>ではないか、と僕は思っている。

そんな認識に対する強烈でいて確信犯的なアンチテーゼが奥崎謙三という存在であることはもはや言うまでもない。正直いって彼を見ているとある種の嫌悪を感じずにはいられない。しかし、彼こそは純粋でイノセントな人間であることもまた確かなのだ。今やイノセントは行き場を無くし、それは狂気へと容易に転化する。この映画は、そんな人間の弱さを認めず、敢えて時代錯誤的なイデーを身に纏うことによって強さを仮装する男、奥崎謙三の確信犯的な自作自演劇であり、また、それは彼が表現しえたギリギリの人間的な喜悲劇とみなすことができるのではないか。1987年日本映画(2004-05-29)
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by onomichi1969 | 2012-04-22 09:25 | ドキュメンタリー | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ある少女の選択 田嶋華子さんの「延命拒否」 semスキン用のアイコン02

  

2011年 07月 23日

「ある少女の選択 “延命”生と死のはざまで」 NHKクローズアップ現代 2010年12月8日放送

腎臓の「人工透析」30万人。口ではなくチューブで胃から栄養をとる「胃ろう(経管栄養)」40万人。そして、人工呼吸器の使用者3万人。「延命治療」の発達で、重い病気や障害があっても、生きられる命が増えている。しかしその一方、「延命治療」は必ずしも患者の「生」を豊かなものにしていないのではないかという疑問や葛藤が、患者や家族・医師たちの間に広がりつつある。田嶋華子さん(享年18)は、8歳で心臓移植。さらに15歳で人工呼吸器を装着し、声も失った。『これ以上の「延命治療」は受けたくない』と家族と葛藤を繰り返した華子さん。自宅療養を選び、「人工透析」を拒否して、9月、肺炎をこじらせて亡くなった。華子さんの闘病を1年にわたって記録。「延命」とは何か。「生きる」こととは何か。問いを繰り返しながら亡くなった華子さんと、その葛藤を見つめた家族・医師たちを通じて、医療の進歩が投げかける問いと向き合いたい。
「NHKクローズアップ現代 内容紹介」より

昨晩、富山のホテルで再放送をたまたま観ることができました。
とても胸を衝かれました。

背骨が曲がり心臓に重い障害をもつ田嶋華子さんは、18歳の時に腎不全を発症し、自らの命の限界を悟ります。延命の為には入院による人工透析が必要なのですが、華子さんは「普通に家族と三人で暮らす」為にその治療を拒否するのです。そして言葉を伝えます。「命は長さじゃない。どう生きるかだよ」
両親は華子さんの意思を尊重しつつも、揺れ動きます。彼女の体は人工透析を受けないが故に浮腫み、膨れ上がっていきます。あるとき、父親は耐え切れず、華子さんに入院を勧めるのですが、彼女は父親の申し出をやんわりと拒否します。彼女は無力を嘆く母親にそっと手を差し伸べ、やさしく手を握ります。華子さんは、自身の生き方を貫きます。とても静かで強い意志、深い決意で。2ヶ月後、彼女は両親に看取られながら、自宅で息を引き取ります。

華子さんの決断は、「延命治療」の是非という「医療の進歩が投げかける問い」というよりも、「生きるとは何か」というシンプルな問いとして僕の胸を衝いたのです。声を失った華子さんは、パソコンや携帯のメールで多くの意思を残します。華子さんの言葉は、彼女のメール友達で、7歳の娘を病気で亡くしている年長の大学教授、野口明子さんの心を動かしたのと同時に、とても説得的に僕らに響くのです。彼女にとって「命」とは、先に延ばすものでなく、その瞬間を生きること、本当に大事な人と共にいることだと伝えられます。

彼女が「生きたい」と言うとき、それは大好きな家族とゆっくり過ごすことを指します。両親の問いかけに頷き、はにかみながら、笑顔で手を振る華子さん。それが自分らしくふわーと生きていくこと。生きるとはこういうことなのだなと教えられます。

死ぬのは怖くないの?と聞かれ、彼女は答えます。
「終わりだけど、終わりじゃない。心があるから怖くないんです」
そして最後の言葉。「感謝」

華子さんは自分の生き方を伝えたかったのです。多くの人に。だからこのドキュメンタリーがあります。ぜひDVD化または永久アーカイブにして欲しいですね。

ダイジェスト版はこちらで

※ ダイジェスト版では、華子さんと野口さんのメールでの交流がカットされています。本当はこのやりとりがとても心に響くのですが。。。
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by onomichi1969 | 2011-07-23 22:47 | ドキュメンタリー | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 1999年のよだかの星 semスキン用のアイコン02

  

2011年 06月 23日

化粧品の動物実験廃止に向けた資生堂の取り組み

EUでは、2009年から動物実験により開発した化粧品の販売を段階的に規制し、2013年にはほぼすべての製品開発に規制の網がかかる見通しとのこと。日本の最大手企業もようやくそれに倣ったということだろうか。

森達也の『1999年のよだかの星』というドキュメンタリー映像作品を思い出した。

あらゆる化学物質の商品化(医薬品、食品、化粧品など)の際に義務づけられている動物実験。だが、その実態を取材することは、大手企業の公にされない業務や研究過程に触れざるを得ない為、テレビ業界ではタブー視されている。また、諸外国では既に動物実験に関する法的規制がなされているにもかかわらず、日本ではそれがない(1999年現在)。動物実験に使用されるのは、動物園で過剰に増えすぎた猿やペット・ショップで売れ残った犬など。彼らは、体に異常がなくても人工血管埋め込み手術などを受け、生かされる。しかし、それらが難病・筋ジストロフィーなどの治療の役に立っていることは否めないし、研究員に動物実験に対する葛藤がない訳では決してない。スタッフは、動物実験に関するあらゆる現場を公平な視点から取材し、自身の中に芽生える矛盾を感じながらも、その実状を、宮沢賢治の童話『よだかの星』の絵本と並行して、カメラに収めていく。
(森達也監督『1999年よだかの星』 goo映画あらすじより)
 
かなりショッキングな内容のドキュメンタリーであった。しかし、それが事実である。森達也は、動物実験用に使われる器具(猫用ギロチンとか)を扱うメーカーを取材したり、医療における動物実験の実態を調査し、実際の動物実験の様子を公開しつつ、その有用性をもしっかりと伝えている(必ずしも動物実験完全否定という立場ではない)。開発された医薬品の薬効や毒性を調べたり、化学物質の人体への影響を確認するのに動物実験は有効な方法である。もちろん培養細胞などで代替する方法もあるが、生体内の生理的条件の違いから、その同等性を担保することは難しい。実際には動物実験を通して、難病に抗する新薬の薬効や毒性が正当に検証され、治験へと繋がり、上市によって多くの患者が救われている。医薬品開発における動物実験を完全に禁止することは今後も難しいであろう。動物実験用器具を販売する会社の社長が自分たちが社会に貢献していることを堂々とアピールするのも間違いではないのである。

但し、我々はその実態を直視するべきなのではないか。森達也はそう視聴者に語りかける。その姿勢は、『いのちの食べかた』や『東京番外地』で屠場を取材し、その内容(牛がどのように屠られ、バラバラにされ、パックの肉片に変わっていくのか)を逐一明らかにしたことにもよく表れている。それも子供向けの本として。

欧州のいくつかの国では、化粧品に関して、以前より法律によって動物実験が禁止されており、今ではEU全体に規制が敷衍している。今回、ようやく日本の最大手企業(政府ではない)がそれに追従したわけである。しなくてもよい殺戮はするべきではないだろう。日本では、年間24万匹の猫、10万匹の犬が処分されている。その多くは飼い主や地域住民からの通報或いは依頼なのだという。以前の記事でも紹介したが、ドイツでは飼い犬が行政によって処分されることは一切ない。なんという違いだろうか。それは国や自治体の姿勢、在り方の差であると共に、その構成員の意識の差であり、彼らは物事をしっかりと直視し、理解し、そしてよりよい在り方を模索し選択する、そういう道筋を是とする共和的な土壌があるのだ。それが彼ら特有のヴァーチュー(美徳)なのだと僕は思う。EUは基本的に格差を包含した連合体である。だからこそ、国や連合として、時には「上から目線」とでも言うべきヴァーチューが自然に働く風土がある。それは不合理な自明性に優先し、ドラスティックに物事を変革する力にもなる。

話を戻す。日本で動物実験により殺戮されるマウスは、年間800万匹(神様と同じ数)。食用として殺戮される牛の数は年間500万頭、豚は2000万匹、鶏は9億羽と言われている。どれも同じ動物の命であるが、そこには明らかに天国と地獄ほどの違いがある。僕らにその生死を分ける命の本来的な価値の違いなんて分からないし、殺される立場の生の有り様を推し量るすべもない。またその手段があったとしても、分かろうとする勇気が果たしてあるのか。
これを自明性というならば、僕らはその事実を知らずに済ますわけにはいかないのではないか。それを合理的なものとして理解して生きていく必要があるのではないか。

僕らが食事をする際に言う「いただきます」とは、「いのちをいただきます」という意味である。そういうヴァーチューがあったということをまずは知るべきだろう。
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by onomichi1969 | 2011-06-23 21:15 | ドキュメンタリー | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ドキュメンタリーは嘘をつく semスキン用のアイコン02

  

2007年 02月 18日

森達也の過去のTVドキュメンタリーをYouTubeで観ることができる。彼の代表作でもある『放送禁止歌』や動物実験をテーマにした『1999年のよだかの星』。そして、彼の近作『ドキュメンタリーは嘘をつく』も観られるようになった。『ミゼットプロレス伝説』や『職業欄はエスパー』もアップしてほしいところであるが、さすがにそこまでは録画ソースがないのかもしれない。(追記:『職業欄はエスパー』もアップされていた!070714)

森達也と言えば、オウム真理教という異端集団を外側からでなく、その内側から描くことで、僕たちの社会が偏見やメディアの偏向報道によって如何に思考を停止していることを明らかにした傑作ドキュメンタリー映画『A』『A2』が真っ先に思い出される。(この2作品はビデオでも発売されているので、大手レンタルビデオ店なら借りることができると思う) 『A』と『A2』が多くの識者によって注目され、数々の映画祭に出品されて話題になったことにより、森達也はメディア批判の旗手として一躍有名になった。『A』については、撮影日誌的なものが本でも出版され、好評を博すが、僕の感じとしては、『A』と『A2』の映像を観てこその本であって、映像に比べれば、その本の内容に対する印象はやや薄い。それに比べれば、その後に書籍化した『職業欄はエスパー』や『放送禁止歌』はなかなか読ませる内容になっていて、以後、多くの本を執筆し、すっかり文筆家といった感じの森達也の作家的礎となった作品であろう。ドキュメンタリーの方はと言えば、近作『ドキュメンタリーは嘘をつく』のような作品を撮ってしまうと、もう映像で森達也の次作品を期待するのは難しいのかなという気がしないでもない。

さて、森達也の主張というのは、これまで一貫している。「客観的な報道などありえない。しかし、それを認めず、主語を失ったメディアは結局のところ共同幻想に囚われ、思考停止しているだけなのだ。そして、それは全くの鏡像であり、共犯関係にある視聴者/大衆も同様に思考を麻痺させており、メディアの描く幻想を強固に補完しているのである。一人ひとりが本来の情動や思考を止めることで巨大な民意は形成されるのだ」

自作のドキュメンタリー映画「A」や「A2」に対して、異論を唱える人が使う論理のほとんどは、「あなたは地下鉄サリン事件の遺族の気持ちを考えたことがあるのか?」だ。「あなたは遺族なのですか?」と訪ね返せば、「そうではない」との答えが返ってくる。「ならば遺族を主語にするのではなく、あなたの感想をまずは聞きたい」と言っても答えはない。ほとんどの人は自分の気持ちなどどうでも良いとばかりに怒り続けるか、そうでなければ、そんなこと考えたこともないというように、きょとんとしている」
森達也 『世界が完全に思考停止する前に』

最近、関西テレビの「あるある大事典」やその他相次ぐテレビ局のやらせ問題によって、世の中の人たちもようやくテレビというのは嘘をつくものだということが分かってきた、と思いたいところであるが、実際はどうなのだろうか。ニュースやドキュメンタリーは制作者の意向によって、いくらでも演出は可能であるし、その演出によって視聴者を自由自在に煽動し、時には個人を徹底的に糾弾して、社会的に抹殺することもできる。メディアとは本来的にそういうものであり、「やらせは不謹慎である」などと怒ってみてもしょうがないのであるが、「あるある」が視聴者のバッシングの対象になるとそれを必要以上に煽って、スケープゴートとばかりにメディア自身がそれを糾弾する側にまわり、自らに対する反省のかけらもない。恐るべき自己言及性の欠落であり、自己矛盾の無自覚な反復。それがメディアの現状であるが、でも、いまやそれも仕方ののないことなのかもしれない。なぜならば、その本質は僕らの鏡像であり、メディアは大衆と一体化して完全に思考停止している、それが森達也の主張なのである。

最近、メディアのバッシングの対象になったのと言えば、柳沢大臣の発言と不二家、そして北朝鮮であろうか。近年のメディアは何かを叩くのが仕事になっていて、これらが叩かれるのを見て僕らが喜ぶ→さらに扇情的になるという構図になっているようである。その論調がメディア全体で画一的であることも特徴であるようだ。

それぞれのニュースに対して、僕個人として思うところを少し書いてみる。
まず、柳沢大臣の失言問題。僕には大臣の発言が国会を空転させるようなそんな大仰な問題とはとても思えず、TVカメラもないどっか地方の後援会でちょっと言葉を間違えた(大臣はすぐに謝って訂正している)程度の話だと考えている。それが何者かによってリークされ、問題発言部分だけがクローズアップされてメディアの一斉糾弾にあう。何かおかしい。メディアやネットの論調は「女性が産む機械」という言葉への非難に集中しているが、本当に論じなければならないのは、少子化対策そのものの是非、実はもっと大きなビジョンの問題なのではないだろうか?それはとても難しい問題である。しかし、それをデリケートな問題などとすることこそおかしいのだと僕は思う。大部分の政治家はろくでもない人たちとだとは思うが、柳沢大臣はその中でもわりと良識派と言われる人だ。そういう人を個人攻撃するのは楽しいのかもしれないが、論点が違うんだよ、と思わざるを得ない。

不二家についてはもう何も言うこともないが、完全なスケープゴートとしてここまで叩かれたのだから、業界のその後の品質保証体制について十分な改善を望むのみである。(僕自身、仕事としてこういった分野に携わっていたりするけど、、、) ところが、今日の新聞、、、

明治製菓チョコにガの幼虫が混入、10万個自主回収 -読売新聞

バレンタイン後の発表ということを考えれば、不二家よりもよっぽど作為的で悪質のような気がするけど、こういうのを叩くも流すもメディアやネットのさじ加減なのだ。この二番煎じ的なネタをどう扱うか、意図的な煽りがなければ、ネット板でそれほど盛り上がる話題とは思えない。

北朝鮮についても、もうそろそろ拉致問題中心の外交方針を考え直した方がいいと僕は思う。メディアが腫れ物を触るようにこの問題を扱うこと自体が問題なのだ。北朝鮮が何をやっても悪者という(過去のオウム報道と全く同じ)構図にはいささかうんざりさせられるし、政治と経済交流、そのレッテルの貼り方、全ての要素を画一化して見すぎているように思う。もし、北朝鮮という国が圧制によって支配されているのであれば、国民全体が被害者なのだという見方もできる。そういった視線は間違いなのだろうか?彼ら彼女らは自らの意思に関わらず、その地に存在しなければならないのだが、彼の国でどれだけの人たちが餓えに苦しんでいるのか、僕らは全く知らない(か無視しているか、知ろうともしない)。

いずれにしろ、ニュースは作為的に強弱を付けられて報道されるもので、僕らにできることは、大新聞のニュースと言えども、論説の部分は話半分で聞くことだ。客観的事実や真実などいうものは本質的にありえず、それは単なる解釈にすぎないのだから。

最後に、、、皆さんは、麻原彰晃が既に5年以上も誰とも口をきいていない統合失調症(昔でいう精神分裂病)であること(にもかかわらず一度も精神鑑定をされずに刑が確定しているということ)を、宮崎勤の父親を含め、凶悪事件の加害者家族に多くの自殺者が出ているという事実を知っているだろうか。そういういうことはめったに報道されない。
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by onomichi1969 | 2007-02-18 09:03 | ドキュメンタリー | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 華氏911 semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 10日

a0035172_19535592.jpgムーア氏の前作『ボーリング・フォー・コロンバイン』は、アメリカ世界の現代的セキュリティの問題を鋭く解いた秀逸なドキュメンタリーであったと思う。
それを認めた上で僕は、セキュリティというタームが必然的に覆い隠す人間の本質的な生の歪んだ物語にこそ目を向けるべきなのではないかと前作のレビューで書いた。

しかし、それはどうやらムーア氏の仕事ではなかったようであるw 『華氏911』は、前作で示した彼の社会構造論的な解釈を踏襲し、アメリカという脅迫観念に縛られた国家が必然的に志向しながら常に隠匿せざるを得ない社会的構図を様々な角度から追求した渾身のドキュメンタリーであるといえる。さらにそこから導き出される国家による作為的なセキュリティに対する本質的な懐疑を素直に表明しており、僕はこの点を大いに評価していいと考えている。

この映画そのものをムーア氏の妄想だとする意見もあるかと思うが、映画の中で取り上げられた事実或いは解釈は、僕にとって特に目新しいものではなかった。つまり、こういった事実或いは解釈は、アメリカだけではなく、日本でも既に指摘されているものである。大局的に見れば、この作品で取り上げられた事実或いは解釈に僕は大いに納得する。

しかし、人間一人一人に目を向けてみれば、やはりこういった国家的セキュリティ批判という考え方が個々人のある種ナイーブな側面/その視点を覆い隠してしまうのではないか、という思いも拭いきれない。この作品の中には、人間の原理という地平において、もっと捻じ曲がった物語が見え隠れしている。それはセキュリティという次元の問題とは全く別のものと思われて仕方がないが、今のところこれをムーア氏に期待するのはお門違いかもしれない。

それにしても、アメリカという国は懐が深いと思わざるを得ない。この映画の内容も然ることながら、こういう映画が存在すること自体がある意味でアメリカなのだと思う。僕は素直にそう感じた。(2005-01-23)
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by onomichi1969 | 2006-12-10 19:57 | ドキュメンタリー | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ボウリング・フォー・コロンバイン semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 10日

a0035172_1950425.jpgアメリカの銃社会が白人のインディアンや黒人に対する自己防衛という脅迫観念から発したものであり、その脅迫観念は、境遇が変わった今でも形を変えてマスコミにより煽情的に流布され続けている。脅迫観念は常に外敵を作り出さずにはいられない。銃による犯罪は、その脅迫観念によって常にアメリカ白人の重要な関心事となり、その銃犯罪の誇大報道そのものが自己防衛としての銃社会を国家的に認知していく、と同時に銃犯罪を助長している。。。

なるほど、まさにその通りかもしれない。ムーア氏の解釈はなかなか的を得ているように思える。この映画のタイトルでもあるコロンバインでの銃乱射事件の背景にあるのは、確かに彼の言うようなアメリカの銃社会という制度的(潜在的)な問題と利害を含んだマスコミのプロパガンダによるものなのかもしれない。

ただ、それを理解した上で僕は問いたい。
何故、彼らは自分達の同級生に銃を向けなければならなかったのか? 

ムーア氏が銃犯罪の少ない国として賞賛する日本(銃携帯が認められないから当たり前か)でも子供同士の殺人事件が最近起こった。日本のマスコミは、事件の背景としてインターネットやお受験の弊害について論うのみで、動機は常に「心の闇」という言葉に帰着させているように思えた。<それは15年前から先に進んでいない> 確かにそこから導き出されるディスコミュニケーションや疎外感の問題にある種の正当性はあるのだろう。その正当性を信じたいがために、また理由の見当たらない宙吊りの状態に耐えがたいがためにそこへ誰もが理解できる物語を当てはめたくなるのである。

僕はそこに違和感を感じる。彼らの物語はもっと歪んでいるのだ。その歪みを正すのは、彼ら自身の生の原理を捉えた彼ら自身の物語しかないのではないか。ムーア氏はコロンバインの殺人者達が事件の直前にボウリングをしていたことに言及していたが、それは彼らの歪んだ生の原理が垣間見える瞬間ではなかったか。ムーア氏は言及しただけで追及しなかったボウリングを禁止したからといってコロンバインの問題がすっかり解決する<彼らの歪んだ生が癒される>はずがないということは言うまでもないが。(2004-09-04)
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by onomichi1969 | 2006-12-10 19:53 | ドキュメンタリー | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 A2 semスキン用のアイコン02

  

2005年 10月 10日

a0035172_2342341.jpg「A」と比べて「A2」がそのテーマを明確にしたことによって、出色のドキュメンタリーとなっているということに全く異論はない。そして、そのテーマとは、「オウムと世間との共存の可能性」である。オウムが日本各地に移転するたびに地域住民から排斥運動を受けて、結局追い出されてしまう、こういった構図は僕らも新聞報道等でよく見かける。しかし、映画の中では、オウムを監視していた地域住民ボランティアが監視を続けるうちにオウム信者達と仲良くなり、逆に地域内での一般住民たちの軋轢こそが浮き彫りになる、というケースを克明に描いてみせる。確かにそこで描かれるオウム信者はあまりにも普通の好青年であり、オウムでありながら地域社会に見事に溶け込んでいるように見える。彼らがその地域から引っ越す際には多くの地域住民たちに涙をもって見送られるのである。もちろん、このような例は数少ないに違いない。多くはオウムと地域住民たちとの滑稽なすれ違いの繰り返しなのだろうと思う。しかし、一部ではありながらこういった例が存在し、そんな現実をひとつの可能性として提示し得たことにこの作品の重要なテーマをみるのである。

基本的に未だオウムというのが麻原への信仰を捨て切れない、世間から閉鎖した危険な思想団体であることに間違いはないだろう。それは彼らが世間から閉鎖された出家団体であり、世間とは根本的に対立する考えを持った人々の集団であることから既に自明なことである。一見するとそこに出口はないように思えるが、彼らが共存を求めており、僕らが社会としてそれを受け入れることを選択した以上、それが全く不可能ではないことをこの映画が指し示していることは重要である。人には信仰の自由があり、各人が別々の信仰を有しながらも共存共栄していくというのが正しい社会のあり方である。そんな当たり前の社会を不可能にしているとすれば、それは人と人との関係を強烈に捻じ曲げる偏見という名の人格無視だろうと僕は思う。お互いが分かり合える足場を失った状態でも人が人を理解する希望を失わないこと、そのためのシステムを作り上げること、それがこれからの社会の中で重要になっていくに違いない。無条件な憎しみの連鎖にだけは陥ってはいけないのだと僕は思う。

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by onomichi1969 | 2005-10-10 23:04 | ドキュメンタリー | Trackback | Comments(5)

semスキン用のアイコン01 A semスキン用のアイコン02

  

2005年 10月 10日

a0035172_2258823.jpg「A」と「A2」を連続して鑑賞した為に「A」の印象というのは若干薄い。これは「A2」の方がより考えさせられる内容だったことにもよるかもしれないが、かといって「A」に見るべきものがなかったかというとそれも全く間違いである。「A」があくまで荒木広報副部長を中心とした物語であるとすれば、オウムという日本を震撼させた犯罪者集団、狂信的宗教団体の中で、あまりにも普通に苦闘し煩悶する彼の姿を浮き彫りにしていることにこの映画の重要な意義を感じるからである。

僕は、ある意味で同世代の彼に安堵と共感の念を禁じえなかった。僕らが忘れかけていた青春的な葛藤劇をこんなところで見せられるとは思ってもみなかったけれど。<これを青春映画と呼ぶことに全く異論なしです> 
もちろんオウムの犯罪は今でも許しがたいものであり、僕らは安易に彼らの信教を犯罪から切り離して認めることはできない。矛盾を抱えた世の中と自分自身との関係に苦しみ、人生に対する絶対的な回答を得たいという彼らの真摯な願望は分からないでもないが、その終着が今でも麻原に行き着くところに捩れた純粋さを感じる。しかし、この映画はその辺りのところは脇に置いておいて、オウムという鬼っ子を完全に排除したいという公安機構や犯罪者集団というレッテルでとにかく押し通したいマスコミや世間の醜悪さを見事に描いており、どちらかというと僕らの側にあり、僕らが意識することなく認めている体制というものに様々な理不尽さが存在することを見せ付けるのである。
とにかく偏見というのは恐ろしいものだ。オウムは信者をマインドコントロールするために多くのビデオやマンガを用いたそうだが、今、思考停止状態にある世間をメディアが煽動することほど簡単なことはない。中立であるはずの報道が偏見の為に誤った情報を流し続ける、そういう恐ろしさを感じざるを得ないのである。この映画は誠実な人、荒木氏の廻りの不誠実な公安権力やメディアをかなり決定的に映像化しえたことでドキュメンタリーとして成功したとも言えるのではないだろうか。

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by onomichi1969 | 2005-10-10 23:01 | ドキュメンタリー | Trackback | Comments(0)

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