Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 断章:汎神論から不在の神へ semスキン用のアイコン02

  

2012年 06月 16日

a0035172_2336312.jpg「「不在の神」とは何でしょうか?」 そういう質問のようなものを連続して頂いたこともあり、少し自分なりに纏めてみました。取り留めもないメモのようなものです。

信仰としての神は、その対象としての実体であり言葉であり霊的なモノとして捉えられますが、神を哲学として捉えた時、スピノザに代表される汎神論、「いっさいの完全性を自らの中に含む神。超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因となる神。神とはすなわち自然である」という考えが一つの前提となります。完全性としての神は、言い換えれば信仰としての神の不在となり、スピノザは無神論者というレッテルを貼られることになりました。

汎神論は、「不在の神」という概念を導き出します。思想家であればシモーヌ・ヴェイユ、文学者であればドストエフスキーに代表される考え方かと思います。

ヴェイユは自己否定としての神を語ります。神は創造以前には全てであり、完全であったのが、創造によって自分以外のものが世界に存在することに同意して、自ら退くことになります。神の代わりに世界を支配するようになった原理は、人格の自律性、物質の必然性です。ヴェイユは、偽りの慰めを退け、想像上の神を信じる者より、神を否定する者の方が神に近いと言いました。全く神が欠けているということで、この世界こそが神そのものであり、その奥義に触れることで人ははじめて安らぐことができると、ノートに書き残しているのです。「神の恩寵は、しばしば不幸のさなかにおいてさえ、われわれに美を感じさせる。そのとき、ひとがそれまで知っていた美よりももっと純粋な美が啓示されるのだ」と。

神を実体として信仰することは、この世の中の不幸、幼い子供が虐待によって何の罪もなく死んでいくという現実の矛盾を肯定することと同義なのではないか?これはドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で問うた命題です。この世の中には絶対的な悪がある、それを以て神の不在を唱えるのは簡単であるが、その不在を含んだ世界の有り様にこそ、真に人を倫理的に人たらしめる道があり、それこそが信仰すべき対象、愛の源泉としての神の徴なのだと考えるしかない。ドストエフスキーの中には神の実在と不在が常に共存していました。

汎神論及び不在の神という概念は、認識論の中の究極の妥当性(二律背反の統合)という観点において、現代科学にこそ当て嵌まるものだと思います。欧米では、科学と宗教は基本的に矛盾しません。量子力学と神の存在は両立するのです。そもそも、神の御業によって成立した世界を人間の理性によって明らかにしようとする試みこそが科学であり、だから、アインシュタインは量子の確率論的な不確定性を「神はサイコロを振らない」と言って否定しました。神は完全であるべきだと。「私は、スピノザの神を信じる。世界の秩序ある調和として現れている神を」と。しかし、世界は不完全で不確定であることが科学的に証明された現代において(ハイデルベルグの不確定性原理とゲーデルの不完全性定理)、神は、完全さと不完全さを包含した世界を肯定し得る唯一の存在として感じることもできるのです。

科学の最先端にこそ、神の影を見いだすことができます。宇宙のビッグバン以前、高密度の物質と真空エネルギーのインフレーションは、その空間と時間のゼロ地点、その先を遡ることができない「特異点」という問題にぶつかります。近年、それはトンネル効果であるとか、量子ゆらぎであるとか、いろいろ言われていますが、要はこれが「神のひと押し」であり、科学の限界の先の物語なのです。そういう人知の及ばない(神懸かり的な)領域は、宇宙の始まりだけでなく、量子論や生命科学にも存在します。つまり、全てのフォアフロント、所謂「細部」にこそ、奇跡があり、神は「宿る」のではないでしょうか。

神の実体的な存在と恩寵を信じられなくなってしまった現代において、汎神論は一般的な概念と言っていいと思います。その派生として、不在の神という概念を理解することはさほど難しくありません。そのような神の概念は、人々の不幸の意識に対する救済を期待するような従来の宗教には到底なりえませんが、創造神に対する敬虔と畏怖という人間にとっての父母たる信仰になり得るのではないか。物質主義によって覆われた現代社会にこそ、科学で解明できない非知への敬虔と畏怖として、神への信仰が成り立つのだと思います。信仰の対象となる神秘の部分こそ、先端科学におけるフォアフロントであり、「細部」に呼応するものと思えるのです。

ちなみにシモーヌ・ヴェイユは、晩年(といっても30代)に神の不在を前提としたキリストへの敬虔なる信仰に目覚めます。キリスト者とは、ドストエフスキーやキルケゴールの思想も同様ですが、世の絶望と対峙するために生きていく力となりうる信仰と科学的合理性が融合した近代的な信仰の在り方とも言えます。

スピノザ的な汎神論は、「神は自然」と見做すように、日本的/原始的な信仰、アニミズムに近い考え方です。但し、「神は、万物の内在的な原因であり、唯一の実体である」とも言っており、基本的に一神教であり、日本の八百万の神々を合一した唯一神なのです。

非在ではなく、不在であり、神の不在ではなく、不在の神。スピノザ、ヴェイユとドストエフスキーからアインシュタインへ。日本的な自然信仰(アニミズム)と一神教の融合。細部に宿る神。沈黙の神。荒ぶる神。それは不在の神と習合するものであり、そういう信仰こそ現代的に有意ではないかと思うのです。
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by onomichi1969 | 2012-06-16 23:40 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 とらやのおばちゃん、三崎千恵子さん逝く。 semスキン用のアイコン02

  

2012年 02月 21日

倍賞千恵子さんの弔辞に涙しました。
サンケイスポーツに弔辞全文が掲載されていましたので、以下に貼り付けます。

★弔辞全文
 おばちゃん、ありがとう。「男はつらいよ」の俳優さんの中で(この世に)残っているのは、前田吟さんと、吉岡秀隆君と、佐藤蛾次郎さんと、そして…私よ、おばちゃん。とらやの大黒柱だったおばちゃんがいなくなって、とっても寂しい。
 撮影中のおばちゃんは、自分がどんなに疲れていても、監督はじめ俳優さん、スタッフさんに気を使って、「はい、これ飲みなさい、あれ飲みなさい」って、まるで、とらやのお薬屋さんでしたね。あのビタミン剤で、みんながどれだけ元気に仕事ができたか。
 そして、おばちゃんの家に泊めていただいたときには、いつもおいしい朝ごはん、本当にありがとうございました。
 それから、おばちゃんが着物教室を開いていたときに「ちえちゃん、これは絶対、これから必要になる着物だからね」って、持ってきてくれたものを開けてみたら、桜の花がいっぱいに咲いている振り袖と、帯だったよね。「これにはまだ刺しゅうの糸が入っていないから、自分がお金がたまったら、刺しゅうをどんどんしていけばいいんだよ」って。今でも大切にしています。
 この間(病院に)会いに行ったらおばちゃん、本当に小さくなっちゃって。あんなに大きなおばちゃんで、とらやの茶の間に座ると、なんだかとっても茶の間がゆったりとして…。
 私はいつか、こんな俳優さんになりたいなって、おばちゃんのあとを継ぐのは私かなって、ずっと思ってました。それがこの間、病院に行ったら、とってもとっても小さくなって…。でも、おばちゃんは自分の命を一生懸命、最後まで生きたんですよね。おばちゃんの温かい、大きな背中にいつかおぶさりたいと思っていました。
 入院中は、私の歌をずっと聴いていてくださったそうですね。この間(今月2日)は、「下町の太陽」を耳元で一生懸命歌いました。ちゃんと聴いてくれたよね。
 きょうのおばちゃんのステージ(祭壇)はとってもきれいだよ、おばちゃん。お花がいっぱい咲いてて。おばちゃんはいつも、私の歌をテープで聴いていたけど、生で私の歌をおばちゃんに聴いてもらおうと思ってきました。泣かないで、最後まで話をして歌いたいと頑張ってきました。心を込めて歌います。「忘れな草をあなたに」…。
 (歌唱後)おばちゃん、ひとりじゃないからね。(寅さんシリーズのカメラマン)高羽(哲夫)ちゃんも、御前さま(笠智衆さん)も、おいちゃん(森川信さん、松村達雄さん、下條正巳さん)も、お兄ちゃん(渥美清さん)も(天国に)いるからね。
 本当にお世話になりました。ありがとうございました。さようなら。


倍賞千恵子さんのうたはきっと天国のおばちゃんまで響いたことでしょう。
とらやの茶の間を囲んだ面々。寅さん、3人のおいちゃん、おばちゃん、そしてタコ社長。(とらやの茶の間談義にタコ社長は欠かせない存在でした) みんな逝ってしまったのですね。

ご冥福をお祈りします。
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by onomichi1969 | 2012-02-21 00:55 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 菅直人と世界の戦いでは、菅直人を支援したい semスキン用のアイコン02

  

2011年 07月 18日

菅首相が「脱原発」宣言を行った。将来像としての「脱原発」である。直ちに全てを止めるという話では全くない。

発言そのものはとても評価できる。全文を読んでみればよく分かるように至極真っ当なことが述べられている。私自身の考えであるという前置きはあるが、日本のエネルギー政策の転換という一大事を一国の首相が示唆したのである。その具体性はさておき、これはエポックメイキングな出来事であり、その内容をどう評価するかによって、メディアや他の政治家達はその立ち位置を否応なく問われるはず、、であった。

しかし、会見を受けたメディアの言説は、政局に関するものばかりで、宣言そのものを「評価」した既存メディアは殆どなかった。(朝日新聞くらい?)何故だろう?

こういう世の中こそが問題ではないか?
多くの人たちはメディアの言説に左右されやすい。(また少なからぬ人々は既にメディアの言説を殆ど信用しなくなっている)

本当に真っ当なことは、なかなか伝わらない。そういう現場に僕らは今、直面している。

テレビで「この宣言は自らの脱原発の方向性を支持するのかどうかを迫る踏み絵だ」と言った人もいたけど、結局のところ、宣言そのものが政局と菅直人の人間性の問題に引きずり落とされ、この時期に「脱原発」をアピールすることで、この国の方向性に一定の舵をきろうとした首相の乾坤一擲を賭した意図は殆ど失われてしまったようにみえる。残念ながら。

誰が言ったというのではなく、言われたことそのものを評価すべきだと僕は思っている。(それがテキストの本質でしょう)

何度読み返しても、菅首相の言っていることは至極真っ当である。僕には、この宣言は軽くもないし、唐突にも思えない。とても大事なことがシンプルに謙虚に述べられていると感じる。メディアや政府、民主党、自民党は、このアドバルーンをもっと真摯に受け止めるべきなのではないだろうか。菅直人という元運動家にして、現在の政府の最高権力者が打ち上げたアドバルーンを。そして、僕らはこの踏み絵に対して、政治家達がどう反応しているのか、それをしっかりモニタリングすべきだろう。

7月13日記者会見全文
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by onomichi1969 | 2011-07-18 21:07 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 汚染水処理にゼオライト semスキン用のアイコン02

  

2011年 06月 27日

汚染水浄化し原子炉注入へ―吸着塔交換基準が課題・福島第1

大学での専攻が触媒化学で、主に固体触媒を扱っていた為、福島原発の汚染水に含まれる放射性セシウム吸着塔の担持体で話題となっているゼオライトはとても馴染みのある(というか僕にとって懐かしい)物質である。固体触媒は、液体(当時、大規模化学合成プラントの触媒は強酸性液体が主流だった)に比べて分離回収が容易で、装置が腐食せず環境に優しいこと、気相及び液相反応共に利用できる汎用性もあって、研究が盛んに行われていた(ちょうど転換期だったのかな)。
ゼオライトは、固体触媒としてよく使われていて、主にアルミナシリケートの合成粘土であるA型とかY型とか、モービル社のMTG(メタノールtoガソリン)反応で有名なZSM-5などがある。ゼオライトは、とても規則正しいオングストローム単位(Å:10の-10乗m)の細孔構造を持っていて、白金とかパラジウムとか、貴金属系のカチオンを効率的に担持でき、大きな比表面積(300-1000m2/g)と細孔(3~10Å)による形状選択性(分子篩効果)を得ることにより、様々な反応で高い収率と選択率を得ることができた。尚且つ、シリカによる化学蒸着法を使って、その細孔構造を1Å単位で制御できるなど、ナノテク以上のピコテク(1Å=0.01pm)とでも言うべき精密な物質制御によって優れた形状選択性が期待できた。とにかく固体触媒のチャンピオンがゼオライトだったのである。今でも多分そうなのだろう。

僕が主に扱っていた触媒は、ある特殊な複合酸のセシウム塩をシリカに固着させた固体酸触媒だった。当時、よく扱っていたので、セシウムはまた馴染み深かったりする(もちろん放射性ではないよ)。実は、最近、その当時開発した触媒をググってみたら、まだ研究が続いているどころか実用化されていてびっくりした(研究は既に違う大学に引き継がれてはいたけど)。あれから20年、あの時のアイディアが生かされ続けて、遂に具現化されたのだなぁと思うととても感慨深い(本人はすっかり忘れていたけど)。最近になって、論文検索サイトに僕の名前が載るようになったのはこのせいなのかな。

それはそれ。セシウムはシリケートに吸着しやすいので、表面積が大きく水系で回収率の高いゼオライトは最適な物質だと思う。但し、吸着したものは不活化するので、都度回収か再生が必要となる。その度にどのように処理するのだろうか。多段処理なので流通経路を都度変更する? などバイパス切り替えで対応していくのだろうけど、その辺りの制御方法と吸着物(汚染物)の交換方法が実は装置のミソなのだろうね。詳細は報道されないので分からないけど、ついついいろいろと想像してしまうのは理系の性かな。
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by onomichi1969 | 2011-06-27 00:01 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 キャンディーズのこと semスキン用のアイコン02

  

2011年 04月 24日

a0035172_12354983.jpgキャンディーズのスーちゃんこと田中好子さんが逝去されました。

キャンディーズが絶頂期で解散したのが1978年。僕は8歳で小学校の低学年の頃です。当時、僕らの年齢だと、キャンディーズよりもピンクレディーの方が断然人気がありました。キャンディーズの曲は当時の僕らにとって大人すぎたのです。ピンクレディーがインパクトのある覚えやすい歌と踊りで低年齢層を中心として爆発的にヒットしたのに対し、キャンディーズは、アイドルとしての真っ当さであったり、健康的且つ正統なセックスアピールとか、楽曲の良さ、ハーモニーの可憐さとか、いろんな意味で当時のティーンエイジャーの心に深くに残ったグループだったと言えるでしょう。(今ではそのことがよく分かります) 僕も幼心にピンクレディーとは違う、青春の甘酸っぱさを体現したような彼女たちの魅力に少しだけ触れたような気がします。

とはいえ、当時、僕の中で、キャンディーズといえば、『8時だョ!全員集合』や『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』でのコントのイメージが強く、コメディエンヌとしてのランちゃんやスーちゃんが好きでした。解散後に女優に転身した2人ですが、僕の中ではいつまでもキャンディーズの2人というイメージはずっとあって、年を重ねても彼女たちはランちゃんであり、スーちゃんであったのです。(ちなみに3人の中では、一番年下のスーちゃんが好きでしたね)

キャンディーズの曲の魅力については、ここで言うべくもありませんが、初ヒットとなった『年下の男の子』や『暑中お見舞い申し上げます』『やさしい悪魔』『アン・ドゥ・トロア』など、今聴いても心に響きます。青春歌謡的な魅力と共に、晴れやかなポップセンスがありますね。

代表作は、彼女たちの唯一のNo.1であり、実質的なラストソングである『微笑がえし』でしょう。これはとてもいい歌です。懐かしく、爽やかで、切なくて、悲しくて、嬉しくて、いろんな感情が入り混じるような、とても多面的な魅力あふれる楽曲です。3人がセンターを入れ替わりつつ歌い継ぐ姿もいいですね。



女優転身後のスーちゃんの代表作『黒い雨』は学生の頃に観賞しました。白黒の画面の中に浮かび上がる「黒い」雨の色、白い素肌の色がとても印象深く、残酷で辛く悲しいけれど、その中で強く生きる希望もあるいい映画でした。

スーちゃんの死に接して彼女たちの姿を想うとき、とても愛おしい気持ちを抑えられないのは、彼女たちがキラキラと輝いていた時代があり、時が過ぎ、彼女たちも僕たちと同じように経てきた30年以上の年月がある、そういう揺るぎない共有感と信頼感があるからなのだと思います。

ご冥福をお祈りします。
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by onomichi1969 | 2011-04-24 12:41 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 困ったことに semスキン用のアイコン02

  

2011年 03月 30日

福島原発の状況が危機的です。崩壊した原発が大気と海と土壌に放射線物質を垂れ流し続けています。この状況は、循環閉鎖系の冷却システムが復旧し、原子炉が冷温状態となり、燃料棒が棄却されるまで数年間続くということです。
福島原発が崩壊したのと同時に、原発の安全神話も完全に崩壊したと言ってよいでしょう。この期に及んで、「原発は安全です」とはもう誰も言えません。女川は大丈夫だったとか、これを教訓にして原発の安全基準をグレードアップするとか、そんな言説にはもう誰も説得されないのです。想定外の地震が原発の設計基準を易々と超えたのです。日本は地震の歴史を全く理解していなかった。津波の実態を何も把握していなかった。これはとんでもないことです。原発は電力の安定供給の為には絶対必要であると言われ続け、今でもそのように言う人がいますが、今回のような災害時のリスク、その青天井の損害を考えれば、日本はもう原発に依存することができないと言わざるを得ないでしょう。

日本はこれから地震の活動期に入ると言われています。次は関東地震か東南海地震か。防災への本格的な対応の中に原発(特に浜岡)の停止は不可避と言えます。それは今後のエネルギー政策の転換を必然的に迫るものです。それには、利害を超えた企業間、省庁間の連携、政府のリーダーシップが不可欠です。それができるかどうか。

今回の震災は、僕らがこれまで当然の事として受け入れてきた生活の基盤そのものを揺さぶり、その欺瞞を崩壊させました。原発が危ないものだということは皆が知っていて、だからこそ誰もがその話題に触れたがらなかったことも。反原発の声に本気で耳を傾けていなかったことも。国や電力会社が唱える原発安全神話を信じていないにも関わらず、その欺瞞を無条件に受け入れていたことも。知らなかったわけではないのに、いつのまにか体制の中に埋没して思考を停止させていたのです。

テレビ等のメディアは、スポンサーである大電力会社に逆らえず、言いたいことも言えないバインド状態にあります。僕らはそれを察しないといけないのです。原発は国策です。故に簡単にそれを転換することはできません。菅総理は代替エネルギーに力を入れるという話を無邪気にしていましたが、これが本気ならば、彼は今すぐにアクションすべきでしょう。早すぎることはない、これは重要なことです。今はなんだかんだ言って政府も東電の言いなりで、計画停電などというバカげた対応に終始し、夏の電力消費のアップを前に何の対策も打ち出せないままここまで来ています。政府がリーダシップを発揮すればもっと効果的な対策は打ち出せるはずです。(化学工学会からの緊急提言:特にPDF版が参考になります)

いずれにしても、僕らは「これまでのように既存のプラットフォームを生活の基盤として何の疑いもなく受け入れること」ができない段階にいるということなのです。UstreamやTwitterのようなソーシャルメディアやネットワークの言説ではそれが既に共通認識となりつつあります。声を上げるべきときがもう直ぐ来るでしょう。それまで、しっかりと情報を精査し、耳を澄ますこと。そのことを肝に銘じて、時を待つことです。

<余談>
僕は建築業界にいますので、今、震災でいろんな工場が機能停止に陥り、至る所でプロジェクトがストップせざるを得ない状況を目の当たりにしています。基幹工場が東北や北関東地方に集中している産業は、復興の目途が立たず、建設のような零細複合産業の場合、そういうことが1か所でもあれば、その影響により、全体の工程がストップしてしまうのです。物流でジャストインタイムが普及している現代では、在庫が殆どありません。産業自体にバックアップの機能がないことが事態をさらに悪くしています。日本の産業はいつの間にこんな脆弱なシステムになっていたのでしょう。

日本人は我欲に縛られ、人心も経済も脆弱であったところに天罰の如く地震と津波が来た。この津波を利用して、我欲を落とし、日本を再生させるという考え方、、、それはある意味で正しいのではないでしょうか。今はこの危機を乗り越えることに全力を尽くすことですが、その向こう側には「明るい」未来があると僕は思いたい。その為に何をすべきか、僕らはよく考えなければなりません。
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by onomichi1969 | 2011-03-30 00:28 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 大相撲の問題 semスキン用のアイコン02

  

2011年 02月 06日

大相撲の八百長問題が大きく報道されている。
今日の新聞でも、「前代未聞の不祥事」だとか、「ファンを欺いたつけ」だとかの文字が大見出しとなっている。本当にそうだろうか? これは前代未聞なの? ファンは欺かれたの? 僕はそう思わない。

大相撲とはそもそも「パンドラの箱」だったもの。これまでは、少し開けて、覗き見るだけのものだったのが、ついにそれを全開にしようとしている。そのことの意味をよく考えた方がいい。近年、世の風潮は物事を全てクリアカットにし、あいまいさを排除しようとしている。全てを合理的に考えていくこと、そういう世の流れは理解できるけど、大相撲を勝手にスポーツと規定し、グローバルな定義に当て嵌めること自体がそもそも不可能である。大相撲はそんな一面で捉えられるものではなく、興行であり、伝統であり、祭祀であり、文化であり、勝負であるもの。アマチュアのみがスポーツである。

そんなことは今まで皆分かっていたことではなかったか? 何をいまさらである。それはこれまで国民の合意としてあったものではなかったか? 昭和30年代の栃・若時代の映像を見れば、それが「魅せる」勝負であったことは一目瞭然。その中に「ガチンコ」があり、「温情」があり、「華」あった。それをプロ興行として、我々は認めていたのではなかったのか? 北の海や千代の富士の時代だって同じ。僕には今回の騒動、「国民の転向(裏切り)」に思える。

大相撲の八百長問題はこれまで何度も表面化しており、以前、このブログでも話題にしたことがある。今もその時の意見と変わらない。但し、この流れはもう止められないという諦念がよぎる。悲しいけれど、もう引き返せない。マスコミやネットの論調が世論を形成していく。それが今の正義なのだろう。

大相撲で野球賭博の問題が起きた時、スポーツジャーナリストの二宮清純がテレビで「野球賭博はトバ口であって、本丸は相撲賭博だ」と言っていて、本当かなと思ったけど、捜査の流れは実際そうだったのかなと。報道の流れは別の方に行きそうだけど。
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by onomichi1969 | 2011-02-06 11:08 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 AKB48 『ヘビーローテーション』 semスキン用のアイコン02

  

2010年 09月 09日

中学生のころからか、アイドル歌手というものが嫌いで、彼ら彼女らが歌う歌はまず聴かなかったし、そんなものを聴けば本当に耳が腐ると思っていた。大体、歌が下手で聴くに耐えないし、それで人に聴かせようなんて歌をバカにしている。何で歌う必要があるのか?可愛いというだけでその歌を認めるなんて、そんなものを有難がるような人間だけにはなりたくなかった。

以来、彼ら彼女らの歌をまともに聴いたことがない。松田聖子や中森明菜も中学生以降は聴かなかったし、高校生の頃に流行ったおニャンコクラブなんて言語道断。あんなものに浮かれるなんてバカじゃないかと本気で思った。また、彼ら彼女らが主演する、そのアイドル人気を背景とした所謂「アイドル映画」には強烈は違和感を覚え、それもまた絶対に観ないと心に誓ったものだ。

要は、アイドル歌手に対する独断的な偏見に凝り固まった人間。それが僕だったのです。

そんな僕も40歳を超え、そろそろそういった偏見で物事を一面的に判断するのはよくないと反省し、最近流行りのAKB48の新曲『ヘビーローテーション』を聴いてみた。

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うーむ。これは、耳が腐るどころか、脳みそがとろけそう。聴けば聴くほど怒りがふつふつと増してきて、まじめに聴いていると反吐が出そうだ。こりゃ聴いていると絶対に頭が呆けてくる。

人間、そうそう変わらない。やっぱり無理なものは無理でした。ちゃんちゃん。

あ~っ、ここでこの事実を書けて、すこしすっきりした。
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by onomichi1969 | 2010-09-09 00:42 | 時事 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 自民党総裁選 semスキン用のアイコン02

  

2009年 09月 20日

今は「脱官僚」ということがスローガンみたいになっているけど、一体、政治主導とはどういうことなのか、今後の2大政党制の中で政府が官僚をどのようにコントロールしていくのか、その具体的な姿というのがなかなか想像できない。僕の中で、行政というのは、各官庁であって、それを主導するのが官僚。政治とはこれまで「判断」であった。政府が行政のどこまで踏み込んできて、政権交代の可能性の中で官僚がどのようにポリシー別の仕事をしていくのか。なかなか難しいところである。民主党はそこまで踏まえて脱官僚、政治主導の枠組みを作ろうとしているのだろうか?そのあたりはまだ見えてこない。
脱官僚に天下り禁止に公益法人の撤廃と、高級官僚の人々も大変な世の中になっているようだ。税金を使っているばっかりに大変なこってす。これで、優秀な人材が民間にどんどん流れてしまうような気がして、大丈夫かなとも思う。公務員減らして、政治家減らして、政府はどんどん小さくなるよ。
僕の数少ない官僚の知り合いは、高校の同級生で、やっぱり東大法学部。すごく優秀なやつだったなぁ。その能力を存分に発揮して仕事をしてほしい。

まぁそれはそれとして、今、気になっているのは自民党の総裁選挙である。
河野太郎さんには頑張ってもらいたい。でも、総裁になるのは谷垣さんなのだろう。それは数の論理で仕方がないとして、河野さんにはその後に自民党を割ってもらいたい。彼こそは「小さな政府と地方分権」を掲げる政治グループを結成できる人だと思えた。「小泉路線の継承」をポリシーとして堂々と掲げているのも潔く、2大政党制の中で保守イデオロギーのひとつの対抗軸となりうるのではないか。

そうなれば、民主党は「大きな政府と中央集権」でしょう。市場原理主義と資源分配主義。もちろん、中庸なグループもあっていいし、2大政党にこだわりはない。

そういった政界再編が起こったとき、小沢一郎という人がどう動くのかが一番気になるところだ。
彼の描く2大政党制はおそらく今の姿ではない。民主党にいるのは政局の為であり、彼こそは90年代初頭に「小さい政府」を掲げた人ではなかったか。民主党も割れればより理想に近い2大政党制が出来上がる。

2大政党制の中であるべき官僚の姿はどうだろう?これはやっぱり難しいね。日本の将来を見据えて、本来は官僚と政府が共同で政治を主導していかなければならないはずだけど、ポリシーによって、仕事の内容が変化するというのはやりきれない。だからこその政治主導だろうけど、そう考えると、本当に2大政党制っていいものなのかな?

今日、テレビを観ていたら、テリー伊藤が「自民党の内紛を見ていると腹が立ってしょうがない。勝手にやれって感じだ」と言っていたけど、個人的にはすごく面白い展開だと思うし、もっと注目されていいとも思う。でも、未来像はまだ見えてこないなぁ。この国のかたち、、、どうなることやら。

「僕は日本のアカルイミライが見えませーん!」「見つけろ、てめえで!」ってか。
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by onomichi1969 | 2009-09-20 16:21 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 AREA '09.9.7号 『犬を殺さないドイツの常識』 semスキン用のアイコン02

  

2009年 09月 20日

a0035172_1546030.jpg少し古い記事になるけれど、ちょうど衆院選開票の直後に発売された民主党記事満載のAREAの中に、以下のような記事が(ひっそりと)あった。ここに全文が掲載されているので、興味のある人は参照して欲しい。

AREA '09.9.7号に『犬を殺さないドイツの常識』

正直、この記事の内容には驚いた。
ドイツという国には僕も何回か行っており、環境や福祉への取り組みが進んでいる国だとは思っていたけど、ここまでとはねぇ。翻って、日本をみれば、年間13万匹の犬が自治体に引き取られ、その内の10万匹が処分されているという。

この記事には、わが国にとって示唆的なところが随所にあるように思える。ひとつは、「犬法」という考え方で、リンク記事には本文で参照しているチャートが記載されていないので、以下に雑誌から抜粋してみる。

・犬は戸外において十分な運動と飼育管理している者との十分な接触が保障されなければならない。
・子犬を生後8週齢以下で母犬から引き離してはならない。
・戸外で犬を飼育する者は保護壁及び床断熱材を使用した日陰の休息場所を提供しなければならない。
・犬を室内で飼育する条件として生活リズムのための採光と新鮮な空気が確保できる窓がなければならない。
・犬舎(檻)の大きさは少なくとも犬の体長の2倍の長さに相当し、どの1辺も2メートルより短くてはいけない。
・体高50センチまでの犬の場合、犬舎(檻)の最低面積は1匹あたり6平方メートルなければいけない。
・飼育管理する者は犬の生活環境を清潔に保ち、糞は毎日取り除くこと。
(AREA’09.9.7号より抜粋)

この「犬法」と共に、「犬税」というものもあって、犬1匹で年1-2万円、2匹目からは年2-4万円の課税となるという。これらの負担によって、人々が安易に犬を飼うことへの抑止力になっているらしい。
ペットを飼うということに対する国民の意識の高さには正直言って承服せざるを得ない。これはドイツの人々にとっては、犬といえども命を如何に大事にしているか、或いは犬の命が他の動物とは如何に違うかを物語っている。また、これらはドイツの歴史的な背景(というかトラウマ)とも十分に関係しているようにも思える。

ものごとにはお金がかかる。この記事の最大の驚きはその資金が全て個人や企業の寄付によってまかなわれていることだ。前述の国全体としての意識の高さもあるけれど、よほど業界団体の圧力が強いのだろう。殺さない為には産まないことも重要だから、記事にはないけど、そのあたりの処置にもしっかりと規制があるのだろう。

記事の筆者である太田匡彦氏はこれまでに同様のテーマで以下のようなレポートを書いている。

犬ビジネスの「闇」
隔週木曜日は「捨て犬の日」

上記のAERA-netリンク記事の続きは、以下のサイトでほぼ確認できます。ご参考まで。

殺される犬達: AERA 12/8号 「犬ビジネスの『闇』」 
AERA '09.4.13号より 隔週木曜日は「捨て犬の日」
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by onomichi1969 | 2009-09-20 15:57 | 時事 | Trackback | Comments(2)

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