Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 カテゴリ:ロック全般( 2 ) semスキン用のアイコン02

  

semスキン用のアイコン01 onomichi1969 「自由」について語る semスキン用のアイコン02

  

2004年 09月 21日

昨今、「自由」というのは重要なタームであるようだ。東浩紀(批評家)は、動物化とも言うべきカリカチュア的な人間の在り様が環境管理型権力<身体化を無自覚的に促す非哲学的なセキュリティ強化、或いはマクドナルド的画一化>によって知らず知らずの内に統制された世界における人間の自由について語っている。また、竹田青嗣(哲学者)は、ヘーゲル哲学或いはルソーの社会契約論に立ちかえり、社会の前提となるべき精神の本質としての自由、自己意識の原理としての自由について語る。
そして、僕(単なるエンジニア)も「自由」について語ろうと思う。
日本において、「自由」は正当に評価されていないようだ。そして、その歌い手も実力に見合った評価を受けていない。比類なきソウルとガッツに溢れた歌声の持ち主であり、若くしてブルース・ロックスタイルの頂点を極めたにも関わらず、彼のこの人気のなさは一体何故だろうか。確かにライバルであるロバート・プラントのような華々しさはない。スティーブ・マリオットのようなカリスマ性にも欠ける。ロッド・スチュアートのようなスター性には全く程遠い。終いには、おっさんの演歌ロックなどという陰口さえ叩かれる。当時はまだ20代も前半なのに、それはちょっと可哀相じゃあないか。やっぱり最大の原因は、バッド・カンパニーの頃の鉢巻にハッピ姿の<日本大好きの変なおっさんガイジンの如き>ジャケット写真なのだろうか。確かにあれは寒い。。。捨てられた老犬のような惨めな笑顔も明らかに損している。でもまぁ、そんなことはどうでもいいじゃあないか。確かに容姿はいまいちかもしれない。でも、彼らの音楽性はZEPにも比するオリジナリティに溢れているのだ。彼とポール・コゾフ、アンディ・フレーザー、サイモン・カークが繰り出す重厚なアンサンブル、泣きまくるギターと弾きまくるベース、タイトなドラミングに唸るシャウト。素晴らしい。3作目「Fire & Water」に至っては楽曲も冴え、彼らの最高傑作とも言うべき不朽の名作である。「自由」。僕は何と言われても「自由」の味方である。

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by onomichi1969 | 2004-09-21 23:41 | ロック全般 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 「うたのひびき」とはなんだろうか?試論 semスキン用のアイコン02

  

2004年 07月 10日

a0035172_32752.jpgポップミュージックにおける詠い手の役割というのはとても重要である。声が楽曲を構成する他の要素に比べて、ひとのココロに響きやすいことは誰もが感じるところであろう。ジャズやクラッシックでの声楽曲というのは、カテゴリーとして全体の一部にすぎず、ある意味で語りとしての役割を担っていた為にその必要が求められる曲に限定される。つまり、声楽曲が楽曲全体の中での調和<音程>を重要視されていたのに対し、声そのものの響きが構成要素としての価値をもち始めたのはゴスペル等の所謂ソウルミュージックからなのである。情念の深い黒人音楽の中でソウルとは魂であり、それは絞られ震わされる声そのものであろう。R&Bのスターであるオーティスレディングにしろ、ウィルソンピケットにしろ、その唱法は、まさに「ソウル」に溢れたものだ。エルビスによって白人によるロックンロールが広められるが、それは始源において黒人音楽の模倣であり、当然その唱法もしかり。但し、響きにおいて、その声が黒人と殆ど同じ味わいを持ち、さらにはハイブリッドであるが故の如何わしさが別の魅力として、新たな響きを持ち始めたのは60年代も後半以降であろう。ストーンズのミック・ジャガーは、そのデビュー当時より、ひしゃげた響きのある黒っぽい唱法によって、独自のボーカルセンスを魅せつけたが、スモールフェイセズのスティーブ・マリオットに至っては黒人同等の響きの声を持ち、さらにはバンド特有のロックスピリットとの融合により、独特のグルーブ感を発散させ、ロックボーカルのスタイルとしてひとつの典型を確立したといえよう。。。

僕はロック&ポップミュージックをボーカリストによって選ぶ。

スティーブ・マリオット、フェリックス・キャバリエ、ポール・ロジャース、ヴァン・モリソン、ジャニス・ジョプリン、リチャード・マニュエル、ローウェル・ジョージ、ボズ・スキャッグス、ミック・ジャガー、ピーター・ウルフ、ロッド・スチュワート、ステーブ・ウィンウッド

ここに響きを共有するひとつの類型がある。それは「ソウルフル」な「ロックボーカル」と言われるものだ。僕が愛すべき類型。

ラップが流行りである。ラップは元来メッセージそのものを強調する表現方法であったが、昨今、特に日本におけるラップミュージックというものにメッセージは皆無であり、そこにはニュアンスの共有を「言葉遊び」する感覚があるに過ぎない。声は平板で響きに乏しく、それがココロに訴えることはない。今、メッセージを叫ぶことは空虚感を通り越して、滑稽であることは否めないのだ。なぜなら、訴えることがないからだ。僕らは空虚感への敗北を背負う運命にあるが、悪いことにそのことへの自覚は年々希薄になっているようだ。空虚感への敗北に対する無自覚というものの当然の帰結として、今の状況がある。

響きとはなんだろうか?なぜ僕は響きを欲するのか?

厳密に言ったら精神的自由などというものはどこにも存在し得ないものだと思う。だって精神というものは僕らを縛るものであり、僕らは精神というものに本来縛られたがっているのだから。でも、そういう精神なんて今の世の中、どこを探したらあるのだろうか。
60年代、ロックムーブメントを支えたヒッピーやモッズ達が信じた自由とは、そんな自覚が生み出すある種の諦めや敗北感からの自由だったのではないか?(だからこそ僕らはあの時代の映画や音楽に触れて心を震わされるし、時代の感覚として確かにそれは僕らの胸に切羽詰ってくる。)
彼らが敗北感への反抗に対して敗北を味わった…といえるだろうか。確かに彼ら自身はそうかもしれない。でも僕らは今でもそういう敗北感に対するラディカリズムをある生き難さの感覚として抱えている。

「叫びたいことなんか、ない! ただ、響きを感じること、そのことに覚える感動が欲しいのだ。」
「響きのないR&B唱者よ!あなたは幸いである。なぜならあなたの聞き手は響きを欲さない平板の民であるのだから。」
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by onomichi1969 | 2004-07-10 03:29 | ロック全般 | Trackback(1) | Comments(0)

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