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Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 アバター "Avatar" semスキン用のアイコン02

  

2010年 01月 18日

アバター \"Avatar\"_a0035172_1425575.jpg話題の3D映画『アバター』を観る。
3D映画は『ジョーズ3』以来何度か観ているけど、3Dの3Dたる所以の立体感ある映像の迫力というか、奥行きのある画面の目新しさという点ではこれまでのとってつけたような3D作品とは比較にならない素晴らしい出来だと思った。その点ではとても楽しめたが、そういう見方で楽しむには、実は10分くらいの映像作品でも事足りる。

おそらく、僕のこの映画に対する評価は巷のものと全く逆だと思う。
この映画の「物語」としてのプロットやストーリーはとても面白いと思ったし、いろいろと考えさせられるところもあって、僕は概ね評価している。それに対して、映像というか、画面の在り方としての映画の表現方法にはかなり退屈さを感じた。そして疲れた。

『アバター』の設定を『スターシップ・トゥルーパーズ』や『エイリアン2』の逆バージョンで、エイリアンの側を正義とした戦争の物語と考えれば納得しやすい。また、それがベトナム戦争を北ベトナムの側から描いているといったような設定を想起させることも歴史的にみて面白い見方といえるだろう。近年、こういったパターンの映画は珍しくない。これまで外敵として描かれた人々の側から戦争を紐解く物語といえば、クリント・イーストウッドの『硫黄島からの手紙』が記憶に新しい。それ以外にも弱者としての被征服民や原住民の側から描く歴史の物語は反欧米中心主義という新たな視座の中でひとつのジャンルとして既に確立している感もある。

但し、それは加害者と被害者が単純に逆転するのが常であった。『駅馬車』や『遠い太鼓』が『ダンス・ウィズ・ウルブス』になるというように。
でも、事実はそう簡単ではないはずだ。人はいつもどちらかを加害者/被害者に分けたがる。どちらに正義があるのか、どちらがベビーフェイスなのか、それをはっきりとしたがるけど、それを分けたとたんにものごとは単純化され、本来明瞭でないものが明瞭なこととして短絡させられる。本当にそうあるべきなのだろうか?

僕が『硫黄島からの手紙』を評価するのは、それが『父親たちの星条旗』の対として存在しているからに他ならない。そこには加害と被害という概念が常に両義としてある。国と国の戦争があり、人間同志の戦いがある。そのことが素直に描かれるのみなのだ。

同様に僕が『アバター』を評価するのは、これは深読みかもしれないけど、ジェームズ・キャメロンがこの映画を『エイリアン2』の対として製作したというところにある。だからこの映画のキャストにシガニー・ウィーバーは外せなかったに違いない。エイリアンの側から描く戦争。前作において、あれだけの悪役を演じながら、今回は徹底的に正義を主張してみせる。一見して、その正義の表現が露骨にすぎるきらいがあるけれど、これを『エイリアン2』のカウンターとして捉え直せば、そういう露骨さも素直に納得させられるのだ。(神話になってしまうのもチョー露骨だ)

次に映像について。
表現されている以上の世界が設定としてその背景に隠れている、というのは、『機動戦士ガンダム』の「一年戦争」に代表される(戦史としての)メタ物語の典型であり、仮想現実的なキャラクター世界の手法そのものである。『アバター』も同じで、それが多くの人に今熱狂されている「世界観」というものだと思うけど、僕にはそれが模造的であるが故に映像としてもアカル過ぎて、陰影を感じない。全てが計算された「世界観」の一角のみを映像で示してみせる。それが設定としても映像としてもあまりにも「浅い」と感じるのは何故だろう。おそらくそれが自然ではない、人工の模造的映像の限界であり、設定そのものがデータベースからの類型としての演繹に過ぎないからなのだろう。そこに自然という驚きや想像力を超えた迫力が無いというのは、全てが所詮は数値変換の産物に過ぎないということが透けて見えるからなのだろう。
今後、こういったCGを駆使した新しい映像表現はどんどん進化していくに違いない。しかし、それはどうにもアカルすぎるのだ。(僕らのミライと同じで)

明瞭な色分けは、それこそ仮想世界にのみ可能なのだ。現実は単純ではない。多層的で多面的だ。曖昧で不可分だ。ちょうど今日の天気のように。晴れでもないが雨でもない。曇りかと思えば日が差し込む。この曖昧さは、人の営みの実相でもあるはずだ。  森達也 『東京番外地』

上記は、正常な精神と「精神病」との間の差異についての森達也の言説である。
あえて言えば、『アバター』は精神的に正常にすぎる、そういう映像に思える。だから退屈なのだ。

と、ここまで書いて、僕が『アバター』を退屈だと思うのは、TVゲームを全くやらないからかもしれないと思った。ゲーム空間がこれまでどのように進化してきて、全面CGの『アバター』がどれほど凄いのか、歴史的にも技術的にもいまいちよく分からないのである。あしからず。2009年アメリカ映画

by onomichi1969 | 2010-01-18 01:13 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

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