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2010年 01月 02日

昨年、新聞を賑わせた話題の一つが邪馬台国の関連した纒向遺跡である。新聞には、「「九州説は無理…」新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し 纒向遺跡」(2009.11.11 産経ニュース)との見出しが躍ったりして、読むものに衝撃を与えた。記事によれば、新たに発掘された大型建物跡と、以前から卑弥呼の墓ではないかと言われていた箸墓古墳の築造年代が3世紀中ごろと判明したことにより、年代もドンぴしゃと合って、邪馬台国畿内説(奈良県桜井市纒向)でほぼ決まりということらしい。以下、昨年末の特集記事より抜粋。

今年の発掘調査は、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で「卑弥呼の宮殿か」と話題を集めた大型建物跡が出土、箸墓(はしはか)古墳(同市)では築造年代が卑弥呼の没年に近い3世紀中ごろと判明するなど、邪馬台国畿内説が一気にヒートアップした。(中略)

 「卑弥呼の金印が見つからない限り、所在地論争は永遠に決着しない」ともいわれ、古代史最大の謎を秘めた邪馬台国。しかし、纒向遺跡の発掘調査で、床面積238平方メートルのこの時期としては国内最大規模の建物跡が見つかった。
 邪馬台国九州説の有力候補地である吉野ケ里遺跡(佐賀県)の大型建物跡の156平方メートルを大幅に上回る規模。纒向遺跡の建物跡は東西方向に4棟が一直線に並び、後の飛鳥時代の宮殿を思わせる規則的な配置だったことから、卑弥呼の宮殿説が一気に浮上した。
 箸墓古墳でも注目される成果があった。国立歴史民俗博物館(千葉県)の研究チームが、出土した土器を放射性炭素年代測定法で調べたところ、240~260年ごろの可能性が高いと発表。卑弥呼は248年ごろに死亡したとされ、「卑弥呼の墓であることはほぼ確実」との見解を打ち出した。

2009.12.23 産経ニュースより


ふむ、ふむ。本当だろうか??
そもそも、つい最近までは邪馬台国北九州説が有力だったはずである。手塚治虫の『火の鳥』も卑弥呼の舞台は九州だったし。

邪馬台国の比定地を巡る謎の解説書と言えば、鯨統一郎の名著『邪馬台国はどこですか?』、、、というのは置いておいて、やっぱり、松本清張の清張通史①『邪馬台国』が思い浮かぶ。いや、実は僕はこの本によって、邪馬台国は筑後付近で決まりだと思っていた。

あと、最近読んだ本では、武光誠の『「古代日本」誕生の謎』も九州説だった。
ちょいちょい読んでしまうトンでも系の関裕二も九州説(卑弥呼は山門の女首長)。井沢元彦『逆説の日本史』も九州説だったような。最近出た考古学者の書いた本(題名忘れ)は、箸墓古墳=卑弥呼の墓で畿内説だったかな。

さて、新聞報道を見ても、僕の中で、畿内説で決定というのはいまいち納得できない。
いくら箸墓古墳の築造年代が3世紀中ごろと判明としても、そのことが卑弥呼の墓に直接結びつかないのだ。確かに有名な倭迹迹日百襲姫の箸墓伝説(姫は三輪山の大物主神の妻となったが、大物主の本体が蛇であることを知って倒れこみ、箸が陰部に刺さって死んだとする)と天照大神の同様な話(天の岩戸の異伝にて、アマテラスは岩戸の中で機織りの梭(ひ)で陰部を突いて死んだとする)が結びついて、それが巫女の卑弥呼を連想させるのは分かる。皆既日食が卑弥呼の時代に起こったという事実が、太陽神(日の巫女?)アマテラスが隠れる天の岩戸の話につながるのも、卑弥呼=アマテラス=倭迹迹日百襲姫→箸墓→卑弥呼の墓という流れを連想させる。

でもね。現実的にみれば、武光さんが言うように、纒向遺跡には中国文化の影響が殆ど見られない。邪馬台国と魏の帯方郡との通商が盛んだったわりに、それはありえないだろうと。あと、敵対していた狗奴国が熊本に比定されやすいのに対し、畿内説ではそこが弱い。邪馬台国=筑後vs狗奴国=熊本が国境を接して争っていたというのが一番しっくりくるんだなぁ。纒向遺跡は、大和朝廷が3世紀はじめから存在していたことを示すだけであって、そのまま卑弥呼や邪馬台国に結びつくものではないような気がする。発表されている記事の内容を読んでもそのあたりの説明がないのでねぇ。

その勢いで清張通史『邪馬台国』読み返してみたけど、清張さんの見立ては今でもなかなか説得力がある。
①邪馬台国比定地の根拠となる「帯方郡から女王國までの12,000里」などの道程はそもそも中国ならではの適当な数字であるというもの。その根拠は魏志倭人伝が参考したという漢書西域伝に記載されている化外の地(カシミールやイラン、アレキサンドリア等)が全て長安から12,000里となっていることが挙げられる。(実際はそんなことありえないが) なんといっても白髪三千丈の国なのである。倭人伝の数値を実数としてそのまま信じて、足し算していくこと自体がナンセンス。よって、キョリを正とし、方角を書き間違え(南→東と読み替え)とする畿内説の根拠は崩れる。ちなみに九州説は方角を正とし、キョリは読み替えが必要。
②倭は、朝鮮半島南岸から対馬、壱岐、北九州を含んだ地域を指し、その一帯は同一生活圏であったという。(エーゲ海文明と同じ多島海・沿岸文化) そして、北九州を含めて、当時は魏・帯方郡の支配下にあったということ。逆に南九州は、南方系で華南地方の影響を受けた地域であり、いわゆる南北戦争(代理戦争)という様相であったこと。
③卑弥呼は少女時代に立てられたことから、権力の象徴である女王というよりも、あくまで巫女であった。邪馬台国は合議の首長連合であり、巫女の鬼道・祖霊神事により、議事を最終決定をしていたという意味で、彼女は祭祀的な象徴(これも日本的には政治の根本)だったということ。魏の帯方郡使が北九州に駐在して政治の実権を握っていたという(一大率の)解釈により、当時の状況を戦後の日本、米国-GHQ-日本政府-象徴天皇に例えられる。
、、、などなど、面白い。

古代の日本は、大陸の影響を大きく受けており、海流により、北九州は弁韓・馬韓(任那・百済)、出雲は辰韓(新羅)、越は濊及び高句麗とそれぞれ繋がっていたという。その中で特に北九州と南朝鮮は島伝いの行き来が盛んであった。古代都市の大和は、内陸の中心地として吉備や出雲、東日本・尾張と繋がっており、3世紀頃の日本のかたちは結構複雑だったのではないかと想像する。

邪馬台国も実際のところ魏志倭人伝やそれに影響をうけた日本書紀の一部記載(神功皇后編)のみの話だし、親魏倭王といっても、倭人伝の記載が当時の日本国土の中ではどの程度の範囲を指すのかはあいまいである。確かに、邪馬台国が女王を中心とした集合国家であるという倭人伝の記載からすれば、それが日本全体(その場合は古代国家大和を中心とした壮大なもの、周辺に吉備、出雲、越、尾張、夷など)なのか、北九州に限定されるものなのかによって、イメージが大きく変わってくる。結局のところ、時期的なことを含めて、その時代の「倭」の集合体をどの範囲に規定するのかがポイントなのだろう。たぶん。

しかし、よくよく調べてみれば、纒向遺跡で畿内比定だって騒いでいるのはどうやら産経新聞だけのようで、実際のところ、まだまだ謎は残っているし、これで決着という訳にはならないようである。な~んだ。
そうそう、昨年、ipod touchを買って以来、産経新聞が無料でダウンロードできてしまう為、最近はすっかり産経の読者になってしまった。この新聞を読んでいると、民主党って本当に駄目な政党だって思ってしまう。バランス感覚を養う為には、ちゃんと他の情報も頭に入れておかないとね。

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by onomichi1969 | 2010-01-02 00:14 | | Trackback(1) | Comments(1)

Tracked from 粋な提案 at 2010-05-17 15:02
タイトル : 邪馬台国はどこですか 鯨統一郎
カウンター席だけの地下一階の店に客が三人。 三谷敦彦教授と助手の早乙女静香、そして在野の研究家らしき宮田六郎。 初顔合わせとなったその日、「ブッダは悟りなんか開いてない」という 宮田の爆弾発言を契貴..... more
Commented by 藍色 at 2010-05-17 15:44 x
こんにちは。同じ本の感想記事を
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