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Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 カズオ・イシグロ 『わたしを離さないで』 semスキン用のアイコン02

  

2009年 11月 01日

カズオ・イシグロ 『わたしを離さないで』_a0035172_1544124.jpgジェームズ・アイヴォリー監督の『日の名残り』を観て以来、カズオ・イシグロの原作を読みたいと思っていた。映画については以前レビューした通り、2人の名優、アンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンの演技が素晴らしく、抑えられた感情がふとした瞬間に迸り、そしてまた抑えられる、そういった微妙な表情の変化や戸惑い、躊躇う仕草にとても感銘した作品だった。(それを僕は真のヒューマニティと呼んだ)

小説『日の名残り』は、アンソニー・ホプキンス演じたスティーブンス執事の独白、誰かに向けての「語りかけ」という文体が特徴となっている。小説を読めば分かる通り、映画は原作に忠実である。しかし、映画にはスティーブンス執事の独白は一切ない。にもかかわらず、小説の印象と全く矛盾なく彼の考えや思慕のイメージがしっかりと伝わるのがこの映画のすごいところである。
ただ、小説では、最後にスティーブンスがミス・ケントンへの慕情を告白する場面(まさに小説のクライマックス)があるが、それは映画ではカットされている。それに対してはいろんな意見があるだろうが、僕は、それを小説と映画の文体の違いからくる必然の選択と解釈している。
主人公の独白から成り立っている小説と演技(表情、行動、台詞)のみで成り立っている映画。そこから導かれる結末として、それは妥当な選択だったのだろうと思う。

カズオ・イシグロの作家的なテーマを「運命を受け入れるということ」、「記憶と語り、その改竄」と言ったのは柴田元幸だったか。カズオ・イシグロ自身の別のインタビューでも似たようなことを語っていたのを読んだ。

語り手であるスティーブンスは、執事である自らの運命を受け入れ、そこから決して逸脱することがない。彼の独白は、執事であるという自らの身分世界から外れない、彼の世界観の中でこその語り、記憶であるが故に、読者にある種の違和と共に欠落を想起させる。その世界の欠落は彼にとって意識的とか無意識的とかいう作為の有無とは全く別の次元で、彼の認識にとっての正当的な改竄であると思われる。だからこそ、独白として語られる彼の世界観が僕らにとって違和感を持って受け止められるのと同時に、それが僕ら自身にも覚えのある実に人間的な振る舞いであることを否応無く感じさせるのである。
彼は誰に向けて「語っている」のだろう?違和感を持ちつつ、共感を覚えてしまう。それは同じ境遇である僕らに向けた語りだったのではないだろうか?

カズオ・イシグロの2005年の作品『わたしを離さないで』は、上記のような意味において、『日の名残り』からの彼の作家的なテーマとモチーフを確実に受け継ぎ、尚且つ、小説の設定故に今まで以上にテーマが色濃く反映された彼の集大成的な長編小説といえる。

この小説の舞台設定については、未読の方にとってのネタバレとなるので、あまりこの場で述べない方がよい、、、とも思ったけれど、それを書かないことにはこの小説について語ることができないので、敢えて書くことにする。(よって、以下ネタバレとなります)

『わたしを離さないで』が一見普通の回想小説でありながら、特異的な見立てというか、サイエンスフィクション的だといえるのが、登場人物達の設定である。彼らは人間に隷属的な特別な存在である。しかし、彼らはその運命を享受し、決してそこから逃亡することがない。彼らが子供から大人へと成長していく過程で、自らの運命に対する様々な疑問や葛藤がささやかに描かれるのみである。

僕らは主人公キャシーの独白による子供時代からの回想で、徐々に彼女を取り巻く設定の不自然さに気がつく。彼女らには苗字がなく、幼少より外界と遮断された場所で共同生活を送る。彼女らの親兄弟は一切登場せず、元々、そういった関係性のない存在であることが仄めかされる。小学校高学年のある時、彼女らの保護教官から彼女達が子供を産めない体であり、自由な職業の選択もなく、ただ、「提供」を使命とする「別種」の存在であることを知らされる。その時、実は僕らもその事実を小説内で知らされる。しかし、彼女らは自らの運命に逆らうことなく、静かに事実を享受する。僕らもそこで読むことを拒絶しない限り、認める認めないに関わらず、小説としてそのことを受け入れざるを得ない構造となっている。

キャシーは「提供者」ではなく「介護人」としてそれらを見守る立場となるが、彼女は決して、自らの運命に対する不条理に真っ向から抵抗しない。提供を猶予できる可能性に賭ける場面もあるけど、それが単なる噂でしかないことが分かると、提供の猶予が叶わぬ夢であることをあっさりと認める。彼女や彼女の同期だったルースやトミー達との子供時代からの様々な出来事を回想しつつ、自らの負っている運命を受け入れる。
彼女の回想の多くは、僕らの記憶にも大きく重なるだろう。子供時代のちょっとしたいじめやグループから排除された時の孤独、憧れの先生、宝箱、、、少し大人になれば、恋愛、セックスのこと、大人特有の人間関係が絡む。ただ違うのは彼女らが「提供者」ということだけのように思える。

彼女達は、自らの運命に抗うことなく素直に受け入れる。本当だろうか? 彼女らは、運命を受け入れつつも、各自それぞれが精一杯の葛藤をしてみせたのではなかったか? 彼女らの動かしがたい運命を中心にして、様々に考えを巡らし、可能性を夢想したのではなかったか?語り合ったのではなかったか?キャシーの語りを通して、僕らはその記憶の断片を知るのみであるが、その語りから、又、語りの欠落から浮かび上がる光景によって、彼女らの生きる可能性が僕らの心を熱くしたのではなかったか?確かに、大事なことは語りの欠落部分から浮かび上がる、、のかもしれない。

カズオ・イシグロの出世作である『浮世の画家』も続けて読んでみた。この作品もまた、語りが全てである。語りから浮かび上がる回想の物語とその欠落。記憶は主人公を悔悟させ、また自己を正当化させる。そうやって記憶は作られる。只、人はそうやって生きていくのだろう。それがヒューマニティというものなのだろう。

物語の器となる大きなテーマの中に今を生きる人々の精一杯で懸命なエピソードの数々が散りばめられる。それこそが「生きる」ことの本質的な魅力なのではないか。そのことに気付かされる、カズオ・イシグロの描く小説に感銘した。

by onomichi1969 | 2009-11-01 16:30 | | Trackback | Comments(0)

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