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Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 尾崎豊 『十七歳の地図』(1983) semスキン用のアイコン02

  

2009年 07月 26日

尾崎豊 『十七歳の地図』(1983)_a0035172_1210097.jpg『十七歳の地図』に『15の夜』、そして『I Love You』
尾崎豊の衝撃のデビュー作にして、代表作でもある。尾崎豊のことを僕は10年近く前に書いたことがある。今、彼のことを改めて書こうとして、僕は当時と同じ思いを抱く。30歳になって書いた文章を40歳直前の僕がなぞる。ただ、思いは10代の頃に遡る。
僕らの世代にとって、尾崎豊というのはある種の共同幻想であったと思う。彼が「盗んだバイクで走り出す」と歌い、「夜の校舎、窓ガラス壊して廻った」と叫ぶ。今の若者はたぶん、「そんなものは犯罪じゃん」と言って鼻を鳴らすだろう。彼が「星空を見つめながら、自由を求め続けた」と歌えば、臭いセリフが周囲から浮いたイタい存在にしか思えないだろう。

僕らは当時、彼の歌に共感した。管理された社会を憂い、大人に抗う彼の歌に喝采した。彼の歌にあるような、今では無茶としか思えない行為を僕らは現実に行ったものだ。そういう行為が反社会的であることを分かった上で、それでもそういった常識や教条に抗うような行為に走ったのである。それが僕らのリアルであったし、また、一種の祝祭でもあった。若さがまだ特権でありえた、そういう時代だった。
実際のところ、尾崎豊は、大人によって作られた幻想であり、虚構であり、偶像であった。彼は社会によって認められて初めて音楽業界にデビューできた訳だし、そのイメージは戦略的に纏われたものだ。80年代のサブカルチャーを支えたのは当時30代の団塊の世代の人々である。80年代の音楽シーンも結局のところ彼らによって築き上げられたポストモダンの楼閣であった。尾崎豊は、80年代中期のJ-ロックのコマーシャリズムを超えた存在であると共に、70年代初期に挫折した団塊の世代の人々によって作られた「価値転倒」の象徴であり、蘇らされた幻想であったのだと思う。それに僕らは見事に嵌ったのだ。

昨今、若者達は、バカなことをしなくなった、というか出来なくなってしまったと言われる。酔って公園で裸になったり、電柱に登ったりすれば逮捕されるし、以前にも増して多くの規制によってがんじがらめとなっているようだ。僕はそういう光景をとても可哀想だと思うが、彼らにとってみたら、そう思う僕の方がイタい存在なのかもしれないけど。

1991年の湾岸戦争、1995年のオウム事件、1997年の神戸での少年による連続殺人事件、そして、2001年の9.11。90年代から連なる幾多の事件を経て、21世紀の僕らの社会は様々に管理を強化され、フーコーの描いた監視・制限された規律社会が自明のものとしてそこにある。自律的な相互監視の中で、個人は孤立を許容し、幻想としての共同性を失う。その中での生き難さを比べたら25年前の比ではないだろうに、彼ら(僕ら)は、環境にすっかり馴染んできている。非共同性とセキュリティ化を当然のことと身体化されている。
彼らはもう尾崎豊のような「価値転倒」的な共同幻想に共感しえない。というか、僕ら大人がある意図を持って、尾崎豊のような共同幻想を現代の子供たちに提示することができない。そこには転倒すべき価値への不満といったものがそもそもないし、いわゆる等価交換的なあり方に馴染んだ(大人の価値観を生来的に持った)子供たちにとって、そういう幻想は既に本当の意味での幻想であり幻滅でしかないのだから。。。でも、、、本当にそうなのだろうか?

「15の夜」とその「暴走」を失った社会。物分りよく受け入れ、価値を当然の代償として受け取る、そのことにのみ価値を見出す社会。即物的な社会意識の中で、全ては個人の中に澱んでいくけど、そのこぼれおちた「意味」に無自覚であるが故に、それが狂気と化したときの自己への衝撃は凄まじいものがあるだろう。それが昨今の「事件」として顕現しているのだとしたら。

ということで、僕もたまには「暴走」してみようかなと思う。それも自覚的であり、多くの人に迷惑でなければ、それほど悪くないのだと思えたりする。また、尾崎豊を聴いてみたりする。

by onomichi1969 | 2009-07-26 15:21 | 日本のロック | Trackback | Comments(0)

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