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semスキン用のアイコン01 天使と悪魔 "Angels & Demons" semスキン用のアイコン02

  

2009年 06月 14日

a0035172_13025.jpg『天使と悪魔』を観た。その後、小説も読了。
まず映画から。これは近年流行りのヨーロッパを舞台としたサスペンス&アクション映画の一群として見れば、展開がスリリングでプロットも意外性に富み、アクションもそこそこで、尚且つローマ観光も出来るという、とてもお得な作品となっている。脳みそ空っぽで純粋に楽しめる、ハリウッド娯楽大作としてはよく出来ていると言えよう。

前作『ダ・ヴィンチ・コード』は歴史ミステリーの占める部分が多く、サスペンス&アクション映画として見れば少し中途半端な印象は否めなかった。現実の事件(ミステリー)が歴史的な謎(ミステリー)の解明へと繋がり、そこに原始キリスト教に纏わる様々な衒学趣味(ペダントリー)が織り込まれる。2重のミステリーとそれをとり囲むペダントリー。小説はその結論も含めてとても刺激的で衝撃的な内容だった。その映画化である。幾多の薀蓄(うんちく)や科学的解説を全て映画化するのは所詮無理があり、映画は小説の映像的補完として位置づけるのが妥当というところだった。

それに比べれば、小説『天使と悪魔』は映画化に向いていたと思える。小説で言えば次回作となる『ダ・ヴィンチ・コード』よりも『天使と悪魔』は歴史ミステリーの要素がそもそも乏しい。舞台はカトリック総本山であり、実在した秘密結社イルミナティの歴史やベルニーニ、ガリレオと言った過去の偉人達の作品を巡りながら、事件は実に現実、現代的なものに終始する。確かにテーマである宗教対科学を象徴とする「創世記」対「ビッグバン」という仮想は規模としても壮大だし、今後の先端科学が哲学とか宗教学へと導かれる先駆けとなるような発想、照合だと思うが、そこに絶対的な結論はあり得ないが故に、本作品では、いつしか各人の個人的な納得レベルへと収斂される。これも娯楽小説としては仕方のないところだろう。

いずれにしろ、『天使と悪魔』は映画として、歴史や芸術に対する薀蓄や解説等、ペダンチックな部分を排したが故にサスペンス&アクション映画として優れているのだと思えた。

但し、映画を観てから小説を読んだ(前作は逆だった)からかもしれないけど、前作が映画を小説の映像的補完と捉えたのとは全く違い、『天使と悪魔』は小説と映画が同じプラットフォームを持ちながらも全く違う作品のようにも思えた。小説は映画に比べて、かなり鈍重であった。小説には展開毎に登場人物達の回想シーンが入り、これがかなりうざったくて、登場人物の動きの描写も分かりづらいし、いろんな要素が詰め込みすぎの印象が否めない。もちろんこれらは小説のテーマに沿ったものであるから、致し方ないのであるが、映画はそのテーマ自体を潔くカットしており、それにより、ストーリーは短絡され、登場人物が幾人か入れ替わり、また人物造型に違いが生じている。

ここからかなりネタバレ(映画&小説)になるけど、、、
小説の隠れテーマはそもそも「親子」というものであった。故にラストの衝撃的な事実が生きてきたのだが、そういった親子関係を映画は一切持ち込まない。この潔さは映画を軽くし、テーマを絞るという点では功を奏しているが、犯人とヒロインの動機をかなり弱くしている。
また、主人公2人の性格が違っている。映画は実にハリウッドの典型的な人物造型であり、小説のようだと万人の納得が受けられず、おそらく消化不良になるのだろうなと思える。
ハサシンもキャラクターが全く違うけど、映画はそのおかげでアクションポイントをかなりアップできているのでこれも了解できる。
あと、現実に存在する組織や人物を扱う作品なので、その辺りは小説よりも穏当な配慮が施され、いくつかのプロットもそれを理由に変更されているように思えた。

そして、最後に宗教と科学について、、、
作品のメインテーマである宗教と科学という問題は個人的にも興味深いタームである。小説の中のローマ教皇はそれが融合されることを望み、犯人はそれを拒否する。事件は全てそこから生まれた悲劇と言えよう。
僕はこう思う。日本的発想かもしれないけど、宗教(神という概念)はそもそも細部に宿るものだ。またそれは全ての究極の果てにおいて否が応でも関わってくる。ビッグバン以前、高密度の物質と真空エネルギーのインフレーションは、その空間と時間の始まりのゼロ地点→特異点という問題にぶつかる。近年、それはトンネル効果であるとか、量子ゆらぎであるとか、いろいろ言われているが、要はこれが「神のひと押し」であり、科学の限界の先の物語なのである。そういう神懸り的な(人知の及ばない)領域は、宇宙の始まりだけでなく、量子論や生命科学にも存在する。(池谷裕二の最新本はそのことをよく教えてくれる) 全てのフォアフロントにこそ、神は「見出せる」のではないだろうか。
宗教と科学は乖離とか融合とかを意図するものではなく、元々が同じ領域のものである。(特に日本では宗教こそが鎮魂の為の科学だった) 小説ではその認識の違いが最初の死者を生み、死者が十分に理解しながら、犯人が最後まで理解できなかった点となっている。
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by onomichi1969 | 2009-06-14 01:49 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

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