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semスキン用のアイコン01 柳澤健 『1976年のアントニオ猪木』 semスキン用のアイコン02

  

2009年 05月 05日

a0035172_16212159.jpg今だからこそ書ける本。というか、今でもここまで書いて本当にいいのか?というささやかな疑問がある。しかし、それもタブー無き時代の杞憂に過ぎないのだろうか。また、この本の主人公アントニオ猪木が文庫版の完本に至り、著者のインタービューに応じて、この本の内容を見事に補完しており、彼が自ら築き上げたストロングスタイルのプロレスを一代限りで葬り去ろうとしているとも思わされる。それもアントニオ猪木流の確信犯的な行為だと思うが、彼のこと故に自然に納得してしまう。

プロレスをドキュメンタリーとして書くということは、必然的に虚実入り混じるプロレスの本質に近接することであり、それを避けては何も書くことが出来ない。過去にも、佐山聡やターザン山本がプロレスにおける約束事(ロープに振られたら戻ってくるとか、顔面を蹴ってはいけないとか)の存在を暴露した『ケーフェイ』(1985年頃)という本があり、新日本プロレスのレフェリーだったミスター高橋がプロレスの内幕を赤裸々に描いた本、その名も『流血の魔術 最強の演技 全てのプロレスはショーである』(2001年頃)があった。それ以外にも、近年、いわゆるムック本と言われる分野で、プロレスの裏事件史的な内容を著した本が多く出回っていた。
しかし、柳澤健の 『1976年のアントニオ猪木』は、これまでの暴露本とは違い、正統的なノンフィクション・ノベルとして書かれているというところに大きな違いがある。佐山聡もミスター高橋もプロレス内部の人間だったが故にプロレスファンから裏切り行為だとして徹底的なバッシングを受け、プロレス界から追放された。今回の著者は元々がフリーランスのスポーツライターでプロレスの部外者であり、最初からプロレス団体、プロレス媒体、プロレスファンの三位一体となった共同的(共犯的)なプロレス文化の外側にいる他者だった。本書は外部から描かれた初めてのプロレス歴史書と言ってもいいものかもしれない。

この本は、アントニオ猪木が1976年に行った4つの試合、ミュンヘンオリンピック 柔道2冠ウィリエム・ルスカとの初めての異種格闘技戦、モハメド・アリとの世界のメディアを巻き込んだ「世紀の凡戦」、韓国の巨人パク・ソンナンとの壮絶な喧嘩マッチ、そしてパキスタンで現地の英雄アクナム・ペールワンの腕を折ったとされる伝説の一戦、それぞれの試合の経緯をドキュメンタリータッチで追うものとなっている。先に挙げた4試合の内、ルスカ戦を除いた3試合がリアルファイトと言われており、著者は、猪木にとって、以前にも以後にもないリアルファイトが何故この時期に続けて行われたのかを徹底検証している。残念ながら、この時期に猪木と戦った当のレスラーの殆どは亡くなっている(か、アリのように病気により取材できない状態である)為、多くは周辺取材によるものである。が、そういう意味でこそ、この本は方法論的にプロレスを題材にした歴史研究書といえる。南京大虐殺はあったのか、なかったのか。事実の検証は可能であるが、真実はもう何処にも見出せない。しかし、事実の蓄積と検証こそが歴史研究書の本領なのだと僕は思う。
事実を積み重ねて、物語を構築するという点において、このノンフィクション・ノベルはとても面白く読める。プロレス史としても、馬場・猪木時代の様々な事件や確執を丁寧に、そしてこれまで以上にリアルに(政治史との関わり合いも含めて)記述している為、プロレス歴史書としてよく出来ている。僕はちょうど1976年以降のアントニオ猪木のファンなので、当時の猪木の試合を思い出しながら、この本が描くプロレスの舞台裏で起きた様々な物語を面白く読むことができた。(実際、猪木がプロレスにはないタックルの技術を知らなかった為、アリ戦があのような展開にならざるを得なかったなど、、、なるほどなぁ)

この本のプロレスに対する見解は明快である。プロレスはそのオリジンより、純然たるショーであるべきものだったが、日本のプロレスが力道山以来、その事実をあいまいにしてきた為、プロレスはリアルに強さを競うものという幻想を仕立て上げてきたと言う。プロレス最強論。プロレスは最強の格闘技である。そういった幻想は(ジャイアント馬場への対抗軸として始められた)アントニオ猪木の格闘技路線により一層強化された。もし、アントニオ猪木がいなかったら、つまり、プロレスがジャイアント馬場の描く旧来型の路線のみであったならば、プロレスは純然たるショーとして発展できたかもしれない。しかし、僕らはアントニオ猪木を支持したのである。プロレスを囲む幾多の雑誌媒体、TV局(古館伊知郎の名実況あり)、『プロレス・スーパースター列伝』等の漫画、プロレス応援本などなど、プロレスという最強伝説に纏わる様々な物語を体感し、消費し、支持したのである。その流れの中にタイガーマスク(佐山聡)もいたと僕は思う。僕らの中では、「1976年の猪木」の流れの中にタイガーマスクも、スタン・ハンセンも、長州力も、前田日明もいたのである。

僕の中では、総合格闘技の隆盛と共に、プロレスという幻想は既に死んでいる。それはいつの頃からだったか。UWFやリングスというような格闘技的プロレスによって延命してきたプロレス最強論が、徐々に崩れ去ったのは、やはりグレイシーの登場、以後のバーリ・トゥード(何でもあり)やMMA(Mixed Martial Arts:総合格闘技)の試合におけるアマレス、柔道等のスーパー・アスリート達の活躍によるものだったか。高田延彦や船木誠勝がヒクソン・グレーシーに手も足も出ずに負け、アマレスの全日本レベルだった永田裕志すらもプロレスを背負ったが故にヒョードルに一蹴された。

僕らはこう思っていた。プロレスというのはショーであり、いろいろな約束事の中で技を仕掛け、受け、その中で肉体的、精神的な「強さ」というものを具現化するものだと。勝負論を超えた凄みを魅せるものこそプロレスであると。試合では負けるプロレスラーも実は強い。道場では絶対に負けないプロレスラーもいる。プロレスラーは試合で魅せる技とは別に、彼らを最強たらしめる肉体的強靭さと実践的な技を身につけているのだと。

リアルファイターであるヒョードルやクートゥアの総合格闘技での活躍、その身のこなしは、そういった幻想、神話を見事に打ち砕いた。リアルファイトにはリアルファイトなりの合理的な戦い方があり、それはアマレスや柔術、ボクシングやキックをミックスした専門的な技術とナチュラルな身体能力の集積であるアマチュアリズムの極致なのだ。

最強の格闘技であるという幻想を失ったプロレスはこれから何処に向かうのだろう。ミスター高橋ならばアメリカン・ショープロレスへの道があるじゃないかと言うだろうが、日本では長年、「プロレス最強論」という現代的な神話の中でプロレスは熱狂されてきた。それはプロレス団体だけでなく、雑誌社やTV局、ファンをも巻き込んだ、日本的なあいまいさを堅牢かつ壮大に膨らませた、繊細で奥深い(ある意味で文学的な)大共同幻想であったものなのである。

『1976年のアントニオ猪木』によって、アントニオ猪木やジャイアント馬場は、漫画的な神話から、本来的な意味において検証されるべき対象としての歴史そのものとなった。
そして、幻想を剥ぎ取られたプロレスがただ取り残されたのである。神話は歴史となり、僕らはもう最強としてのプロレスを観る内的な意味/美しき幻想を失ってしまったのだ。残念ながら。。。

<関連レビュー>
大相撲で八百長っていけないことなのでしょうか?
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by onomichi1969 | 2009-05-05 16:44 | | Trackback | Comments(2)

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Commented by blues1974jp at 2009-06-05 01:20
人生で、ごくごく最初に手に入れた(買ったんじゃなくて買ってもらった)LPが『猪木ボンバイエ』でしたw 時代的にふつうの趣味で、毎週楽しみに何年間か猪木一座の物語を追っていたものです。そうそう、馬場さんがなんとなくださくみえたりして。
 その後、猪木が嫌いになったということもなく、前田や佐山のやりようをしばらく追っているうちに・・・・・・プロレスそのものを意識する頻度が激減して今日に至ってます。でも、今でもやっぱり嫌いじゃない。10代のころの思いって、根深いですね。

なんだか忙しなかったようですが、村上新作はいかがでした?
Commented by onomichi1969 at 2009-06-06 01:19
1974さん、こんばんは。
『猪木ボンバイエ』のLPってw なかなかやりますね!
1974さんも金曜夜8時の祝祭に嵌ったクチですか。結構小さい頃から観ていたんですねー。さすがです。僕はいまだにタイガーマスク初登場の時の衝撃が忘れられないんですよ。

村上新作は、、、まだ買っていませんでした。。。だって売り切れなんだもん。もちろん、読むつもりですけど。
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