おくりびと
2009年 03月 19日
死とは穢れである。故に古より、死は死穢を伴うものであり、日常から隠されてきた。
映画『おくりびと』には2つの側面があるように思える。それは納棺師という職業、その仕業についての物語。もうひとつは主人公と父親の「赦し」の物語。
後者については、最近、『歩いても 歩いても』や『イントゥ・ザ・ワイルド』でも同じテーマで書いたので、敢えてこの映画で繰り返すこともないかなと。同じ時期に同じようなテーマを描く映画が並んだことは一種のシンクロなのかもしれないけど、それはポアンカレ的な偶然、実は時代と密接にリンクした現象の複雑系から導き出された結果なのだと考えたい。心理学的に言えば、父と子の物語というのは、個人の精神の最もベースとなる問題である。父親との関係、子供が大人になるとはどういうことなのか?これまでの宗教や共同体的なイニシエーションとは違う、それらが作用しない世界でのシンプルでベーシックな大人への道程。大人になるということは、最も身近にある大人としての親の心情を理解し、赦すことと同義であると思える。そんなシンプルなことをこれら映画の物語はささやかに描いてみせる。そこから見えてくる時代とは何だろう?
話を戻す。死についてである。
映画は「死」を美化しているように捉えられる。実際はそんなことはないと思うが、事実として、この映画を観て納棺師を志す人が増えたというニュースを聞けば、この映画がある種のイメージを喚起していることは否めない。もちろん、死者は「隠されるが故に美化される」というのが本来正しいだろう。死を衣装することにより、日常の中で隠蔽する技術こそが納棺師の仕業というものなのだと思うから。但し、この映画の中で納棺師は「おくりびと」というイメージを以て僕らに伝えられる。
医者、葬儀人、屠者、皮革加工者、料理人、刑吏、警吏、狩猟者、清掃人、等、死に纏わる職能者は、その存在そのものが死を喚起する為に古来より忌み嫌われていたと言われる。その中には医者や料理人のように現在では全く差別の対象ではない職能も含まれる。それは新しい知識とその蓄積、資格の敷居の高さによって克服されてきた。果たして納棺師はどうであろうか。
ハレやケという考え方は、日本人の心情の由来として説明されることが多いが、それは今でも有効なのだろうか? ファストフードやリサイクルの考え方、幾多の映像や情報が席巻する現代の世の中で、それらは既に新しい物語に組み込まれることが必要なのかもしれない。古からの伝統と心情を現代の日本にマッチさせる為の新しいイメージ。そういうものが可能なら、『おくりびと』は、良くも悪くもその先駆けなのかなと思った。2008年日本映画
by onomichi1969 | 2009-03-19 09:35 | 日本の映画 | Trackback | Comments(2)
といいつつ、これだけは観てきました。でも自分の感想より、「新しい物語に組み込むこと」というonomichiさんの視点に惹かれます。より卑近というか、ちょっと筋違いの近似例として、ついさっき読み終わった『ちはやふる』というマンガを思い出しました。それまでとりえのなかった少女の成長譚という定番の構造なのですが、題材が競技カルタというマイナーなものなので、作中で露骨な蔑視に遭うわけですね、まだ1巻だし。この作品のヒットで現実には見直されてきているらしく、よくできた物語には、過去の偏見を覆しうる力があるという、ありそうで少ない幸運な魔法の例だなと。
去年の日本映画は本当に佳作揃いでしたね。ここ10年ほどで注目されてきた映画監督の最新作が続きました。
何にしても、物語って大事だなぁと思います。80年代以降の物語批判の言説もその由来はよく分かるけど、やっぱり物語って僕らの心を震わすし、それが生きる糧になるからこそ、耳を傾けてしまうんですよね。
映画、漫画、小説、、、物語も時代を超えてどんどん多様化していけば、面白いと思いますね。