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semスキン用のアイコン01 ベンジャミン・バトン 数奇な人生 "The Curious Case of Benjamin Button" semスキン用のアイコン02

  

2009年 02月 15日

a0035172_1834682.jpg彼らは永遠を求めた。
そして、それを見つけた、、、のだろうか? 海と解け合う太陽を胸に刻んだのだろうか?

この物語はファンタジーであり、寓話である。2人の男女が同じように年を経るのではなく、男は80歳から老いを逆行し、若年化する過程で女の時間に自らの年齢を重ねていく。2人は共に40歳代という人生の中間地点で、ようやくお互いを真っ当に愛し合えるようになる。それは短いが故に密度の濃い時間の流れであった。その後、ベンジャミンとデイジーは別離という運命を受け入れる。
蜜月の時期の前後、ベンジャミンが(外見)50代でデイジーが20代の頃、ベンジャミンが(外見)20代でデイジーが50代の頃についても、お互いを信頼できる間柄でありながら恋愛として通じ合えない時期として描かれるのがとても印象に残った。

ベンジャミンの物語をひとつの人生として考えれば普通と変わらないのではないか、という見方があるが、デイジーという常に身近に感じる他人の人生と重ねあわせると、やはり若返りという逆向きの人生というのは特異であると言わざるを得ないだろう。それは、ベンジャミンとデイジーの年輪の重なりにこそ、恋愛によって輝いている時間が短いというある種の人生訓的な観念を想起させる。
しかし、ベンジャミンとデイジーにとって、それは現実以外の何ものでもなかった。だから彼らは40代前半で意図的に出会い、愛し合い、別れる。そして、そこに永遠を確信する。
ベンジャミンとデイジーは「終わり」を現実として認識していた。長い人生があり、お互いが愛し合える短い時間がそこにしかないということを。。。恋愛について意図的であるということは、自らの人生に対して鳥瞰的であり、「私」を超えて、第三者的であることを意味する。この映画がファンタジーでありながら、本格小説の如き重みを備えるのはその視点故だと思う。
普段、僕らは人生が限定的であることを知ってはいても、そのことを意識から遠ざけて生きている。時の流れがあり、それに身を任せることにより、永遠という時間は常に遠ざかっている。

ベンジャミンとデイジーは永遠を確信する。
永遠はその瞬間にあり、瞬間は永遠に引き延ばされるから。

余談を二つ。
若返りという現象を絡ませる恋愛ファンタジーと言えば、山田太一の『飛ぶ夢をしばらく見ない』を思い出す。これも面白い小説(映画)だったが、流れる時間の短さ故にファンタジーの枠を超えないものであった。
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』を観る前に偶々、水村美苗の『本格小説』を読了した。人と人が愛し合う必然というのはその生い立ちを含めた歴史にこそあるべきだということ。そして、人と人が本当に愛し合える時期というのは、その歴史を抱えた人生の中間地点にあるということ。他者の視点で書かれた本格恋愛小説たる『本格小説』は僕の中で映画『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』に象徴的に重なる。(ちなみに『本格小説』を読んでいる最中には映画の原作者であるフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』をよく思い出した。『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』が彼の小説としてあるのであれば読んでみたいものである) 2008年アメリカ映画

<後記>フィッツジェラルドの小説を読んだ。ベンジャミンの特異な生い立ちは同様ながら、その人生は映画と全く違う物語となっている。デイジーも出てこないので、映画の中で描かれた恋愛模様もない。彼が老いから若さへと逆行する様を周囲の人々との関係の中で淡々と描いていく、50ページほどの短編である。映画がファンタジーとすれば、小説はリアリティだろうか。それはそれで面白かったけどね。2009.03.08
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by onomichi1969 | 2009-02-15 21:21 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

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