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semスキン用のアイコン01 イングリッシュ・ペイシェント "The English Patient" semスキン用のアイコン02

  

2008年 05月 24日

a0035172_18211088.jpg恋愛映画を1本だけ挙げろと言われたら、『黒い瞳』にするか『ベティ・ブルー』にするか、それとも『東京夜曲』にするか、一晩悩んだ末に僕は『イングリッシュ・ペイシェント』を挙げているだろう。

恋愛映画にとって、登場人物を取り巻く状況は重要なファクターとなるが、それは恋愛に対する障害の大きさがその激しさに比例すると考えられているからであろう。しかし、恋愛映画にとって一番重要なのは状況そのものよりも、恋愛の本質理解である。恋愛とは自己意識と世界の関係性そのものである。そのため、意識としての恋愛は常に利己的かつ自虐的ものとならざるを得ない。それは自己の周囲にメタフォリックな非現実空間を作り出し、他者との現実的な劇に引き合う中で苦悩や挫折を導くことになるのである。まさに夏目漱石の小説にも代表される世界である。

「彼は深くそして熱烈に恋している、これは明らかだ。それなのに、彼は最初の日からもう彼の恋愛を追憶する状態にある。つまり、彼の恋愛関係はすでにまったく終わっているのである」

これはキルケゴールの言葉だがまさに恋愛の利己性を衝いており、恋愛が本質的にメランコリックであることを見事に言い当てている。本質を捉えていない作品は空虚で薄っぺらく、この本質を間違うと途端に見るに耐えないものに陥ってしまうだろう。また作品の状況が状況だけに間違ってしまう場合があるが、ここで「戦争の愚かしさや虚しさを痛烈に告発する力強いメッセージ」などは不要である。主人公の口からそのような台詞が吐かれた途端、僕らは一変に興ざめしてしまうに違いない。ここまでくれば、『イングリッシュ・ペイシェント』が恋愛の本質を十分に表現している優れた恋愛映画であることがお分かりいただけたかと思う。たぶん。

最後に補足:人はシンプルな恋愛映画を指して「昼メロ」と呼ぶことがある。典型的なパターンとして不倫愛を挙げるだろう。その場合、それを「昼メロ」と呼んでしまった途端にその発語者は恋愛という劇から最も離れた存在である自分を自覚することになる。だからなるべくそういった類型的な視線を排して、作品を鑑賞しなければならない。大きなお世話だが。。。 1996年アメリカ映画(2001-12-19)
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by onomichi1969 | 2008-05-24 18:27 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

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