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semスキン用のアイコン01 『三島由紀夫vs東大全共闘』 semスキン用のアイコン02

  

2004年 07月 10日

『三島由紀夫vs東大全共闘』_a0035172_434.jpg最近、三島由紀夫と東大全共闘との討論会を収録した本を読んだ。三島といえば、自己観念の住人のようなイメエジを持っていたけれども、案外にも観念と現実(文学と政治)についての思考は明解であったような気がする。それは本書の中の精神と肉体や時間認識に関わる彼の論説に垣間見える。
言うなれば彼は時代の仇花であった。彼は自らトリックスタアと化した。(彼曰く、それは自らの歴史によるのかもしれない…と) いまや彼のような人間はどこにもいないし、誰もバカらしくてそんな行動はできない。けれども、彼の行動に対して誰も正しく批判できていないのではないか?とも感じる。なぜなら彼はあまりにも「正しく」行動し、そして自覚的であったから。彼の嫌悪した日本の戦後民主主義は、バブルを経由しても未だ無自覚に信仰されているのである。(そういえば同じ戦後日本の言語空間を批判していた江藤淳も自殺した。)
改めて彼の小説群を読んでみようと思う。三島由紀夫とは、「春の雪」や「金閣寺」のような美しくも儚い小説を書き、自衛隊に飛び込んで割腹自殺した人間なのです…。彼は結局、美に殉じることを通して、自己観念への永遠の呪縛を開放してみせたのだろうか。僕は同じ日本人として、同じ現代を生きる人間として、もう一度彼の声に耳を傾けてみたいと思う。答えはもう彼の小説を越えてしまったかもしれないが。
それにしても東大全共闘の論説は非常にクールである。非連続的な時間を共有できる人々。彼らは三島のように行動できなかっただろう。彼らは日本赤軍や連合赤軍のようにならなかっただろう。(これは彼らを批判しているのではない。彼らの昇華しきれない観念、超越しきれない行動と自然に対する苦悶を僕は切に感じる)

by onomichi1969 | 2004-07-10 04:04 | | Trackback | Comments(0)

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