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semスキン用のアイコン01 硫黄島からの手紙 "Letters from Iwo Jima" semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 09日

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<中盤以降でネタばれしますので注意下さい!>素晴らしい映画だった。僕は前作『父親たちの星条旗』のレビューで、クリント・イーストウッドは個人という矮小な物語から戦争という壮大な物語を描いてみせる、ということを書いた。今、彼の硫黄島2部作の後編というも言うべき『硫黄島の手紙』を観終わって、正に我が意を得たりとでも言おうか、その感想に聊かの変化も感じていない。

この映画の主人公は一兵卒、西郷であろう。(彼は狂言回しではなく、この物語の主人公である) その弱々しくも人間的なキャラクターから硫黄島戦を捉えたとき、この映画は戦争という極限状態における個人的な側面をその切実さとともに描き出す。クリント・イースウッドは戦争という局面の中でも執拗なまでに「人間」を描くのである。ほぼ全編にわたって硫黄島戦の経過をなぞるように場面が進んでいく為、『硫黄島の手紙』は『父親たちの星条旗』と違い、硫黄島戦の史実を日本軍側から忠実に描く戦争記録映画として観ることもできるだろう。しかし、主人公の西郷、そして、栗林中将、元憲兵の清水の過去、その個人史がフラッシュバックで描かれる、その短い場面に込められた登場人物たちの「生きる想い」、その凡庸でありながら、普遍的な切実さこそがこの映画に込められた最大の「祈り」であり、それが僕らの心に自然に、そして重く受け止められるのである。

西郷は生きる。彼は逃げ続けることによって、生を得る。そして彼は言うのだ。『私はただのパン屋です』

私は愛する妻と未だ見ぬ娘に会いたい、彼女らに会うために祖国に生きて帰る、そういう自らの真実に支えられて戦場を生き抜く、そういうただのパン屋なのです。

ただのパン屋であるという西郷の真実。それとともに、西郷が清水の死に触れて流す涙、栗林を看取る際の涙、それは単純ではない人間の(ある意味でパン屋であるということを越えた)在るがままの涙であり、そのことの重みが僕らの胸を強く掴む。
彼は誰にも知られずに誓った「生きて帰る」という信念を貫いたわけだが、そういう個人的な正義を僕らは誰も非難することなどできない。何故ならばそういった人間の信念が戦争という狂気の中で揺らぎ、繋ぎとめられる、それこそが戦争というものであり、クリント・イーストウッドが伝えたかった信念であろうと僕は思うのである。

(追記_15-mar'07)
また、この映画は、戦闘シーンの中で多くの死(その殺戮)をリアルに描いてみせる。通常、彼らは単なる無名兵士として、近代戦争の大量死に殉じていく存在であるが、本当は彼らにも当然のことながら「名前」がある。彼らの死が一様でないように、その生も其々の歴史を背負っているのだ。
『硫黄島からの手紙』(そして『父親たちの星条旗』)は戦争の中の個人を執拗に描く。イーストウッドは、その生々しい(ある意味で汚れた)生と死と共に、無名兵士達の大量死とそれに向かわざるを得なかった僅かな生を克明に再現することを通じて、その(無名兵士達の)生の歴史、その「名前」を僕らに想起させようとしているのかもしれない。

戦争への反対と共感、被害者と加害者、僕らはそういった2項対立に容易に引き裂かれ得る「ねじれた」存在であるが、その一方に容易に与し、単純化するのではなく、「ねじれ」自体を素直に、そして切実に引き受ける心情こそが今の僕らにとって大切なことではないだろうか。

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by onomichi1969 | 2006-12-09 21:12 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

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